小説はどこまで自由に羽ばたけるのか――『レオノーラの卵 日高トモキチ小説集』杉江松恋の新鋭作家ハンティング
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、小説の自由を再認識させてくれる一冊。
『レオノーラの卵 日高トモキチ小説集』書評
そうだ。小説って、こんな風に自由なものだった。
『レオノーラの卵 日高トモキチ小説集』(光文社)を読んで、そんなことを改めて思ったのである。なんでもできる。白い画布に向かったときのように、どこに何を描いてもいい。
架空の場所を舞台とした、七つの短篇が本書には収められている。どことは知れない街の、いつの時代かわからない物語である。所在地を探すとしたら、それは誰かの夢の中ということになるのではないだろうか。訪れたことはないのだが、登場人物たちの背後に覗く風景、建物の柱や壁にはいつか見たことのある意匠、撫でたことのある手触りがある。この世のどこかに扉があり、想像の鍵によってそれは開くのだ。扉の奥で紡がれる七つの物語。
言葉の力を使って作者は既成の概念を分解し、まだ名前がついていないであろう不確かなイメージへと還元する。あと一歩でまとまった形を獲得する、冷蔵庫で固まる寸前のババロアのような硬さのイメージたちを使って、自由自在に世界を構築していくのである。粘土がこねられて塑像となるのを間近で見ているような快感が本書にはある。
収録作のいくつかは、原型として使われた作品が見えるような書かれ方をしている。たとえば「コヒヤマカオルコの判決」は「まあまあ本好きな十六歳」のカオルコが「ひどくむさ苦しい夢」から目覚め、いつの間にか出現していた古本ねずみから「多少めんどうな裁判の判事を務め」ることを依頼される物語だ。報酬は「子ども用ブリタニカ百科事典全巻」である。この出だしは「あした、めんどなさいばんしますから、おいでんなさい」と一郎少年が呼び出される「どんぐりと山猫」の本歌取りだろう。呼び出されたカオルコが最初に任されるのは、一人の子供を二人の母親が取り合っているという案件だ。これは大岡政談の一つ、「実母継母の子争い」だろう。この話の場合、争われるのが河童の子であるところから、展開は変わってくるのだが。人ならぬ者が人語を話し、なんの違和感もなく交わる障壁のなさが収録作の共通項でもある。
読み進めるうちに切ない思いが募ってくる。一つは、物語が童話的世界を描いているがゆえに子供時代の思い出が蘇るためだろう。だが、それだけではない。七篇のうち、六篇が追憶の物語である。時間は一方向にのみ流れ、遡ることはできない。あの日には二度と戻れないという思いは、過去のものとなり次第に薄れていくイメージを想像の力で補い、新たな形を与えて補強しようとする。本書はそうした心理の仕組みを小説化した作品集なのである。唯一現在進行形の物語に見える「コヒヤマカオルコの判決」にしても、最後に「いろいろあったけど退屈はしなかったな。/コヒヤマカオルコの十六歳の十月は、もうすぐ終わる」という文章でしめくくられ、全体が主人公の回想であることが示される。
現在と過去の対決という主題が最も端的に描かれているのが「ガヴィアル博士の喪失」だ。発明が怪人かぎ男爵に狙われているというガヴィアル博士が、冒険王子の事務所に電話をかけてくる場面からお話は始まる。依頼人であるガヴィアル博士が「ぶさいくな鰐公」と呼ばれ、なぜかその腹からこちこちという時計の秒針の音が聞こえてくる、というくだりで読者はある童話を連想するはずだ。ジェームズ・M・バリー『ピーター・パンとウェンディ』である。歳を取ることを拒否した永遠の子供であるピーター・パンが現実世界とどのように折り合いをつけたか、というパロディ作品は数多く書かれている。これもその一つで、主たるドラマに決着がつけられたあとに、おまけとして添えられたような落ちがつくのがおもしろい。相原勇的というか、新宿コマ劇場記念公演的というか。
表題作はレオノーラという若い娘が生んだ卵に関する物語である。そこから生まれるのが男か女かという賭けが「四人のろくでなし」の間で行われる。本当は二つしかないはずの選択肢が四つになってしまうのがこの短篇の特別な点で、賭博小説としても独自性があっておもしろい。読み進めていくと、実は二十年前にも似たような出来事があったことがわかり、現在と過去の話が重なり合うようにして進んでいくという構成になっている。このように時間の往復が頻繁に行われるのも本書収録作の特徴で、「レオノーラの卵」の中盤ではそれが目まぐるしく行われる。登場人物に名前が与えられず「時計屋」「工場長の甥」といった呼ばれ方をしているのも、固有名詞が足枷になって往復運動の軽やかさが失われないようにするためだろう。
「レオノーラの卵」に顔を出す登場人物は、一人がピアノ弾きである。そのためか途中に「ピアニストを撃つな」という貼り紙に関する言及がある。ここからデイヴィッド・グーディス原作、フランソワ・トリュフォー監督の映画「ピアニストを撃て」を想起する読者も多いはずだ。本書でもう一つ大事なのがこうした言葉遊びで、本題として語られる時間の追想の物語は、語呂合わせや気の利いた言い回しによって副次的にイメージが拡げられていくのである。たとえば「旅人と砂の船が寄る波止場」冒頭のやりとり。
「人魚というのは上半身が人間なればこそ成立する図像であってだな」
万有引力先生は勿体ぶって宣言した。
「アンデルセンの人魚姫の顔が魚介類だったら、それは単なるインスマスの住人だ」
「ごめんなさい、その住所知らないです」
このくだりのどこが言葉遊びになっているのかはあえて説明しないが、こうした細かい脱線を頻繁に入れることで本書は物語のふくよかさを獲得しているのである。ぴったりとはめ込めるピースだけで構成するのではなく、ちょっと遊びがあったり、はみ出したりするものも入れることで、手で触ったときの心地よさを追求したパズルとでも言うべきか。
作者である日高トモキチの本職は漫画家で、アンソロジー参加の経験はあるが、これが小説では初の単著となる。使う道具を絵から文字に替えての挑戦ということになるが、実は私が本書を読んで最初に連想したのが、筒井康隆などのSFに傾倒し、『アホ式』『絶対面白全部』などのパロディ作品を描くことで漫画表現の枠を拡げようとした長谷邦夫作品だった。長谷はもともと詩人でもあり、奔流のような想像力を受け止める枠を探し求めてそのような創作方式にたどり着いたのである。同じような実験精神を『レオノーラの卵』にも感じる。いかに表現するか。どこまで自由に羽ばたけるか。跳ぶ、飛ぶ、翔ぶ。
七篇のうち最も好きな短篇が、二度と戻らない青春の時間を描いた「ドナテルロ後夜祭」だ。「子どもたちが輪回し遊びをしながら笑っている坂道を」二人の少女が手をつないで走っていくという冒頭近くの数行を飽きずに何度も繰り返し読んだ。こういう夢をいつか見た気がする、私は。きっと、あなたも。