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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.28

むき出しの悪意や暴力にさらされたら――『象の皮膚』杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、アトピー性皮膚炎の持病を持つ女性が主人公の一冊。

『象の皮膚』書評

 皮膚によって人は世界と接している。
 その優しさにも、残酷さにも。
 佐藤厚志『象の皮膚』(新潮社)は、「蛇沼」で二〇一七年に第四十九回新潮新人賞を獲得してデビューした作者の、初の著書である。『新潮』二〇二一年四月号に掲載され、このほど単行本化された。現時点で第三十四回三島由紀夫賞候補になっている。
 主人公の五十嵐凛はアトピー性皮膚炎の持病を持つ女性だ。小学生のときから、そのために苦しめられてきた。無神経な医師が発した一言のために「カビ」と呼ばれたのを手始めに、「アトピー」「ピーコ」といったひどいあだなをつけられてきた。肌を露出しなければならない水泳の授業は刑罰に等しく、嘘の口実を作ってでも見学をしなければならなかった。中学の体育教員は凛を許さず、プールの周囲を裸足でランニングするように命じた。焼けたコンクリートの上を走ったために凛の足の裏には火ぶくれができた。それでも水着で授業に出て、クラスメートが好奇の視線を注ぐ前に肌を露出するよりはましだった。
 陰湿な体罰を命じた体育教師は「チョコレートというより、消化不良の犬のクソみたいな」日焼けした肌をした、瀬野上という四十過ぎの男だ。凛のアトピーに無理解なのはそうした他人だけではない。家族もまた、凛の傷ついた心から目を背けた。肌を隠さなければならない娘を慰めもせず、逆になじる態度を取った父親の口癖は「クソして寝ろ」だった。こうした路傍のクソほどに最低で残酷な人々に囲まれて凛は十代を過ごしたのである。「こらえて、我慢し続けた先にいったい何があるか知らないが、自分を押し込め続けるしかな」く、「消えたい」「それが叶わないなら、みんな消えてくれ」と凛は願う。
 少女時代と成人して書店員として働く現在をカットバックで描きながら、作者は凛が世界に接する境地はどのようなものかを読者に伝えていく。仙台駅近くにある書店で現在の凛は契約社員として働いている。その善文堂シエロ店に勤めているのは、夏に半袖の着用を強要されないからだ。この現在パートでも、世界が無神経な残酷さに満ち満ちていることが違った形で示される。契約社員を奴隷のような条件でこき使う正社員たちと、書店員をまるでモノのように扱い、むきだしの悪意や、時には暴力そのものを振るってくる客が、暴力教師やクソ親父に代わって凛を鞭打とうとしてくるのである。しかし大人になった凛は、それらに対抗するすべを身に着けている。
――私たちは自動販売機みたいだ、と凛は時々思った。機械となって本を並べて代金を受け取って釣り銭を返す。非正規の人というのは正規にあらざる人間であり、私は正式な人間でない人間だ。感情を持ってはいけない人間だ。
『象の皮膚』は一口で言えば、人間としての価値が認められない主人公が、心を閉ざすという処世を行う小説だ。自分を非正規の人間としてしか扱わない世間とは、正面から向き合わない。凛は携帯電話のシミュレーションゲームアプリで造形された「ソウイチ」と恋人として暮らしており、旅行に出るときも二人分の料金を払って部屋を取る。皮膚の向こう側にある世界の代わりに、自分だけの世界を作り上げているのだ。
 そうした自衛手段によって生きるやり方を見つけた主人公なのである。作者が築き上げた五十嵐凛像には、「正規として生きられない」人々のシンボルになりうるだけの確かな実在感がある。物語のあちこちで、凛は世界の「正規な」人々とのすれ違いを体験する。ある夜、仙台駅の歩行者デッキを歩いていた凛は、「通行人が一様に日の沈んだ西の空を見上げている」ところに出くわす。流星群でも見えるのかと凛も同じ空を見上げるが、「暗い空とビル群以外何も見えなかった」。「自分だけが異常で、誰もが見えるものを見ることができないような気がした」凛は、下を向いてその場を立ち去る。
 そうした齟齬を感じつつも、日常においてはなんとか世界との釣り合いを保っていたはずだった。それがある日、崩壊するのである。3・11、東日本大震災によって凛の暮らしていた世界にひびが入ってしまうからだ。豊かさが失われ、物資と定員数が制限された世界においては、それまでと異なる種類の残酷さが見えてくるようになる。物語の後半は、そうした形の震災文学となっていく。
 五十嵐凛という人格を通じて世界を見る小説であり、いづらさを感じながら生きているという彼女の心情が物語の主調となる。その意味では性格喜劇と言ってよく、世界に歓迎されていないという感覚に主人公が翻弄されるさまが皮肉な笑いを次々に生み出していくのである。ここまであえて触れなかったが、善文堂シエロ店に跳梁跋扈する悪質な客の描き方が素晴らしい。ホラーに登場する怪物さながらの行動で、凛たち店員を悩ませるのである。女性スタッフに成人コミックのタイトルを繰り返し読み上げさせる「油男」をはじめとする連中の信じがたい問題行動の数々が描かれるが、おそらくこれはまったくの作り事ではなく、実話に基づくものなのだろう。カバー袖のプロフィールによれば、作者もまた現役の書店員であるという。
 小説のクライマックスは、善文堂シエロ店で開催されたアイドルイベントである。そこに集結する化け物たちを見よ。
――通り過ぎるふうに列に近づくと、知っている顔はケツマガリだけではない。予約や注文をしてキャンセルするといった迷惑行為を繰り返す転売屋の乾、金券を換金しようとするサイトウチヨコ、ハードクレーマーの西松、執拗な問い合わせで店員を一時間も二時間も拘束するアメリカ人のミスターヘースティング、さらにブラックリストにある痴漢、盗撮魔、そして油男……。まさにオールスターの面々が勢ぞろいしていた。
 オラ、なんだかわくわくしてきたぞ。こうした苦難をかいくぐりつつ、最後に五十嵐凛はある境地へとたどりつく。最後の場面は実に美しいものだが、森の奥の湖面を思わせるその静けさは、どうしようもない諦念を表しているようにも読める。残酷であり続ける世界に疲れたとき、唯一の救いは目を閉じて眠ることなのだ。


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