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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.7

劇団に加入しシェアハウスに入居した受け身系女子は衝撃の事実に直面する⁉ 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#1-7

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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「おー! やってるねえ!」
 突如低くかすれた女の声が店内に大きく響き渡る。驚いて振り返ると、ウーバーイーツの箱を背負った小柄な女がズカズカとこちらへ向かってきている。その後ろにはウーバーイーツがもう一人。細身の若い男で、女の後を小走りについてくる。
「あっはっは! まじで金払ってるよ!」
 大ボリュームの髪を適当に括った女は、富士と南野がやりとりした現金を指さして爆笑した。
「モツやるじゃん、ほんとにゲットしたんだ!? てってって~りやっきのカ・ネ・モ・チ! つか須藤もただのくねくねモヤシかと思いきや、イイ情報くれたよなあ!?」
 ぐいっと顔を近づけて来て、息が熱いほどのゼロ距離。舐めるような女の視線が、富士を頭のてっぺんからつま先まで値踏みする。そして一息で突き放す、その目の冷たさ。皮肉げな唇。
「いーよあんた、まーじうける。A・T・M! A・T・M! せいぜい頼りにしてるよぉ? ほいじゃうちら忙しいからバーイ! おら行くぞ!」
 女は身を翻すなり店から出ていく。後を追いかけるばかりの細身の男は「蘭さん待って!」と。蘭さん──つまり、あの人だ。狂った手負いの、あの野獣。
「……」
 富士は、無言のまま南野を見た。南野はなにも言わず、ただ目を横に逸らす。蟹江を見る。蟹江は顔を両手で覆い、「ああもう……!」苦悶するように膝を合わせた両足を捩っている。
 富士の手の中には台本があった。台本を見て、南野の手元を見る。南野は富士が渡した一万八千円を持っている。
 要するに、この人たちは、金が欲しくて自分を劇団に誘ったのか? 嵐のように現れて去った、あの野獣が喚いた通りに?
「……私は、ATM……!? そうなんですか!?」
「ごめんごめん! ごめんなさい、ていうかこれはほんとごめんなさい! だめだめこんなの!」
 蟹江は南野の手から一万八千円を奪い取り、五千円札を一枚だけ抜いて、残りを富士に返してくる。
「ごめん、団費五千円は本当だからもらうね。僕らもみんなこれは払ってるから」
「じゃあ一万三千円は噓なんですね!? ていうか、ていうか、さっきの、私が必要とか、そういうのも全部噓なんですね!? 単にお金が目当てなんですね!? だったらお門違いです! 私には自由にできるお金なんか本当に全然ありませんから!」
「富士よ、落ち着け。お店の中で騒いだりして、俺は結構恥ずかしいぞ」
 よりにもよって南野にいなされ、「どどど、だだだ、誰がそそそ、そんなこここ、」一瞬で大量に込み上げてきた言葉が舌の付け根で渋滞し、富士は間抜けなマシンガンに成り果てる。
「いいから口を閉じろ。そして聞け」
 南野は眉を上げ、ふっとサングラスに息を吹きかけた。グラスを照明に透かし、汚れ具合を確かめながら言う。
「俺たちは、おまえの金を当てにしてるわけじゃねえ──ちょっとでも現金が欲しいのは事実だがな」
「でも、今!」
「言いたいように言わせとけ。おまえには、きっちり俺の役に立ってもらう。団費を払ったってことは、おまえはもう正式にうちの団員だ。明日、うちに来い。十時だ。一秒たりとも遅れるな。俺様法によれば、遅刻は死罪だ」
「九時に業者が来るので難しいかもしれません!」
「ならまあだいたいそれぐらいを目指して来い。以上! 行くぞカニ!」
「ま、待って下さい! うちってどこですか!? 南野さん!」
 サングラスをかけて立ち上がり、南野は店を出て行ってしまう。申し訳なさそうに頭を下げてくるのは蟹江。
「なんかごめんなさい、もうほんとにごめんなさい」
「蟹江さんに謝られても……! 私、どうすればいいんですか……!?」
「誤解しないで、お願いだから。龍岡さんを劇団にほしいって最初に言い出したのは南野なんだ。僕もそう思ってた。見つけた! 必要なのはこの人だ! って。ステージから声も聞いてたよ。それにもちろん、その時にはまだ龍岡さんが『てりやきのタツオカ』さんだってことは知らなかったんだ。今朝まで、本当に知らなかった」
 蟹江は南野が出て行ったドアの方を気にしながら、バッグからペンとノートを取り出し、急いでなにかをメモし始める。
「僕と南野以外のメンバー、さっきの二人は、龍岡さんがあの夜にしてくれたことを見てなかった。だから僕らが龍岡さんを劇団に誘いたいって言っても理解してくれなかった。それで、わかりやすい理由として、お嬢様だからなにか援助が期待できるかも、って話に持ってった。ただそれだけのことなんだ。僕と南野は、決してそんなことは思ってない。どうか信じて。僕らを、というよりは、龍岡さん自身のことを信じてくれ。僕は龍岡さんを信じてる。だから自分でも自分を信じてほしい。そしてわからない奴にはその力を見せつけてほしい。証明してくれ。龍岡さんがいれば、僕らはもう一度生き返る、ってことを」
 破いて渡されたメモは、住所と蟹江の連絡先だった。
「あとそうだ、これも」
 書店でもらえるようなビニール袋に入った小さな荷物もテーブルに置く。そして、
「台本も持ってて下さい。明日、よろしく!」
 頭を下げ下げ、蟹江も出て行ってしまう。と、バックステップで戻って来て、
「前にも劇団の手伝いを頼んだけど、その時龍岡さんは『やりたいです』って答えたんだよ。忘れてるかもしれないけど僕は覚えてる。あと、龍岡さんは春から無職、ってことも僕は覚えてる」
 若干粘っこく念押しすると、じゃ! と今度こそ店から出て行った。
 呆然と、富士は店に取り残される。コーヒー三杯分の伝票とともに。

