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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.8

劇団長経営のシェアハウス(ボロアパート)に 入居した受け身系女子を襲う試練とは⁉ 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-9

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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 後ずさりしつつ、富士は必死にΩから目を逸らす。この姿はどう考えてもプライベート中のプライベート、自分が見ていい姿ではないはず。
「これはカニだ。なんだ、もう忘れたのか? まあ確かに──この俺に比べたら、カニなどハムより薄い存在感しかないからな。透けるハムの向こう側に、黄河のほとりで全軍をべる猛将の影が見えるだろう? そうだ。それがこの俺様よ」
「これが蟹江さんなのはわかってます。そうじゃなくて、これはもしかして、つまり……訊くのも怖いんですが……相部屋、ってことなんですか……?」
「なに?」
 南野はあきれたみたいに目を見開き、富士を見ながら息をつく。
「どういう思考回路をしているんだおまえは。そんなわけがないだろう。常識ってやつをこの俺様からしっかり学べ。まったく、俺という光に導かれし超ド級の幸せ者めが──」
「でも部屋に案内するって言ったじゃないですか」
「中を案内する、と言ったんだ。ここにまず連れてきたのは、改めて劇団のメンバーをきちっと紹介しようと思ったからよ。起きろカニ!」
 容赦なく、南野は蟹江が抱えていた枕を蹴り飛ばす。
「んあああ……っ!? な、なに……!? ええ……!?」
 憐れな蟹江は跳ね起きて、「なんなの……」きょろきょろあたりを見回し、「今何時……」口許からなにかをちょっと垂らす。しゅるる、と吸い上げ、手の甲で拭って、富士を見て、
「あっ!? たっ、龍岡さん!?」
「すいません、いきなり……ここが蟹江さんの部屋だとは知らなくて」
 本当にすいません、だ。寝ているところに踏み込むつもりなどまったくなかった。
「ややや別に構わないっていうか……むしろ来てくれてありがとうというか、あ、お、ンフフ……おはようございます、富士さん……」
「おはようございます……」
「今、ンフ、僕、なにげに呼び方変えたんだけど、気づいたかな……!? ふっひっひ!」
 まだ寝ぼけているのだろうか。蟹江はたけのこみたいに布団を身体に巻き付け、「ひーひっひ!」異様なテンションで首筋に血管を浮き上がらせながら笑っている。
 その布団を、南野は眉一つ動かさず、一気にりよりよくで引き剝がす。勢い余って回転しながらマットレスから転がり落ち、「いたーい……」蟹江は悲しげに肩の辺りを押さえる。
「とっとと起きろ。もう昼だ」
「寝たの、朝の八時なんだけど……」
「俺様が寝たのは夜の二十三時半だ」
「ああそう……」
「そんなわけで、今からとうごうだいにテルしてくる」
「TELっていうかLINEだろ……」
「おまえは富士を、このシェアハウスを案内してやれ」
「富士『を』、シェアハウス『を』、ってそこ、気持ち悪いな……」
「キー!」
「え、なんで突然そんなヒス……ああ、鍵ね」
 南野は蟹江の足元に鍵を投げ、
「──富士よ!」
 突然ぐりっと振り返る。富士を見つめてにやり、薄く微笑む。
「どうだ。感じるか?」
「なにをですか」
「このにおいよ」
「ああ、確かにさっきから若干……」
 臭いですよね、とは、蟹江がいる手前さすがに言えはしなかったが。
「これは言うなれば夢のにおいだ。予言しておこう。やがておまえもこのにおいを発することになる!」
 その背後で、鍵を手にした蟹江が「え、なんか……ごめんなさい」しょぼい声で謝ってくる。Tシャツの襟首を引っ張って中のにおいをくんくん嗅ぎ、自分のくささを確かめている。悲しい光景だった。
「それではカニよ、富士よ! 今はしばし俺様とさらばだ! テルしてくる!」
「南野さん、あの」
