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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.8

劇団長経営のシェアハウス(ボロアパート)に 入居した受け身系女子を襲う試練とは⁉ 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-8

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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 悲鳴も出ない。ただ息を吸い、硬直して、富士は仰け反る。仰け反った分だけ、南野はぐっと顔を近づけてくる。
「おまえは重役か?」
 一瞬だけ「ふむ」考える顔をして、すぐに南野は真顔に戻る。立てた人差指を振ってみせる。
「違うな。おまえはマネージャーだ。そして俺様は劇団の主宰。言うなれば──この銀河系の真芯」
「……ま、しん……?」
「おうよ。真芯よ」
「重役と麻疹に、どんな関係が……」
「来るのが遅い! この俺様を待たせるなということだ! それぐらい普通に考えりゃわかるだろう」
 全然わからなかった。重役出勤的なことを言いたかったのだろうが、それにしては麻疹が謎だ。でも別に解きたい謎でもない。南野は富士の複雑な表情を見やり、得意げに「ま、仕方あるまい」片眉を上げて薄く微笑む。
「俺のレトリックの巧みさは、話しかけたペッパーくんすら爆死するほど高レベル。俺がずば抜けて優れているせいで、おまえを責めるのも酷かもしれん」
 至近距離から顔面に、南野の生温かい息を思いっきり浴びる。トマトジュースのにおいとシリアルのにおいを鼻の粘膜で明瞭に感じつつ、富士はゆっくりと目を閉じていく。緩慢な気絶だった。
「なんだその顔は。なぜそんなにまったりと、老犬みたいな遠い目をする」
「な……んでしょう……。なんか、こう……昇天? 召される……? みたいな……」
「もしやこの俺があまりに鮮やかに登場したから、おまえにショックを与えてしまったか? 確かによく言われるぞ、俺のオーラはもはや暴力だ、とな。ふっ、故意ではないから謝らん」
 南野はクリスマスローズみたいに首を曲げ、高い位置から富士を見下ろしている。
 改めて、この男は巨人だった。恵まれた体格は全長2メートルぐらいありそうで、濃い顔、濃い眉、ヒゲも濃い。荒れ狂う金髪は今日ももじゃもじゃと爆発繁茂。足も大きくて、踏まれたカートはもうぴくりとも動かせない。ふと思う。運命はなぜ、こういう人間にこういう肉体を与えたのだろうか。それとも、こういう肉体を持って生まれたが故にこういう人間になったのだろうか。問うても答えは返らないし、そしてここからはもう逃げられない。
「どうした富士よ。この俺様と相対した歓喜に溺れ、もはや声も出ないか」
 ぐっ、とより近く、南野の顔が近づいてくる。「……いえ、歓喜とかではなく、」最も的確に今の心境を表す言葉なら、絶望だ。自分はこれから、この巨大で変な男と関わって生きていくのだ。
「随喜の涙を堪えているのか。法悦境に入り、打ち震えているのか」
 さらに間近。その南野の鼻先は、いまやほとんど富士の鼻先に触れそうになっている。後ずさろうにも、苔だらけの湿った塀に触れてしまいそうで動けない。
「恐れるな。俺と相対して平静を保てる者などいない。人類ではな」
「そうじゃなくて……」
「いいぞ──俺を拝め」
「いやです……っていうか、ちょっとこれ、……距離感、おかしくないですか」
 富士は鼻と鼻が触れないように、必死に右へ左へなんとか顔を逸らそうとする。南野は眉を寄せ、そんな富士を見やる。そして重々しく、「おまえ、まさか──」うめきながら富士の顔の向きを鼻先でしつこく追尾してくる。
「──この俺を、意識、しているのか?」
「いや、ただなんかすごいやだなって……」
「しっかりしろ!」
 顔の前で突然大声を出され、思わず富士は竦み上がった。耳がおかしくなる。「俺を見ろ! この俺を見ろ!」喚きながら、南野はチョキで何度も自分の目を指し示してくる。見ろもなにも、ほんの数センチの距離にひげ面がある。いやだが逆らえないし逃げられもしない。
「おまえの目の前にいるこの俺は、神だ! 悪魔だ!」
