スリリングな音楽スパイ小説!――杉江松恋の新鋭作家ハンティング 安壇美緒『ラブカは静かに弓を持つ』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『ラブカは静かに弓を持つ』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、コントロールが見事な一冊。
安壇美緒のコントロールが良すぎて、三球三振させられた気分である。
あまりに球筋がよくて、バットを振ることも忘れて見惚れてしまった。いいものを見せてもらった。完敗だ。
『天龍院亜希子の日記』で第三十回小説すばる新人賞を獲得してデビューした作家の第三作である。『ラブカは静かに弓を持つ』(集英社)という題名だけで内容を言い当てられる読者は皆無なのではないか。これは、音楽スパイ小説なのである。
主人公の橘樹は全日本音楽著作権連盟、通称・全著連に勤務する青年だ。彼は上司から極秘の任務を命じられる。全著連は「音楽教室の会」という団体から訴訟を起こされかけていた。発端は全著連が音楽教室から著作権使用料の徴収を開始すると発表したことだった。それに対し、音楽教室内での演奏は公衆に対するものではない、と主張して真向から闘いを挑んできた。その「音楽教室の会」の中心になっているのは、世界最大の楽器メーカー・ミカサだ。橘に課せられた任務とは、ミカサが経営する音楽教室に入会し、レッスンを受けて著作権侵害の証拠を掴んでくることだった。彼には、五歳から十三歳までチェロを習っていた過去があったのだ。
この基本設定を見て、ああ、あれか、と思い当たった方は多いのではないか。著作権管理団体のJASRACとヤマハが主役となって、実際にそうした法的闘争が繰り広げられたことは記憶に新しい。つまり、実際の時事問題を下敷きにしているわけである。
偽りを口にして幸せを得ようとする者は、どこかで嘘を見抜かれて失敗する。頻繁に使われる物語類型の一つだ。橘は睡眠障害に悩まされている。その根底には少年時代の経験があった。幼時にチェロを習っていたことが遠因となり、彼は悪夢に悩まされるようになっていた。他人とも距離をとってしまい、心を許し合える間柄になることができない。悪夢で繰り返し見るのは暗い深海のような空間だ。その中にただ一人で閉じ籠っているのが自分にはもっとも似合っている。そうとでも考えているのだろう。
だが、再びチェロを習い始めたことで少しずつ人生観が変わっていく。彼にチェロを個人レッスンしてくれることになった浅葉桜太郎は魅力的な人物だった。浅葉に習っている教室仲間とも親密な間柄になった。初めての発表会でチェロを弾いた橘は「今日の日がずっと終わらなければいいのに」と考える。次週からはまた、著作権侵害の証拠を押さえるために、浅葉とのレッスンを盗み録りしなければならないからだ。
チェロを奏でることで橘は少しずつ悪夢から解き放たれていく。しかし、過去から完全に逃れ去り、新たな自分を手に入れることはできない。なぜならば彼は嘘をついているからだ。全著連のスパイだからだ。いつかは偽りの身分が明るみに出て、チェロを通じて知り合った人々に蔑みの視線を送られることになる。あらかじめ決まっている破滅に向かって進んでいく物語で、どうなるのだ、と読んでいるほうはじりじりさせられる。進行方向に断崖絶壁があると知っているのに止まることができないというスリルが本作の醍醐味である。破滅しかない。いや、回避できるのか。橘はいったいどういう決断を下すのか、とはらはらし通しである。どうなるのか知りたくて仕方なくなる。
三つのストライクと書いた。一番目のそれは、音楽が聴こえてくる、という感覚の絶妙さである。音楽小説のもっとも難しい点は、演奏されている音が聞こえないという点にある。文字だから。視覚で表現するしかないのが小説というものだから。しかしこの小説では聴こえてくる。
安壇は、橘を音楽に関する感覚が鋭敏な主人公として描いた。彼は的確に聴こえてくる音を表現するのである。浅葉の演奏を聴いた橘はそれを、はるか高いところで鳴っているような音、たとえばロンドンの時計塔ぐらいだ、と喩える。せいぜい地上一・五メートルぐらいの高さでしか鳴らせない自分とは大違いだと。小野瀬晃という音楽家が作曲した「雨の日の迷路」を演奏してもらったときは、こう言う。
「なんていうか、知らない家の庭先にいるような気持ちになりました」
演奏を聴いて安らいだ気持ちをそう表現したのだ。この豊かな感受性を翻訳機に使って、作中で鳴らされるチェロの音色が表現されていく。これが安壇の使った魔法、その一。
もう一つ、主人公の描き方が巧みであることも挙げておきたい。チェロのレッスンは一対一で行われるので、橘と浅葉は密室内でしばし濃縮された時間を共にする。この二人の関係が軸になって物語は進んでいくのである。楽器演奏という一つの行為でつながった二人は、講師と生徒の関係だ。全著連側の見方からすれば、二人を結び付けたものは契約であり、金銭の授受である。だが、本当にそれだけなのか。講師と生徒の間にあるものは何か、ということが物語の後半で浮かび上がってくる問いかけだ。この問いは普遍的なものだが、橘にとっては自分自身の存立にかかわる問題でもある。
彼を悪夢から解放してくれるものは何か。なぜ安らかな眠りに包まれるようになったのか。なぜ演奏会を通じて格別の思いを味わうことになったのか。すべての答えは浅葉とのレッスンの中にある。自分の中をいくら覗いても見つけられなかったものを、浅葉との時間の中で発見することになるのだ。作者は橘を、自分自身のことに関心が薄い人物として描いている。悪夢を見ることに馴れきってしまい、すでに見切りをつけているからだ。だが浅葉は橘に、自分では思いもよらなかったような一面があることを指摘してくれる。生徒と真摯に向き合う講師だからそれが可能なのだ。こうして橘は、浅葉によって発見される。橘にとって大事なことは常に自分で見つけるのではなく、他者から指摘されて明らかになるのである。人間関係の中で彼を描く輪郭線は太くなっていく。これが魔法のその二だ。
過去二作の安壇は、対の関係を巧みに使って物語を作っていた。デビュー作『天龍院亜希子の日記』は幼馴染のブログが気になって仕方ない男性が、それを密かに読み続けるという小説だった。第二作の『金木犀とメテオラ』はまったく対照的な二人の少女が互いを見ることで出来ていく物語である。本作では橘樹一人を物語の中心に据えたが、浅葉桜太郎という反響板を使うことによってのみ彼の心の音は聴くことができる。やはり対の関係の小説なのである。
魔法の三つめは、巧みな会話のセンスである。これについては実際に読んでもらうべきなので、あまり説明しない。ああ、自然だな、いい会話だな、というものが随所にある。もっとも痺れたのはエピローグ、二百九十五ページに出てくる会話だ。最初の方で本書を「音楽スパイ小説」と呼んだが、この会話で呼称がぴったりと腑に落ちるはずである。パズルのピースが最後に残った空間にぱちりと収まる感覚が味わえる。数行の会話が画竜点睛の働きを挙げているわけだ。こんな会話、なかなか書けたものじゃないのである。安壇美緒、恐るべし。