【連載小説】不公平極まりない。結局、優遇されるのは女ばかりだ。 椰月美智子「ミラーワールド」#2-3
椰月美智子「ミラーワールド」

※本記事は連載小説です。
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買い物はたいてい夜だ。店を閉め夕飯を食べたあとに、次の日の食材を買いに出かける。
「澄田さんとこの婿さんだろ? こんばんは」
振り向くと、
「買い物かい?」
スーパーにそれ以外の理由があるのかと思いつつ、はい、と答える。川端さんは、隆司のカゴを無遠慮にのぞき込んでいる。じゃあ、と言って隆司が去ろうとすると、
「ちょいと、婿さんよう」
と声をかけられた。嫌な呼び方だと思いつつ、笑顔で「なんですか」と返した。
「澄田のおやじさんからいろいろ話を聞いてるけどさあ。あんまり年寄りいじめないでくれねえかなあ。気の毒でよう」
頰がカッと熱くなる。
「……どういう意味でしょうか」
なるべく角が立たないように努めて言った。
「ほら、お金のこととかさあ」
「お金?」
「あとは、食事を作ってやらないとか。ついでなんだから、飯ぐらい作ってやればいいじゃん。なあ、そうしてやってくれよ。見てられなくてさ。頼むよ、この通り」
そう言って、川端さんは手を合わせて頭を下げた。
「義父からなにを言われているか知りませんけれど、お金のことも食事のことも充分話し合って決めたんです。義父たちがそれで困っていることなんて、ひとつもないですよ」
穏やかに穏やかに、と頭のなかでは思いつつも、口調は少し険しくなってしまった。
「まあまあ、そうムキにならないでよ。じゃあ、そういうことだからよろしくね」
軽い調子で言い、川端さんは去って行った。
「クソジジイ」
思わず声に出る。近くにいた年若い男性がギョッとした顔で、隆司を見た。隆司はかまわずにもう一度、クソジジイと言った。大声で叫びたいところだったが、普通のボリュームで我慢した。
義父がお客さんや近所の知り合いに、あることないこと吹聴しているのは知っていたが、それを聞いた人から直接声をかけられたのははじめてだった。きっと、うちの婿はお金に汚くて食事すら用意してくれない、とかなんとか言っているのだろう。
二世帯住宅にしても生活はすべて別々というのは、義母父のたっての願いだった。騒がしい生活は嫌だし、好きなものを好きなときに食べたいし、なにより夫婦二人でのんびり過ごしたいと。それなのに、今さらなにを言っているのだろうか。
隆司も、気の置けない友人やお客さんに、義父の愚痴を言うことはあるが、彼らから義父に話がいくようなことはあり得ない。みんな良識ある大人たちだ。
「ほんっと、ジジイたちってクソだな」
カートを押しながらつぶやく。
「早く死んでくれないかなあ」
自分の口から出た言葉に驚いて、隆司は思わずまわりを見渡す。誰も聞いていなかったようでほっとした。
隆司は鮮魚コーナーで
妻の絵里のことは好きだ。結婚当時のときめきこそないが、愛情はまったく目減りしていない。大好きな妻の両親なのだから、当たり前に好きにならなければいけないと思って、これまで過ごしてきた。それが婿の務めだと。
婿に来たのだから、いずれは義母父と同じ墓に入ることになる。隆司は品物を見るともなく見ながら、婿というのはなんだろうかと思う。名字を妻のものに変えて、無償で、義母父の主な世話役を担う。これが逆で、嫁に入る女はたいていは嫁養子だ。実子扱いとなり、財産も法的に守られる。一般的な婿と嫁養子とでは待遇が違いすぎる。不公平極まりない。結局、優遇されるのは女ばかりだ。
ぼんやりした頭で食材をカゴに入れていく。通路の先で、カートに手をかけたまま立ち話をしている男性二人に見覚えがあった。ともかの小学校のパパさんのような気がしたが、はっきりわからないので通り過ぎる。
「あんたたちっ!」
年配の女性の怒鳴り声に思わず振り向く。
「男が夜に家を空けて、なにしてる! 女房や子どもたちを置いて、こんなところでくっちゃべってるんじゃないっ! 邪魔だ邪魔だ、どけ」
まくし立てるように言い、二人の間に割って入って一方のカートを力任せに叩き、立ち去った。近くにいた人たちが驚いたように見ていた。二人の男性は目を丸くしている。
隆司はとても嫌な気分になった。七十代後半だろうか。この年代のオバサンは、特に始末が悪い。SNSでよく取り上げられている、問題を起こすオバサンたちだ。
レジに並びながら、孤独なんだろうな、と隆司は思う。日頃、誰からも相手にされないのだろう。オバサンが向かうのは、自分より若い男たちだけだ。さっき、しゃべっていたのがパパではなく、ママたちだったらなんの文句もないのだろう。
