高畑充希主演のテレビドラマ化でも話題となった大人気警察小説シリーズ最新作! 加藤実秋『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』#5
加藤実秋「メゾン・ド・ポリス」
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加藤実秋さんの大人気警察小説シリーズ最新作、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』が、5月22日(金)に発売されます。
老眼、腰痛、高血圧。でも捜査の腕は超一流のおじさん軍団×新人女性刑事が追うのは、12年前の〈未解決〉名医殺害事件! さらに本作では、退職刑事のシェアハウスの誕生秘話も明らかに!? 刊行に先駆けて、第一話をカドブンで特別公開します!(こちらは「カドブンノベル」2020年4月号に掲載時の内容になります)
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「えっ?」
橘さんが驚き、迫田も訊ねた。
「どういう意味だ?」
「これから説明します……橘さん。少し落ち着きましょう。お茶でも淹れましょうか」
「私がやります。その前に顔を洗って来ます」
そう告げて涙を拭い、橘さんは立ち上がってバスルームに入った。ドアが閉まるなり、迫田はまた訊いた。
「あんなこと言っちまって大丈夫なのか? 青天社の八名が怪しいなら、一人ずつ洗って」
「橘さんの精神状態はもう限界です。それにこの事件は、私たちが動かなければ犯人も動かない気がするんです」
「『気』って、お前」
「根拠はないけど確信はあるんです。とにかく、やらせて下さい」
再度拳を握ってひよりが告げると、玄関から藤堂が戻って来た。
「いいんじゃない? ストーカーに関する熱弁は感動的だったし、科学的にも正しい。近年、『ストーカーは脳の病気だ』と言う精神科医もいて──」
「熱弁は結構だが、経験による推考と思い込みは別だぞ。目の前まで来ていても曲がり角を一つ間違えれば、ゴールには辿り着けない」
気がつくと、テーブルの向こうに惣一郎がいた。自分のジャケットを寝ている伊達の肩にかけている。
「どういう意味ですか?」
ひよりが訊ねた時、バスルームのドアが開いて橘さんが出て来た。メイクが落ち、顔色の悪さと目の下の
テーブルの上に目を向け、惣一郎は問うた。
「昨日も仕事を持ち帰っていましたね。いつもこうなんですか?」
「いえ。たまたまイベントが重なって。一つは以前社長が担当していたものなので、当時の書類を読み返しているんです……いま、お茶を淹れますね」
鼻声で返し、橘さんはキッチンに立った。すかさず藤堂が、
「お手伝いしましょう」
と
チャイムが鳴り、エレベーターのドアが開いた。エレベーターホールに降り立ったのは橘さん一人。ベージュのコートを着て肩に黒革のバッグをかけ、花柄のロングスカートを
橘さんは左右を確認し、通路を進んで出入口のドアの手前にあるメールルームに入った。それを、壁に並んだステンレス製の郵便ポストの前に立つひよりが出迎える。
「会社の様子は?」
「社長と佐々間以外はみんな帰りました」
「そうですか。じゃあ行きます。連絡があるまでここにいて下さいね」
「わかりました。あの、気をつけて下さいね」
小声でやり取りし、ひよりはメールルームを出た。
ドアを開けて、ビルを出る。左右を見てから歩道を歩き始めた。時刻は午後十時を回り、飲み屋などには明かりが
「おい。どうなってる?」
思わずびくりとしてしまってから、ひよりは顔をしかめてコートの襟の内側に付けた小型のマイクに
「迫田さん。そんなに大声を出さなくても聞こえます。異常なしです。そちらはどうですか?」
「準備万端。マイクも良好。ひよこちゃん。スカート姿は初めて見たけど、いいね。ボブヘアも似合ってる。新たな魅力にドキがムネムネだ」
今度は低く甘い声。藤堂だ。
はい、セクハラ。ていうか、「ドキがムネムネ」ってなに? どうせ死語だろうけど。
うんざりして、ひよりは右耳にはめたイヤフォンに手をやった。イヤフォンはマイクとコードでつながっていて、ひよりが右手に握った小型のトランシーバーに接続されている。おじさんたちもそれぞれ同じトランシーバーを持っている。
手を下ろし、ひよりは再度訊ねた。
「そちらから見てどうですか? ちゃんと橘さんに見えますか?」
「大丈夫だ。暗いせいもあるが、十分いける。背恰好が似ていたのが幸いだったな」
惣一郎の声が聞こえ、ひよりはほっとする。長く話していると怪しまれるので「了解」のつもりで頷き、歩き続けた。
