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連載

育休刑事シリーズ 世界最大の「不可能」 vol.4

一課の仕事がしたい。子育てだってちゃんとしたい。 似鳥鶏『育休刑事』シリーズ最新短篇「世界最大の「不可能」」短期集中連載第4回

育休刑事シリーズ 世界最大の「不可能」

育児と仕事の両立に悩むすべての人へ。
2023年4月からドラマ放送も決定している『育休刑事』シリーズの最新短篇を短期集中連載! 全5話で短篇が丸ごと読める!

似鳥鶏『育休刑事』シリーズ
「世界最大の「不可能」」第4回

       4

「ほーりょりょりょりょりょりょばー。むにょちゅぃにゃひにょちゅちゅだー。おりょ? おりょりょりょりょりょー? んー! ふいちちゅまー! んん? んー! だっだー! だー、お? おーほーおーほー。んむむむむにょりちょびぷりぴばー」
 そもそも文字として表記することが困難な、ヴォーカルのスキャットとも浪曲の唸りともつかないものが後部座席でずっと続いている。蓮くんの声ではなくそれをあやす姉によるものである。ずっとあの調子で喋って、というか発音している。あのての「対赤ちゃん言葉」は論理的に文章を作らなくてもよいため、単純労働のバイトと一緒で、続けていると脳が「キマッて」きて、ある種の恍惚状態になるのである。運転中のため手を出せず、振り返ることもできず、ただひたすら息子と姉がいちゃつくその音声だけを延々聞かされ続ける、というのはなかなかの気分なのだが、まあ、運転者としては後ろで蓮くんを見ていてくれるのは大変ありがたい。チャイルドシートは後部座席にしか置けず、運転中はもとより停車中も手が届かないので、大人一人で車に乗せた場合、もし赤ちゃんが泣きだしてもなすすべなく運転を続けるしかなく、ルームミラーの角度を変えて後部座席が見えるようにする(*8)のが精一杯だからだ。
「……って報告があった。つまり、結局そっちも利用の痕跡がない。だから今のところ手詰まりなんだけど……聞いてた?」
「うにちちちー。にーちちちちち。かわいいねー。ほっぺがすべすべで、あ、でもちょっと口のまわり赤くない? ちゃんと保湿してる?」
「薬塗ってる。……話聞いてた?」
「あーはいはい。石蕗さんから聞いたのと同じね。小児科の診療履歴は? 治療中に処置室を出て素早く、っていう荒業もあるかもしれないけど」
「なんで捜査情報聞いてるんだよ。……それもないって」
「じゃ不可能犯罪だね。それか阿出川、犯人じゃないんじゃない? 捜査やり直したら?」
「簡単に言わないでよ。他に容疑者が出ないんだ。阿出川がハズレだと迷宮入りになっちまう」
「今から行く現場で何も見つけられなければね。うりゅりゅりゅうりゅうりゅ。ぢゅー」
「吸うな」
「きゃ。は。あは」
「いいでしょ減るもんじゃないし」
「いやなんか減る。何かが減ってる」
 気がするがそれよりも、運転しながらでも考えなければならないことがあった。阿出川香里は犯行中、赤ちゃんを一体どこに預けていたのか?
 今朝、係長からまた連絡があった。一昨日、阿出川宅を辞した後、南署の二人で手分けをし、事件当日、阿出川が赤ちゃんを預けられそうなところを虱潰しに当たったという。だが結果はすべてシロ。地元外の託児所も、大手以外のベビーシッターも利用記録がなく、親戚・友人、近所の人間にも接触の痕跡がない。阿出川香里は事件時、赤ちゃんを預けられる場所が本当に「なかった」のだ。公判でこの事実が提示されれば無罪判決が出かねない。そんな状態で七十二時間きり、一回きりしかできない逮捕に踏み切るわけにもいかず、担当する南署の三係は手詰まりになっている、ということだった。
 だからまだ捜査に参加している。今日は日曜だが、いとう整形外科に鍵を借りて現場を見せてもらえることになった。本当は(珍しく事前に連絡をした上で)遊びにきた姉と近所の公園でものんびり散歩する予定だったのだが。
「でも阿出川は最初からこの状況、予想してたのかな? 警察相手に『赤ちゃんから目が離せないから自分に犯行は無理』なんていうトンデモ抗弁をするつもりだったの? むひょひょひょひょー。がじ」
「あは」
「かじるな。……そこは確かに気になる。そもそも目撃証言が出て容疑者になったこと自体、計算外だったはずだ。……舐めるな」
 そう。ややこしいトリックを準備して「赤ちゃんから目が離せないから自分には犯行不可能」などという抗弁を計画するより、疑われないようこっそり犯行を済ませるのが普通である。つまり阿出川にとって、目撃証言が出て容疑者にされたのは予定外だった。「赤ちゃんから目を離せない」という抗弁もとっさに出たものだったと考えるのが自然である。
「だとすると厄介だね。『なんとかうまく偽装して、記録が残らないようにベビーシッターを利用した』とかの路線もナシってことになる」
 姉が蓮くんに指を握らせながら言う。そうなのである。さすが、事件慣れしていて話が早い。うちの姉は以前からトラブル体質なところがあり、俺の育休中も何度も刑事事件に巻き込まれている。そのためなのか、今日は仕事が入った、と連絡したら「じゃあ一緒に行く」と当然のように返してきた。しかも係長と勝手に連絡を取りあい、捜査状況まで把握してしまっていた。まあうちの姉は県警からすれば解剖・鑑定でよくお世話になっている大学の法医学医であり、しかも最年少の准教授だ。ど素人ではないし警察関係者に顔もきくのだが、それにしてもどうして係長の連絡先を知っていて、気軽に捜査状況を教えてもらえるのか。うちの係長もわけがわからない。
 ぱたたたた、とフロントガラスが鳴る。当たる雨粒が大きくなってきて視界が悪くなったのでワイパーを一段階速くする。どうせこの天気では公園は無理だが、その代わりが現場検証とは。
 いとう整形外科は駅から少し離れた閑静な住宅街の中にあり、それなりの敷地と洒落た建物ですぐに分かった。駐車場に車を入れると傘をさしたスーツの男が来る。この間もいた南署の、今は紫ネクタイをした青ネクタイ刑事というややこしい存在は、ドアを開けると、後部座席の姉と蓮くんを見て眉間に皺を寄せた。「なんで嫁まで連れてくるんだ。遊びじゃないぞ」
「姉です」
「どうもー」姉がチャイルドシートのベルトを外しながら笑顔で手を振る。「南署の人? 聖エウラリア大学医学部、法医学教室の吉野涼子です」
 出された名刺を片手で受け取り「はあ」と言って見た紫ネクタイの青ネクタイ刑事は、名刺と姉を見比べると急に直立不動になった。「よ、吉野先生ですか! いつもお世話になっております」
「現場見せてね」
「はい! ご案内いたします」青紫ネクタイ刑事は直立不動のまま姉の名刺を捧げ持つ。放り出された傘が地面にふわ、と落ちた。
 あまりの態度の変わりように驚く。「姉ちゃんそんなに偉かった?」
「顔がいいと得だよね」
「今どこかで顔要素出た?」
「県警の依頼で鑑定しまくってるからね。聖エウラリア大の沢口靖子って呼ばれるつもり」
「予定かよ」
 紫ネクタイの青ネクタイ刑事は落とした紺色の傘を拾ってきて差した。「南署捜査三係、茶木と申します」
 色のない名前がよかったのにな、と勝手なことを考えるが茶木刑事は頰を赤くして緊張しつつドアを開ける。「あ、そちらお持ちしま、うおっ」
 姉のバッグを持とうとした茶木刑事は「真っ黒な骸骨形をしたリュック」を手渡されてちょっとのけぞった。「これはまた」
「姉ちゃんこういうの、どこで買うの?」
「かわいいでしょ? 下顎骨の再現度はもっと欲しかったけど」
「お洒落でいらっしゃる」茶木刑事はコメントに困る様子で黒骸骨を抱える。「吉野先生、こちらへ」
「待って。うんちしてる」
 バックドアを開けて蓮くんを寝かせ、おむつを替えるのに五分かかった。その間、茶木刑事はずっと姉に傘をさしかけたまま待っていた。初動が遅くて申し訳ない。

