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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.23

大当たりが続くメフィスト賞受賞作――『スイッチ 悪意の実験』杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、なんとも軽やかな一冊。

 「アイの呪縛」から自由な、なんとも軽やかな小説。

 第六十三回メフィスト賞を獲得した潮谷験のデビュー作、『スイッチ 悪意の実験』(講談社)を読みながら頭に浮かんだのは、そんな賛辞だった。
「アイの呪縛」とは私の造語だから、ネットで検索しても出てこない、と思う。「アイ」は一人称のIであり、eyeでもある。それについてはまた後で書く。とにかく強調したいのは、軽やかということだ。軽いのではなくて、軽やか。牛若丸が弁慶を相手に戦ったときの、前後左右に飛び回って大男をへとへとにさせたという、あの翻弄の仕様である。いや、捕まえさせないなあ、この作者は。

 語り手の〈私〉こと箱川小雪は、京都にあるという私立狼谷大学の文学部史学科に通う学生だ。ある日彼女は、卒業生の香川霞に誘われてアルバイトに行く。雇い主は高名な心理コンサルタントの安楽是清だ。これは何かいかがわしい仕事なのではないか、というような高額報酬を条件として提示されているのだが、安楽が応募者たちを連れていったのは意外にも郊外にある「ホワイト・ドワーフ」というベーカリーだった。浮世離れした立地に「ハイジの家」のような建屋、そこで人のよさそうな親子がパンを焼いて売っていた。

 ベーカリーからの帰途、安楽は箱川たちに一台ずつスマートフォンを渡す。そこに入っているアプリケーションが題名にもある「スイッチ」なのだ。これから一ヶ月の間に、誰かがそれを押せば、ホワイト・ドワーフの一家は破滅する。実は、店の経営は思わしくなく、安楽の援助によって成り立っている。それを打ち切るというのである。人間心理の研究を進めるうちに安楽は、人間に「純粋な悪」が備わっているのではないかという考えを持つようになった。スイッチを押した人間は、特に理由もなく、赤の他人を破滅させることになる。また、誰も押さずに一ヶ月の実験が終了しても高額の報酬は手に入る。ということは、もしスイッチを押した者が出たとしたら、行為には理由がない。「純粋な悪」そのものではないか。

 被験者は主人公を含めて六名である。そんな危険なおもちゃを手渡された者たちが、緊張に満ちた一ヶ月を送っていくさまを描いたサスペンス、ではない。え、違うの。六人の誰が誘惑に負けてスイッチを押してしまうのかを読者に当てさせる犯人当てじゃないの、と思ったあなた、気持ちはよくわかる。私も意外に感じたからだ。割とあっさり時間は過ぎ、物語は次の段階に入っていく。犯人当てだと予想した人の考えは正しくて、その第二段階で起きたある事態について、誰がやったのかということが問題になるのである。ほら、やっぱり。だが、転がり始めた話はそこではまだ止まらない。そう、先の先があるのだ。

 第二段階で起きたことなど可愛く思えるほどの出来事があって、物語は一気に様相を変える。うわっ、そんな話になるのか。ここでようやく幕が上がり、小説は真の姿を現す、のだがでもまだやっぱり先があるんだな、これが。止まらない、止まらないぞ、ちっとも。動き続ける。動き続ける。小説は最後の最後まで動き続ける。運動だ。この作品の本質は運動だ。

 なんだかさっぱりわからないと思うが、ネタばらしになるので第二章「実験」の途中までしかあらすじは書けない。保証するのは、さっきからちらちらと関連語が出てきているように、本書が謎解きの小説であるということだ。読者には登場人物と同じ手がかりが与えられ、論理的に真相が導き出せるように配慮されている。途中で〈私〉が真相に気づく瞬間も描かれ、なぜ結論に達することができたのかが読み返せばわかるようになっている。感心したのは謎解きの場面で、詳しくは書けないのだが、段階的に真相がわかっていくような書き方がされている。だからわかりやすいのだが、その過程が堅固な論理に支えられていて、脆弱に見える箇所がないのである。捨て仮説がなくて、一見無駄そうなところも全部使われている、という言い方をしてもいいだろう。謎解き小説として非常に好感が持てた。

