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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.55

言葉の神に愛された小説——杉江松恋の新鋭作家ハンティング『レペゼン母』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

宇野碧『レペゼン母』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、MCバトルを題材にした一冊。

 もしそういう存在がいるならば、言葉の神に愛された小説である。
 宇野碧『レペゼン母』(講談社)について最初に言わなければならないことはそれだ。言葉が、文章が気持ちいいのである。主人公の深見明子は六十代の女性だが、あることがきっかけになってMCバトルの大会に出場する。ラッパー二人が、即興でリズムに乗せて言葉を飛ばし合う、あれだ。詩の朗読であり、同時に音楽の範疇にはいるものでもある。それを小説にするのだから、当然文章からは音楽が聴こえてこなければならない。たいへんに難しいことだが、作者は難なくこなしている。バトルで交わされる言葉を音読すると、心地いいのだ。さらにバトルをその場で見せられているような鮮やかさがある。ジーニーという有名人に挑む場面、明子の視点でこう書かれる。

――大きな空気の塊でジーニーを圧するイメージで、真正面から言葉を投げつける。韻は捨てるつもりだったが、「耳貸せん」と言ったあとするっと口が勝手に「言い訳」と韻を繋いだ。磁石のように「あんた」が「アバター」を引き寄せた。

 言葉が言葉を生みだしていくのだ。このバトルに臨む前、明子が肚を括るまでの数秒を書いた文章もいい。ちょっと長いが、引用する。

――ふと目線を落とすと、ステージの黒い床が目に入った。
 傷だらけだった。
 ここに立った、ライトを浴びる人間や裏方で働く人間たち、機材やスタンド、楽器がつけた無数の傷が白っぽく浮き出て、語りかけてくるように見えた。ぴかぴかと真新しく見える近寄りがたい会場の、リアルな中身がそこにあるような気がした。
 親近感にも安堵にも似た気持ちが湧き上がる。にわかに現実にピントが合った。

 この後で明子が見るのは「マイクを握る皺だらけの」自分の手だ。視界は初めぼやけていて、それがくっきりとした瞬間に自分自身の身体が目に入る。そんな視覚の移り変わりが気持ちの変化につながるのだ。しかも、ステージを行き来したであろう無数の人間たちと自分が結びついて、というのがいい。彼らも人、我も人というつながりが明子の心に芯を与えてくれるのである。こういう表現が随所にある。さらりとある。物語の進行に溶け込んだ形で書かれている。抜群に上手い。
 MCバトルという多くの読者に馴染みのない題材を扱っていながら、作者はだらだらと説明しない。そこもいい。明子にバトルを教えてくれるのは義理の娘の沙羅だ。もともとそういう音楽が好きだった沙羅は、サイファーという複数のラッパーたちが研鑽しあう場に加わるようになり、さらにMCバトルの大会にも申し込んだ。決して全体がそうというわけではないが、ラップには女性性を蔑むことを芸のように見なす文化がある。黒人たちが反語的に自分や他人を罵倒し合う言葉の遊びから生まれているからそういう要素はもともとあるのだが、放たれた言葉に悪意が含まれることは否定できない。そうした言葉で身内の沙羅が傷つけられたことに憤慨した明子は自らMCバトルの場に飛び込んでいく。それが始まりなのだ。
 そういう風に物語の流れの中でMCバトルのことが自然に説明されていく。読んでいけば用語から文化的な起源から、その問題点までがすべてなんとなくわかってしまう。この書きぶりがいいのだ。絶対に読者をうるさがらせない。フロウとかバイブスとか、専門的な用語が一切わからなくてもすらすら読めてしまう。そういう風にこの小説はできている。
 広い意味の家族小説である。題名にあるレペゼンとはrepresent、何かの代表ということである。『レペゼン母』、明子はつまり母を代表しているのだ。じゃあ母ってなんなんだ、という問いをこの小説はないがしろにしない。かつて明子は、夫の「嫁に来てくれてありがとう」という感謝の言葉に「私は家の女ちゃうよ」と答えた。家の女、つまり嫁じゃないよ、と。その明子がいつの間にか母という存在を自明のものとして疑わずにいた。それを揺るがせる出来事が起こり、自らの存在と向き合うことになるという小説なのだ。
 ここまで書かずに来たが、明子には雄大という三十五歳の息子がいる。これまでもさんざん迷惑をかけられたが、ついに決定的なことを雄大はやらかしてしまう。詳細は省くが、明子が自分と正面から向き合うことを避ける雄大を追い詰められる唯一の場が、MCバトルの大会なのである。雄大もyou dieとして出場するからだ。当然ながら、この母子対決が物語のクライマックスになる。ただここでも作者は巧妙で、単純な勝ち残りバトル小説のように見せかけて、典型的なプロットの裏をかいてくる。意外なところですかし、ここぞというところで決め、読者が待ち受けていたものをさらに上回る印象的な展開を持ってきて、と読者に先を読ませない。場面を取捨選択する勘がいいのだろう。
 母とは何か、子とは何かという答えを探す小説である。その道行は一直線ではなくて、ゆらゆらしている。臨戦状態のブルース・リーみたいにゆらゆらしている。作者はわざと揺らしているのだ。まっしぐらに答えに向かっていくのは小説ではない。人間が行う問いとは、ああもあろう、こうもあろうとさまざまな可能性を考えるから寄り道が多くなる。つまりゆらゆらする。明子はさまざまなことを考える。実の子である雄大よりも、義理の娘である沙羅とのほうがよほど心が通じ合う。でもその沙羅との間に距離も感じてしまう。一度突き放したはずの雄大をそれでもやはり我が子として見放すことができず、そんな自分にもやもやする。こういう揺らぎが物語運びにリズムを与えているのである。血は水よりも濃い、とか、産みの親より育ての親、とか、そういう紋切り型の物言いをゆらゆらと破壊し、では明子にとって母であることの意味とはなんなのだ、という問いかけの芯へと読者を連れて行く。レペゼン。明子が代表しているはずのそれは何だ。この問いはもちろん雄大にも、そして読者にも向けられる。レペゼン。おまえは何者だ。
 本作は第16回小説現代長編新人賞の受賞作である。宇野碧、たぶん何を書いてもおもしろくなる、いや、おもしろくしか書けない作家だ。すごい才能の持ち主が、また一人。


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