 外観から受けた印象の通り、いとう整形外科は中も綺麗に造られており、待合室などは床柱ふうの丸太柱の横にイサムノグチの提灯、という和風になっている。これだけ気を遣っているのに四十一万も現金を置きっぱなし、というズボラぶりでは狙われるわけだ。もちろん被害者側に責任などまったくないのだが。
「おー、お洒落。最近のクリニックはこうなんだね」姉は額縁に手を伸ばす蓮くんを牽制しながら受付の壁にかかっている絵を見る。「阪本トクロウ(*9)じゃん。いい趣味してんね」
「こお?」
「そうそう。安くないよー。このサイズだとひと触り二十万かな。さわる?」
「やめて」
「整形外科って儲かるのかな」
「やる気?」
「やだ。生体嫌いなんだよね。生温かいし反射で動くし」
 医師にあるまじきことを言いつつリハビリ室に入っていく姉に続く。室内はそこそこの広さだったが、大きめのロッカーや後ろに隠れられそうな施術台がある。
「なるほどね。あのロッカーとかか」姉は無遠慮にあれこれ見て回り、蓮くんに触らせたりしている。「整形は隠れる場所あるもんね。内科とかじゃ無理」
 現場保存が必要な時期はもう済んでいるだろうが、それでも部外者の、しかも赤ちゃんに触られたくはないのだろう。茶木刑事は姉が蓮くんにあれこれ触らせるたび「あっ」「そこは」「……いや、うん。まあ」と一人で焦ったり納得したりしていたが、姉が離れると黒骸骨リュックを抱えたまま、すすす、とこちらに寄ってきて、恨みがましい目で俺を見た。「なんで赤ん坊まで連れてくるんだ。奥さん休みだろ」
「休みだからです。休ませてあげないと」
 ついてこようとするのを姉と二人で無理矢理押し留めて出てきたのだ。でないとうちの沙樹さんは絶対に休んでくれない。外での仕事を一週間頑張って週末に辿り着くと、今度は家で家事育児という別の仕事が始まる。それでは年間休日ゼロ日になってしまう。まあ、今は俺の方がそれなのだが。
 が、日曜出勤している茶木刑事はふん、と鼻を鳴らした。「で、なんかないか」
 実家で小腹が空いたかのような言い方で振られても困る。「ないですね。隠れられそうな場所は何か所かありますが、赤ちゃんが泣いたらバレる」
「口塞ぐとかでいいんじゃないのか」
「塞いだらもっと泣きます」
「泣かないようにしつけとけないのか」
「泣くっていうのは赤ちゃんにとって唯一の意思伝達手段です。それをさせないのは窮屈通り越して虐待ですよ」相手の顔を見て付け加える。「阿出川がそんなことをしたという筋立ては無理があります」
「壁とか、いじった痕跡もないねえ」姉が蓮くんを抱いて戻ってくる。「防音材とか持参して、壁にがっつり巻いとけばいけるかもって思ったけど、無理っぽい」
 俺も頭を搔く。「ちょっと大がかりすぎるだろ。作業中に誰か入ってきたらおしまいだし、無理だよ」
 俺と姉が黙ると、黒骸骨リュックを抱いた茶木刑事は俺たちを交互に見て、それからなぜか蓮くんを見た。
「っば」
「あ、いや」リアクションを返されてどうしてよいか分からない様子の茶木刑事は目をそらす。「……その、つまり」
「方法がない」姉が言った。「阿出川はもしかして赤ちゃんを連れたまま犯行を済ませたんじゃないかって思ったけど、その可能性もなくなったね」
 結局、より不可能だと判明しただけだった。俺たちはマイナスの収穫しかないまま現場を後にした。

