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連載

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」 vol.3

【連載小説】女性を縛りつける“常識”の壁を軽やかにうち破る物語。佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」#1-3

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」

※本記事は連載小説です。

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 ヤネケは時々、コルネリア叔母のところを訪ねた。ファン・デール夫人の祖母の妹だ。上等な糸と針とか店で一番いい亜麻糸とかを持っていくのだが、コルネリア叔母はもう刺繡もしないしレースも作らない。そういうことをしたのは七十五までだねえ、と言う。さすがに目が悪くなっちゃってね。
 空き地の件があった後、ファン・デール夫人に言われて、ヤンとテオも一緒に行かされた。普通の町屋の間の、両側を塀で塞がれた道を入っていく。門は昼間は開いたままだ。潜ったところに門番が座っていて、おや、ヤネケ、と言う。黒い服の上に白い亜麻布を被っている。顔以外は額も首も覆われている。若いようでもあり、年寄りのようでもある。「おや、テオ。それから?」
「ヤン・デ・ブルークです」
 はい、ヤン・デ・ブルークね、と門番は頷く。三人は中に入る。
「あの人、若いの、年寄りなの」とヤンは言う。
「若くはないと思うけど、わからない。でもずっとあそこにいるね。次もう何も訊かれないよ。一度見た顔は絶対忘れないから」
 そこはもう、教会を囲む中庭だ。おびただしい数の洗濯物が翻っている。ヤンは確かに男物の下穿きが何枚も並べて干されているのを見る。白い布を被った黒い服の女が次の下穿きを干しながらこちらを見てにやっと笑ったように思う。
「下穿き、儲かるらしい」とヤネケが平然と言う。「おれのも洗ってくれ、って言ったって?」
 おれ言わないよ、とテオは言う。ヤンは黙っている。兎も角何が何だかわからないほど恥ずかしい。この女どもは教会の前に男物の下穿きを干すのか、と思う。何か壊れてないか、こいつら。
「金払えば洗ってくれるんだけどね、普通に」とヤネケは言う。
 それから、中庭の周りを囲む白い塀と緑の木戸のうちの一つを潜る。木戸は今日は開けられたままだ。狭い前庭のむこうにごく小さな家が建っている。隣家の前庭との間にも塀がある。普通の服装の女中が出て来て、中に通される。玄関の左側にある厨房だ。
 その瞬間の居心地の悪さを、ヤンはその後もずっと覚えている。五、六人の女たちがいた。明らかに老婆とわかる女以外の年齢は全くわからない。全員が一筋の髪も見せずに頭を覆っている。それが一斉に彼らを見た。何人かは鼻をひくつかせた。ヤンもいわく言い難い匂いを感じていた。女の匂いというやつだ。
「本当にその子まだ十二になってないの」と窓際にレース枠を広げている女が言った。「随分育ってるじゃない」
 女たちは笑った。ヤネケはコルネリア叔母に挨拶をし、持って来た亜麻糸を渡した。コルネリア叔母はそれを軽く指で撫で、お母さんにありがとうと伝えておくれ、と言いながら、窓際の二人のうちの一人に渡した。もう一人は脇目も振らずに枠から垂れる無数の小さな糸巻きを動かし続けている。
 かまどでパンを焼いていた一人が開けて中を確かめる。一つ取ってコルネリア叔母のところに運ぶ。彼女はそれを取って割り、子供たちに一つずつやっておくれ、代金は付けておいて、と言う。はぁい、と答えるべギンの声は驚くほど若い。
 三人は焼き立ての小さなパンを貰う。最近はこういう小さいパンが流行だ、とコルネリア叔母は言う。「ブリュッセルにおられるハプスブルク家の総督様が召し上がるからね。ここでもお金持ちは会食の時なんかにこれを頼んでくる」
 レースの女たちとパンの女たち以外は、大叔母の周りに坐ってお喋りを続ける。同じくらいの歳の女たちだ。隅の一人はうつむいてロザリオをまさぐり続けている。誰かが膝掛けを直してやる。コルネリア叔母よりも高齢ということがわかる。ほとんど生ける骸骨だ。
 やっとヤネケが立ち上がって暇乞いをすると、ヤンはほっとする。テオとヤンは坐らされていた戸口の椅子を立って礼儀正しく挨拶し、ヤネケと一緒に外に出る。あれ何やってるんだ、とヤンは訊く。
「仕事」とヤネケは答える。「粉と竈を貸してパンを焼くのが上手い人に焼いて貰う。亜麻糸を渡してレースの上手い人に編んで貰う。パンはパン屋に卸して、レースはうちが買い取る。最高のレースだからね。代金から報酬を渡して残りは全部大叔母さんが取る。それでみんな生計を立ててる。他は、大叔母さんの取り巻き。昼間あそこにいると家では火を焚かなくて済む」
 厨房の窓が開く。空気を入れ替えている。中からほっとしたと言わんばかりの声が微かに聞こえる。ヤネケはくすくす笑う。「あんたたち、臭いって」
 そんな訳はない、とヤンは思う。糞婆ぁども、とテオは言う。
 翌日、彼らはファン・デール夫人に言われて別々の寝室を与えられた。ヤネケは元の子供部屋に残り、ヤンとテオは教室の上の小部屋に移った。一緒に寝かせておくには大きくなりすぎだとコルネリア叔母が言って寄越したからだ。糞婆ぁども、とヤンも思った──おれも小便引っ掛けてやるんだった。