「ど、どっちですか……」
「エベレストだ!」
「山……ですか」
「黄金だ! それでいてあえかなる天上の虹! 輝きはまさしくダイヤモンド! そしてビッグバン! BOOOOOON! わかるか!?」
「正直、全然……」
「決していつか手が届くなどと悲しい思い違いはしないことだ! そしてなにより、俺は大家だ!」
「はあ……」
「そしておまえは南野荘のたな! くれぐれもわきまえろよ、フリーレントの立場をな! ……む? なんだこれは」
 南野は、看板に書かれたゴッゴッゴリランド!の文字に気付いたらしい。近づいて覗き込み、「ああ、くそ! チッ、また落書きされちまった!」古着らしいTシャツの裾を伸ばしてごしごし擦る。「畜生! 油性!」岩盤みたいに引き締まる腹筋とヘソの辺りが丸出しになる。
「それ……無水エタノールとかで擦らないとダメなのでは」
「だな。ったく、近所のガキが何度消しても書きやがる。長く抗争が続いていて、つい先日も『スラムゴリラ♂ミリオネア』と書かれたばかりだ」
「犯人はゴリラ推しなんですね……」
「『ごりらのそう』ってフリガナをふられたこともある。あいつら、いずれはグーグルマップの建物名を変えられることに気付くぞ。くっ、だるい──その前に飽きてくれりゃいいんだが」
「誰の仕業かわかってるんですか?」
「ああ、ここの敷地に侵入してきて勝手に廃墟探索しやがるガキどもがいやがって」
「……廃墟の自覚が、一応おありで……?」
「もとい! 勝手に建物探訪しやがるガキどもがいやがって、何度注意してもやめやしねえ。だからある日、目の前で自転車を引きちぎってやったのよ。それを恨みに思われてな」
「……自転車、引きちぎったんですか……」
「前輪と後輪を両手でな。その時の俺はさながらアポロンよ。そうしてまた一つ、劇的な瞬間を歴史に刻んでしまったというわけだ。地球よ、歴史が俺様だらけですまない──というわけで、さあ! 余計なおしゃべりはここまでだ!」
 南野はいきなり何度も手を打ち鳴らす。巨大な両手でバンバン発するその音は住宅街に反響して、うっすらこだまが返ってくる。どこかの家では犬がえ、叩きつけるように窓を閉じる音。うるせー! と怒鳴る声。しかしそんな状況を一ミリたりとも気に留めず、
「この俺様が、物件の中を案内してやろう」
 南野は得意げに分厚い胸を張ってみせた。中……思わず富士は無言になってしまうが、「なーに。大丈夫だ」根拠皆無の笑顔で迎撃される。
「見た目は確かにパンチが効いているが、部屋はそこまでひどくねえ」
「……でも若干、行政の闇……? みたいなものを感じるんですが。なんらかのどさくさ、的な……」
「馬鹿を言え。確かにそんてきかくだが、ばっちり合法ど真ん中物件よ。現にカニは住んでいるぞ」
「……ちなみに南野さんはどこに住んでるんですか」
「母屋だ」
 南野が顎で指し示したのは、廃墟の隣に建っている一戸建てだった。古びてはいるが、手入れはされているようで、樹木が植わった庭があり、きれいな白い壁を春の陽射しが明るく照らし出している。大きな窓からも廃墟越しに空が見えて、さぞかし住み心地がいいだろう。
「ま、気ままな一人暮らしってやつで、後で説明するが、こっちはうちの裏口だ。表玄関は通りに面した方にあって、そこでは兄貴がたまに店をやっている。うちはパン屋でな。親と兄貴一家はきちじようの本宅兼本店に引っ越し済み、俺だけがここに置いて行かれたって寸法だ。細かいことはそのうち追々、今はとにかく隣にこの俺様が住んでいるという事実をただただ純粋に喜ぶがいい」
「いや、でもそもそもシェアハウスって話で、イメージが随分違うっていうか、詐欺っていうか……」
「富士よ──」
 鋭い目で富士を制すなり、南野はいきなり声を低くする。
「さっきからわあわあ好き勝手におしゃべりしているが、あまり大きな声を出すんじゃねえ。周囲に迷惑になるだろうが。地元はさぞかし山深い秘境の地だったんだろうが、」
「高崎です」
「ここは東京だ。住んでいるのはおサルさんだけじゃねえ」
「高崎山は高崎じゃありません」
「言葉尻をいちいち捉えるな。とにかくおまえにもわかるだろう。この辺はこんなにも閑静な住宅街、暮らすにあたっては守らなきゃならない社会のルールってもんがある。覚えておけ、騒いだりするのは一切NGだ。うるさいやからはこの町には住めねえ」
