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連載

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」 vol.4

【連載小説】頭脳明晰な双子の姉ヤネケが養子ヤンと取り組んだ「性の探求」とは? 佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」#1-4

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」

※本記事は連載小説です。

>>前話を読む

 ヤネケが有機的粒子という発想を見出したのは、ファン・デール氏がパリから買って帰った「一般的また個別の自然誌」という四巻の本だった。ファン・デール氏が訳も判らず買って来る本はしばしばヤネケを失望させたが、この場合はそうではなかった。
 ヤネケは、ファン・デール夫人の実家が持っていた地所で様々な植物を育て、動物を飼い始めた。地所に住み着いて管理をして来た老人が手伝ってくれたが、それは既に結構な菜園になっており、収穫はしばしば台所に持ち込まれて食卓に上がっていた。植物の生育歴も、動物の様子も、ヤネケは詳細に記録を取った。ヤンはしばしばヤネケのお供で農園を訪れ、時としては丸一日、老人に遠慮も何もなくこき使われて農作業をさせられた。動物の世話もした。兎どもの奔放さには悩まされた。柵で囲っても穴を掘って逃げ出し、作物を食い散らし、辺り構わず盛んに交尾しては仔兎をごろごろ産み、産んだ仔兎たちがすぐに育ってまた仔を産み始めたからだ。まさに有機的粒子の大饗宴だ。兎たちは作物を貪欲に盗み食いしてふかふかの小さな体にその不可視の力を横溢させ、すさまじい勢いで身体を成長させると人間の目からは控えめに見えるが実態としてはまるでそんなものではない性器に流し込み、同じように充実し切った性器に結合させるとそれを流し込んではごろごろ仔を産ませた。
 いやそれ間違いだから、とヤネケは訂正した。「精虫、って知ってる?」
「知らない」
「精液を顕微鏡で見ると、中に頭でっかちの虫がいっぱいいて、尻尾使ってうようよ泳いでる。有機的粒子はそれを動かしているんで、別に有機的粒子の交換で仔が生まれる訳じゃない。私は見てないけどね。顕微鏡手に入らないから」
 ヤンは少し気分が悪くなる。そんなものがあの中にうようよいるって考えたことなかったよ。「百匹くらい?」
「一万匹とか、もっとらしいよ。雌の方には卵がある。これも確認されてる。鶏の卵みたいなもんだけど、殻はない。ひよこが卵から生まれるみたいに兎も人もそこから生まれるんだけど、精虫が何をするのかはわかっていない。ただ、両方が合わさって生物が発生することはわかっている」
「合わさるの?」
「でなきゃどうして驢馬と馬からが生まれると思う?」
 そら、目の前で兎どもが交尾を始めた。ヤンにはうんざりするような光景だ。老人に、捕まえろ、と言われる。絞めろ、と言われる。ローストになりシチューになる。それでも兎は無限に交尾し、無限に仔を産み、畑を跳ね回っては作物をかじり、ヤンはそれを捕まえ、絞め、夕食に食べる。兎を絞めるのが、特に辛かった。どんなに慣れても、こんなに柔らかくて、温かくて、しかも猛然と抵抗するものをあやめるのは辛いことだった。兎たちには人喰い鬼みたいに思われているに違いない。
「それじゃ兵隊にはなれないな」とヤネケは言った。兎は全部やめにしてもう飼うのはやめてくれと頼んだ時のことだ。「人はもっと抵抗するもの」
 彼女の視線は目の前の兎に向けられている。捕まえて檻に入れたやつだ。でっぷり太った雌は殆ど動かない。後ろにいる若い小さな雄は懸命に腰を使っているが、雌は微動だにしない。ただ、目を細めて、兎にそんな気持があるのかどうかヤンは考えたこともなかったが、満足そうにしている。それから二羽は離れて、何事もなかったかのように、ヤネケが差し入れておいた刻んだ野菜を食べ始める。つまりまた交尾して、また仔を作る為に有機的粒子を補給しているのだ。