橘さんのアパートを訪ねたのが二日前。あの後ひよりは橘さんが淹れてくれたお茶を飲むみんなに、「私が橘さんのふりをして夜道を歩き、犯人をおびき出します」とアイデアを伝えた。橘さんは驚いたが要するに囮作戦で、おじさんたちはしぶしぶ賛成し、すぐに作戦会議に移った。
そして今日。まず橘さんに青天社の社員に「成果が出ず、警察の捜査は打ち切りになった」と伝えてもらった。その上でいつも通り仕事をしてもらい、あらかじめ決めておいた退社時刻に合わせ、橘さんと同じ服を着て同じバッグを持ち、ボブヘアのウィッグをかぶったひよりが青天社のビルのメールルームに入った。ビルから少し離れた場所に
ハットで顔を隠し、やや外股の橘さんの歩き方を
繁華街から住宅街に入ると人通りは減ったが、異常はない。橘さんの日課をなぞり、コンビニに寄って買い物をした。店を出たところで橘さんがしていたのと同じ様に左右を確認すると、通りの三十メートルほど後ろに濃紺のワゴン車が見えた。向こうもこちらを確認したらしく、イヤフォンから惣一郎の声が聞こえた。
「異常なしだ。徒歩はもちろん車やバイク、自転車でもお前を尾行している者はいない。そっちはどうだ?」
「注意しているんですけど、足音もじっと見られているような気配もありません。でも、脇道に入るのを待っているのかも。よろしくお願いします」
囁き返すと、惣一郎は「了解」と応えた。
トランシーバーを左手に持ち変え、右手にコンビニの袋を提げ、ひよりは脇道に入った。三日前に橘さんを尾行した時より時間が遅いので、さらにしんとして人影もない。緊張を覚えながら神経を研ぎ澄ませ、ひよりは前進した。怪しまれるのでワゴン車は脇道の入口で停車し、藤堂が暗視スコープでこちらを見守っているはずだ。
耳を澄まし道沿いの建物や街灯、車などの陰にも目を配って脇道を進んだが、聞こえて来るのは表通りを行き交う車の音だけで、人影も確認できなかった。しかしアパートで待ち伏せをされている恐れがあるので、襲いかかられた場合の動きを頭の中で確認し、ひよりはエントランスに入った。
蛍光灯の明かりを受け、ポストが鈍く光っている。がらんとして誰もいなかった。階段も同じで、無事に二階の部屋に辿り着いた。その旨を惣一郎たちに報告し、借りておいたカギで橘さんの部屋に入った。
犯人に見張られている可能性を考え、少ししてから買い物を装ってまた外出し、近くの深夜営業のスーパーマーケットに行ってトイレに入る。トイレではおじさんたちから「もう大丈夫」の連絡を受け、会社のビルを出てタクシーで移動した橘さんが待っているので、ひよりと入れ替わる。その後、適当に買い物をしてもらい、スーパーを出た橘さんをアパートに帰るまでおじさんたちが見守り、最後にひよりをワゴン車でピックアップして作戦終了、という流れだ。
それから二日間。作戦を続けたが何も起こらず、犯人は現れなかった。しかし橘さん
解錠してドアを開け、ひよりはアパートの部屋の玄関に入った。暗闇の中、既に手が場所を覚えたスイッチを押して明かりを
部屋の明かりも点け、テーブルの脇の床にバッグを下ろした。
ここまで異常なし。心の中で呟くと、どっと疲れを感じた。橘さんへのストーカー行為の捜査をすることは、生活安全課だけでなく新木の許可も得ている。幸い、いま刑事課は大きな事件を抱えていないが、なんだかんだで仕事はあり、それも並行してこなしているのでさすがにしんどい。時刻は間もなく午後十時半だ。今夜何ごともなかったら作戦は中止し別の方法を考えよう、という話になっている。
テーブルにセットされた椅子を引き、座った。帰宅後すぐスーパーに行く日が続くと犯人に怪しまれるので、今夜は三十分ほど空けてから橘さんの部屋着を着て、レンタルDVDショップに向かうことになっている。無論橘さんとは、DVDショップで落ち合う約束だ。
息をつき大あくびをしていると、
「おい」
と、イヤフォンから野太い声が聞こえた。
まずい。気が緩んで襟のマイクの存在を忘れてしまった。口を閉じてトランシーバーを握り直し、ひよりは返した。
「迫田さん。なにかありましたか?」
「いや。ちょっといいか?」
改まって問われ、面食らいながらも「はい」と答えると、迫田は言った。
「橘さんに合いカギの件を伝えるタイミングを見誤った。すまない」
「いえ。たとえ私が伝えても、橘さんは取り乱したと思います。それに物証がないので、囮捜査しか手はありませんでしたよね」
いつになく素直に謝られ、ひよりはさらに面食らいながらも返した。迫田の声に混じって車の走行音が聞こえるので、なにか口実を作り、トランシーバーを持って一人でワゴン車を降りたのだろう。ワゴン車は今夜も脇道の入口付近で待機している。
