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連載

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」 vol.2

【連載小説】女性を縛りつける“常識”の壁を軽やかにうち破る物語。佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」#1-2

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」

※本記事は連載小説です。

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 テオは時々ヤンを連れて遊びに出た。顔が広かった。人気があった。学校の友達はテオがやめた後もテオに声を掛け、連れ立ってどこかの倉庫に潜り込んでは追い出されたり、ぞろぞろと川に石を投げに行ったりした。春が来ると、亜麻を晒す木箱が川に沈められる。前の年に採って冬中十分に乾かした亜麻を束ねて、両端に穴の開いた木箱に入れて沈める。川の流れで濡れた亜麻の皮が剝がれて髄が剝き出しになる。その木箱に対岸から小石を投げて乗せるのだ。見付かると追い払われた。木箱の上には石が置かれて、ちょうどいい深さに沈めておく為に毎日調整されている。彼らの遊びはそれを台無しにしかねない。雇い人たちは子供たちをどやし付け、棒で脅し、追い回した。それもまた愉快だった。
 ベギン会の脇の空き地に行ったこともあった。他の子供たちは二の足を踏んだが、テオは平気なもので、ヤンも後に付いて行くしかなかった。十五、六か、時としては二十歳前後の若い職人たちの溜り場は市内のあちこちに転々と発生したが、その頃はベギン会の脇だった。若者たちは酒を回し飲みしては、塀のむこうに石を投げ込んだり、わいせつな歌を大声で歌ったり、卑猥な言葉で野次を飛ばしたりした。女性器の名称が女性を示すのに使われるのを耳にしたのは初めてだった。
 中に誰がいるの、とヤンはテオに訊いた。
「コルネリアおばさんとか」とテオは言った。ファン・デール夫人の大叔母だ。「結婚しない女が住んでる」
「尼僧院?」
「いや、そういうんじゃなくて」
 十八位の若者が、よお、テオ、と言って寄って来て、少し伸びたテオの髪をごつい掌で撫で回した。ヤンは怯えた。当時のヤンの目からは巨大な、柄の悪い、酒臭い男に見えたが、テオは嬉しそうだった。
 誰かが、おれたちにもおまんこ分けてくれよ、と叫んだ。余ってんだろ? 何も入れて貰えなくて淋しい淋しいって泣いてんだろ? 男はげらげら笑って、そうだ、おれたちに分けろ、と大声を出した。
「こいつベギン会知らないんだよ」とテオが言った。「説明してやってよ」
「お高くとまった女どもの巣窟だ。男なんて大嫌い、結婚なんかしたくありません、独りでお祈りして生きて行きます、って後家や行かず後家どもが集まってる場所だ。ばばぁばっかりだけどな。中見るか」
「見えるの」
「その木によじ登れば見える」と言って男は高い塀の脇に生えている立ち木を指さした。「登って見てみろ」
 そこで、ヤンとテオは木によじ登ることになった。大人でも手の届かないところまで枝打ちされていた上、太くて滑りやすい幹の木だったが、男が肩車でテオとヤンを枝まで押し上げ、下の枝にまたがって酒を飲んでいる奴が引っ張り上げてくれた。テオはそこからもっと上まで上がった。ヤンは別な枝に跨がった。
 塀の中には中庭を囲んで小さな家が並んでいた。何かすさまじく小綺麗な空間だった。何もかもを真っ白になるまで洗い立てたようだった。何軒かずつ並んだ玩具のような家と家の間を綺麗に敷石を並べた路地が走り、その向こうには空き地があって洗濯物が翻って、教会が立っていた。洗濯物のところに黒い服を着、糊を利かせた真っ白い亜麻布で頭を覆った女たちがいた。遠目では全員老婆のように思えたが、男たちが騒ぎ立てるところを見ると、若い女もいるのだろう。
「なんか見えるか」と下から訊く声がした。
「洗濯物干してる」
 俺の下穿きも洗ってくれよ、と誰かが叫んだ。一斉に笑い声が起った。
 テオは太い枝の上に立ち上がり、器用にバランスを取って前かがみになった。ズボンの前を開けようとしていた。いやあ、無理だろ、と誰かが言った。それから、テオは腰を突き出すように身を起こし、放尿を始めた。尿は少なくとも塀の上には掛かっていた。それからなんとか、ぎりぎり、その中にも。
 おい、と空き地に駆け込んで来た男が叫んだ。「婆ぁどもお巡りを呼びやがった」
 それでお開きだった。男たちは慌ただしく逃げ出し、樹上のヤンとテオだけが取り残された。市のけい隊が数人、面倒臭そうに現れて、面倒臭そうに二人を降ろし、ファン・デール氏を知っている一人が彼らを家まで連れて行って夫人に引き渡した。二人はかなり厳しい叱責を受けた。
 馬鹿みたい、とヤネケは言った。「中なんか幾らでも見られるじゃない。昼間は門が開いてるんだから」