 ヤネケは兎をじっと観察している。であればヤンも観察せざるを得ない。なんかむなしいな、とヤンは思う。こいつら他のことしないのかよ。
 エデンの園で、とヤネケは言い始める。「兎は交尾をしなかったのかな」
「したんじゃないの。増えろって言われていたんだから」
「だったら、アダムとイヴもそれを見ていた筈だ。なのに何故、彼らは園を追われるまで交尾しなかったんだろう」
 何故しなかったんだろう、とか言われても、ヤンは困惑するだけだった。神父に訊いて来いとか言うのやだよ、と思った。前にもそれで怒られた。ヤネケは菜園に目を走らせ、老人がいないのを確認すると、何故か声を潜めて、できるか? と訊いた。
「できるって、何が」
「兎がやってただろう」
 ヤンは自分の顔が真っ赤になったのを感じた。それはまあ、部屋を分けた後では色々あった。自分でも困惑し、泡を食い、隠すべきなのか公にすべきなのか散々迷い、結局テオに相談して、冷笑と共にファン・デール家の秩序の中にそれをめ込んできっちり回す方法を教えてもらう羽目になり、だから下穿きもシーツもいつも清潔で、ただ女中たちの目付きだけが気になった。忌々しいことにコルネリア叔母とその仲間たちは正しかったのだ。だから、できる、と言うしかなかった。「多分、できると思う。やったことないけど」
「よし、じゃあやろう」
 ヤネケは手を引いてヤンを道具小屋に連れて入った。中は薄暗かった。ヤネケはスカートの中に手を突っ込んでごそごそやってから下穿きを下げた。ヤンもズボンと下穿きを下げた。ヤネケは近付いて来ると、少し身を屈めて、ヤンの勃起した性器を摑んだ。何故かは知らないが、できるか、と聞かれた瞬間からそういう状態だった。うん、これならやれそうだ、とヤネケは言った。
 いや、どうやって?
「大丈夫、どうなってるかは確認済だ。あとは探索するだけだ」
 それから、ヤンに仰向けになるように言い、スカートを広げて上に跨がった。ヤンには何も見えなかった。ヤネケが前屈みになってスカートの中に手を突っ込むのが見え、性器を摑まれて何かに押し付けられるのが感じられただけだった。どうも違う気がする、と思っていると、ヤネケが体を下げた。
「どう?」
「多分入ってる」
 それで二人とも口をつぐんだ。何か大きな荷物でも二人掛りで運ぼうとして狭い廊下で立ち往生しているような案配だった。ヤネケが先に体を動かそうとした。あ、とヤンは言った。夢精の時と同じような感覚があった。
 その後は、それがほぼ日課になった。菜園に行くなら──昼に老人が自分の小屋に戻ってしまうなら、道具小屋で再挑戦した。上になったり下になったりしながら、少しずつうまく行くようになり、ヤネケも兎の雌のように目を細め満足そうに腰を動かすようになった。夜、ヤンの部屋まで来ることもあった。入って来て、さあ、やろう、と言った。
 ヤネケはヤンを全裸にした。ヤンもヤネケを全裸にした。お互いの姿をじっくり観察した。性器も観察した。手鏡で挿入の様子も観察した。詳細な報告を求められた。自分も求めた。二人で納得した。ヤンはヤネケの前で自慰を見せ、ヤネケが手を使って射精させた。ヤネケが初めて溜息のようなものを漏らして達した時には、ヤンは感動した。お腹の中がまだひくひくしてる、と言いながら押し付けてきた時には尚更感動した。そのうちにはそれが普通になったが、それでもなかなかに感動的なことではあった。家の中が騒々しかったり、何かの事情で一緒に過ごす時間がなかったりする時は、隙を盗むようにして、例えば戸棚の中で交わった。そんなに必死になる理由もなく、夜にはゆっくり一緒に過ごす時間はあるとしても、その半日が待ち切れないのだった。
 まさか書き留めたりはしていないよな、とヤンは訊いた。書いてるよ、とヤネケは言った。「航海日誌だ」狼狽すると、大丈夫、ラテン語だし鏡文字試してる、と言った。
「テオは読めるんじゃないの」