「なんだ!? ああ確かにテルすると言いつつ実際にはLINEだがそれがどうした!?」
「さっき言っていた、お亡くなりになってるなにかの件です。大家さんなんだから、片付けて下さい」
 ポケットに常備している小さなレジ袋を取り出し、富士はお供えするようにそっと南野へ差し出した。南野の濃い眉の根がぎゅっと嫌そうに寄る。
「……一枚じゃいやだ。破れる可能性があるだろう」
「そんなこともあろうかと」
 もう片方のポケットから、もう一枚のレジ袋。双子は二人。袋も二つ。
「二枚重ねで、お願いします」

 タダで住まわせてやるんだぞ、と言われては逆らえず、結局富士も手伝う羽目になった。
 外廊下の隅で死んでいたのはLLサイズのこうもりで、行き倒れたのか外傷はなく、視覚的にダメージを受けずに済んだのは幸いだった。二枚のレジ袋を二人で駆使して、なんとか手では触らずに蝙蝠の死体を片付け終える。劇団主宰とマネージャー、これが記念すべき初めての共同作業だった。
 南野が不吉な小荷物をぶら下げて階段を下りていき、富士は廊下に残される。部屋の中では蟹江が着替えをしている。
 廊下の奥には、トイレと書かれたドアがあった。手を洗わせてもらおうとドアの方へ向かいつつ、なぜこんなところにトイレがあるのか疑問にも思う。来客用? 部屋のトイレが使えない時のため? それとも部屋にトイレがないとか? (あっ……)あっさり正解してしまった気がして、富士は一瞬その場で固まる。トイレが、ない? 今さら焦る。
 さっき見た蟹江の部屋にトイレはあっただろうか。覚えていない。蟹江の部屋だったこと自体がまず衝撃で、それ以上の情報を得る余裕はなかった。
 この南野荘は、タダで入居する自分は文句を言える立場ではないが、基本的には廃墟だ。部屋にトイレがなくても不思議ではない。むしろ、それを想定していなかった自分の方が間抜けかもしれない。そして廃墟の共同トイレに、快適な設備を求められるわけもない。
(どうしよう。私、ここのトイレ使えるかな……)
 どれだけ膀胱の容量に自信があろうと、トイレが使えなければ生活は厳しい。とにかく状況を確かめてみようと、トイレのドアを恐る恐る開く。息を止め、薄目で、電気もつけずに覗き込む。
 しかし中は驚くほど明るかった。窓から外気が入ってきて空気も新鮮だ。拍子抜けしながらさらに踏み込み、もう一枚のドアも開いて個室を確かめる。あんのあまり拍手したくなる。タイルの床も壁面も、タンクレストイレも真新しくて、ここだけ新築マンションにワープしたかと見まごうほどだ。洗面台もミラーもピカピカ、スティックフレグランスまで置いてある。
 上機嫌で洗った手をハンカチで拭いていると、着替えた蟹江が現れた。
「トイレだけ綺麗で、驚いた?」
 髪には寝癖がついているが、シャツとチノパンで微笑む姿は寝起きにしてはすがすがしい。
「はい。まさにここだけ天国って感じだな、と」
「前は南野もここに住んでたから、壊れた時に気合い入れて大工事したんだよね。それ以来ここだけは死守って感じで、ずっと綺麗な状態を保ってきてる」
「素晴らしいと思います。私も住人として、ここの死守に尽力します」
「二人きりだけど、頑張って行こう」
「というと、私たちしか住人はいないんですか?」
「今はね。ちょっと待って、トイレ入らせて」
 あ、すいません、と富士はトイレから出た。ドアから離れ、狭くて短い廊下を一人で歩いてみる。
 トイレの隣にはもう一つ、幅の狭いドアがあった。蟹江の部屋はその隣、201。そして202があって、その隣が203。南野の話によれば、203が自分の部屋のはずだ。鍵は蟹江が持っているからまだ入れないが、一応荷物だけはドアの前に移動させておく。
 蟹江が出て来て、「お待たせしましたー。あ、そうだ」幅の狭いドアの方にすっと片手を伸ばす。初対面の相手を紹介するような手つきだった。
「先にコインシャワーのことも説明しておくね。南野荘はトイレもシャワーも共同だから」
 ドアは蛇腹に折れて開いた。蟹江が電気のスイッチをパチパチと入れると、明かりがつき、換気扇が回り始める。中を覗きこんでみると、じめっと冷えた狭い空間が小さな電球に照らし出されている。その古びた感じに、富士は言葉を失くした。トイレは意外にも綺麗だったが、こっちは意外でもなんでもない、廃墟に似つかわしいボロさだった。
