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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.5

最後の2行に仕掛けられた爆弾『昨日壊れはじめた世界で』 杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は連作という形式を使いこなした一冊。

香月夕花『昨日壊れはじめた世界で』(新潮社)

 香月かつき夕花ゆか『昨日壊れはじめた世界で』は、凋落ちょうらくの小説である。
 凋落の意は草木の花がしぼんで落ちることだ。今を盛りと咲き誇る花が、実は枯れて腐る寸前であると思う人はあまりいない。しかし見事に咲ききった瞬間に花はその役割を終え、落ち始めているのである。その終わりの始まりを偶然知ってしまった子供たちが本作の主人公だ。未来はこれからという子供たちが終わりを宣告されるという点が肝要なのである。
 町の外れにある小高い丘の上にマンションができた。その上からの眺めをクラスメートの誰かがとても見たがり、五人が連れ立って出かけていった。非常階段を使って最上階まで到達すると、ポツンと一つだけの扉があるばかり。その部屋には風変りな男が一人で住んでいたのである。突然部屋に上がり込んできた子供たちを、男は歓待した。手足がひょろ長く、アシダカグモのような印象の男は、静かにこう言ったのである。
 実は、世界はもう、昨日から壊れ始めているんだ、と。

「信じたくない気持ちは分かる。でも本当なんだ。もうずいぶん前から無理が来ていて、昨日、とうとう壊れ始めた。この世界にはあまりに諍いが溢れているから、今まで保っていたのが不思議なくらいだ。このままだと、遠からず人類は滅びるだろう。君たちも、僕も、誰一人助からない」

 この不吉な予言が単なる妄想と受け止められなかったのは、男が子供たちの秘密を一人ひとり言い当てた後だったからだ。子供たちの中には、後日部屋を訪ね直して自分についての相談を持ち掛けた者もいたらしい。
 子供たちはそのとき小学四年生だった。世界のどこかで常に戦争は起きており、恐ろしい災害もたびたびやってきたが、彼ら全員が死んでしまうようなことはなかった。そして二十年の歳月が過ぎる。
 本書は連作形式の小説だ。二十年分歳を重ねた小学生たちが、各五話の主人公になる。『小説新潮』二〇一九年一月号掲載時には「昨日壊れ始めた世界で」という題名だった、つまり全体に通じる設定を紹介した第一話は「最上階の男」と改題されて巻頭に収録されている。巻末を見ると雑誌掲載時から改題されたものがもう一話ある。最後の「春の断崖」で、「最上階の男」と共に改題して正解だったと思う。理由は、読むとわかる。
「最上階の男」は、父の残した書店を引き継いで経営している園辺そのべ大介だいすけが視点人物である。かつての遊び仲間、一緒に緑ヶ丘マンションを訪ねた中の一人である仰木おおぎ翔子しょうこが訪ねてきて、ひさしぶりに最上階の男を思い出す、というのが話の発端だ。
 雑誌掲載時にこの話を読んで、不思議な感覚を味わった。大介と翔子が会話を交わしている場面に、ガラスの窓を通して眺めているような距離を感じたのだ。二人が話しているのが過去を振り返る内容であるために現実からの疎外感を覚えたのか。あるいは、背景で描かれているのがシャッター商店街化した地方共同体の現実であるため、それが寂寥の思いをもたらしているのかもしれない、とも思った。結論から言うと香月は文章の隅にある技巧を忍ばせていて、それが半ば過ぎに明らかになる。距離感、疎外感があったのはそういうことか、と納得したのだが、それにしても空気の醸成が巧いなと感心したのである。この話は次の一文で終わる。
――その願いも、願い事すら思いつかなかった当時の幸福も、今はもう、跡形もなかった――ミサイルで何もかも吹き飛ばされたように。
 ミサイルで云々というのは、最上階の男の終末予言を受けてのものだろう。登場人物の目の前で展開されているものとは別の現実が、彼らの目が届かないところで起きているという予感があり、その不安が物語に影を落とし、決定的な瞬間が訪れたときには取り戻すことのできない過去に対する猛烈な渇望が生まれる。それが『昨日壊れはじめた世界で』の基調をなしている話の構造だ。
 こうした語りの技巧が最も成功していると思うのは、次の「十三階段の夢」である。視点人物はやはりカーサ緑ヶ丘を訪れた中の一人で、今はサンデー食品という会社に勤めている小菅こすげみのるだ。この会社に、全盲の日渡ひわたり絵麻えまという女性が中途採用で入ってくる。稔が社内で孤立した立場にいることはかなり早い時期に明かされる。そのため、絵麻と二人だけで日々を過ごしていくことになるのである。稔には子供のころから耳に焼き付いて離れない歌がある。絵麻と初めて会ったときに口ずさんでいたのもそれだ。
「歌の主人公が、故郷に帰る夢を見るんです。懐かしい人たちが迎えに来てくれて、実家の庭の芝生が気持ちよくて……。でも目覚めたら、実際は灰色の牢屋の中。そのうち刑務官と教誨きょうかい師がやって来て、刑場へ連れていかれる。そういう歌です」
 オリジナルはカーリー・プットマン作、イギリスでトム・ジョーンズがカヴァーして全英でヒットさせた「思い出のグリーングラス」と思われるこの曲は、「最上階の男」で提示された物語構造を端的な形で表現した内容になっている。
 次が不動産王だった父との関係を引きずる武元たけもと律子りつこが語り手となる「私の王様」、他の四人が名前を思い出せなかった影の薄いもう一人の物語「あの空の青は」と続き、それまでの話の裏をかがるような形で全体を補完する「春の断崖」で幕は下ろされる。全五話で完結なのだが、「春の断崖」が最終話だとは言い切れないのが巧い点で、マンションに行った五人のうち、最後の一人が登場する「あの空の青は」で物語は全貌を表しているのである。最上階の男が語った世界の終わりがどのようなものであったかも、ここでわかるようになっている。
 にもかかわらず「春の断崖」が書かれたのは、もう一つの結末をつけるためであっただろう。読む前には絶対に最後の270ページを見ないようにしてもらいたいのだが、最後の2行に作者は爆弾を仕掛けている。豊かであった過去への憧憬、次第に悪化していく現在への失望と不安という凋落の物語であったはずのものが、この2行で新たな命を吹き込まれ、今日と明日を生きるための小説へと変貌するのである。これは見事で、連作という形式を作者は使いこなしている。すべてのパーツを細々と片付けるのではなく、いくつかはそのまま放置して話を終わらせているのも思い切りがよくて私は好みだ。
 香月夕花は2013年に「水に立つ人」で第93回オール讀物新人賞を受賞してデビューした作家で、過去に同作を含む短篇集『水に立つ人』と長篇『永遠の詩』がある(ともに文藝春秋)。この連載ではデビュー3作目までの作家を扱うと決めているので、本作はぎりぎりであった。おそらくは香月の出世作になるはずで、これを取り上げられて本当によかった。みなさんも、今のうちに読むべきである。


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