「じゃあ南野さんは引っ越ししなきゃですね……」
「ふっ、なにを意味の分からんことを。とにかく今は落ち着いて静かに聞け。おまえの部屋はこの南野荘の203だ。ちなみに二階の一部と一階全部は我が劇団の倉庫。安全とは言えないから用がなければうろつくな。大家としてのモラルが今、俺様の唇を動かしている。おっと、さらに補足しておくが、おまえがここに住みたくないなら、俺は別に引き止めはしないぞ」
「……それは……」
 返す言葉に詰まる。
「無料でしばらく住まわせてやるってのは、単なる俺様の慈善活動。もちろん強制なぞしないし、どこでも好きなところに住むがいい。ま、普通に借りるとなれば家賃の他に敷金、礼金、保証人もいるだろう。帰りたくない実家の親に頼むか、さもなくば保証会社だな。当然、金はさらにかかる。そういやそもそもおまえは無職か。それで審査に通ればいいがな──」
 言われるまでもなく、わかってはいた。他に行けるところがあるなら、そもそもここには来ていない。廃墟だろうとなんだろうと、無料で住める南野荘以外に、富士には選択肢などありはしない。
「……すいません。ちょっと、抵抗してみたかっただけです。お世話になります」
「わかればいい。じゃあ二階に上がるぞ。荷物はそれだけか?」
 南野は富士の荷物を見やるなり、「ほら、貸してみろ」ひょいっと軽々カートとスーツケースを持ち上げる。「あ、ありがとうございます」運んでくれるのか、と富士は慌てて頭を下げるが、「いいってことよ」南野はその荷物をすぐに下ろす。え……、と顔を上げた富士の方に取っ手を向け、親指を力強く立てて見せる。いい笑顔だった。
「俺様が確かめたからもう大丈夫だ。このぐらいの重量なら階段を踏み抜く心配はない。さあ、ついてこい。手すりには触るなよ。支柱が崩壊するってのもあるが、百発百中でかぶれる人体に有害な塗装がされている」
「なぜそんな塗装を……」
「わからん。けかなにかじゃないか」
 南野はすたすたと階段を上がっていく。その後をついていこうとして、富士はさっそく狭い階段の手前でスーツケースを切り返せずにまごついてしまう。力を入れて、「せーの、」どうにか持ち上げる。なんとか段差を引き上げていく。でも、そうだ。これは自分が暮らすための荷物。自分で持って上がるのは当然の責任で、自分の力で運べもしない物なら、そもそも持っていちゃいけない。
 先を上がる南野は、そんな富士を振り返りもしない。そのわかりやすく手伝う気のない態度に、いっそ安心感すら湧き上がる。
(なんか、南野さんって、すごい人なのかもしれない……)
 カテゴライズするなら変人の類にはなるのだろう。言動も異常だ。BOOOOOON! ってなんだ。でも、いやらしさのなさはすごいと思うのだ。
 かつてサークルで味わった嫌な雰囲気は、まさにいやらしさそのものだった。酔っていることを免罪符に、親しくもないのにベタベタ触られ、挙句にこびまで要求されて、耐えることなどできなかった。触られたところは気持ち悪く、変な粘液でもつけられた気がした。肉体的接近の度合で言えば、さっきの南野もそう変わらない。鼻と鼻が触れそうな距離まで踏み込まれ、当然すごく困惑した。それでも今、汚い感じはまったくない。接近の事実も、不思議なぐらいに後を引かない。
 重い荷物を引き上げながら階段をよろよろとついて行きつつ、その差について考えてしまう。
(それって、南野さんがナルシシストだからなのかな? 常に自分、自分が大好き、自分のことだけ。誰とどんなに近づいても、南野さんは意識なんか絶対にしない。それが私にもわかるから?)
 すべての事象の中心が常に『俺様』。なにが起きようとなにをされようと、『俺様』は見たいものを見て感じたいように感じる。そんな南野という男を、富士は決して嫌いではなかった。役者としてなら、はっきり好きだ。
 昨夜DVDで見た芝居では、南野と蘭のキスシーンがあった。汗と涙で顔を濡らし、南野が演じる男は不実な恋人を口づけで許そうとしていた。爆発しそうな己を必死に抑え、震える両手で恋人の頰を撫で、でも最後には正気の糸がぷつりと切れて──絶叫する南野と一緒に、気付けば富士も泣いていた。芝居を観ているということ自体をいつしか忘れていたと思う。演技とはもはや思えないほどに、心情の表現はリアルだった。