春先に、たっちゃんと二人で飲みに行ったときのことを隆司はふいに思い出した。まひると、たっちゃんのところの茉優ちゃんは、小さい頃からピアノを習っている。合唱コンクールが迫っているときで、二人とも各クラスで伴奏をする予定だった。
合唱の曲も最近はいろいろあるねえ、などと話していたら、突然近くにいたオバサンが話に入ってきたのだった。古今東西の合唱曲を挙げ、歌うときの注意点など、ひたすら一人でしゃべりまくった。最初はポカンとオバサンを見ていた隆司だったが、むくむくと不快感が湧き出てきた。見ればたっちゃんも、憎々しげな表情でオバサンをにらんでいた。
「あらあら、ごめんなさいね。お邪魔だった?」
オバサンは高らかに笑って、おもねるようにこちらを見た。客商売の
「合唱曲ひとつでも、勉強するとたのしいわよ! 人生勉強だからね! 男だってこれからよ!」
と言い残し、手を振ってニコニコと去って行った。
隆司は後悔した。なぜ「いえいえ」などと愛想笑いをしたのだろう。無視すればよかったのだ。たっちゃんに「隆ちゃんはやさしいねえ」と言われ、消え入りたくなった。
あのオバサンは、隆司たちが男二人だったから勝手に話に割って入ってもいいと思ったのだ。年下の男だったら当たり前に、オバサンの話をありがたく聞くとでも思ったのだろう。自分の知識をひけらかし、さぞかし満足だったろう。
「あんた、なによ。その態度は!? 客にニコリともできないの! いちばん偉い人呼んで来てよ、今すぐに!」
隆司が並んでいるレジの二人前の女性客が、レジ打ちの男性に向かって怒鳴りはじめた。隆司の前に並んでいた男性はうんざりした顔で、他のレジに移っていった。
オバサンが、具体的になにについて文句を言っているのかはわからなかったが、実のところ、具体的な理由など存在しないようだった。
「こっちが金払ってやってんだから、ありがとうございます、ぐらいちゃんと言えってんだよ。蚊の鳴くような声でぼそぼそ言ったって聞こえないんだよ! ああ、不愉快だ! このクソ男!」
隆司の母よりも少し年上だろうか。ジャージの上下を着て、足元は素足にサンダルだ。
「申し訳ございません」
レジの男性が蒼白な顔色で謝っている。
「店長まだなの!」
「申し訳ございません。少々お待ちください」
今にも泣き出しそうな顔だ。隆司はスマホを取り出して、その女を撮影しはじめた。
「ちょっと、あんた! なに勝手に撮ってんのよ!」
オバサンが隆司に向き合う。隆司のスマホに手をかけようとしたところで、店長が現れた。五十代とおぼしき男性だ。
「店長の
「あんたがいちばん偉い人? ねえ、あんたんとこのスーパー、店員の教育いったいどうなってんの?」
レジの若い男性は不安げに店長を見てから、すがるように顔を覆った。隆司はこの店長の出方を待っていた。どっちだ? と祈るような気持ちで動画を撮り続ける。味方か敵か、あなたはどっちだ、と。
「この店員、人がせっかく買ってやったっていうのに、ありがとうございますもろくに言えないの。商品を取り扱う手つきも雑だし。見なよ、この鶏肉。トレーがつぶれてるじゃない。この男のせい。どうしてくれんのよ」
「お客様、お会計はこれからでしょうか?」
「ええ、そうよ。この男がのろのろやってるから、まだなの。でもこんな商品もういらないわ。だって鶏肉がつぶれちゃってるじゃない」
「お客様、大変申し訳ございませんでした」
女は満足そうに鼻の穴を広げて、うなずいた。
「今日のところはもうけっこうですので、お引き取りください」
店長はそう言って頭を下げた。
「はあ?」
「お引き取りください」
「なに言ってんだ!? それが客に対する態度かっ!」
「お引き取りください」
隆司は
「だから男の店長なんて、ろくでもないんだ! こんな店、二度と来ないからな!」
「はい、来て頂かなくてけっこうです。うちは、従業員への指導は徹底しておりますし、また従業員のことを信頼しております。どうぞお引き取りください」
女は、ギャーッとわめいて、カゴのなかのものをぶちまけた。何人かの客が、隆司と同じようにスマホを向けていた。
「つぶれちまえ!」
女はそう言い捨てて、店を出て行った。拍手をしたい気分だった。実際、何人かの客が小さく拍手をした。隆司は撮影をやめて、レジの男性と店長と一緒に落ちた商品を拾った。ありがとうございますと言われ、
「こちらこそ、どうもありがとうございました」
と、隆司は大きな声で返した。今後も、このスーパーで買い物し続けようと決めた。
▶#2-4へつづく
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