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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.10

受け身系女子は、劇団のヒロイン女優に 自分の入団を認めさせられるか⁉ 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-1

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は期間限定公開です。


前回のあらすじ

大学卒業前に婚約を破棄され、人生のドン底にいた龍岡富士は、チラシに惹かれて訪れた劇団バーバリアン・スキル(バリスキ)の観劇中に、異臭騒ぎに巻き込まれた。舞台は中止となり、実家に帰る準備をする富士のもとに友人の須藤から連絡が入る。須藤と再会しバリスキと接点があったことを思い出した富士は、舞台の続きを観たいという思いから、団長・南野らの誘いを受けてバリスキに入団する。富士はバリスキを復活させることができるのか?

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      3(承前)

 とりあえずコートは置いたまま、ブラウスの襟を直し、カーディガンのボタンも留め、スマホと鍵だけ持って部屋を出た。手すりには触らないように気を付けながら階段を下りていく。
 みなみ家の裏口は、アパートの敷地を出て塀沿いにすこし歩いたところにあった。すぐそこだが、の足取りは重い。
(昨日みたいにまた言われちゃったらどうしよう。らんさんは、私が劇団に入ることに反対してる。でも普通はそうだよね……真剣になにかを作り上げてる中に、ド素人がいきなり踏み込んできたら歓迎なんかできるわけない。納得してもらおうにも、私には実績も経験もないし……)
 悩んで惑う視線の先、南野家の角のところに、白いバンが停まっているのが見えた。ドアを開け閉めする音がして、なにか作業をしているような気配がある。
 もしかして南野の兄だろうか。もしもそうなら店の隣に住むのだし、南野には劇団でも世話になる。今後も顔を合わせることになるだろうし、挨拶だけでもしておかなければいけない気がする。
 南野家の裏口を通り過ぎ、敷地の塀沿いをさらにぐるりと歩くと、通りに面した店舗のガラス戸が現れた。ここに店があると知らなければ通り過ぎてしまうほど小さく、看板もなくて、表にはスタンドボードが一つだけ。そっけないチョークの手書きで「開。品切れ次第終了」と書いてある。
 バックドアが開いたままのバンはあるが、辺りに人の姿はない。店の中をのぞいてみようと近づくと、ふわっとパンの香りが漂ってくる。バター、小麦粉、焦げた皮……思わず胸いっぱいに吸い込んでしまって、富士はほとんど気を失いかける。からっぽの腹の中で胃液がマグマみたいに沸騰するのがわかる。食欲という名の怪物がしためずりしながらよだれダラダラ、「た~まんね~!!」とか叫びつつ、太鼓を打ち鳴らして踊り狂っている。
 富士はふらふらと夢遊病みたいにガラス戸に手を伸ばし、開こうとして押す。しかし押しても開かなくて、引いてみても開かない。空腹のあまりに思考力を失って、ひたすらガタガタと押したり引いたり、ガラス戸としばし格闘する。もはやなんのために店に侵入しようとしているのか、挨拶なのかパン強盗なのか、自分で自分がわからなくなる。店を襲うゾンビはこういう心境なのだろう。意外なところにシンパシーのひらめきを感じていると、
「ちょっと」
 その肩を後ろから軽く叩かれた。
「はい!?」
 今忙しいんですけど!? ぐらいの勢いで振り返ると、すぐ背後に立つ男の胸に視線がぶつかる。そのまま視線を上げて、顔を見る。
 見るなり一目でわかってしまった。彫りが深くて濃い顔立ちは南野にそっくりで、なによりこの大きな身体。南野ほどではないが高い身長に厚い胸。清潔なコックコートにエプロンを重ねてかけ、左手の薬指には銀色の指輪。
 南野の兄だった。
「このドアは、こう開くんで」