 ヤネケに問題がなかったとは言えない。
 血液循環、とヤネケは言った。口調は大人っぽいが、まだ小さな女の子の声で、その声をヤンはやはりずっと覚えていた。寝台の真ん中に仰向けになり、か細いお下げを肩の上に乗せている筈だった。ファン・デール夫人は子供たちを寝台に並べて入れ、灯りを消して出て行ってしまった後だ。ヤンもやはり仰向けになって暗い天井を見詰めていた。
「ウィリアム・ハーヴェイ。イギリス人。彼が発見した。一六二八年に。百二十六年前だ。血液は心臓から出て血管の中を流れて心臓に戻る」
 肝臓じゃなくて? とヤンは訊いた。その頃にはそのくらいの知恵は付いていた。でないとヤネケとは付き合えない。肝臓じゃなくて、とヤネケは答えた。
「肝臓には血が一杯流れてるけどね。台所でちようさばくとこ見せて貰いなよ。びっくりするよ。血の塊だ。だからよく洗って血抜きして食べる。好きでしょ」
「見たら食べられなくなるかも」
「お母さん、鶏の始末させなかった?」
「まだ小さかったから」
 ヤネケが頷く気配がする。「でも肝臓には血が流れて行って戻って来るだけ」
「肝臓で何してるの」
「わからない──まだわからないことが一杯ある。ただ血液は心臓から出て、肝臓の中も流れて、また心臓に戻る」
 彼らに背を向けて、テオは寝息を立てている。彼の一日は充実しすぎていて血液循環の話になど付き合っている暇はない。明日実験して見せようか、とヤネケは言う。ええ? とヤンは答える。
「解剖されるのはやだな。おれ、死んじゃうよ」
「あたし一度やったから大丈夫。指の付け根を糸で縛るんだ」
「痛そう」
「痛いよ。爪が黒くなって指が腫れて来る。血が戻れなくなって指の先に溜まるから。でもこれって、血が指の先まで来て、戻れなくなって溜まってる、ってことだよね」
「血が止まってるなら流れ込まないから腫れないと思うけど」
「そっか。縛り方が弱いのかな」
「入って来る方の血管はもっと奥にあるとか」
「それはあるかも」
 同意が得られたことに満足すると眠気が差して来て、ヤンは少しだけヤネケの方に身を寄せる。ヤネケはお姉さんのように優しく、おやすみ、と言う。頭も撫でてくれる。「明日実験だからね」
 おれ、やだな、とヤンはもう一度言う。痛くしちゃ嫌だよ、と付け加えるが、ヤネケは答えない。ただ体だけが温かくて柔らかい。いい匂いもする。
 ヤネケがヤンを殊更手荒に扱ったことはない。ヤネケは自分のことも同じくらい手荒く扱った。血液循環の確認の為に指の付け根を糸で縛り上げる程度のことはざらだった。それから、ヤンで試す。自分で確認したことを教えて共有する為だったと言えないこともない。
 ヤンは左手でドアノブを握っている。シャツの袖はまくり上げた。ヤネケは肘の少し上に細く裂いた布切れを巻き付け、棒を通してぐいぐい回す。締め上げられた腕は段々痛くなってくる。ドアノブを摑んだ腕が水平になるよう腰を折った姿勢も辛い。ほら、とヤネケは言って、青く膨れ上がった血管を指でつつく。
「溜まってるよね」
「どうだろ」
「緩めるよ」
 ヤネケは棒を反対側に回す。血管は皮膚の深いところに潜り込むように薄青い線だけを残して消える。
「ほら、流れていった」また棒を捻って締めようとするので、ヤンはやめてくれるよう頼む。
「痛いよこれ、結構」
「うん、痛いよね。大丈夫?」
 ヤンは頷く。ヤネケの紅潮した顔を見ると、まだ痛いとは言えない。

#1-3へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


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小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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