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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.52

猛スピードで突き進む妄執の物語――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『家庭用安心坑夫』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『家庭用安心坑夫』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、小説の速度によって読者を操る一冊。

 猛スピードで突き進む妄執の物語である。
 第六十五回群像新人文学賞を平沢逸『点滅するものの革命』と同時受賞した小砂川チト『家庭用安心坑夫』(講談社)は現在、第百六十七回芥川賞候補作にも挙げられている。選考会が行われるのは七月二十日である。結果が出るのが実に楽しみだ。
 何がなにやらわからないまま読み終えてしまった、何か凄かった。『家庭用安心坑夫』初読時の感想はそんなものであった。とにかく勢いがあって、最後までページをめくる手が止まらなかったのである。「日本橋三越の大理石でできた柱のうえに、けろけろけろっぴのシールが一枚、思い出したように貼ってある」という出だしの一文からして、ずるい。
 二つの視点で構成された小説だ。一つ目は、三十代の藤田小波という女性のものである。小波は三十代、集合住宅の四〇一号室に夫と住んでいて、細々と販売代行業のアルバイトをする以外は特にすることもなく、息をひそめるようにして暮らしている。夫婦共稼ぎが増えている時代ではあるが、漠然とした体調不良もあり「週五日をフルタイムで働くなどというのは、トライアスロンを完走するような壮大なこと」だと小波は考えている。昼日中に部屋にいることは怠惰の証明のようだという気持ちもあって、息をひそめて暮らしているのだ。在宅勤務が多くなった夫は、小波のそうした後ろめたさには鈍感である。小波と夫の間にそうしたずれがあるということが、後に小説の中で意味を持ってくる。
 冒頭における日本橋三越の場面は、小波の頭に一つの考えを植え付ける。けろけろけろっぴのシールは、秋田の実家の洋服箪笥に貼ってあったものに違いない、と小波が考える。誰かがそれを剥がして、わざわざ日本橋三越に貼りにきたのだ。でも、誰が。尾去沢ツトムが。小波はその日から尾去沢ツトムの姿を街角で見かけるようになる。「黄土色の肌、粉っぽいピンクの唇、ゴムっぽい質感のベタベタとした頭髪に、そうして褪色した作業服」、まるで無機物のような描写だが、無機物なのである。尾去沢ツトムは人形なのだ。
 ――尾去沢ツトムは、小波の父だった。
 という一文が唐突に入ってぎくりとさせられる。展開が早いな。ひとしきり読者の心を騒がせておいて説明が入る。尾去沢ツトムというのは、小波の実家近くにあった〈マインランド尾去沢〉という廃鉱山を活かしたテーマパークの中に立っている、無数の人形の一つだったのである。そこは幼少期の小波にとって唯一といっていい遊興施設で、母親に連れられて頻繁に通っていた。その母親が尾去沢ツトムを指して「あれがあなたのお父さんよ」と教えていたというのである。
 この母親がすべての元凶のような気がする。読んでいくと、かなり狂騒的な性格をした人物であったことがわかる。家の中は卵の殻を用いた異様なアート作品で埋め尽くされていた。そのすべてが燃え盛る炎の図柄で、母親はそれを描く理由を高校生の頃に頭を打った後遺症だと説明していた。「とにかく真意や核心というものからなるたけ遠く、ものごとの周縁をでたらめな軌道で迂回しようとするひと」で、小波の少女時代は母親の奇怪な言動に逆らわず、穏便にやり過ごすことに費やされていた。また母親は周囲の人に対し、夫は外国航路の船乗りだから滅多に帰ってこないのだ、と説明していたという。小波が母子二人暮らししていたことはわかるのだが、それ以上の詳細は明かされない。炭鉱労働者の人形を父親だと説明していたということ以外は。
 不在の父親であり炭鉱の人形であるツトムがなんらかのメッセージを伝えるために秋田からやってきたのだ、だから自分はそれに応えなければならない、と小波は考えるようになる。その考えを夫に言うと、当然だが反対される。その反対する言葉の中には、これまで説明された小波と母の関係との違和が含まれていて、どうやら父との関係にはもう一つ語られないことがあるらしい、ということが読者にもわかる。その違和については最後まで説明されないままである。ここが『家庭内安心坑夫』の少しもどかしいところで、母親の虚言と小波の妄執が形作る父親像の向こう側にあるらしい、作中内現実の位相に手が届かない。それを秘めたままにした作者の意図はよくわからない。
 もう一つの視点は、お察しかもしれないがツトムのものである。ツトムといっても人形ではなく、過去に尾去沢で働いていた炭鉱労働者のものだ。実はマインランド尾去沢の人形たちは、炭鉱内で命を落とした労働者たちを写した像だったのである。つまりツトムは事故で亡くなったわけで、朝目覚めてから彼が奇禍に見舞われるまでが、小波の視点に挿入される形で綴られていく。小砂川は正確な描写力を持つ書き手なので、この視点の炭鉱場面は圧巻だ。事故が起きてからの暑苦しい感覚描写を読むと脂汗が滲んでくる。
 この二つの視点が接近していく。突き進む小波と事故で身動きがとれないツトムなので、どこでどのように衝突するかは見当もつかないと思う。ぶつかった後、物語は急に減速し、消滅するような結末を迎える。世界から一つひとつ色彩が失われていくかのようだ。
 啓示の小説と言ってもいいだろう。小波は天から啓示を受け、それに従って行動するが、もちろんそれは妄執の生み出したものなので、ことごとく失敗する。世界に裏切られるのである。裏切られ、たった一人で孤独に投げ出される。そうした形で作者は存在の不安を描いたのだ。小説が疾走する理由も、この境地に読者がたどり着いたときの効果を考えたものだろう。速度によって小砂川は読者を操る。この文章力が別の形で用いられたとき、今度はどんなことが起きるのだろうか。何度でも翻弄されてみたい書き手だ。


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