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連載

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」 vol.1

【連載小説】女性を縛りつける“常識”の壁を軽やかにうち破る物語。佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」#1-1

佐藤亜紀「喜べ、幸なる魂よ」

※本記事は連載小説です。

第一章

 動物たちはヒトが戯れ合うだけで繁殖しないことを案じ、会合を開いて話し合った。ヒトが幼稚で知恵が足りないことが原因であるということで彼らの見解は一致した。代表として蛇が送られた。ヒトに知恵をつけさせる為である。
──ヤネケ・ファン・デール 

 ファン・デールの子供たちはどちらも色の薄い、さらしの亜麻糸のような髪をしていた。姉のヤネケはそれをお下げにし、弟のテオは短く刈り上げていた──ある日いきなり、一人で剃刀かみそりを使って剃り上げてしまってからは。ファン・デール夫人は頭部に一本の毛もない息子の姿を見て幾らか動揺したが、テオ自身はいつものように無表情だった。この無表情も、姉弟共通だった。どちらの目も黒く、視線は無表情なままその時興味のあるものに向けられた。ファン・デール夫人も同じ色の目を息子から逸らすと、同じ無表情に戻った。何故、と訊いた。
「親父は家では頭にハンカチを巻いてる。出掛ける時は仮髪をかぶる。どうせぼくもそうするんだろ?」
「まだどちらも必要はありません。自分で剃るのはやめなさい」
 以来、テオは髪が伸びると短く刈り上げてもらうようになった。ヤンが引き取られてから二年目、ヤンより一つ歳下のヤネケとテオはまだ十一歳だった。ヤンと姉弟は一緒に同じ部屋の大きな寝台で眠り、あらゆる秘密を共有したが、それでもわからなかった。何かあったっけ、とヤンは考えた。いつ剃ったのかさえ気が付かず、覚えていなかった。あいにくおれは頭が悪いんで、と思った──もの覚えも良くないんで、お前ら程には。それでも時々は思い出した。何年も、何十年も、老人になった後も、テオのことを思い出す時浮かぶのは、まだ頼りない首筋の上の綺麗に剃り上げた頭で、その度に、何かあったっけ、と考えた。
 父親のファン・デール氏は、姉弟とはまるで別種の人間だった。大柄で、開けっ広げで、母親の再婚で里子に出されることになったヤンを迎えに来た時も、母親の背中を気安く叩いて、あんたみたいなべつぴんがずっと後家さんって訳にはいかないからなと言い、息子は自分の子供と同じように育てるから安心しろと言って連れて出ると、荷車の御者台の脇に座らせた。シント・ヨリスの町までの道々、死んだ父親の、普通子供には話さないだろうと思われる武勇伝を明け透けに語って、あれは偉い男だった、あんなに男らしい男は見たことがない、お前もそうなる、と断言した。
「娘と息子がいるがどっちも母親っ子の変わり者でな。男の子では困りものだ。お前みたいなのが来てくれたら、ちょっとは鍛えられるだろうさ」
 実際には、鍛えられたのはヤンの方だった。
 ファン・デール商会の店舗兼住宅には、子供たちが家庭教師から教わる部屋があった。ヤンも授業を受けた。テオとヤンは並んで坐った──よおきよおでえ、できのわりいもん同士よろしくやろうぜ、と言って首に腕を巻き付けられ、引きっていかれたのだ。白い仮髪を付け僧服を身に着けてはいるが一目瞭然俗人のまだ若い男はテオとヤンに石板を配った。問題が書かれていた。テオはヤンの石板を覗き込んで、おれもこれやります、と言った。
「駄目だ。自分の問題をやれ」
 ちぇ、と言って、テオは自分の問題を解き始めた。ヤンもテオの石板を覗き込み、狼狽した。教師でさえ気が付くほどの狼狽だった。三角形の角に見たこともない記号が添えられていて、テオは溜息を吐いて、それでも易々と式を自分の石板に書き始めた──別に難しくもなんともないよ、いいか、このθシータってのは。
 シータ? シータって何だよ。
 手が止まってるぞ、と教師は言った。「まず自分の問題を解くんだ、ヤン。どのくらいできるか知る為だ。全部終ったら呼びなさい」
 それから、本を開いて読んでいたヤネケの傍に坐り、本に挟み込んであった紙を読み始めた。ヤネケが何か言った。質問らしかった。何か恐ろしく複雑なことを言っていた。ちょっと待ってくれ、と教師が止めた。まずこれを読ませてくれ。
 Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica、とテオは言った。自然哲学の数学的諸原理。「あいつは姉ちゃんがあれを読む手助けに雇われてる」
 姉ちゃんが男だったらルーヴェンの大学に行って博士様になる、とテオは言った。その間もチョークを石板に走らせ続けた。「おれの名前で何とかいう博士に質問状出したら来いと言われたってさ。ライプニッツの微分法とかなんかそんな話」かぶりを振った。「おれたちはさっさと終らせてコマ回しに行こう。どうせ並みなんだから」