      *

 須藤に蟹江から連絡がきたのは今日の朝のことらしい。
 富士がそのことを知ったのは、夕方になってからだった。バイトからバイトへの移動中に、須藤が『あの後どうだった?』とメッセージをくれたのだ。カフェで起きたことを伝えると、蟹江さんには申し訳ないけど、と前置きしつつ、蟹江とのやりとりのスクリーンショットを送信してくれた。
『前にクリーマーの大道具を手伝ってた龍岡さんって、今も親しくしてる?』
『てってって~りやっきのタツオカ、の龍岡さんですね』
『龍岡富士さん。てりやき関係ない』
『龍岡富士さんはてりやきの龍岡さんですよ。高崎のお嬢様』
『え、本当にそうなの?』
『ですよ。大学では結構有名な話でした。こっちが辞めてからは会ってないです』
『連絡先ってまだわかる?』
『向こうが変わってなければわかりますが。どうしたんですか?』
『ちょっと話したくて。龍岡さん、一人で二十三日のうちの公演を見に来てくれたんだよ。飛び込みで』
『え! ほんとですか!?』
『間違いないと思う。卒業式の袴着てて、A大学の紙袋持ってた』
『ちょっと、こっちから龍岡さんに連絡入れてみます。こっちも話したいことができたので』
『じゃあその時に、バリスキの蟹江が会いたがってるって伝えてもらえる?』
『わかりました! 今、さっそくメールしてみます!』
 数分置いて、
『いきなりですが今日、これから会うことになりました!』
『そうなんだ、ちなみにどこで?』
 ──そしてカフェのことを伝え、蟹江と南野はそこに現れた。だから須藤も本当に二人が来るとは思っておらず、見つけた時には驚いたらしい。
 劇団に誘われたことについては、無邪気に「すごい!」と盛り上がっていた。これでつづきが観られるね、と。
 窓の外はすでに暗い。もうすぐ八時になってしまう。
 中野から帰宅して随分経つが、富士はいまだに頭を整理することができていない。
(劇団に入るなんて、やっぱり絶対ありえない。だって私にできることなんかあるわけない。でも、蟹江さんも、南野さんも、ああしてわざわざ私に会いに来てくれた。つづきもやる、って……)
 まだなにも手を付けていない部屋で、着替えもせずに座り込み、同じことばかりぐるぐると考え続けている。持ち帰ってきた荷物を見やる。
 開いてみた台本には、手書きのメモがびっしりと書き込まれている。文字は大量で細かすぎて、富士が見てもほとんど解読できない。そして全体に黒っぽく汚れ、ところどころ破れてもいる。蟹江がどれだけ長い時間ページを開き、汗をかき、手を入れてきたのかがありありとわかる。
 手渡されたビニール袋の中には、過去の公演のものらしき数枚のDVDが入っていた。私的に録ったものらしく、盤面のタイトルは手書きだった。
 その中から、『鶴のシシャ』と題されたものをノートパソコンのドライブに入れてみる。真っ暗な画面から蟹江の前説が始まる。幕が上がると、さっき蘭さんと呼ばれていたあの人がブルーのライトを浴びて踊っていて、その背後に、画像の粗さもノスタルジックな男女の写真が映し出される。くるくると彼女が回るたび、白く透けるドレスの裾が身体にまとわりつき、それを目で追わずにはいられない。しなやかに伸びる手足は、前に観たダイナミックなダンスとはまったく違う優雅さ。夢をかきまわすように高く差し上げられ、はかなく美しく揺れている。そして暗転し、スーツ姿の南野が舞台に現れた。疲れたように辺りを見回し、ネクタイを緩め、大きな荷物を足元に下ろす。さっきまで踊っていた蘭が衣装を替え、原色のミニドレスで『ダーリン!』その腕に飛びつく。二人は恋人同士らしい。
 富士はそのまま、芝居に見入ってしまう。切りのいいところで一度止めて着替えようと思うのだが、なかなか止めるタイミングが来ない。同じポーズのまま、ずっとモニターを見つめ続けてしまう。
