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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.47

理工学的な概念が、人間の心をあぶりだす――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『可制御の殺人』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『可制御の殺人』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、三つの読みどころを持つ要注目! な一冊。

 知らなかったことを知るのは純粋に楽しい。
 人間には好奇心が備わっているので、知るという行為には快感が伴う。読書の楽しみの一つとしてそれを挙げる人は多いだろう。小説の中にも、読者にとっては珍しい情報が多数含まれていることを売りにしているものがある。では小説読書においても知るという行為は無条件に楽しいか、と言われるとそこではちょっと首を傾げてしまう。なぜかといえば、情報が物語運びを棄損する場合もあるからだ。それ邪魔、今は要らないから。そんな風に言いたくなってしまう小説をどれだけ読んできたことか。
 松城明『可制御の殺人』(双葉社)はちょっと違う。この作者は、小説の中で読者に知りたい気持ちを起こさせる名人だと思った。情報というよりは概念、そういう物の考え方がある、ということを示して、え、なになにそれ、と身を乗り出させるのが抜群に上手いのだ。六篇を収めたミステリーの連作集で、読みどころが三つある。そのうち一番私が関心したのはその要素である。珍しい話題を提示するときの手つきとでも言うべきか。
 一例を挙げる。第二話の「とうに降伏点を過ぎて」が、私がもっともおもしろく読んだ短篇だ。題名を見れば、降伏点ってなんだ、と普通は思う。私は思った。沼木という登場人物も思った。「……それで、降伏点って何なんですか」と聞いた。彼はQ大学の工作本部という非公認サークルの一員だ。当然すぎる沼木の疑問に対して、巨大な尻の持ち主である土御門部長は答える。
「ああ、沼木くんは情報系か。そりゃ知らないだろうね。簡単に言うと、バネがバネの性質を保てる限界だ。バネは引っ張ると伸びるけど、手を離すともとの長さに戻るよね。これが弾性変形。このバネを、例えば鋼の棒に置き換える」
 この弾性変形が限界まで来て、そこから伸びるだけ伸びてしまうようになるのが降伏点なのだという。金属工学的な説明のあとに、ちょっとした余談が付け加えられる。
「人間も荷重を加え続けたら、それだけ反発心も高まる。自分を苦しめる対象への敵意が比例的に増していくわけだ。当然だね。ところが、ある時点でぱったりと反抗心が減って、ただ流れに身を任せる状態になる」
 つまり人間にも降伏点があるというお話である。短篇の冒頭で話の核になる部分が雑談の形で示されているのだ。このあと工作本部に関する人間模様がいろいろあって、最後になるほどという落ちがつく。こういう具合に、部外者には非人間的なものに感じられる理工学的な概念が、実は人間にも当てはめられるのだ、という話題が各篇に出てくるのだ。この作品ならではの個性であり、知的好奇心を刺激してくれる楽しい要素でもある。
 読みどころの二つめも、実はこの理工学的な概念に関わるものである。六つの短篇には、それぞれ異なる人物が登場する。多くはQ大生だが、そうではない人も出てくる。全体を串刺しにする登場人物がいて、話の中でジョーカーのように振る舞うのである。その名は鬼界。鬼界は人間も「無数の入力と出力を有するシステム」だから、その構造を完全に理解できたとしたら行動パターンもすべて計算可能だと考えている。適切な情報を入力すれば、思い通りの行動を出力として求めることができるというわけだ。その思想に則って、鬼界は他人を思い通りに操ろうとしている。自分のシステムに加えられる者を増やすのがその目的だ。各話の当事者ではないが、背景で暗躍して事件を操ろうとしてくる。この鬼界こそが『可制御の殺人』という物語の主役であるということが、読み進めるにつれて明らかになってくる。
 よくわからない思想と人間支配を目的とする謎の登場人物だ。非常に胡散臭いが、ものすごく気になるキャラクターではないか。途中から私は、能條純一の『翔丸』の姿を鬼界に当てはめながら読んだ。『翔丸』、知らない人は絶対読んだほうがいい。人の顔をカッターで切って「翔丸組に入るんだ」と言う以外には何もしない男が主人公の大河ドラマである。鬼界組に入るんだ、とか呟きながら読んだ。わけがわからないけど、なんとも魅力的な登場人物である。
 読みどころの三つめが、この鬼界も含めたミステリー的な仕掛けということになる。巻頭の表題作は第四十二回小説推理新人賞に応募された短篇で、最終候補に残ったものの藤つかさ「見えない意図」に受賞は譲った。普通そういう作品は陽の目を見ないものだが、関係者によほど強い印象を与えたのだろう。五篇が追加されて連作短編集という形で刊行されることになった。「可制御の殺人」は大学院生の友人をトリックを用いて殺害しようとする女性の話で、犯人側の視点から描かれた、いわゆる倒叙もののミステリーである。第二話では前述したように大学サークルの人間関係が描かれ、次の「二進数の密室」では女性二人の間に真の友情はあったのか、ということが問われることになる。深刻度がまったくばらばらで、それをつなぐものとして鬼界という謎の人物が使われている。この趣向が意味するものが少しずつ明らかになっていくのが後半の三話だ。
 各話をつなぐ串のような設定があって、その謎が明かされておしまいになる、という連作形式はやりようによっては安易なものになりかねない。最後の一発ネタに頼りがちだからだ。しかし本作の場合は鬼界というジョーカーについての謎が解明されてもどこか割り切れないものが残る。鬼界が人間心理のありようを象徴的に表現したキャラクターだからだろう。整数解のようなわかりやすい答えが出るようなものじゃないんですよ人間の心とは、と鬼界の存在を使って作者が逆説的に言っているようにも思える。
 読み終えたときには黒々としたものが胸中に残っていた。後味の悪さともちょっと違う。炭をいじっていたらどうしても手は真っ黒になる。そういう感じの残り方だ。手を洗っても爪の下が黒いままになるだろう、しばらくの間は。この黒さが松城明という新人作家の価値である。黒が消えないうちにまたぜひ次の作品を読んでみたいものだ。


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