 姉貴はこういうことは説明しない、と、店の裏手に二人でかがみ込んで、回っているを面白くもない顔で眺めながらテオは言った。「誰にでもわかる筈なので説明する必要はないと思ってるからな。おれは、人がみんな出来が違うことは知ってる。学校の連中はおれからすればだったが、姉ちゃんからしたらおれも驢馬だ。同じところから始めてこうだからな。ただまあ、ちょっとずつ進んじゃいるんで、それで満足するしかないんだよ、よくやったなおれ、って」
 万事がそんな具合だった。ファン・デールの双子は恐ろしく頭がいい。頭が良すぎてそれぞれに学校を追い出されたのだ。テオは修道院の学校で、ヤネケはベギン会の学校で、それぞれに退屈のあまり奇行に走り、以後二人は家で家庭教師に教わっていた。ファン・デール商会程度の規模で商売をしている家でならそう珍しいことではない。勉強をしすぎて潰しが効かなくなった人間は幾らでもいるからだ。フランス語と地理と歴史の教師は別に通って来て、ヤンも一緒に教わることになった。村の学校しか知らないヤンにはまいがするようなことだったが、それにもそのうち慣れた。教師たちは揃って、こんな境遇に置かれたヤンに深く同情し、息を切らしながらでも二人に追い付く手助けをしてくれた。ヤネケもテオも異常だと、最初は思ったが、そのうち何が正常なのかも曖昧になり、ヤネケは相当に変わり者だがテオはそれよりは普通で、テオが変わり者だとしたら自分も相当変わり者だと思うようになった。兎も角二、三年でテオに追い付きはしたし、教師たちは口を揃えて努力と達成を褒めてくれたからだ。
 家庭教師たちは月に一回、授業の後で子供たちを連れてファン・デール夫人の仕事部屋に赴き、その月の子供たちの出来不出来を報告した。夫人は家を切り回す他に商会の帳簿を預かっており、家のあちこちで女中や下男に家中を寸分の狂いもなく整える指図をしていなければ、その部屋で帳簿を付け、アムステルダムからパリまで飛び回る夫が留守の店を切り回す指図をしていた。お行儀よく学び、その成果があったことを確認すると、夫人は子供たちにボンボンを、教師には謝礼を渡す。エナメルで絵を描いて金縁を付けたボンボン入れは、ファン・デール夫人のささやかな贅沢として机の引き出しに入っていて、テオは母親の隙を見ては盗みに入り、洗いざらい盗んだりしては叱られるので三つか精々四つを手に入れては三人で分配するので有難みはなかったが、それでも彼らは神妙な顔でボンボンをしゃぶった。小柄で華奢なファン・デール夫人にはある種有無を言わせぬ威厳があり、子供たちはそれを尊重していた。家の中は夫人の采配で塵もくすみもなく磨き上げられ、時計仕掛けのように動いていた。それは店も同様で、この時計仕掛けの中で精確に作動することはある種の快でもあったからだ。

#1-2へつづく
◎第1回全文は「小説 野性時代」第209号 2021年4月号でお楽しみいただけます!


書影

小説 野性時代 第209号 2021年4月号


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