 館内のBGMが葉加瀬太郎からモーツァルトに変わったようだ。昼下がりのアイネ・クライネ・ナハトムジーク。子供たちの声が賑やかだから気付いていなかったが、わりと活発な曲を大音量で流していて、ムードとかリラックスとかいったものが目的ではないらしい。
「ありがとう。はいどーじょ。うん。いいねー。じゃあ今度はママにどーじょ、して?」
「ママじゃないだろ。おっ、ありがとう」
「じょ!」
「うん。はい、どーじょ」
「次こっち! はい蓮くんママにどーじょ」
「ママじゃねえっての」
「じょ!」
 もう「どうぞ」は完璧だな、と思う(*10)。すぐ横にカラフルで深いボールプール(*11)があるのになぜかそこからこぼれ出たボール一個で遊び続けているのは大人目線からすれば勿体ないが、子供本人にとってはそれでいいのだろう。
 雨が降ってどこにも行けないので、近くの室内遊び場にやってきた。ビニールの巨大滑り台にトンネルのコーナー。ボールプールのコーナー。おままごとセットやプラレールが夢のような量、揃えてあるコーナー。それにアスレチックジム。子供にとっての楽しいものを詰め込んだ天国で、雨天でも極寒でも炎天下でも来られて永遠に遊ばせられる素晴らしい場所なのだが、フリータイムは大人一人千六百円、子供一人千円かかる。遊具によっては追加で一回百円だの二百円だのがかかる。天国は有料であり、つまり世の中にそんなうまい話はない、というわけである。
 それでも日曜ということもあって混んでいた。今いるのは二歳までが対象の赤ちゃんエリアだが、ここも三ヶ月くらいの生まれたてさんから走り回って転んで泣いてまた走り回る二歳児まで、かなりごった返している。
 周囲を見回す。子供と保護者と飛び出たおもちゃと置かれた荷物。天井は高いし周囲も広いが、普段あまり目にしないピンクや黄色といった色が他の色と同じ頻度で交じっている上に「丸い物体」や「三角の物体」がそのあたりにごろんと転がっているので、抽象絵画の中に閉じ込められたかのようなバグった世界である。なんせ床がピンクと水色のまだらだったりするのだ。これほど騒々しい景観はよそにはない。
「どした?」姉が振り返る。「言っとくけど、ここに置いてくのも無理だよ」
「……だよね」
 現場から近いから、もしやと思ったのだ。託児サービスこそないが、これだけたくさんの親たちがいれば、赤ちゃんが一人ぐらい紛れて増えても誰かが見ていてくれるから、結果として「大人の目」は確保できるのではないか。一時的にこっそり置いて逃げれば──と思ったのだが、これはどうも無理だった。いかにたくさんの大人がいても、みな自分の子供しか見ていない。ベンチに座って携帯を見るなどして注視していない親も多く、自分の子供はともかく、周囲のよその子まで「見守っている」とは到底言えない状態である。そもそも。
 後ろの通路を灰色のポロシャツを来た職員が通った。……職員もちょこちょこ巡回している。置き去りにされた子供がいれば気付くだろう。迷子騒ぎになり、これ以上ない痕跡を残してしまうことになる。やはり、誰かがついていなければいけない。
 姉を見ると、同じことを考えていたのか、彼女も職員を目で追っていた。「……無理だね」
 方法がない。犯行の二時間、阿出川は赤ちゃんをどうしていたのだろうか。いや、本件の状況で「二時間、赤ちゃんから目を離す」方法があるなら、世界中の親が仰天する世紀の福音になってしまう。だからそんなものは、そもそもあるわけがないのではないか。
 考え込んでいたのは十秒もないはずだったが、気がつくと蓮くんが消えていた。「あれっ」
「おっ?」
「姉ちゃん、蓮くんは」
「ん」姉は鼻を鳴らし、ボールプールの中を見た。「こっちだ」
「今、嗅いで捜した?」
 蓮くんはボールプールの中ほどでカラーボールに半ば埋まっていたが、がし、がし、というしっかりしたハイハイでプールのボールを搔き分けていた。いつの間に中に入ったのだろう。縁から落ちる時に顔をぶつけなかっただろうか。
「すごいな。縁を乗り越えたのか」
「深めだから埋まると消えるね」
 姉がボールを足で搔き分けつつ蓮くんに追いつき、まだ抱っこされたくないのかだらんと垂れて抵抗する蓮くんを抱いて戻ってきた。
 が、なぜか姉は、その途中で立ち止まった。
「どうした?」
「ん。いや」姉は蓮くんを抱き上げる。「……そういうことか」
「何?」
「トリック、分かったかも」姉はこちらを見て言った。「あるよ。方法」