 一度、夏になる前に、ファン・デール氏は子供たちを田舎に連れて行った。そういう時には荷車を使い、多少小綺麗とは言え百姓のような身なりをしていた。ヤンを迎えに来た時と同じで、だからヤンはどこかの農家に貰われて行くと思ったのだった。馬を一頭だけ繫いだ荷馬車を転がしながら、ファン・デール氏はヤンと話をした。亜麻を買い取りに行くのだ、と教えてくれた。いい亜麻は畑に生えてるうちに買うんだ、と言った。「もう少しすると、ここらは仲買人で一杯になる。だからその前に押さえちまう」それから、お前の親父とは若い頃、一緒にあちこち回ったもんだよ、と言った。「腕のいい奴だった。思い切りも良かった。お陰で何度も大儲けをした。まあ、損もあったがな」
 テオとヤネケは荷台にいる。何をしているのかはわからない。二人とも、部屋を分けて以来口数が減った。テオは声変わりが始まると殆ど口を聞かなくなった。ヤネケはもう大人の女の服を着ている。絵に描かれた羊飼いの娘のようだ。月のものが始まったことを、ヤンは知っている。ファン・デール氏は続ける。「お前、先々どうしようと思っている。先生方の言うところじゃ随分出来がいいらしいじゃないか。医者とか法律家とかになりたいか。医者の方なら女房の身内が面倒を見てくれるだろう」
 何も考えていない、とヤンは答える。
「俺の仕事をするか」
 ヤンは困って黙っている。ファン・デール氏は続ける。
「うちの子たちは母親似だ。ヤネケは悪くないんだが、女にできる仕事じゃない。テオはまるで興味がない。まあ馬鹿じゃないから店に座って切り回すくらいのことはできるだろうが、には向いてない」
 ファン・デール氏の仕事のことなんか考えたこともなかったな、とヤンは思う。亜麻糸を卸す店だというのは知っていた。小売りはしない。市長のクヌーデ氏や他の市内のお歴々が買って行く。彼らは女たちを集めてそれを織らせる。
「若い頃な、おれとお前の親父は考えたんだよ──町に店を構えたいもんだな、って。こうやって歩き回っちゃ百姓から買った亜麻を、町の旦那方に難癖付けられて買い叩かれるのはうんざりだったから、町に店を構えて卸をやるご身分になろうじゃないか、って。お前の父親は早死にしちまったが、俺は店を構えた。店を構えた資金の幾らかはお前の親父の持ち分だった。つまり、お前の持ち分ってことだ。金のことで遠慮することなんかないからな。成人したら分けてやる金だが、その金で大学に行きたいというならそれもいいさ」ファン・デール氏は一人で勝手に頷く。「だがな、おれは思うんだよ、お前ならひょっとしてこういうのも好きかもしれん、とな」
「こういうの?」
「まあ、見てるさ」
 ファン・デール氏が荷車を停めるのは、一軒の百姓屋の前だ。扉を叩くと中から開く。ごめんなさいよ、と言って中に入り、主らしい背の高い男と殆ど戯れるように抱き合う。町にいる時のファン・デール氏とは大変な違いだ。全くの百姓のように見える。おかみさんは子供たちを涼しい奥に座らせる。食事の支度ができている。
「テオは暑気にやられて食べられないって」とヤネケは言い訳をする。テオは無言で頷く。「私はご馳走になります。奥さんのお料理はとてもしいから」
