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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.49

芥川賞作家・宇佐見りんの最新作はとてつもない――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『くるまの娘』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『くるまの娘』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、声が聞こえてくるような一冊。

 ああ、声が聞こえる。
 他では聞こえないはずの声が。本から聞こえてくるはずのない声が。
 宇佐見りんの第三作『くるまの娘』は最初のページを開いた瞬間、これはとてつもない小説だということがわかった。少し長くなるが、書き出しの数行をそのまま引用させてもらいたい。

――かんこ、と呼ぶ声がする。台所から居間へ出てきた母が二階に向かってさけぶ声が聞こえてくる。かんこ、おひる。かんこ、お夕飯。しないはずの声だった。夢と現実の間を縫うように聞こえてきた。むかしは「にい、かんこ、ぽん」だったと思う。にい、かんこ、ぽん、ご飯。昨年、兄が家を出て「にい、かんこ、ぽん」は「かんこ、ぽん」になった。今年の春、弟のぽんが祖父母の家に住みはじめて「かんこ」になった。母が階下から呼ぶ。いつまでも聞こえてくる。にい、かんこ、ぽん。にい、かんこ、ぽん。かんこ、ぽん。かんこ、ぽん。かんこ。かんこ。……。

 読点によって作り出されたリズムが快く、いつまでも読んでいられる文章だ。書き写すとその気持ちよさがわかる。
第五十六回文藝賞を受賞したデビュー作であり、後に第三十三回三島由紀夫文学賞にも輝いた『かか』(河出文庫)は、母を「かか」、最初は何物かわからない相手に「おまい」と呼びかける二人称の文体が強烈な印象を残す作品だった。続く『推し、燃ゆ』では文章を引き締めて遊びの余地を減らし、自分以外の対象に執着しなければいけない主人公像を見事に浮き上がらせた。第百六十四回芥川龍之介賞受賞作である。つまり、それぞれの作品に合った文体、もう少し細かく言えば作品自体が発する声を聴きとってそれに適した文体を創造できるのが宇佐見という小説家なのだ。しかもどの文体も一目見ただけで忘れられないほどの特徴を持っており、音読して気持ちよい美しさを持っている。そうだ、宇佐見の小説は美しいのである。一つひとつの文章を手に取って鑑賞したくなるほどに。
 書き出しの文章が秀逸なのは、『くるまの娘』がどういう内容なのかを端的に表しているからでもある。主人公はかんこと呼ばれる十七歳の高校生だ。兄にい、と弟ぽんは家を出てしまい、父と母とかんこだけが残された。父は教育熱心で子煩悩だが、ひとたび感情が激すると他人を傷つけるのをやめられなくなり、実際に暴力まで振るってしまう。母は脳梗塞で健康を害して以来、前向性健忘などの症状に悩まされており、それを忘れて現実逃避するために過剰飲酒の問題まで抱え込んでしまった。この二人と暮らせなくなって兄と弟は家を出たのだ。
 かんこは自分ではどうにもならない気怠さや睡魔に襲われており、そのために通学が思うようにできなくなっている。そうしたものの発症は、父母の言動に起因するとは言いがたく、つまりは出所がわからない。だがかんこは、自分がそうして不甲斐なくいることに自責の念を抱いている。「人間でいるのがつらかった。人間でいることは許されない気がした」というほどの苦しみが重石のように身体の中にある。かんこのそうした思いを知っているはずなのに、父は娘のせいで「おれの人生、台無しだよ」と言い放つ。母は母で「昔みたいに、みんなで仲良く」なれるかもしれないという夢だけを頼りにしていて、かんこの重石を取り除く助けにはならない。
 家族はすでに壊れてしまっている。しかし、かんこは兄や弟のように父と母を見捨てることができない。一度だけ父は、母とかんこをまとめて抱きしめたことがある。中学受験の合格発表の場だ。かんこの番号があるのを確認して、親子三人は抱き合って泣いた。そのときかんこは親を守らなければならないと初めて本気で感じたのである。「かんこはそれまで、抱きしめられると心強く感じるものだとばかり思っていた。だが、抱きしめられる力は強いほど心もとない」。ゆえに、抱きしめられ、庇護されるばかりではなく、抱きしめ、庇護しなければならないと理解したのだ。どんなに辛くても、かんこが我が身を家から引き離すことができないのはそれゆえだ。父と母を抱きしめるかんここそが我が身なのである。家族という人間関係の理屈では割り切れない部分、愛情でもあり執着でもある心情がかんこの中にある。

――もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった。

 この終盤に置かれた一文で、かんこが親子のありようを他者は共依存と表現するだろうと理解していることがわかる。危なくなったらそこから逃げるべきだ。それは正論だが、逃げるべき対象が自分の一部であるようなときにはどうすればいいのか。自分の一部であるような愛情を抱いているものから、人は離れることができるのか。これは小説でしか書けない問いかけではないかと思う。小説という形で読み、その登場人物に寄り添うことで初めて質感を持った考えを持つことができる。単純に事例として割り切ることができない、個という存在の重みを本作は扱っている。誰にでもそれぞれの痛みがあり、他人が共有することはできない。理屈ではわかっていても、なかなか心に落とし込むことが難しい事実だ。宇佐見はかんこの独自の言葉を用いてそれを行った。かんこはかんこの痛みを生きている。
『くるまの娘』という題名は、かんこの一家がまだ何の問題も抱えていなかったころ、遠出をするとよく車中泊をしていた、ということから来ている。父方の祖母が危篤となり、帰郷のためにかんこの一家はひさしぶりに車中泊をすることになる。後段に「くるま」に関して別の展開が生じるのだが、それは読んで知ってもらうべきだろう。兎にも角にも、かんこの語りに耳を傾けてもらいたい。
 最初に書いたように、文章の美しさには本当に圧倒される。驚くほどの正確さで、その場その場で書かなければならないことを提示してくるのだ。たとえばかんこが、自分の何気ない言葉によって傷つけられたことがある、と弟に告白される場面。もしかすると血を吐く思いで絞り出した一言だったかもしれないということに、わずかに遅れて気づいたかんこは「受け取り損ねたと思」う。さらに弟と自分の間にいかに距離が開いているかを示すものとして、彼が小学校に入学したばかりのことが短く描写されるのである。休み時間に弟は「ひとり教卓のほうを向いて、何の感情も読み取れない透明な眼をしてすわっていた」という。かんこは声を掛けられなかった。
 このように、かんこの心の動きの一つひとつが的確な用語で読者に伝えられる。参ってしまうのは、そこに宇佐見が元来持つユーモアのセンスが発揮されることがある点だ。差しはさまれるときの呼吸があまりに絶妙なので、見た瞬間に笑ってしまう。笑ったあとで、情景が頭に浮かび、がん、と衝撃を受けるのだ。たとえば、車中で父が激高し、今まさに母がなぐられるであろうという場面。

――父の、なぐりどきであった。母の、なぐられどきであった。

 こんな一文、降参する以外はない。手術を受ける人が執刀医を信頼しなければならないように、私は宇佐見を信頼する。宇佐見の文章に間違いはない。


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