こういう小説の書き手を好きにならずにいられるわけがない——『万事快調 オール・グリーンズ』杉江松恋の新鋭作家ハンティング
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、跳躍力のある一冊。
『万事快調 オール・グリーンズ』書評
危なっかしい。だが、それがいい。
波木銅『万事快調 オール・グリーンズ』(文藝春秋)は、第二十八回松本清張賞の受賞作である。作者の波木は1999年生まれで、本作を執筆したときには大学生だったという。
喩えるならばあちこちのバーが抜き去られたジェンガだ。大事な部分がところどころなくて、ぐらぐらしている。登場人物たちの人生も、小説の構造も。今にも崩れ落ちそうだ。その不安定さゆえに目が離せなくなるのである。今にも足場が崩れて誰かが落ちていくのではないかと気になって、ページをめくってしまうのである。
舞台となるのは茨城県東海村の底辺工業高校だ。同じ二年生のクラスに属している三人の女生徒が主たる視点人物となる。三人でクラスの女子全員。そういう男女比率なのである。ある日の教室風景から幕が上がる。窓際に席がある朴秀美は、自分の机周辺を他人に占拠されて戻れず、廊下側の壁に背中を預けてぼんやりとその光景を眺めている。手には読みかけのマーガレット・アトウッド『侍女の物語』。その彼女に岩隈真子が話しかけてくる。二人はクラスでも浮いた存在だ。特に親しいわけではないが、他につるむ相手もいないから、という理由で言葉を交わす間柄である。二人が視線をやる先には、男子生徒に囲まれて調子に乗っている矢口美流紅がいる。
作者は主人公たちに家とも学校とも違う居場所を与えた。朴は夜な夜な家を抜け出してフリースタイル・ラップに加わっている。彼女の世界は音。家族がくちゃくちゃいわせながら飯を咀嚼する食卓が、朴にとっては何よりも忌み嫌う場所だ。岩隈は両親によって基礎教養として買い与えられた漫画が命綱で、「この作品は自分にとって『必要』なものである」と確信するのが大島弓子『綿の国星』だ。自分を人間と思い込んでいる諏訪野チビ猫の視点から世界の広大さを描いた物語である。チビ猫に自らを重ね合わせる彼女は、「外」の知識を収集することでなんとか日々を生き永らえている。彼女にとって世界とは情報だ。
朴と岩隈が敵視する矢口だが、実は彼女にも自分の世界があることが読者に明かされる。東海村からほど近い那珂市にできたミニシアターで、今までは高速バスで東京まで遠征しなければ手が届かなかった映画を観られるようになった。それが矢口には何より嬉しいのだ。とある理由からやはり家族との生活を憎悪する矢口は、とっとと家を出て映画の仕事をしたいと考えている。想像力が物を言う世界に生きるのだ。しかし無力な今は、軋轢を起こさずに空気を読むので精一杯。朴や岩隈が思っているほど、学校も矢口にとって住みよい場所ではないのである。
この三人が、力を合わせてあることをする話だ。帯にはそれが何かも明かされているのだが、全体の半分近くまで話が進んで初めてわかる事実なので、ここでは書かないことにする。最初は友達でもなんでもなかった三人が、力を合わせて一つのことをする。目的も一つ。金を貯めて、ここではないどこかへ逃げ出すことだ。どうしようもない環境に押し込められた個人が、法を犯して現在の暮らしを変えようとする話である。だから犯罪小説と言ってもいいだろう。青春犯罪小説なのである、『万事快調』は。
三人の主人公たちがどんな顔をしているかを描くのに、作者は全体の三分の一にあたるページ数を使っている。だから頭でっかちなのだが、導入部で退屈させられることはない。筆致に突き放したようなユーモアのセンスがあるのと、早いテンポで場面の切り替えが行われるからだろう。でもこのまま行っちゃうのかな、話はどうなっちゃうのかな、と思い始めた矢先に、朴と矢口が校外で偶然顔を合わせ、成り行きで一緒にボウリングをすることになる。ここで最初に気持ちを掴まれた。
「私、ボウリングやったことない……」
率先してカウンターに向っていった矢口にそっと追従しながら、朴はそっと言う。
「マジで? こんなとこに住んでて、ボウリング以外にやることある?」
一緒にやる友達がいねぇんだよ、バーカ! という意味合いの苦笑を返す。
なんだよ、いいなあ。スポーツ万能で一応日の当たる場所にいる矢口と朴は同じところにいながら見えているものが違う。だが、視点の高さみたいなものは一緒なので、実はそんなに感覚はズレていないのだということが会話でだんだんわかってくる。そういう書き方がとてもいいのだ。岩隈との関係もそうで、三人があまり寄り添った感じに書かれないところが本書の美点だと思う。ばらばら。でも何かを一緒にやる。
矢口と行ったボウリング場で朴は、自分たちには「ガーターを防ぐバンパーみたいなもの」が必要なのだ、と考える。「誰かがこぼれ落ちそうになったとき、そっとそれを弾いて」「有無を言わさず正しい方向に導いてくれるような」何か。冒頭に出てくる『侍女の物語』はここにつながっていて、朴はやがてその何かを見つけ出すことになる。いつ崩れ落ちてもおかしくないジェンガの世界を彼女たちは生きている。だからこそ必要な何か。
最初に書いたとおりいろいろ欠点はある小説で、完璧からは程遠い。後半で増える登場人物を作者は持て余しているのではないか、とか、岩隈が特にそうだが、三人のキャラクターの特性みたいなものはもっと活かすことができたのではないか、とか、減点方式で言えばいろいろ文句はつけられるだろうと思う。穴あきジェンガ。でもいいのだ。ちゃんと構造物として立っているのだから。ぐらぐらしながらも最後まで屹立し続けられている芯の強さのほうを称賛すべきだろう。穴ぼこが空いていても飛び越えていける跳躍力をこの作者は持ち合わせている。
もし偶然の産物なら奇跡的だし、狙ってやったのなら素晴らしい技巧だが、この小説で最も好きな場面は、全体のちょど半分くらいのところにある。朴とあることについての同意に至った矢口が、岩隈を誘いに来る場面だ。
「うん。もしさ、イワクマコの高校生活が小説なり映画なり、物語だったとするじゃん」
いきなりなに? 岩隈は語りだした矢口を、右と左で互い違いな瞬きをしつつ見る。矢口そのたとえ好きだね、と朴が口を挟む。
「だとすると、ここからが『第二部』ってわけ」
「は?」
「は?」と岩隈じゃないけど私も言ってしまった。小説の折り返し点にそんな台詞を挟んでくるなんて、たいした度胸じゃないか。矢口は映画好きだからいろいろなアフォリズムを台詞に織り交ぜてくるという設定なのだが、ここがいちばん決まっている。私たちは物語の登場人物です、と言ったも同然のこのメタ・フィクション感。ぬけぬけとしてるぜ。こういうメタ視点を使ったいい表現があと十個はある。作者が語ることを心から楽しんでいる証拠だ。こういう小説の書き手を好きにならずにいられるわけがない。どんなにぐらぐらしていたって。どんなに危なっかしくたって。