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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.48

飛躍的に上手くなった二作目――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『戴天』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『戴天』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、 会話が巧みな一冊。

 千葉ともこ『戴天』(文藝春秋)でまず心が動いたのは、会話の巧さであった。
 中国の唐代を舞台にした歴史小説であることは読み始めればすぐにわかる。序章には三人の少年少女、崔子龍と杜夏娘、王勇傑が短く紹介されていて、あ、これから彼らの青春模様が描かれていくのかな、と思っていると時間が一気に過ぎる。第一章では崔子龍はもう二十三歳になっていて、イスラム系他民族の討伐戦に加わっているのである。崔子龍が率いているのは普通の部隊ではないらしいのだが、作者はあまり説明をしないで読者が自然に理解できるように場面を少しずつ重ねていく。このへんの描きぶりが非常に好ましい。そして、最初に目を惹いた会話の箇所にきた。子龍は同僚に杜夏娘らしい幼馴染の女性について聞かれて、こう答える。
「いい女?」
「そうだな、足が速い」
 これだ。この短い会話でぎゅんと登場人物と読者の距離が近くなるではないか。
 第二章では崔子龍ではない者が視点人物となる。ヴェトナム系の血を引く母親に育てられた真智という若い僧侶だ。健脚で、かつ頭脳明晰、議論を始めると徹底的に相手を打ち負かすところまで行く癖がある。彼がある目的をもって、今でいうマラソンかトライアスロンのような競技に参加するというのが第二章のお話だ。競技には夏蝶という美しい女性が参加しており、真智は魅了される。ここでいい会話の二つ目。
「山育ちでもないのに、ずいぶんな健脚ですね」
 山神のように駆け上がっていく背に、真智は訊いた。
「風が」
 山の冷気に身を晒すように、美婦は背中を伸ばす。
「走ると身体のなかに風が吹くのです。とめどなく幸せな気持ちがあふれて、羽が生えたように身体が軽くなる」
 第二章で明示されるが、本作で描かれるのは唐六代皇帝玄宗の治世である。玄宗の時代に唐は最盛期を迎え、五十年近く太平が続いたが、楊貴妃を寵愛したことから政治の腐敗を招いた。寵姫に溺れて政をおろそかにしている間に、宰相・楊国忠が政治を恣にし、正しい者が排斥され、私財を肥やすものが国を動かすようになっていたのだ。先に書いた真智の目的とは、楊国忠の不正を暴く密書を玄宗に届けることであった。真智の義父が密かに準備していたが、志半ばで横死した。その遺志を引き継ごうとしていたのである。
 物語の中では、楊国忠を操る者として、宦官の辺令誠が登場する。宦官とは男性器を切って皇帝の後宮に入った者で、最高権力者に近いことからしばしば政治を私した。中国史には、宦官によって引き起こされた政変が多く存在する。崔子龍も信頼する人々をこの辺令誠に殺されたことから、仇として狙うようになる。『戴天』は、腐敗した権力者を除いて国を正しくしようとする者たちの挑戦を描いた群像劇なのだ。ある登場人物は言う。「権力は、その偉大な力が自分の価値であり力なのだと、それを持つ人に勘違いをさせる。だから権力を失うことは、その人にとって死に等しいのだと思います」と。権力を私することは罪深く、そして愚かだ。
 それゆえに権力が正しく行使されなかったときに起こりうる悲劇が繰り返し描かれる。玄宗皇帝の時代に起こった最大の事件は安史の乱だ。玄宗が盲信して多大な権力を与えた節度使・安禄山が謀反を起こし、都である長安が攻め落とされた。玄宗は事もあろうに楊貴妃を連れて逃げ、都は蹂躙されたのである。どんな戦争でも、最も辛い思いをするのは権力者ではなく一般の民衆だ。その残酷な運命を作者は描く。偶然ではあるが、その惨状はロシアによるウクライナ侵攻と重なり合い、胸に迫る思いがした。権力を私する者が戦争を引き起こし、権力を持たない民がそのために苦しむ。
 作品の美点、第一は登場人物の魅力である。先にも触れたとおり、会話が活き活きとその人の心性を浮かび上がらせるように書かれている。伝奇小説の骨法に則り、登場人物たちは経過する時間の中で変貌する。それぞれが正体を明かしていく第四章が折り返し点となっており、そこで物語の見え方ががらっと変わる仕掛けなのだ。各人がしっかりとした個性を持った者として描かれるからこそ、この正体明かしの技巧が成立する。
 第二の美点は書き過ぎない程の良さだ。安史の乱を背景にした物語であることは初めのほうに記された年号を見れば明白なのだが、中国史にそれほど詳しくない読者はぴんと来ないだろう。だが作者は焦って種明かしをしようとはせず、静かに潮時を待つ。この溜めの作り方がなかなか難しいのだ。こうした書きぶりは各登場人物にも及んでいる。第一章の主人公である崔子龍はいろいろ不明な点のある人物として描かれる。彼が率いているのは宦官だけを集めた部隊で、子龍自身も男性器を欠損しているのである。それはなぜか、ということが明かされるのは第一章も半ばを過ぎたあたりだ。だが、彼の空白はその事実だけでは埋まり切らない。たとえば子龍は、ある条件下において急に恐怖心が芽生えて体が硬直するという弱点を持っている。その原因が判明し、子龍の人物像が読者に見えるようになるのは物語の終盤近くなのである。知りたいという気持ちを読者に起こさせるのがとてもうまい作者だと感じた。
 宦官という存在が一つの軸になっている。先にも書いたとおり、国を乱す元凶としてしばしば槍玉に挙げられることの多い宦官だが、その哀しみを作者は描いている。自身の意志とは別にそうとしか生きられないようにされてしまった者は他人とは共有できない心を持っているはずだ。そうした心のありようを千葉は描く。人の心を描くとき、決して一面的にはならないようにして、その裏側もきちんと見せていく。物語の中で最大の敵となる辺令誠にもまた、怪物となる前の人生があったのだ。絵に描かれた怪物ではなく、人の心を備えた敵だからこそ倒すのが難しくなる。人間描写の立体性が本作第三の美点だ。
 みっしりと内容の詰まった長篇だけに読み通すのには時間がかかるが、それだけ満足度も高い。千葉ともこは二〇二〇年に『震雷の人』で第二十七回松本清張賞を受けてデビューを果たした。本作は第二作にあたる。安史の乱の時代を舞台に選んだ点は前作と同じなのだが、私は『戴天』のほうが好みだった。小説としての緻密さが段違いだという気がする。第二作で飛躍的に上手くなった。今後がものすごく楽しみである。


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