 テオが、あんなところで出される飯を食うくらいなら一食抜く、と言っていたことを、ヤンは知っている。贅沢な話だ。貧しくはない百姓だが、それでも鶏一羽潰して供応するのは気軽にできることではない。確かにいる筈の子供たちが全員追い払われている理由も知っている。ヤネケとヤンは並んで美味しくいただく。食欲旺盛に。でも量は控えめに。ヤネケもそういうことは心得ているらしい。ファン・デール氏と主とは今年の天候と亜麻の出来の話をしている。それから、ちょっと来い、とヤンに言う。
「相棒だったデ・ブルークの息子だよ。今はうちの子だ」
「へえ、仕事させるのかい」
「本人次第だな。まあぼちぼち覚えさせていこうとも思ってるがな」ファン・デール氏は出されたビールを飲み干すと、奥さん、ご馳走になったよかった、と言って立ち上がる。食事は終りだ。ヤネケとヤンもおかみさんにお礼を言って立ち上がる。テオも付いてくる。
 いやああいうのおれ駄目なんだ、とテオは外に出ると漏らす。「田舎の食いもんとか受け付けないんだ」それから、木陰を見付けると父親に手を振って座り込む。
「半分くらいは思い込みだけどね」とヤネケは言う。「美味しいじゃん」
「母さんの飯思い出した」
 ヤネケはヤンを優しく撫でてくれる。
 二人は大股に歩くファン・デール氏と農家の主に追い付く。一面に青い花の咲く亜麻の茂みをかき分けるようにして男たちは歩いては、立ち止まる。主は根元から引き抜いた亜麻を見せている。ファン・デール氏は根元から花の付いている先端まで、摘んだ指を走らせると、ヤネケに渡す。男二人は殆ど喧嘩のような口調でやり取りを始めるが、別に喧嘩ではない。ヤンは口を開けてそのやり取りを見ている。そのうち、二人は握手する。商談成立だ。ヤネケが父親の袖を引いて、小声で耳打ちする。
「刈入れの心配してるぞ」とファン・デール氏は笑いながら言う。
「嬢ちゃんは相変わらず目敏いな。今年は急ぐさ」
 帰り道、今度は三人とも荷車の中に腰を下ろしている。テオは物も言わない。刈入れって何の話、とヤンは訊く。
有機的粒子モレキユル・オルガニーク」とヤネケは言う。「生物はどれも発生して、成長して、繁殖して、枯死する。それを引き起こすのが有機的粒子。有機的粒子を吸い上げて成長する。十分に成長すると、余った有機的粒子は生殖器官に向かって、それを成熟させる。人だと、月のものが来る。亜麻だと、つぼみに向かって花を開かせ、種を付けさせる。種が熟すと、有機的粒子の流れは止まって、枯れ始める」
「まだ枯れてなかっただろ」
「亜麻の糸って、中の髄なんだよね。それが、種が熟すと根元の方から硬くなって、中空になって、枯れてくる。先端の方も茶色くなる。そうなると繊維は粗くなるし、中の髄に色が付いて、晒しても抜けない。だから刈り取って成熟を止めるけど、いつにするかの見極めが難しい」
 ファン・デール氏は店に帰り着くと、腕のいい仲買人を呼んで、買い付けの分担をする。仲買人たちは翌日すぐに出発する。今年の買い付けは急がなければならない。

#1-4へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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