 蟹江の声は、まだ耳に残っている。
『龍岡さん自身のことを信じて』
 蟹江は、富士に劇団を生き返らせる力があると信じているらしい。そして富士にも、そう信じろと言う。
(そんな力なんてあるわけないのに……)
 力なんて、価値なんて、資格なんて、あるわけがない。信じられる理由がない。
 これまでずっと、富士は自分を無力だと思ってきた。たとえば、死んだ舟を海辺で見たときもだ。あのとき、富士は小学生だった。膝を抱え、死んだ舟の中に隠れ、『あの子』の声が聴こえてくるのをひたすら待っていた。でも置き去りにするしかなかった。背後を何度も振り返り、舟が生き返ることを願いながらも、できることなどなにもなかった。
 今の自分は、あのときと違うといえるだろうか。なにかを得ることができただろうか。
 あれから随分時が過ぎ、『あの子』は今も見つからない。
 そしてまた、
(……私を、呼んでる? 私を捜してる?)
 富士は一人の部屋で膝を抱え、こうして耳を澄ましている。
 まだ、忘れてはいない。富士は『あの子』の存在を信じている。いつも、今も、どこかにいると思う。誰も知らないまま、誰にも見つけられないまま、『あの子』はずっと隠れている。膝を抱えて、透明になって、きっとまだ死んだ舟の中にいる。
 そこに『あの子』を置き去りにしたのは自分だ。力なんかないから。価値なんかないから。資格なんかないから。信じられなかったから。だから自分も、ここに置き去りにされている。死んだ舟の中で膝を抱えて、透明になっている。今もこうやって、一人ぼっちで。
 でも、まだ終わりではないのだ。富士は今日、それを知った。信じられた。
 舟は蘇る。
 そして誰かをどこかへ運び、たとえ遠く離れたとしても、何度でもまた出会わせてくれる。そういう力がまだちゃんとある。それを忘れさえしなければ、どんなにひどく大破したって、必ず何度でも蘇る。
 そう信じていられることが自分の力なら──それはある。確かにある。
 信じろという蟹江の声。信じろという南野の声。声は心の奥からも聞こえる。立ち上がれ、走れ、そう叫ぶ声に胸が高鳴る。この力を見せつけろ。死んだ劇団を生き返らせて、自分の力を証明しろ。声は身体の中で響き合い、共鳴し合って膨れていく。突き動かされるように富士は顔を上げた。
 ここを、出るのだ。

      *

 朝が来て、カーテンの隙間から部屋に光が射し込んでくる。荷造りがようやく終わったのは、午前七時過ぎのことだった。いくつものダンボール箱に取り囲まれ、あとは業者を待つだけ。
 ノートパソコンとスマホ、身の回りのもの、工具入れなどは、ダンボールに詰めずにそのまま置いてある。バックパックとカートを使って、これらは自分の手で持っていくつもりだった。
 一睡もしなかった。
 蟹江にもらったDVDはすべて見て、台本も読み、富士はそれから眠らずに荷造りを始めた。休憩もせず、仮眠もとらず、何時間もかけて、こうして最後までやり遂げた。
 でもあともう一つだけ、やるべきことが残っている。メールを親に送らなければ。朝の忙しい時間だし、電話しても出られないだろう。
『こっちでやりたいことを見つけました。高崎にはまだ戻りません。知り合いのシェアハウスにお世話になりながら、とにかくしばらく頑張ってみようと思います。』
 ──理解してもらえるだろうか。
 まず無理だろう。すぐに反対されるだろう。そう思いながら、でも富士はそのまま送信する。
 蟹江の台本を、もう一度開く。どのページもひどく汚れていて、きれいなところなど少しもない。これを預けてくれた蟹江の気持ちに応えたいと思う。応えられる自分でありたいと思う。
 少しも眠たくない目を擦り、富士は立ち上がってカーテンを開けた。窓も開き、風も入れる。始まりの朝に、深呼吸する。