 富士の背後から伸びる長い腕が、ガラス戸を横にスライドさせて軽々と開く。すっぽりとその脇の下に納まってしまう位置、頰が一気に真っ赤になるのがわかる。「す、すいませ……」謝ろうとしたその時、声を遮るように、突然信じられないような重低音で腹が鳴り始める。なんだこの地獄──富士は必死に腹を両手で押さえ、音を止めようと力を入れる。しかしごうおんは鳴り止んではくれず、静かな町内にどこまでも高らかに響き渡る。今マップを開いて見たらまさにこの地に「腹ペコ」のピンがぶっ刺さっているかもしれない。ここ! ここに! 腹ペコの人が! います! 全力でそう宣言しているかのように。羞恥のあまり寒気までした。南野の兄は、そんな富士をじっと見下ろしている。
「す……すいません! これはなんでもないんです! どうか、お気になさらず……!」
 恥ずかしさに耐えきれず、尻から後ずさって逃げようとする富士に、しかし南野の兄はにっこりと優しげに笑いかけてきた。
「うちはベーカリーだから、おなかすいてる人はいつだって大歓迎。売り切れちゃってるのも多いけど、どうぞ」
 先に立って店に入っていき、カウンターからトングとトレイを取って差し出してくれる。すべての恥が成仏する、あまりにも優しい言葉だった。しかし、富士は我に返る。パンを買いに来たわけではないのだ。どうにか平静を取り戻し、改めて頭を下げる。
「すみません、あんまりにもいい匂いがして正気を失くしてしまいました。あの、南野さんのお兄様でいらっしゃいますよね……?」
 南野の兄は意外そうに眉を上げて富士を見た。
しようの知り合い?」
「はい。ご挨拶させて頂きたくて参りました」
 バレエシューズの爪先を揃えて姿勢を正し、深々と礼をする。醜態をさらした事実は消せないが、せめて丁寧にやり直す。
「今日から南野荘にお世話になります、たつおか富士と申します。お店にご迷惑をおかけしないよう、気をつけて生活していきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「南野荘!? 住むの!? あそこに!?」
 南野の兄は本気で驚いたらしい。顔をほとんど引きらせて、「なぜ……!?」たずねてくる。
「実はこのたび、南野さんの劇団のマネージャーになったんです。正直どういうお役に立てるのか、自分でもまだわかりませんが、そのご縁で、南野さんに取り計らって頂いて、あそこに住まわせていただけることになりました。すいません、お隣でお店をしてらっしゃるのに事前になにもご相談せず」
「いやいや、相談なんかいいんだけど……え、大丈夫!? 何号室!?」
「203です」
「あーあーあー……空いたもんね。203ね。はいはいはい……なんか色々、気を付けてね? うちの物件ながらアレ、女性向けの物件とは到底言えないから」
「はい、気を付けます。かにさんの部屋もすぐ近くなので大丈夫です」
「蟹江ねえ……」
 腕を組み、南野の兄は天井に目を向ける。ちょっと悩むような顔をする。
「あんまり頼りにならなそうだな。もしなにか困ったことがあったら、俺にでも正午にでもいつでも言ってよ。正午もあんなだけど、腕っぷしは確かだから」
「ありがとうございます。でもできるだけ皆さんにご迷惑をおかけしないよう──」
 そう言っている途中でまた腹が鳴り始めてしまった。たちまち再び動揺しそうになるが、
「──頑張って、自立してみようと思ってます」
 ふと、諦めがつく。どうせ止められはしないのだ。開き直って、自分の空腹の音をBGMに、富士は改めて深々と頭を下げた。顔を上げると南野の兄はなぜかうれしげに笑っていて、
「よかったらこれ。どうぞ」
 アルミホイルの包みを一つ、富士の前に差し出してくれた。反射的に受け取ってしまう。柔らかくて、結構しっかりとした重みがある。
「自分の昼用に作ってきたヤツだけど、その辺で食べながらちょっと待ってて」
 そのままカウンターの奥へ入っていってしまう。包みを開いて見てみると、二つの大きなサンドイッチだった。驚いてお礼を言おうとしたときには、もう姿はそこにはない。
 いつもならもちろん、遠慮するべき場面だった。せっかくのランチを自分が頂いてしまうわけにはいかない。お礼も言わないうちに手を伸ばすなんてありえない。でも、今の富士は、もはや遠慮していられるような状態ではない。
