見落とすにはもったいなさすぎる――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『陽だまりの果て』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『陽だまりの果て』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、ぱっと開いたページのどこの行を読んでも楽しむことができる一冊。
ああ、なんでもっと早く大濱普美子を読まなかったのか。
『陽だまりの果て』(国書刊行会)を読んで打ちのめされる思いがした。すごい才能である。文章の密度からしてただものではなく、一文に語彙がみっしりと集積されている。小説には二種類がある。物語を読むのが快いものと、文章を読むのが快いものだ。これは後者で、文章をずっと読んでいられる。ひとたび書棚に置いたら、手放すことは考えられなくなってしまうたぐいの本だ。ぱっと開いたページのどこの行を読んでも隙がなく、どこを読んでも楽しむことができる。そういう文章で書かれた小説だ。
表題作は、どこか病院のような施設に入っているのであろう、老人の視点からとらえられた世界を描いた短篇だ。老人の意識は途切れ途切れで、唐突に過去へと遡ることもある。あちこちを放埓に動き回る意識を捉えて引き戻す役をしているのが、頑丈そうな真四角の硝子窓から射して床に落ち、菱形になった光なのである。冒頭では、それを眺めている人の視線がまず描かれる。視線の主が屋内にいて、じっと動かずにいるのだということがわかる。
――外が晴れているときは、尖ったその菱形の中に葉っぱの影がくっきりとして、ときどき揺れたり揺れなくなったり、また戻ってきたりして、外を風が吹いているのが、それがどんな具合に吹いているのか、その吹き加減が、扉のこちら側にいてもちゃんとはっきり見て取れる。
老人には芳子さんという連れ合いがいた。彼女の持ち物も整理しなければならない時が到来したのである。老人の意識はその日のことをたどる。芳子さんは社交ダンスをずっとやっていて、多数の手袋を所持していた。箪笥を開けるとそこには「巨大な植物の芽のような形のもの」がぎっしりと詰まっていた。指の部分を上にして立てられた手袋の群れである。
――それら手袋の列の上に、一枚の紙が載っていた。畳紙の切れ端を千切ったもののようで、表面にマジックインキで黒々と、「これだけは、だれにもやらないでください」。なりかけの小学生のように全部ひらがなで、老人らしく震える筆跡が並んでいた。
芳子さんがその字を書いていく姿が目に浮かんでくるようだ。このように、鋭い観察によって記された文章であり、世界の解像度が極めて高い。誰かの人生が切り取られ、紙の上に移された。それらはいまだ力強く生命力を宿しており、読む者の意識に鮮やかな像を植えつけようとする。「陽だまりの果て」は前述したように老人の視線がたゆたうさまを追いかけるような小説だが、最後の数ページではそこまでに集積したイメージが世界の中に勢いよく噴出してくる。それによって老人の視界は洗い清められていくのである。
大きく分ければ幻想小説に分類されるのだろうか。六篇のうち「鼎ヶ淵」では、母親によって突如山の中の一軒家に送り込まれた小学生の〈あたし〉が視点人物となる。「夏休みになって、むぎわらぼうしを買ってもらった。地球ぎを半分に切ったような山のまわりに、リボンがまいてある。赤地に白の水玉もようで、とても長くて、後でちょうちょむすびになって、余った部分がたれ下がっている。それをかぶって、バスに乗った」と始まる文章のリズムがまず心地よくて仕方がない。いかにも小学生の夏休みなのだ。山の家には「おばさん」が一人でいて、この人は言葉が話せない。少女は母親から彼女が何者で、なんという名前かも教えてもらっていないのだが、筆談で意思疎通は問題ない。「おばさん」は料理がうまくて、「焼き魚とかつおぶしがたくさん乗ったひややっこと、カブと油あげのおみおつけとワカメときゅうりのサラダ」がとても美味しそうに見える。
〈あたし〉の背の高さは限られているので、見えない場所がたくさんある。それが幻影を創り出す仕掛けになっており、「おばさん」から決して水に入ってはいけないと止められた鼎ヶ淵や家の中で発見する古い人形の描写などから、大きなものの中で小さな影が逍遥している様子が浮かび上がってくる。少女自身にも語られずにいる過去があり、山の家の不思議が最後にはそれを招き寄せる。
どの作品も愛おしくなるほどに繊細な筆致で書かれているが、綴られる内容は一様ではない。そのばらつきも本書の価値を高めている所以だ。巻頭の「ツメタガイの記憶」は、施設に入居した老人の聞き相手になるというボランティアをしている女性の話だ。××さんの話は起伏に富んでおり、それが真実なのか虚構なのか〈私〉には判別がつかない。〈私〉もまた、夫が単身赴任でほぼ不在、引きこもり状態の息子とはほぼ没交渉という宙吊りのような状態で日々を過ごしており、自身の現実がどこを基準点にしていいものかわかっていないのだ。だからこそ××の話に心が吸引されていく。
物語性が強いのは「骨の行方」と「バイオ・ロボ犬」か。前者はいつの間にか老境を迎えてしまった女性に偶然友人ができ、他人事ながらその人生を垣間見るという話だ。シスターフッドの小説として読むことも可能だろう。後者は生物がほぼ絶滅した未来が舞台で、バイオ技術で生み出されたロボット犬を家族代わりに主人公は迎え入れる。どちらも死の要素が大きく、陰影の濃い物語である。もう一篇の「連れ合い徒然」はエッセイ風手記ともとれる筆致で書かれた三つの連作で、作者自身と思われる女性と、外国出身の夫の日々が描かれる。日常の話と思わせておいて、つるんと皮がめくれて非日常が覗く瞬間があるのだ。
こうやって書いていてもどんどん好きになってしまう本である。まったく予備知識なしに読んだが、末尾に記された略記によれば、大濱普美子は一九五八年生まれで、最終学歴はパリ第七大学修士課程修了、一九九五年からはドイツ在住であるという。二〇〇九年、『三田文学』に「猫の木のある庭」を発表、同作を含む第一作品集『たけこのぞう』と『十四番線上のハレルヤ』(いずれも国書刊行会)があるという。速攻で電子書店に注文を入れた。
ということは『陽だまりの果て』は著作三冊目。嬉しいことになんとか本連載の対象となるわけである。ぎりぎりで間に合ったことを天に感謝。ここに謹んでご紹介する次第である。みなさまもぜひ大濱普美子を。見落とすにはもったいなさすぎる。