      3

 三月三十一日、午前十時半。晴天。
 マンションのエントランスから通りに出て、富士は一度だけ後ろを振り返った。暮らしていた部屋の窓を見上げると、四年前の春に自分で選んだカーテンが見える。残してきた生活の痕跡はあのカーテンだけで、部屋の中はがらんどうだ。鍵も渡したし、あの部屋に戻ることはもう二度とない。
 身を揺すって、重いバックパックをしっかりと背負い直す。これが一番大事な荷物で、ノートパソコンとスマホ、ケーブル類、財布などの貴重品が入っている。右手のカートには工具入れ。左手のスーツケースには当面の着替えや洗面用具など身の回りの物を詰めた。その他の荷物や家具類はすでに業者がすべて運び出し、今頃はトラックで一路高崎へ向かっているはず。
 恵比寿駅へ向かう道をこうして歩くのもこれが最後だった。街は白く輝いて見える。背を押す風はまだ冷たいが、行く手の陽射しはやたらと強い。
 大きな荷物をヤドカリみたいに引きずって、富士はずんずん歩いていく。親からの返信はまだなかったが、出発を遅らせる理由にはならない。親にどう言われようと、こうすることにもう決めたのだ。ショートコートのポケットには蟹江に渡されたメモが入っている。南野の家の住所は、東京都すぎなみ区。最寄りの駅は丸ノ内線みなみ駅だが、JR阿佐ヶ谷駅も使えるらしい。蟹江は簡単に地図も描いてくれていた。不慣れな地下鉄よりJRで行くことにする。駅からは多少歩くだろうが、ひるみはしない。フレアスカートの裾をふわふわと翻し、ひたすら前へと進んでいく。
 今日からだ。
 今日から、すべてが変わる。昨日までは想像もしなかった、すべてが未体験の新生活が始まる。これから出会うのは、新しい自分。新しい自分はシェアハウスに住んで、バーバリアン・スキルのスタッフとして演劇の世界に身一つで飛び込む。
 思うなり鼓動が早まった。息が上がって苦しくもなる。これはきっと、重い荷物のせいだけではない。
(どんな部屋なんだろう。どんな人が住んでるのかな。仲良くできるといいけど)
 シェアハウスの住人の一人が蟹江だということはすでに知っている。南野の物件だし、やはり演劇関係者が多いのだろうか。女性の比率はどれぐらいだろう。
 歩きながらも期待と不安が脳内に渦巻く。シェアハウスでの暮らしについて、テレビや雑誌で見たこと以上のイメージは浮かばない。なにしろ展開が急すぎて、調べることもできなかった。ネットで情報収集どころか、グーグルアースで物件を見ることすらしていない。
 恵比寿から山手線に乗り、新宿で降りる。「すいません! 通ります!」人の波をかき分けて、乗り換えるホームへ進んでいく。その荷物で電車かよ、と結構な数の人に冷たい視線を向けられながら、どうにか中央総武線へ乗り込む。阿佐ヶ谷につき、たくさんの人々とともにホームに降り、階段を下りて改札を出る。蟹江がくれた地図を確かめながら、右手の出口へ向かう。
 この町を訪れたのは初めてだった。
 まず驚いたのは、出迎えるように立ち並ぶ大きな木々。老若男女が行き交う通りには活気がある。都会なのにどこか長閑のどかで、地に足がついた生活感もあって、いかにも暮らしやすそうだ。明るい町だ。
 アーケードをくぐり、商店街をキョロキョロと歩くうち、どこかから焼き鳥の匂いが漂ってきた。香ばしくて、甘くて、濃い脂。うなぎかもしれない。すれ違う中年の男女が「ここ通るとおなかすくよね」と笑い合う。わかる! と心の中で同意するなり、突然おなかが音を立てて鳴った。恥ずかしさに焦る。何日ぶりかで、いきなり猛烈に食欲が湧いてしまった。荷物を置いたら、まずなにか食べに出なければ。きっと気に入る店が見つかる。そう考えるだけでわくわくしてくる。
 気が付けば、顔には自然と笑みが浮かんでいた。いい予感がする。きっと明るくて、楽しくて新しい、素晴らしい日々がここから始まる。荷物の重さも徹夜の疲れも、すこしもつらいとは感じない。
 ただ、結構、駅から遠くはあった。
 歩き続けるうち、いつしかアーケードは途切れ、商店街の賑わいも失せ、車の行き交う大通りに出る。すでに十分以上は歩いてきているはずだが、蟹江が描いてくれた目印の交差点にはまだ行きつかない。まさか通り過ぎてしまったのだろうか。さすがにすこし心細くなってきて、富士は道端で足を止めた。スマホを取り出し、南野の家の住所を入れて確かめる。通り過ぎてはおらず、まだ先だとわかる。