 二転三転する展開や、一貫した論理による謎解きが可能になるのは、主人公設定の勝利でもある。箱川小雪にはちょっと変わった自我が備わっている。子供のころに起きたある出来事のために、彼女は「大事な局面こそ選ばない」という処世法を身につけた。心の中で空想上のコイントスを行い、それによってすべての決断を下す、という生き方をしてきたのだ。だから彼女は、安楽の実験には選ばれるべくして参加した人物と言ってもいい。すべての重要な判断を理由なく行えるからだ。とはいえ真っ当な倫理観の持ち主でもある彼女は、実験期間中は自分を律しようとする。だから、第二、第三の最悪な展開が起きてしまったときに、進んでその中に入っていき、探偵的な役割も果たすことになるのである。

 自分自身の人生にも第三者的にしか関われない主人公を置くことで、作者は事態を冷静に眺められる視座を獲得した。そこがこの小説の特色である。箱川は事態の当事者だが、観察者でもあるのだ。この主人公は自我が特殊であることを他人に知られないように用心している。だが、物語における秘密とは暴かれるために存在し、主人公がそれを抱えている場合は弱点となる。ゆえに『スイッチ 悪意の実験』は、特殊な属性を持っているがゆえに強固に見える主人公に、実は弱点が備わっているという物語にもなっている。

 視点人物としての箱川は、見聞きしたことに対して批判的なことを言う役目を担っている。これは一人称小説の主人公が、作者によって負わせられることになる機能である。視点人物の見たものを単に垂れ流すだけでは読みにくい小説になる。だから同じ人物の内面を分割し、主人公(A)が報告者、主人公(A´)がそれの批判者というように書いていくのである。一人の内的独白の中に、相槌を打つもう一人がいるわけだ。

 この方式は多くの作者によって採用されているが、欠点もある。主人公(A)と主人公(A´)のやりとりですべてが充足してしまうことである。極端な場合、主人公の述懐が世界そのものになり、他者はその周りを浮遊しているだけの存在にもなりかねない。こうした他者不在の小説は無数に存在する。内へ内へと向かうベクトルのみの小説。〈アイの呪縛〉だ。
 冒頭で書いたとおり、『スイッチ 悪意の実験』で最も感銘を受けたのはこの部分なのである。箱川小雪は〈アイの呪縛〉を体現した主人公に見える。自分自身を第三者として見ることが可能な視座を持っていると第二章で明かされるのだから。だが実験を通じて彼女は、そうした自我のありように向き合うことを余儀なくされるのである。その結果何が起きるのかは秘密だ。秘密だがものすごく感心した文章が百八十四ページにあるので到達したらぜひびっくりしていただきたい。その文章が転回点となって物語は動き出し、箱川を真相へと至らせることになる。

 箱川小雪が箱川小雪であるがゆえに真相がわかる小説、にそこからは変わっていく。物語終盤の二百八十一ページ、「あーあ……。/なんだか考えるのがばからしくなっちゃった」から始まる数行で箱川は大事なことに気づくのだが、そこも凄い。こういう視点人物だとこういう風に推理の過程を見せることができるのか、と私は改めて本書に教えられた次第。教えられてばっかりの濃密な読書体験である。狼谷大学はたぶん龍谷大学がモデルなのだが、小説中には仏教史に関する知識がぎゅっと圧縮された形で紹介されており、要約の仕方にも感心させられた。だからこんなに軽やかな小説が書けるのだろう。

 第六十二回の五十嵐律人『法廷遊戯』に続き、メフィスト賞大当たりである。『スイッチ』巻末に潮谷の次回作予告が掲載されていて、『時空犯』という題名になるらしい。ここでも感心したのだが、いい主人公なのに箱川小雪の使い回しはしないようだ。シリーズものに拘らず、作品ごとに世界を構築していく方針か。それもいい。潮谷験、どこまでも軽やかである。


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