 湿気のこもった一畳分ほどの空間は、半透明のパネルとドアで奥のスペースと仕切られている。ドアのそばには金属製の錆びた貯金箱のようなものが一つ。
 ドアの向こうはさらに狭いスペースで、壁の上の方は天井までカビかなにかで黒ずんでいる。サンダルが置いてあって、すのも一応敷いてあるが、床はコンクリに排水口が空いているだけ。壁の窪みには排水口の掃除用なのか、ボサボサの歯ブラシが一本。そしてシャワーが一台。
「使い方は簡単で、まずここから百円玉をとって」
 蟹江は箱の下に手を入れ、百円玉を取り出す。「ここに入れる」投入口に入れ、「これで三分、シャワーが使える」
「たった三分で、百円……」
「でもここからが重要なポイントだから。ほら」
 蟹江がまた貯金箱の下に手を入れると、さっきの百円が返ってきている。
「この機械はお金を入れても出てくる仕様だから、実際は無料なんだよ。三分経ってシャワーが止まったら、出て来て百円入れ直せばまた三分間使えるというわけ」
「なるほど……でも結構せわしないですよね」
「まあね。シャンプーまみれの手で小銭摘まむのとか、尋常じゃないレベルでイライラするしね。あと一応、南野からはシャワーは三回まで、つまり九分以内に収めろって言われてる。温水器の容量があんまりないらしい。以上、これがコインシャワーの説明でした」
「ありがとうございます。九分かあ……」
 本気を出せば、九分間で髪を洗って、メイクを落として洗顔して身体を洗うこともできるとは思う。でも毎日本気を出せるかどうかは自信がない。
「大丈夫だよ、そんな不安そうな顔しないで。銭湯もあるし、頼めば南野んちで風呂を借りることもできるから」
「そうなんですか?」
「寒い日とかこれじゃやっぱ厳しいからね。その後の風呂掃除はさせられるけど」
「……なんか、南野さんの身体から抜け落ちる毛ってすごそうですね」
「すごいよ。毛玉でペットができると思う」
「わあ……飼いたいような、飼いたくないような……」
「なに言ってるの、しっかりして。南野の抜け毛で作ったペットなんか飼っちゃったらもう人間として終わりだよ」
「そ、そっか……そうですよね。なんだか南野さんと接してるうちに、段々いろいろしてきて、あの世界観で生きていくのもいっそ悪くないような気持ちになってました。もはやいちいちあらがうのもだるいし、これはこれでまあいっか、抜け毛のペットも飼ってみるか、みたいな……」
「みんな通る道だよそれは。いける気がしちゃうんだよ。南野ってとにかく存在感すごいし、おもしろいっちゃおもしろいし、このまま身を委ねてもいいかも……ってみんな最初はそう思うんだよ」
「まさに今、そう思ってます」
「言っておくけど、三日ぐらいで飽きるから」
 やたらと実感のこもった目をして、蟹江はきっぱり断言する。
「役者としては唯一無二だけど、人間としては、とにかく飽きる。覚えておいて。南野がおもしろいのは三日間だけ」
「……それって、味が濃いものはそんなにたくさんは食べられない、みたいなことなんでしょうか」
「完全にそれだと思うよ。南野はご飯が進むおかずでもないし」
「珍味ですよね……」
「そう。はまる人ははまるけど、無理な人は全部吐く」
「たとえはまったとしても……」
「三日で飽きる。それが南野。でもって僕らは、そんな南野の愉快な仲間たち。一蓮托生の劇団員にして、住むところまで世話になってる。考えてみればすごいことになってるよね」
「そして私をそこに引き込んだのは蟹江さん……」
「だよねー。じゃあ、富士さんの部屋を見てみようか」
 蟹江は歩き出しながら、202の前で一旦足を止め、「ここはかつての南野の部屋。今はここと、あと一階の全室を劇団の倉庫として使ってるから」説明してくれる。ふと不思議に思う。
「隣に立派なご実家があるのに、どうして南野さんはここに住んでたんですか?」
「お兄さんが結婚して、お嫁さんが一緒に住むようになったんだよ。確か四年ぐらい前だったかな」
「ああ、じゃあお嫁さんに遠慮して。南野さんにもそういう一面があったんですね」
「いや、出て行ってほしいってご両親に直球で何度も頼まれて、ずっとガン無視してたんだけど、ある朝目が覚めたらいきなり荷物ごと202にワープしてたんだって」
「えっ……」