 再び歩き出して数分、やっと交差点に辿り着いた。曲がり角に入り、静かな住宅街の奥へ踏み込んでいく。一戸建てが密集していて、車では通れないような狭い路地が現れる。
 辺りは都内とは思えないほど静かだった。日曜日だというのに人の気配がまったくない。あまりにも静かすぎて、野良猫が塀から下りる足音なんかが「たふっ」とくっきり聞こえてきたりする。
 奥へ進むほど、路地はさらに狭くなった。段々と不安になってくる。これは本当に通っていい道なのだろうか。人の家の敷地ではないのだろうか。富士には判断がつかない。それでも地図を頼りにするしかなく、指示通りにしばらく進むと、やがて目指す番地に辿り着いた。
 暗い丁字路のどん突きに、それはあった。
 見上げて立ち竦み、「ひっ……」変な声が出た。
 崩れかけたコンクリの塀は、なぜかじっとりと濡れていて、茶色いこけが生えている。黒くて尻が二つに割れた虫が、悠然とその苔の中を行き来している。野良猫けのつもりなのか、錆びた釘が上向きにびっしりガチャガチャと植わっている。その塀の内側に、それは横向きに建っていた。
 建っていることが不思議なほどに朽ち果てた木造アパート──というか、廃墟だ。
 また廃墟。なぜ廃墟。さっきまで元気に高鳴っていた心臓が、急速にシュン、と静まって、富士はほとんど死人のようになる。心電図のモニターをつけていたなら、関東平野の地平線ほどにフラットな脈を披露できたはずだ。湿った塀の前で呆然と立ち竦み、息をするのも忘れる。肩からバックパックのストラップがずり落ちて、なんなら自分も崩れ落ちたい。
(まさか……これが、南野さんの、シェアハウス、なの……?)
 だとしたら、自分は今日からここに住むことになるのだが。いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや。いくつもの否定がこめかみを右から左へ貫通していく。ない。それはない。そんなわけない。だって無理だ。これは廃墟だ。廃墟に人は住めない。でもなぜか教えられた番地はここで合っている。おかしい。きっとなにか間違っている。富士は右手にスマホ、左手に蟹江のメモを摑み、またしてもヒヨコの雌雄を鑑別する人のようになる。そして残念ながら、何度確かめても、番地はここで合っている。
 自然と空に逃げようとする眼球を、無理矢理に再び廃墟へ向けた。視点を合わせようとすると、水晶体の筋肉が断末魔の悲鳴を上げるみたいに戦慄わななく。見たくない現実が、今、富士の目の前にそびえたっている。半ば崩壊しかけながら、まだギリギリ、自立している。
(やばい、やばい、やばいやばいやばい……!)
 見れば見るほど語彙は失われた。破れてぶら下がるトタンのひさし。あちこち外れたままの鉄柵。錆びて傾く外階段。筋状に黒ずんで剝がれまくったモルタルの外壁。廃墟特有のドス暗い雰囲気。
 塀には、南野荘、と書かれた看板がかかっていた。マジックの横線がその文字の上にぐしゃぐしゃと引かれ、上部には大きく手書きで『ゴッゴッゴリランド!』と書かれている。その旋律は不思議なほど容易に脳内で再生できる。
 そして富士は、考えるのをやめた。
 踵を返そうと身を捻る。とにかくここにいてはいけない。わかることはただそれだけで、ほとんど反射のように、この場から立ち去ろうとしていた。が、にゅっと背後から足が出てきて、向きを変えようとしたカートの車輪を踏む。
 ビルケンシュトック・アリゾナ。
 大きな影の中に囚われた。富士は声もなく振り返る。壁のようにそびえる巨体を仰ぎ見る。
「──ようやくおいでなすった」
 南野だった。

#1-8へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2019年11月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2019年11月号


カドブンノベル

最新号 2020年1月号

12月10日 配信

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