 余裕なくむんずとつかむなり、夢中でサンドイッチにかぶりつく。その柔らかさに、「うん!?」思わず鼻から声が出る。パンはふわふわ、野菜もハムもたっぷり挟まっていて、もう一つはタマゴだ。口の中いっぱいにまろやかなマヨネーズの風味が広がり、パンの甘みがそれを優しく包み込む。ずっと味わっていたいのに、どんどん喉が飲んでしまう。そして鼻に抜ける、小麦粉の香り……。こんなにおいしいサンドイッチはこれまで食べたことがない。食べれば食べるほどもっと食べたくなる。飲み物もなしで立ったまま、あっという間に二切れを食べ終わってしまう。
 魔法のように、サンドイッチが消えた。
 幸福感は圧倒的だった。
 できればこのまま真後ろに倒れて、サンドイッチの記憶を胸に、パンの香りの中で意識を失ってしまいたい。でもさすがにそれはできない。カウンターにすがりつくようにしてなんとか立った状態をキープしつつ、富士は店の中をぼんやりと見回す。
 普通のパン屋に比べたら品数は随分少なくて、内装も極限までシンプル。味と品質だけで勝負しているのだ。サンドイッチのパンも驚くぐらいにしかった。ふわふわでむちむちでしっとりで……うっとりと唇を舐め回しながら、富士はまだ半分夢見心地、カウンターに突っ伏してしまう。そのすぐそばに、なにかがドサッと置かれた。驚いて目を開き、顔を上げる。
「これ持って行って」
 再び現れた南野の兄がカウンターに置いたのは、大きなカゴだった。見てみると、中にはいくつものパンが入っている。白くて丸いの、分厚くて四角いの、ハーブを載せたの、大きなベーコンが載っているの、チーズで焼き上げたの……どれもものすごく美味しそうだ。しかし、持って行って、とは。今並んでいる売り物よりもたくさんある気がするのだが。
「あの、これは……」
 困惑する富士の目の前で、南野の兄はてきぱきと手際よくカゴに紙を一枚かけ、テープを貼ってくれる。
「俺から龍岡さんへ、ご挨拶の印。正午の知り合いでこんなふうに挨拶してくれる子って初めてだから、なんか嬉しくなっちゃってさ。これからも、あいつがわけわからない迷惑をたくさんかけると思うけど、どうか今後とも末永くよろしくお願いします」
「いえ、そんな!」
 慌てて富士は首を振った。
「ご迷惑をおかけするのは私の方です。南野さんには劇団のことでもこれから色々教えて頂かないといけない立場ですし、それにこんな……すっごくすっごくすっごくおいしそうですけど、こんなにたくさん頂いてしまっては、あまりにも申し訳ないような……」
「いいのいいの」
 はい、と大きなカゴを手渡されてしまう。鼻先にたちまちかぐわしいパンの匂いが立ち上る。匂いの引力は暴力にも近い。「持って行ってくれないなら、203までお届けにあがるだけだし」おおらかな笑顔にも、これ以上はあらがえない。
「すいません……じゃあ、頂きます。ありがとうございます」
「劇団の連中に見つからないようにね。あいつらうちのパン、すげえ狙ってくるから。まじでハイエナ、そんなの一瞬でられて食い尽されちゃうよ」
「でもそれもわかります。だってすっごくいい匂いだし、サンドイッチも最高でした。人生で一番おいしかったです」
「だろ?」
 得意げに胸を反らし、自信たっぷりに笑う表情は、やっぱり南野とよく似ている。
 と、女性客が一人、店に入ってきた。「いらっしゃいませ」南野の兄は愛想よく挨拶しつつ、トレイとトングを手渡しにカウンターから出て行く。
 お店の邪魔になってはいけない。富士はコックコートの大きな背中にもう一度だけ頭を下げ、急いで店から出た。
 パンのカゴを両手で抱え、再び南野家の裏口へ向かう。といっても、すぐそこだ。ほんの十数秒の道のりでしかない。
 塀の切れ目から裏庭に入り、いよいよ蘭との対面の時が目前に迫る。どうしても緊張してしまう。蘭が自分を歓迎しないのはわかっている。
 風を通したいのか、南野家の戸口はれんを一つ挟んで開いたままにしてあった。その前で、富士の足は動かなくなってしまう。
 あの夜、あの舞台に立つ蘭を見たからこそ、自分は今、ここにいるのだと思う。蟹江の中坊もおもしろかったし、踊る南野の迫力もすごかったが、あの舞台を支配していたのはやっぱり蘭だ。蘭がいたから、あの夜までとは全然違う場所に、自分はこうして立っているのだ。富士にとって蘭の存在は、ただ好きだとか、憧れるとか、そんなはんちゆうには到底納まらない。蘭は、富士の人生の「あれまで」と「あれから」を、くっきり分ける線そのものなのだ。