「あの巨体をどうやって、って思うよね。クレーンとか重機もなしに。とにかく本人曰くワープさせられて、家の鍵も変えられて、それで仕方なくここで暮らし始めて、プリプリしながら空いた部屋を片っ端から荷物で占拠して陣地を拡大しているうちに、ご両親とお兄さん一家は立派な二世帯建てて引っ越して行って」
「南野さんは母屋に帰還した、と……。そういえば、南野さんのご実家はパン屋さんだってさっき聞きましたけど」
「そうそう。本店の方はお父さんがずっと大規模にやってて、こっちでお兄さんがやってるのはより趣味性の高い、こだわりのベーカリーなんだって。週に三日とかしかやらないって言ってたかな。営業時間も短くて、ご近所でも知る人ぞ知るって感じらしいよ。まあでもパン屋っていうか、南野家は要するに地主なんだよね。この南野荘も税金対策で建物を残してるだけで、空き部屋が出ても入居者募集してないし、実際のところはもはや拡張された南野の部屋みたいなものなのかも」
「つまり私たちは、賃借人というよりは、部屋に泊まりに来た友達、みたいな?」
「そういうことだろうね。じゃあ、これをどうぞ」
 203の前に立ち、蟹江が鍵を手渡してくれる。「最初はやっぱり自分で開けないと」手の平で受け取って、鍵穴に挿し込む。かちりと回す。
 今日からここに住むのだ。今度こそ、自分の部屋。ノブを摑んで一瞬だけ目を閉じ、息を詰める。どんな部屋でもここに住む覚悟はできている。でも、できれば、綺麗であってほしい。広さもおしゃれさも期待しないから、せめて清潔であってほしい。
 ドアは軽かった。すいっと開くなり、
「……わあ!」
 陽射しの眩しさがあふれ出て、富士は思わず声を上げてしまった。これはΩな蟹江を見た時の「わあ!」とは違う、もっと嬉しい意味の「わあ!」だ。
 急いで靴を脱ぎ、畳の部屋に上がる。蟹江の部屋よりもさらに日当たりがいい気がする。六畳間に小さな簡易キッチンがついただけの、昔ながらの砂壁の和室。風呂もトイレもないが、南と東に大きな窓があって、部屋からは青い空が見える。紺色のカーテンもついている。
 勢いよく窓を開けると、一気に春の風が吹き込んできた。サッシが砂でざらついて重いが、こんなの後で拭けばいい。
「僕の部屋と窓の向き以外はほぼ同じかな。まあ狭いし古いし、トイレもシャワーも共同だし、女性には結構厳しいよね」
「いえ、全然いい感じです!」
 玄関で靴を履いたままこちらを心配そうに見てくる蟹江を、富士は笑顔で振り返る。
「私、この部屋気に入りました!」
「本当に?」
 本当だとも。全身を使って、力いっぱい大きく頷き返す。外観を見た時には逃げ出しそうになったが、中は本当に結構いい。なにより日当たりのよさが気に入った。風も通るし、古いが不潔ではないし、窓ガラスの下半分が模様入りの曇りガラスなのもかわいい。それに木材がふんだんに使われた内装は、かつて富士が裏山の雑木林の中に勝手に作った隠れ家をかすかに思い起こさせもする。
「ここ、好きです!」
「ならよかった」
 安心したようにシャツの肩を落とし、蟹江も笑顔を返してくれた。ぱかっと口を開けて笑うその顔つきは、どこか無防備であどけない。四つも年上とは思えない。
「そう言えば寝具はどうする予定? どこか業者でレンタルする? 今夜間に合うかな」
「お気になさらず。差し当たっての用意はあります」
 富士はスーツケースを開き、丸めた寝袋を取り出した。中学生の頃から愛用のコールマン、封筒型。隠れ家で使っていたものを、こんなこともあろうかと持ってきておいたのだ。
「へえ、富士さんて案外たくましいんだ」
「ありがとうございます。ところでWi-Fiがあるって南野さんが言ってましたけど」
「『俺のオーラ』っていう名前のWi-Fiが母屋から漏れてくるから、パスワード入れれば使えるよ。後でパスワード書いたメモ持ってくるね」
 開いた窓のすぐ近くに、南野家の母屋が見える。「なるほど、そういう……」
「じゃあ僕はちょっと南野の様子を見てくるから、しばしくつろいでて」
 蟹江が出て行って、富士は一人、小さな部屋に残される。
 今日からここが自分の住処だ。
 ぐるりと見回せば、壁も天井も窓も玄関も、すべてが視界に納まってしまう。