 南野はあの時、実際にあの役の命を生きていたのだろう。芝居だろうと現実だろうと『俺様』には関係ない。生きたいドラマをただ生きて、感じたいように感じるだけ。現実と虚構という境界線すら、自分と他者という境界線すら、おそらく南野には意味がない。世界のすべてを己の中身に内包し、肉体というフィルターを通して、自由自在に噴出するだけの生命体なのだ。自我の概念をも超越している。そしてその超越した資質は、役者にとって、恐らく何にも代えがたい宝。
(……ついていこう。この人に。すっごく変な人だけど、それが魅力の源泉なんだ)
 決意を新たに、富士は先を行く南野の尻を見つめる。
 階段をやっと上がりきったところで、「富士よ!」「んぶっ……」突然立ち止まった南野の背中に顔から突っ込んでしまう。
「ここからはお楽しみだ。荷物をすべてそこに置け。そして後ろを向け」
 え、と戸惑う富士に有無を言わせず南野は背後に回り込んできて、
「だ~れだ!」
 両手で富士の目を覆っておどけた。誰だもクソも、「南野さん……」それしかない。
「さあ、このまま前に進め。中は本当にいい感じだから、おまえを驚かせてやりたい」
 どうやら部屋までこのまま行かなければいけないらしい。この男についていこうと決めはしたが、どっと疲れる展開ではあった。でもこうなってしまっては、この状況から逃れることはもうできない。
「まっすぐ進め。もうちょっと左。そうだ、そっちだ。おっとあそこに毒蛇が! なんてな」
「それ、付き合わないとだめですか……」
「冗談よ。この俺様といることで、おまえが緊張しては気の毒だからな。なーに、あれはただの、あれは、ただの、……なんだ? リアルになにかがお亡くなりになっているな。なんだあれは」
「私に聞いてどうするんですか……」
 巨大な両手に視界を覆われたまま、富士はそろそろと南野の声に従って足を動かしていく。
「さあついたぞ。ドアを開けろ」
「私が開けるんですか?」
「そりゃそうだろう。俺の右手はここ、左手はここだ」
 右目と左目の眼球をそれぞれ目蓋越しにグリグリされる。
「あの、それ、私がコンタクトならかなりの惨事なんですけど」
「コンタクトなのか?」
「違いますが」
「俺はコンタクトだ。それも──特大サイズの、な」
「ただのソフトコンタクトレンズなのでは……」
「俺のド近眼は、銀河系の歴史における三大悲劇の一つに数えられている」
「あとの二つは一体……髪質とかですか?」
「これはパーマだ。二万円弱かかった」
「えっ!? 二万も出してわざわざそんなパーマを!?」
「ふっ、落ち着け。今はそんな話をしてる場合じゃねえ。ドアノブはすぐそこだ。カギは開いてる」
 手探りでノブを摑み、ドアを開く。「玄関だ。靴を脱げ」「はい」「ここは日本だからな」「わかってます」「土足厳禁だぞ」「だから脱いでますってば……」言われるがままにもぞもぞ足だけで靴を脱ぐ。タイツの足で中に進むと、南野の指の隙間越しに眩しい陽の光を感じる。日当たりはすごく良さそうだ。特にじめっとした感じもしないし、もしかして、本当にそれほど悪くないのかも? わずかな期待が胸に灯る。ただまあ若干、埃っぽいような、汗のようなにおいがするが。
「よーし、それでは目を開けろ!」
 目隠しの両手が離れ、目を開けるなり、「……わあ!?」富士は声を上げてしまった。
 Ω型の蟹江がそこにいたのだ。
 Tシャツにボクサーパンツだけの姿で、床に直置きのマットレスの上、うつぶせて身体を丸めた悲しい形、Ωになって眠っている。
 その周りには開きっぱなしのノートパソコンや付箋を貼った何冊もの本。プリントアウトされた紙の束も散乱している。壁際には座椅子と小さな卓。畳の上にはドライヤーだのシェーバーだの生活用品がごちゃごちゃと放り出されているし、服は何枚も重ねてハンガーにかけて、窓の桟に引っかけられている。カーテンは半分開いたまま、室内は日の光で明るく照らし出されている。
 丸めた背中はゆっくりと上下していて、目覚める気配はない。蟹江は深く眠っているらしい。
「……あの、こ、これは……」

#1-8へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2019年11月号


カドブンノベル

最新号 2020年1月号

12月10日 配信

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