 *8 かわりに後続車両が見えなくなるので非推奨。

 *9 画家。具象と抽象、双方の要素が両立する不思議な風景作品が多い。代表作「呼吸」のシリーズはどこにでもあるなにげない風景を描きながら独特の温かみと静けさがあり、思い出の中の風景が実体化して目の前にあるかのような感覚になる。
 *10 大部分の赤ちゃんが最初にできるようになる具体的なコミュニケーションは「パチパチパチ(拍手)」、手を振る「バイバイ」、手に持った物を誰かに渡す「どうぞ」のどれかである。
 *11 プラスチックのカラーボールが大量に敷き詰められた遊具。浅いものは「隙間なく並べてある」程度だが深いものは「泳げる」レベルのボールで埋め尽くされているので、大人も飛び込みたくなる。

最終回へつづく

本短篇を収録した『育休刑事 (諸事情により育休延長中)』は2023年4月24日発売!

書籍情報



育休刑事 (諸事情により育休延長中)
著者 似鳥 鶏
定価: 748円(本体680円+税)
発売日:2023年04月24日
★作品情報ページ:
https://www.kadokawa.co.jp/product/322211000499/

事件現場に赤ちゃん入ります! 新感覚本格ミステリ、続編が登場
捜査一課の巡査部長、事件に遭遇しましたが育休中であります! 男性刑事として初めての長期育児休業を延長中、1歳になる息子の成長で手一杯なのに、今日も事件は待ってくれない!?

【収録作品】
世界最大の「不可能」/徒歩でカーチェイス/あの人は嘘をついている/父親刑事
あとがき


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