「それはそうだが。近江さんの事件が頭にあってな。早く向こうの捜査に戻らねえと、と気が
「そうですか。私にはなかなか情報が流れて来ないんですが、伊達さんルートでなにかわかりましたか?」
玉置とのやり取りを思い出しながら問うと、迫田は答えた。
「ああ。特命班が近江さんの腕時計と森井の関係を洗った。誰かから買うなり盗むなりした可能性も考えられていたが、森井がかつて登録していた建設業専門の人材派遣会社を突き止めて確認したところ、やつは遅くとも二○○八年六月の時点で既にあの腕時計を所持していた。人材派遣会社の社員に、『身なりは粗末で態度も悪いのに腕時計は高級品だったから覚えている』という人がいたそうだ」
「二○○八年六月ですか。近江さんの事件からそんなに経っていませんね。じゃあやはり、あの事件のホシは」
「だからそれは俺の仕事じゃねえ」
ひよりを遮って断言してから、迫田は黙った。ひよりも黙ると、迫田は気まずそうに
「デカ道一筋、三十五年。他にも未解決の事件はある。どれも
重く、鋭く、同時に葛藤も感じられる口調。こんな迫田は初めてでひよりは、
「はい」
と頷くしかない。
「だからホシが誰かということ以上に、ホシを目指して進んだ俺がどこで道を誤っちまったのかを明らかにしてぇんだ。このあいだ夏目が言ってただろ。『目の前まで来ていても曲がり角を一つ間違えれば、ゴールには辿り着けない』」
「ええ」
「とはいえ、目の前のヤマをおろそかにするつもりはねえ。ふんどしを締め直してストーカー逮捕に集中する。いいな? お前もあくびなんかしてねえで、気を引き締めて出かける準備をしろ」
最後はいつもの迫田に戻って告げ、無線は切れた。
やっぱりあくびはバレてたか。反省しながら言われた通りに気を引き締め、部屋着に着替えるために立ち上がった。カットソーとジーンズ、ジャンパーを着てニットキャップを目深にかぶった。布製の小さなトートバッグとトランシーバーを持ち、ひよりは部屋を出た。階段を降りてエントランスを抜け、アプローチから通りに出る。歩きだそうとしてふと気配を感じ、道の向かい側を見た。
道の端に立つ街灯。白い明かりが周囲を照らしているが、そこからわずかに外れた暗闇に誰かが立っている。ひよりがはっとするのと、誰かが身を翻すのとが同時だった。
「待ちなさい!」
呼びかけトートバッグを捨てて走りだしたが、その誰かも通りの先に向かって
「どうした!?」
イヤフォンから惣一郎の声がして、ひよりは走りながら襟のマイクに告げた。
「不審者発見! そちらに向かっています。恐らく男です」
「了解」
短く鋭く、惣一郎は応えた。
トランシーバーを握りしめてアスファルトを蹴り、ひよりは走った。しかし男は俊足で、どんどん引き離される。それでも街灯の明かりを頼りに目をこらし、男が背が高く細身で、黒いパーカーとパンツを身に着け、頭にフードをかぶっているのを確認した。
三十メートルほど先の脇道の突き当たりに、迫田が現れた。男の行く手を塞ぐように両手を体の前に上げ、片足を引いて身構える。直後に男が突き当たりに差しかかり、迫田は何か短く叫んで手を伸ばした。しかし男はそれをかわし、表通りに出ると歩道を逃げようとした。が、その先には惣一郎か藤堂が待ち構えていたらしく、男は急ブレーキをかけた。
うろたえた様子で、男は十メートル手前まで来たひよりを振り向いた。足をこちらに向けかけた男だが、思い直したように体を反転させ、前方に駆けだした。表通りの車道を横断し、逃げるつもりか。
「おい!」
再び叫んで迫田が表通りに向き直り、そこに重たく太いクラクションの音が重なった。
表通りの歩道に駆け込んだひよりの前を、大型トラックが
傍らを見たひよりの目に、身をかがめた迫田とその脇の地面に
「迫田さん」
肩で息をしながらひよりが歩み寄ると、迫田は振り向いた。
「おう。見てみろ」
言われて、ひよりは迫田の隣に行き倒れている男を見た。
男は動かず、無言。両手を押し当てて顔を隠しているがフードは半分脱げ、毛束感を出したツーブロックヘアがあらわになっていた。
「遠藤さん!?」
思わず声を上げ、覗き込んだ。擦りキズを負っただけのようだが、遠藤は横向きになってひよりに背中を向け、長い脚を曲げて胎児のように体を丸めた。
(つづく)
角川文庫『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』発売まであと2日!
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