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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.35

人を殺す怪談をめぐる横溝正史ミステリ&ホラー大賞受賞作――杉江松恋の新鋭作家ハンティング『虚魚』

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

『虚魚』書評

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、選考委員絶賛! 怪談をモチーフにしたミステリ。

 点線で心の形をなぞっていくような小説だと思う。
 新名智『そらざかな』は、第四十一回横溝正史ミステリ&ホラー大賞を獲得した作者のデビュー作である。何の気なしに読んでみたら、小説の入口と出口の様子がまったく違っていて、ページをめくりながら途中で立てた予想がことごとく裏切られる気持ちよさを味わえた。こっちに行くのかな、と思って見ていると、しばらくは確かにそういう風に動くのだが、やがて別の情報が出てきて主人公たちの進む方向が少しずつそれていき、気がつくとまったく違ったところに行っている。そんなことが繰り返される小説だ。よくできた物語というのは平行四辺形になっていて、最初は辺Aの方へ進むかと思わせておいて、辺Bという角度の違うものが出てくると、平行四辺形の対角、ベクトルAとBの合力が到着点になる。そうやって読者の裏をかいていくのだ。
〈わたし〉こと主人公の丹野三咲は怪談師をしている。フィールドワークをして集めた奇譚を語りうる形にして書いたり、人に聞かせたりする仕事だ。その三咲に同居人のカナちゃんが、釣り上げたら死ぬ魚がいるらしい、という情報を教える。カナちゃんもその話は阿佐谷の釣り堀で金魚を釣っているおじさんから聞いた。なんでも気味の悪い魚で、それを釣り上げた人は死んでしまうのだそうだ。一週間ほどしてから三咲がその話をもう一度聞こうとしたところ、カナちゃんに教えてくれたおじさんは死んでしまったという。
 情報の出所を見舞った奇禍に関心を持った三咲が調べ始めると、死んだおじさんがよく釣りをしていた静岡県釜津市に、大安国寺の恐魚伝説というものがあるとわかった。そこで終わりではない。釣ると死んでしまう魚の話は、釜津市を河口とする狗竜川流域に広く分布しているようなのである。怪談の発生源を求めて、三咲とカナちゃんは川を遡ろうとする。
 伝説の発生源を探すという物語の形式はどのくらい前からあるのかわからないが、一九八〇年代に勢いのあった都市伝説研究が影響を及ぼしていることは間違いない。新しい形の伝説が都市生活者の間に流布していることに気づいた研究者が、その成立過程を調べることで土台になっている心性を解釈しようとした。文字通りの発生源がわかることは稀だが、伝説を構成素に分けることにより、その中に託されたものが何であるかは明確になっていった。言葉に託された心を探るという試みは、多くの創作者を魅了したのである。
『虚魚』の前半部にはそういう構造が備わっている。違うのは、三咲とカナちゃんの二人が、言葉という無形のものの中にある構成素を解釈するのではなく、実際にその言葉を産みだした源泉を探し当てようとすることだ。読んでいると、それは実際に見つかりそうに思えてくる。すぐそこにあるんじゃないか、と感じられてきたところで別のベクトルが話に入り込んでくるのだ。ほらきた、合力が始まるぞ。
 三咲とカナちゃんは、運命共同体である。あることが原因で両親を失って天涯孤独の身の上になった三咲は、人を殺せる言葉を探している。呪いや祟りで人が死ぬものならば、それをぜひ手に入れたいと思っているのだ。住所不定の状態で三咲と出会って同居することになったカナちゃんのほうは、呪いか祟りで死にたいという願望の持ち主だ。殺してくれる言葉を探しているのである。二人はそんな剣呑な言葉を求めてさまよっている。カナちゃんというのは本名ではなくて、カナリアのカナちゃんである。炭鉱で飼われているカナリアは、有毒ガスが発生すると人間よりも先に死ぬ。そのカナリアだ。
 死を前提としてつながっているわけで、どう考えても不健全だ。物語の中盤で、三咲がそのことについて自覚する場面がある。二人はそれまで互いに嘘ばかりつきあっていた。「それでもお互いに気にしなかったのは、ただ楽しかったから。怪談と同じだ。危険を感じながらふざけあってぞくぞくする。それがわたしとカナちゃんとの生活だった」。そう三咲は気がついてしまう。ローラースケートを履いて奈落の周辺で遊ぶ。目隠しをしている間は楽しいが、それを外してしまえば恐ろしくてできなくなる。もうやめなきゃ、と三咲は言いだす。
 ここからが小説は本番なのである。言葉は形がなく発せられては宙に消えていく。しかし言葉によって形作られたものが人々を縛ることがある。人間の営みとはそういうものだろう。三咲とカナちゃんの二人も、短い付き合いの中でそうした言葉の鎖をすでに作り上げていた。見えないけれどそこにある。点線で描いたような形の中にすでに二人はいる。見えないけれどどこかにあるはずのものを探すはずだった三咲の旅はいつの間にか、見えないのに自分を縛っている鎖を外すためのものに変わっていた。
 怪奇現象の探索行は、目指すものが見つかったらそこで終わりなのだから一本線で非常に単純だ。そうした物語かと思っていたら全然違って、振るっても振るっても消えないものとの闘いの話が現れてくる。これはオカルトの物語と言い換えることもできる。オカルトとは科学と違って客観性の存在しない概念だからだ。オカルトとしか言いようのない世界では、正答を導き出すこと自体が難しい。どこからが正しくて、どこからが間違っているという線引き自体が成立せず、そう見えるのだからそれは正しいのだ、という循環論法ですべてが成り立っているからである。その中で確固としたものを見つけ出すのか。
 点線、点線、点線。ちゃんと線を引くことができない三咲のもどかしさは、あやふやな世界で生きざるをえない現代人の不安として読み替えることができるかもしれない。素敵なのは彼女がそこでカナちゃんとの未来を諦めないことで、二人はそのために、本来の目的地であった狗竜川の上流を目指すのである。伝説の元を確かめることで、自分たちを縛る鎖を断ち切ろうとして。三咲を縛るものは言葉によって作られたのだが、それがどのように形成されたかを気づくことが、きちんと闘うための条件でもある。それが見えないまま、ただ自分たちを取り囲む不安の中で立ち尽くすしかない三咲とカナちゃんを描いた第二章の最後が、この小説で私がいちばん好きな箇所だ。
――唯一釣れたその魚を海に逃がしてから、わたしたちは釣り場を離れた。川を見ながら歩いていたらなぜか切ない気持ちになって、わたしはカナちゃんの手を強く握った。
 こうしたこんがらがった状態を打破するのがミステリー的な展開だというのがおもしろい。ネタばらしにならないように書くと、謎の解明によって二人が呪縛から自由になるということではなくて、理知的に考えていく過程そのものが厚い霧のような状況を少しずつ見通しのいいものに変えていくというか。謎の答えよりも、それについての思考を重ねることの方に力点が置かれた内容になっていて、ミステリーファンには心地いい展開なのではないかと思う。
 冒頭で書いたように、最初と最後でまったく見え方が違う小説で、結末ではなんともいえない清々しさを味わった。不気味な話だったはずなのに。昔懐かしいゲーム「シーマン」の魚が出てきて嫌なこととか言われる話だと思っていたのに。でもこれでいい。


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