 所在なく立ち上がり、ショートコートを脱ぐが、ハンガーがない。座る椅子もソファもないから、富士はとりあえず、畳に広げた寝袋の上に正座する。
 静かだった。
 開いた窓からは花の匂いが香ってきて、さえずる鳥の声がかすかに聞こえる。それを聞きながら、頭の中で買わなければいけない物をリストアップしていく。まずは座布団か座椅子。それから、小さくていいから卓。ハンガーもいる。押入れの中のサイズを測って、収納ケースも買わなければ。後は……なんだろう。考えているうちに、目が自然と閉じていく。そのままころりと横に倒れてしまう。
 昨日はDVDを何枚も見てから、徹夜の突貫で荷造りしたのだ。眠いというより、もう目が限界だった。目蓋を開いておく力がない。相変わらずおなかもすいている。駅からここまで来る途中に自販機で買ったお茶を一本飲んだきり、そろそろ体力も気力も尽きる。
 地球の引力にも逆らえなくて、いつしか寝袋の上で大の字になってしまった。スカートがしわになると思いつつ、もう起きられない。伸びた手足から力が抜けて、肩と背中がパキパキ鳴る。自然と深く息をして、そのまま意識が遠くなっていく。……いや、だめだ。今はまだ寝てはいけない。一生懸命に目を開く。小さな電燈が真上にぶら下がっているのが見える。白い和紙のカサの端が、焼けたみたいに茶色くなっている。
(前は、どんな人が住んでたんだろう)
 南野は、前の住人は夢を叶えて出て行ったと言っていた。カーテンのそっけなさからして、男性だろうか。どんな夢を抱いてここで暮らしていたのだろう。窓の外に視線をやり、綿のような雲が浮かぶ春の空を見上げる。その人もきっと、この窓からこの空をこうして見ていたはず。
(私の夢も、叶うかな)
 走り出したその先に、自分はちゃんと『あの子』を見つけられるだろうか。
(子供の頃から、ずっと、待ってた……)
 膝を抱えてこっそり隠れて、同じように隠れている『あの子』の声が聴こえてくるのを、いつまでも一人で静かに待っていた。だけどそれじゃだめだった。
 お互い隠れて待っていても、出会える時など来るわけない。それがわからなかったから、なにも見つけられないままで、齢だけ大人になってしまった。『あの子』を見つけるためには、自分の足で立ち上がり、外の世界へ続く扉を開いて、走り出さなければいけなかった。
 富士は今、この朝までは来たことがなかった町の、この朝までは知らなかった部屋にいる。
 夢を追いかけて、ここまで来た。これは『あの子』を探す冒険だ。これからどれだけ傷ついても、疲れ、後悔したとしても、元の場所には戻らない。ここまで進んだ双六のコマは、この先何度「止まれ」と「戻れ」が出たとしても、ここより前には絶対に帰らない。
 ここはそういうポイントだ──
「ふーじーさーん!」
 いつしか眠りに落ちかけていて、びくっ、と震えてしまった。「ふーじーさぁぁーん!」呼ぶ声に慌てて身を起こし、髪をぐしで整え、声のする窓の外を見た。
 すぐ隣の母屋の一階、窓を開けて蟹江が無邪気に手を振っている。その距離、ほんの一、二メートル。
「そんな大声を出さなくても聞こえますから……」
「ンフ、ごめん。他のメンバーも集まってるから、ちょっとこっちに下りて来てもらえる?」
 胸が高鳴る。一気に目が覚める。他のメンバーということは、あの人……蘭も来ているということか。もういるのか、隣に。距離の近さを実感するなり、富士はパニックを起こしそうになる。
 舞台に立っていた蘭のことは、もちろん忘れようもない。昨日会った時の態度も覚えている。その前、難破したあの公演の夜の野獣みたいな暴れぶりも覚えている。
「……はい! すぐ行きます!」
 混乱のあまり、蟹江に負けず劣らずの大きな声を出してしまう。一体どんな顔をして挨拶すれば無事にすむのだろうか。開き直って、「は~いATMで~す!」とかはしゃごうか。でも想像しただけでそんな自分が痛い。どうすればいい。正解がわからない。

#2-1へつづく
◎第2回は発売中の「カドブンノベル」2019年12月号でお楽しみいただけます!
※第 1 回は「カドブンノベル」2019年11月号に掲載


「カドブンノベル」2019年11月号


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