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連載

杉江松恋の新鋭作家ハンティング vol.19

小説という表現方法には未知の可能性が秘められている――『擬傷の鳥はつかまらない』杉江松恋の新鋭作家ハンティング

杉江松恋の新鋭作家ハンティング

書評家・杉江松恋が新鋭作家の注目作をピックアップ。
今回は、手札の使い方が絶妙な一冊。

 沢渡幸。偽名。本名は過去と共に捨てた。

 荻堂顕『擬傷の鳥はつかまらない』(新潮社)は、未来を生きる可能性を顧客に手渡す仕事をしている女性を主人公とした、斬新な犯罪小説だ。一條次郎、生馬直樹、結城真一郎といった作家を輩出してきた新潮ミステリー大賞を授与されたデビュー作である。同賞は第七回にしてとんでもない才能を世に送り出した。

〈私〉という沢渡幸の一人称で物語は進んでいく。狭義のハードボイルド、私立探偵小説を意識しているかどうかはわからないが、誰にも頼ることなく己の才智のみで世渡りをしている主人公は、ひりつくような緊張感を漂わせながら読者の前に現れる。彼女はアリバイ会社を経営し、事情があって賃貸契約などを結べない顧客に贋の身分を提供することで生計を立てている。彼女のまとっている気配はそうした世渡りのありようによって醸し出されたものなのだろうか。いや、それにしても過剰である。読者が訝しんでいると、やがて裏があることが明かされる。

 元は飲食店だった幸の事務所に不意の客が訪れる。メイとアンナ。そう名乗った二人の娘は、彼女が〈雨乳母〉だと知っていた。あめおんば。雨の夜に子供をさらうとされる妖怪からついた異名だ。雨の日に顧客を失踪させる。誰にも想像のできない方法で。それが沢渡幸のもう一つの稼業なのである。彼女が逃がした者を捕まえることは絶対にできない。文字通りこの世から消えてしまうからだ。だからこそ怪談じみた噂も流布した。

 メイとアンナは何者かに追われ、怯えていた。幸は二人に条件を伝える。必要な金は一人頭五百万円。そして、失踪させるまでは十日間待ってもらう必要がある。さらにもう一つ。「ここからいなくなることを望むのなら、あなたたたちは二度と会えなくなる」、つまりメイとアンナは離ればなれになるということだ。さらに幸は言う。

「ここではない何処かへ行くためには、ここで今持っているものは、全て捨てなければならない。消え去るって、そういうことよ」

『擬傷の鳥はつかまらない』は、ここではない何処かに行くことを渇望した者たちの物語である。擬傷とはコチドリなど一部の鳥が見せるもので、自身が傷を負ったふりをして捕食者の注意を引きつけ、その間にヒナを逃がす行為だ。この習性と、ある登場人物が口にする「人間は、自分のためにしか生きられないんだ」という言葉とが作中では対立項を作る。他人のために自分を犠牲にする擬傷は本当にありうるのか。その問いが読者には主人公の生き方と重なり合って見えるはずだ。物語の進行につれて沢渡幸の過去も明らかになっていき、雨乳母と呼ばれる仕事をしている理由も見えてくる。

 本名と共に過去を捨てた主人公だと冒頭に書いた。ここではない何処かへ顧客を逃亡させるのだとも。だが、過去を捨て、今いる場所を振り返らずに歩いたからといって、望んだ通りの希望をつかめるのだろうか。

 過去無しに未来はありうるか。それが作者が投げかける第二の問いである。何処でもいい、ここではない場所なら。そう思いながら果たせずにいる人は多い。今いるここが地獄だと感じていても、どこにもいけない。だからこそ現実なのである。現実からの逃亡を描く物語ではあるが、雨乳母である主人公は顧客たちに甘い夢ばかりを見させるわけではない。彼女ができることの実際、その限界がわかってくると、現実の強固さ、人間がいかに過去に縛られているかが浮かび上がってくる。

 最近のミステリーでは特殊設定といって、超現実的な要素が入った作品が多く書かれている。少し世界を歪ませることにより、謎の種類を増やし、それを解くためのルールにも変更が加えられる。本書もそうした特殊設定ミステリーに属する作品である。ここまで雨乳母が実際に何をする職業なのか言及するのを避けてきたのは、物語の中盤近くまで具体的な設定が明かされないからである。沢渡幸が使えるのは完璧な魔法ではない、とだけ書いておこう。ゆえに顧客を守るためには人を人とも思わないヤクザと命がけのやりとりをしなければならない。時には相手を策略にかけ、自らの能力が及ぶ領域にまでおびき寄せる。幸は現在では携帯するのは違法とされているバタフライ・ナイフを持ち歩いている。それを使う覚悟なしにはできない仕事なのである。体力的にも精神的にも多大な負荷が強いられるぎりぎりの綱渡り。そんな稼業をなぜ彼女は続けているのかという関心が、物語を最後まで読み通させる最強の推進力となるはずだ。

 開幕後しばらくは状況設定の謎で読者を惹きつけ、序盤から中盤にかけては主人公が危機をどのように切り抜けるのかというスリルを煽りながら、彼女が隠し持っている手札をちらちらと見せることでより深く物語に没入させていく。素晴らしいのは雨乳母という謎のすべてが中盤で判明しても物語への興味は低くなるどころか、別種の関心が湧きおこってきて、さらに先を知りたくなることである。特殊設定の謎は、切り札ではないのだ。そしていつの間にか主人公に読者は同化し、彼女が切り捨ててきた過去を知りたくなっている。彼女と共に未来を生きたくなっている。見せたい方向に注意を向けさせる作者の技量が半端ではなく高い。最後の一行を読み終えてページを閉じた瞬間、読者は沢渡幸になり切っているはずだ。

 この連載では何度も書いた。また同じ表現を使わざるをえない。恐るべき新人、恐るべき新人である。小説という表現方法に未知の可能性が秘められていることを示してくれる書き手がまた一人出現した。よくぞ書いてくれた、よくぞこの本を出してくれた。


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