「知ってるから大丈夫」
「知ってるの?」
「知らない訳ないじゃない。色々誤魔化してくれるよ。いい奴だ」
 ヤンは満足だった。ヤネケが小さな溜息を漏らして満足そうに顔を擦り寄せて来るだけで、有頂天というのはこういうことだと確信するくらいで、それをこの先、何十回でも、何百回でも、何千回でもまずたゆまず繰り返すことができると考えるだけで、世界は──それにヤネケも、なんておれを愛してくれているんだと思うくらいだったが、ヤネケはそうはいかなかった。更に先に進む必要がある、と言った。
 先って、とヤンは口籠った。
「それがわからないのが問題だ。あたしたちは無知すぎる」
 食道楽がどのように始まるものか、をヤンは目の当たりにしていた。人が生きていくには一片のパンがあれば十分。焼いた肉の一切れ、一椀のシチュー、胃にもたれるなら一摘みのしやがあれば尚いい。ヤン・デ・ブルークは生涯そういう幸福な人々の一人だったが、ヤネケは違った。たかが食卓を南太平洋や新大陸の荒野ほどの広大な未踏査の領域に変えてしまう者がこの世にはいる。
 何とかする、とヤンは約束した。さもないとヤネケは飽きて他に面白いことを探しに行ってしまう。
「グーテルスに訊いたら」
 それは、ベギン会の脇の空き地でやけにテオと親しげにしていたあの男だった。至って真面目なよく働く亜麻晒しの職人の一人で、その季節だけで一年分の稼ぎを得た後は特に悪さもせず、適当な請負仕事であちこちに出入りして大人しく暮らしている。浮いた噂もない。物堅い奴、というのが、特に若い娘たちの間では評判であることをヤンも知っていた。
「グーテルスに訊いてどうするんだ」とヤンは言った。声に何か薄暗いものがうずくまっているのを自分でも感じた。
 ヤネケは笑った。笑いながら額でヤンを小突いた。違う違う、と言った。「あいつテオのそっちの師匠だから」
「師匠?」
「そう、色々教えてくれたらしい。今でも続いてるから師匠って言うか、彼氏かね」
「それやばくないか?」
「やばいよ」と言って、ヤネケはまた笑った。
 ヤンの部屋には脇の細い路地に面した小窓があった。その窓に、夜、ヤネケが引き揚げた後で、何かが当たった。窓を開けて覗くとグーテルスがいた。階下に降りて路地に出る扉を使って外に出た。
「何か用だって」とグーテルスは言った。
 ヤンは口籠った。ヤネケなら何と言うだろう、と思った──羞恥心というものが何もないような物言いを時々したからだ。「性交について色々知りたいんだよ」
 グーテルスは、そこらの家の女中たちが口を揃えて褒め称える爽やかな微笑を浮かべた。「おれに訊くのはお門違いだろ、お前、違うじゃないか」
「そうだけど、おれよりは詳しいだろ」
「女とどうやってするのか知りたいのか」
「それはもう知ってる。色々試してるよ。ただそれだけじゃ詰まらないから、もっといろんなやり方が知りたい」
「お前幾つだよ」
「十五。もうじき十六になる」
 グーテルスは、贅沢だな、と言った。「金は出せるか」
「あんまり出せない。小遣い銭くらいしかないから」
「そっか。まあいいや、任せとけ」
 グーテルスが持って来て売り付けたのは怪しい冊子で、最初に買い取ったものを読んでヤンが感じたのは、けがらわしい、という感情だった。ヤネケと交わる時の嬉しさとか、行為の最中の無心さとか、終った後の優しい感謝の念とかとはまるで別の何かで、彼は自分がそうした諸々を、柔らかく温かく気持ちのいい、例えば猫の子か何かのように懐に抱えて離したくないことに気が付いた。それなのに読みながら何かいたたまれず、今すぐ部屋を出てファン・デール夫妻の寝室の前を通り、もうぐっすり寝ているであろうヤネケを起こしに行きたくなり、仕方がないので二回、自慰をした。

#1-5へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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