音や文字に色が見える? 「共感覚」とは――『檸檬先生』杉江松恋の新鋭作家ハンティング
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、小説を読むことに倦んだ人にとって、特効薬になるような一冊。
『檸檬先生』書評
これは感覚の小説だ。
プロットをひねくり回すだけが技巧ではない。小説を組み上げる部品とはすなわち文章である。その文章によって導かれるイメージが作品の性格を決めるのだ。プロットは小説の構造であり、表現は意匠である。いかなる感覚によってその意匠は形作られるか。
珠川こおり『檸檬先生』(講談社)を読み、そこに綾なされた表現の美しさにしばし我を忘れるほどに楽しんだ。文章が心地よい。ページを繰るたびに新しい眺めが目の前に開けてくる。そこに描かれているのは決して特殊な情景ではなく、学校の教室であったり、盛夏の海辺であったりといった誰もが知る場所だ。しかし作者は、それらを描くのに自ら絵具を選び、混ぜ合わせ、筆をどこにまず置いてどちらに走らせるかといった運筆にまで気を遣っている。他のどこにもない珠川こおりの見た景色、珠川こおりの脳内に広がった世界を表現しているのである。場面場面が鮮やかで、それらを経巡っているうちにいつの間にか時が過ぎてしまう。文章で画集を作ろうとしたかのようである。
あらすじを紹介することにはそれほど意味がない。主人公の〈私〉は小学三年生の男の子だ。小中一貫のその私立校で彼はいじめを受けている。他の子と違う、からである。〈私〉を蔑んで周囲の者は〈色ボケ〉と呼ぶ。
「レ、レ♯、ミ、ソ、ソ♭、ソ♯、オクターブ上がってソ♯、ラ、下がってラ、基準のド♯、ド、また上がってレ♭」という音階が〈私〉には「黄、黄緑、緑、青緑、緑みの青、青、青紫、紫、赤紫、赤、赤橙、黄橙」という〈十二色相環モール〉に見える。共感覚の持ち主なのである。
一つの刺激に五感の複数の感覚が反応する現象のことをそう呼ぶ。学校の授業で出てくる文字や数字にも色が見えてしまう〈私〉はそれに引っぱられて他の者とは違う行動をとってしまう。それが問題行動に見えるために〈色ボケ〉と呼ばれ疎まれているのだ。さらに両親が不和であるため、〈私〉は家にも居場所がない。そうした孤立の日々を送っていた彼の前に、同じ学校の中学部に属する一人の少女が現れる。檸檬色の瞳をしたそのひともまた共感覚の持ち主だった。〈私〉は彼女を〈檸檬先生〉と呼ぶようになる。彼女による〈私〉の呼び名は〈少年〉だ。
共感覚の世界に生きる二人が、心を通わせていく。〈檸檬先生〉によって〈少年〉は世間との付き合い方を教えられていく。本書で描かれているのはそういう物語だ。前半部で作者は、二人にとっての世界がどのようなものかを描き出していく。共感覚者にとって重要なのは色だ。だからどのページにも色が溢れている。この眺めがそうした色使いで表現されるのか、という発見に満ち満ちていて読むのが本当に楽しい。小説を読むことにいっとき倦んでしまっている人がいたら、『檸檬先生』は絶好の特効薬になると思う。ここにあるのは、どの読者もまだ目にしたことがない色と光の並びだろうからだ。鮮やかである。読むほどに胸の中につかえていたものが消えていく感覚がある。
途中で檸檬先生が音楽に取り組んでいることが明かされる。共感覚者にとって音楽は恐怖の対象でもある。他の人には楽しく聴くことができる旋律が共感覚者には悪夢のような色の奔流に見えるかもしれないからだ。だが檸檬先生は先に色を並べ、それを音に変換するという形で心地よい調べを作ろうと試みた。
――白いスクリーンは白く光っている。その中にふわりと色が浮かんだ。水に濡らした画用紙の上に、薄めた水彩絵の具を垂らしたみたいに、様々な場所にふわりふわりと色が染み渡っていく。目に入った瞬間にそれらは即座に頭の中で音に変換されて私の鼓膜を揺らす。
この檸檬先生の音楽と出会ったことがのちに〈私〉の人生を変えることになる。試練と克服、成長を描く教養小説なのである。表現の楽しさを存分に味わえるのでもうそれだけで百点なのだが、新人の作品なので随所に詰めの甘いところはある。たとえば、〈私〉と檸檬先生が知り合って親しくなるのは教室の中で彼が疎まれているからだが、いかに浮いた存在だからといって、いじめの状況を担任教師は放置しすぎだという気がする。現実にそういう無能な教師はいるだろうが、悲劇的な状況を成立させるための作りこみが過剰ということだ。主人公を巡る環境がばたばたと変わっていく後半も、そんなに急に物事は動くものか、と首を捻りたくなる。急にすべてが変わる、ということに意味がある展開なので、最後まで読むと一応納得はするのだが。粗さがしのようだが書いておく。繰り返すが、そうした粗などどうでもよくなるほど感覚表現は素晴らしい。
前のほうに書いたように、二つの要素から成り立っている小説だ。〈私〉と檸檬先生が運命の出会いを果たす。〈私〉は檸檬先生から世界を教えられる。だが、実はもう一つの要素がある。檸檬先生が見ているもののすべてが〈私〉の目に映っているわけではないということだ。
二人だけの世界を共有するという強い紐帯がまずある。それゆえに〈私〉は気づかないのだが、檸檬先生には自分の心の中だけに留めていることがあるのだ。小学生男子と中学生女子という立場の違い、どうやら檸檬先生は良家の子女であるらしい、といった明かされる事実から〈私〉には見えない何かの存在を読者は感じ取っていくはずだ。その、檸檬先生が少年と共有できないものを浮かび上がらせることが本作の第三の主題である。対象をあからさまにするのではなく、読者に推察させることを作者は選んでいる。それも好ましい書きぶりである。
本作は第十五回小説現代長編新人賞を授与された作者のデビュー作である。珠川こおりは十八歳で、高校受験の期間を除けば小学二年生からずっと創作を続けているのだという。執筆に対するその情熱の注ぎ方に、心からの賞賛を捧げたい。輝かしい未来がその前にきっと開けるだろう。本当に何度も繰り返して言うが、表現は実に流麗である。まだ制御が追い付かず、時に自らの作り出した旋律に流されているかのように見える箇所もある。だがいずれそれさえも克服し、指先の隅々にまで神経の行き渡った文章を書くことになるだろう。一年先、二年先の珠川こおりを読むのが楽しみであり、実を言えば少々恐ろしくさえある。そんな才能の持ち主だ。