〈きみ〉は言葉によって生きる――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『鴨川ランナー』
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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『鴨川ランナー』書評
書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、アメリカ生まれの著者が日本語で執筆した作品。
人は言葉、ロゴスによって生きる。
グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』(講談社)はそのことに関する小説である。
あれ、〈新鋭作家ハンティング〉は日本語で書く小説家が対象の連載じゃないんだっけ。
そう思われた方も多いと思うが、これは一九八四年にアメリカ合衆国で生まれた作者が、母語ではない言葉を駆使して書いた作品なのである。選考委員の満場一致で第二回京都文学賞に決定したという。
母語はその人の生きる文化を決定する上での最重要な因子である。したがって言語使用によって起きる軋轢や状況を描いた作品は、文化圏の越境を描くことになる。『鴨川ランナー』には表題作と「異言」の二篇が収められている。前者が受賞作だ。
「鴨川ランナー」の叙述は二人称で行われる。〈きみ〉と呼ばれる主人公は高校生のときに二週間の京都滞在を体験した。おそらくは交換留学のような公式の行事だったと思われるその旅行の中で、〈きみ〉は一人宿舎を抜け出し、京都の街路が道に迷いにくい碁盤目状になっていることを幸いとして、気ままな散策に出た。そこには「教科書に到底収まらない世界」があり、それを原型を崩さずに体験しようとしたのだ。〈きみ〉たちに日本の文化を教えてくれるマキノ先生が「オマモリ」を「アミュレット」と翻訳するとき「何かが失われてしまうのではないか」と彼は考える。抜け出した京都の町はちょうど祭礼の最中であった。それを見て「まるでお伽噺の光景だ」と〈きみ〉は思う。
簡単に言えば「鴨川ランナー」は、初めて訪れた街で魔術的な光景に魅了された主人公が、その中に再び戻ることを希望して京都に住むようになり、幻滅を体験するという内容だ。〈きみ〉から日本で職を得たことを知らされた同棲相手のアリシアはピエール・ロティの『お菊さん』を引き合いに出し、気持ちを挫くようなことを言う。「向こうで現地妻でも作るのが心配なだけじゃない?」と冗談めかして〈きみ〉が聞くと、「ロティはどこへ行っても、また別のエキゾチックな理想郷をずっと追い求めていた」「いつまでも新しいものを追っかけたら、目の前のものをちゃんと見てなかったことをいつか必ず、後悔する」と冷ややかに言う。
彼女の発言は異邦人の視点が孕む問題を端的に表現している。異邦を旅する者は、自身もまた文化を背負う存在であるということを失念していることがある。自身が本当に自由な立場からものを見ているのか、それとも生まれながらの文化に縛られた者として他人の国に批判を加えているのか。そのことに考えが至るとき、異邦の旅人は必然的に自らの内面を覗かなければならなくなる。越境小説が教養小説の性格を帯びるのはそれゆえだ。〈きみ〉も、気ままな旅行者であった高校生のときの自分と、定住者となった現在との間にズレがあることに気づき始める。定住した場所から魔術が失われて日常が剥き出しになるのは当然のことだ。
日本人社会の中では母語の異なる〈きみ〉は圧倒的な少数派となる。英語が母語であることが特権的な意味を持つ社会にいると何度も思い知らされ、そのことに圧倒的な違和感を持つようになる。目に入ってくる風景などの事物が言語に変換される瞬間が〈きみ〉がもっとも疎外感を覚える瞬間だ。言語が介在する瞬間に何かが起きる。高校生のときに感じたことと、英語教師として日本に滞在する現在とでは立場が違うが、言語化という機会に何かがおきるということは共通している。それに主人公が気づくのが鴨川のほとりを歩いているときなのである。「これは何かの分岐点だ。これは何かの出発点だ」と〈きみ〉は考える。
あまり使われない二人称叙述が本作では効果的に用いられている。〈きみ〉と語り手の間にある距離感が縮まってくるような感覚がある。最後の場面に向けて、〈きみ〉の中に語り手が落ちてくる。それゆえに結末には爽快な疾走感がある。鴨川ランナー。
小説に関しての小説になっている点にも注目したい。大学院に入った〈きみ〉は谷崎潤一郎の『春琴抄』を読み始める。谷崎の中でも濃密な文体で書かれた作品であり、語義をいちいち調べなければ前に進めなくなる。そんな〈きみ〉に指導教官の冨田先生は言う。「そんな細かいものを調べる前に、落ち着いていっぺん文章を素直に感じてみて」「意味は後でいいから、まずは言葉を声に出してそのまま読み上げて。音、リズム。そこが第一」と。
このことが〈きみ〉を寛げる。小説によって救われる、とあえて表現したい。意味の表象である文章が別の役割を担うこと、他の価値観で書かれた文章があることを〈きみ〉は知る。芸能で用いられる言葉、特に浪曲のように歌われる言葉を知っていると、この感覚が落ちてきやすいかもしれない。あるいは詩。限られた意味で世界を切り取るだけが言葉ではないことを作者は示す。言葉によって作られた檻が、その言葉の鍵で解放されるような感覚がこのエピソードにはある。
すべての事柄を言語に絡めることで求心力を持たせ、言葉によってしか誰とも意思を通わせられない人のありようを、〈きみ〉という距離のある場所にいる主人公を眺めることで描き出す小説である。日本語と英語の主語の違いなどについて端的な文章で考察するくだりなど、味わい深い箇所が多数ある。
もう一篇の「異言」は、いるべき場所にいてしまった主人公を描く性格喜劇として読める構成になっており、小説としては実はこっちのほうが好みだった。読者のお楽しみとしてあえて内容は書かずにおく。やはり言語の小説になっており、翻訳が主題と言ってもいい。ある場面で主人公が「なぜ今の完璧な融合に言葉を介入させなければならないのだろうか」と考えるのは多分に逆説的であり、「完璧な融合でも言葉を介入させなければならない」自分であることに主人公が納得して結末へと向かっていく。ジェームズという調子のいい人物が非常に印象的で、滑稽小説の才能もあることを作者は示している。
日々を言葉と共に過ごす中で、時にそれに倦むことがあるかもしれない。そうした時に実は、こうした言葉に関心を集中させた小説が特効薬になるのである。これは騙されたと思ってお試し願いたい。心の中にある言葉のわだかまりを、作者の言葉がほぐしてくれるのではないかと思う。非常に心地よく、興奮を味わわせてくれる小説だった。