悔し涙を流した数だけ、後で必ず腹から笑えるときがくる――『花は咲けども噺せども』杉江松恋の新鋭作家ハンティング
杉江松恋の新鋭作家ハンティング
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書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、落語家・立川談慶が執筆した一冊。
悔し涙を流した数だけ、後で必ず腹から笑えるときがくる。
落語家・立川談慶の長篇小説『花は咲けども噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)は、そうした人生の機微を描いた作品だ。思いがけない疫病流行のために塞ぐ気持ちを勇気づける意図で書かれた『安政五年、江戸パンデミック。江戸っ子流コロナ撃退法』(エムオン・エンタテインメント)など、すでに多くのエッセイや実用書を刊行している談慶だが、小説執筆はこれが初めてである。落語家兼小説家には、立川談志門下の兄弟子である『ファイティング寿限無』などの作者・立川談四楼、師・桂歌丸をモデルとしたことで話題になった『廓に噺せば』の桂歌蔵がいる。また、落語家ではなく講談師だが、神田茜も『女子芸人』で第6回新潮エンターテインメント大賞を獲得するなどの実績を残している。小説家古典芸能派、とでも呼ぶべきか。その一人に立川談慶が加わった。
『花は咲けども噺せども』は、全五話から成る連作形式の物語である。主人公の杉崎修二は二つ目の落語家で、山水亭錦之助という高座名を師匠の錦生からもらっている。念のため書いておくと、前座・二つ目・真打とある落語家の階級の第二段階である。前座は修業中の身の上ゆえ芸人としてはまだ半人前、二つ目でようやく個人で仕事をすることが認められる。だがまだ完全な一人前というわけではなくて、たとえば弟子を取るようなことは許されない。真打となって初めて、独立独歩の芸人と胸を張ることができるようになるのだ。その不安定な地位に主人公を置いたのが本書第一の工夫だ。
杉崎は大学の落語研究会出身なのだが、その設立六十周年記念パーティーに参加して、嫌味な先輩から侮蔑される場面がある。
「お前はプロではモノにならないと思っていたけど、やっぱりだったな(中略)二つ目になるまであんなに手間取ってさ。七年だっけ」
「……よくご存じで」
「いやあ、俺も落語家になろうかと思ったんだけどさ、前座修業に時間かかっていたお前を見ていて、やっぱり落語家にならなくてよかったと思ったよ」
こんな具合に、いわゆる上から目線で嫌なことを言われた経験を多くの人が持っているはずだ。錦之助は、そうした口惜しい思いを読者の代わりに体験するために置かれた主人公なのである。いい加減なディレクターのせいで、誰も聴いてくれない屋外、しかも極寒の日に落語をやる羽目になる冒頭の場面など、読んでいて胃がキリキリしてくる。
念のために書いておくと、前座から二つ目へは四年程度で昇進するのが一般的である。七年というのは異例に長い。錦之助がそういう二つ目なのは、作者自身の体験が反映されているからだ。談慶もまた九年間の前座修業を経験している。そのへんの事情は二〇一三年に刊行した半自叙伝『大事なことはすべて
前座の年数以外も、錦之助の造形は談慶そのものである。作中では東都大学となっているが、慶應義塾大学出身でワコールという一流企業に勤めながら、落語家、というより立川談志への憧れを捨てきれずに弟子入りしたこと、芽が出るまでに時間がかかったこともあり、数々の辛い仕事を経験していること、賢くて頼りがいのある妻との間に二人の子宝に恵まれていること、などなど。錦之助が口に出せずに胸の裡で呟く怨嗟の言葉は実際に談慶の脳裏をよぎったのだろうし、芸人社会の底辺近くを彷徨いながらいつかは俺も、と空を見上げたときの思いが作中には間違いなく反映されているはずである。錦之助を描くことで作者は、こんなやつでも息をして生きているぞ、と読者に示してみせる。今はそんな辛い思いをしているけど、天はおまえを見捨てたわけじゃないぞ、と過去の自分に声をかけてやりたいという気持ちもあっただろう。二つの執筆意図を両立させているところに本書の妙がある。
落語ファンではなくても楽しめるように書かれているので知る必要はないが、作中の山水亭錦之助と自分自身を重ね合わせるために、談慶は状況設定にも工夫を凝らしている。たとえば錦之助は談志に憧れて落語家を目指したが、すでに故人となっていたため、その精神を最も正しく受け継いだ錦生に弟子入りしたということになっている。錦生は談志に似すぎてしまったために所属する団体と反りが合わなくなり、自ら「落語精鋭協会」を設立して独立したのだ。談志が落語立川流を作って落語協会から離れた事実を受けているわけで、こんな風に現実の出来事と作中のそれが、少し時間をずらした形で重なり合わされている。この設定を用いることで作者は、作中の出来事と自身の体験との間合いを取ろうとしているのだ。そのままを曝け出すのではなくて、錦之助というフィルターを使って、過去の思いを物語に昇華させていると言ってもいい。その距離感があるからこそ、作中人物に共感しつつも、そのドジぶりを容赦なく笑うという娯楽小説的な受け止め方が可能になっているのである。すべてを笑いに変換するという落語精神の、小説版の実践であろう。
錦之助の愛すべき、しかしちょっと頼りない人柄は、次のくだりにも表されている。後に妻になる女性と交際時代、会社を辞めて落語家になることを止められたときのやりとりだ。
「あなたはそれなりの人なのよ」
それとなく「プロ」には程遠いんだということを訴えてみた。できれば、あきらめてもらいたいという願いを込めて。
「そうそう、みんなそう言うんだ。俺はそれなりだよ。でも、だからこそプロでもそれなりにうまくいくと思うんだ」
ここ、イーッとなるところである。前掲自叙伝で談慶は、自分がなかなか前座から抜け出せなかった理由を、師である談志の思いを汲みとりきれなかった自分のそそっかしさのせいだと分析している。そうした形で自分を見ることができるようになったからこそ、分身を主人公とした『花は咲けども噺せども』が書けたということなのだろう。
これまで発表してきた実用書は、談慶の理知的な面がよく出ている。談慶は、どんなことにも答えられる落語家だった。曖昧な輪郭から言語によって本質を取り出す能力に長けているのである。だが小説は虚構であり、理屈を超えた上に成り立つものである。世間智によって答えが出るような事柄なら、小説にする必要はないのだ。本書を読むに当たっていちばん心配したのは、答えを出さなくてもよいことにまで答えようとしているのではないか、ということだった。それは小さなまとまりを呈示するだけで、読者の心に切りこむには至らない。
これまでの実用書と同様、細かく問いと回答を繰り返しながら、物語は進んでいく。そうした意味では周到に計算された小説だ。だが、作者は理に落ちすぎることなく、柔らかい物語を提供していく。あくまでも落語的な価値観からはみ出すことなく、つまり安心感を読者には味わわせながら、諦めないで生きていく男のしぶとさ、そうした人間が馬鹿をみない世界の優しさを、物語全体で描き出すことに成功しているのである。理屈を超えたもの、人の心のあやふやさまでも見事に表現した、良質の娯楽小説であった。