 その蘭に受け入れてもらえないならば、その一線を本当に越えたことにはならない気がする。そしてここより先にも、進んでいくことはできないような気がする。
 それに、富士は劇団を生き返らせたい。蘭は劇団の「華」だと思う。南野はエネルギーの源泉で、物語の糸を紡ぐのは蟹江。蘭はその組織に絡みつき、どこまでも高々と伸び上がって、大きく美しく咲き誇る「華」そのものだ。舞台では蘭こそが最強の求心力で、蘭がその身で表現する世界を、ひとは見たいと願うはず。蘭なしのバリスキはあり得ない。蘭がいなければ、この夢はかなわない。
(どうすればいいんだろう。蘭さんに嫌われたくない……)
 悩んだところで、答えは出なかった。いつまでもこのままこうしてもいられない。意を決し、富士はインターホンを肩で押してみる。壊れているのか音は鳴らなくて、仕方なく肘でドアを開き、勝手に中へ入っていく。
「失礼しまーす……」
 靴を脱いで玄関に上がると、よその家のにおいがひんやりとした。顔に当たってくる藍染のれんを避けつつ、階段のあるホールの方へ進んでみる。廊下の床にはダンボールや謎の機材、ハンガーラックなどが所構わずびっしり置かれ、またいでいかなければ歩けない。どっちに行けばいいのかわからず、富士はきょろきょろと辺りを見回す。
「富士さん、こっち」
 開け放たれたドアの向こうから蟹江が声をかけてくれた。ホッとして、慌ててまた荷物を跨ぎつつそちらへ向かう。
 今度は小さな木の玉がびっしりぶら下がる暖簾に顔面を襲われながら入っていくと、そこは南野家のリビングだった。
 それなりの広さがあるが、廊下と同じくたくさんの物があふれて雑然としている。庭に出られる大きなサッシも積み上げられた衣装ケースに半ば塞がれ、せっかくの陽射しが室内に入ってこない。
 造り自体はよくある古めの間取りだった。キッチンとの間にはカウンターがあって、壁際には重たそうな木製キャビネット。テーブルセットとソファセットも置かれている。
「今みんなが座れるスペース掘り出してるところだから待ってて」
 リビングには蟹江しかおらず、ちょっと気が抜けた。蟹江はゴミ袋を片手に、富士に背を向けてせっせとテーブルの上を片付けている。四脚ある椅子の座面にまで細々とした物が積み上がっている。
「遅いからどうしたかと思ってたんだよ。ていうかひどいよね、この散らかり方。とか出しっぱなしだし……うわ、賞味期限おととしだ。焼海苔なのになんかネトネト……」
「なにかお手伝いしましょうか」
「いや、大丈夫。ていうか立たせたままでごめんなさい。せっかく仲間入りしてくれた富士さんを、こんなところに座らせるわけにはいかないからね」
 振り返り、蟹江は「あれ?」と瞬きする。
「そのカゴはどうしたの?」
「あ、実はちょっとここに来る前に、」
 南野さんのお兄さんのお店に寄ってきて、と言おうとしたのだが、突然ぬっとソファの陰から立ち上がる巨体があった。普通にびっくりしてしまい、続く言葉を見失う。
「──出でよ富士!」
 南野だった。
 仁王立ちになりながら、自分の足元を両手で指さしている。なぜか目を閉じ、うつむいたまま。
「……ちょっと前から、ここにいますが……」
 富士が答えると、薄く目を開き、ゆっくりと顔を上げる。れるほどたっぷりともったいつけて、荒れ狂う髪の隙間からぴたり。銀色の眼差しをまっすぐ向けてくるなり、
「おまえの指、俺が一本もらうぞ」
 めちゃくちゃ不吉なことを言う。
「……いやです」
「いやです? いや、まさかな。くっ、耳がおかしくなりやがった」
「いやです、ってば」
「ところで俺様の理論によれば、俺様の頼みを無下にする奴はこのディメンションに存在しない。ということは──つまり、ここは一体? 俺よ! 俺よ! どこにいる! 俺なき世界に光あれ!」
 顔を上げないまま、蟹江が小さく「見てあげて見てあげてうるさいから」とささやいてくる。
 仕方なくパンのカゴをテーブルに置き、床の荷物を跨ぎ越え、南野が指さすその足元を見てみる。南野はスポーツ新聞や雑誌の束を巨大な足で踏みつけていて、ひもをかけてまとめたいらしい。十字にかけた紐は緩んで、たゆんでしまっている。
「要するに、結び目を指で押さえてろってことですか?」
「それ以外になにがあるんだ? あるなら逆に知りたいが? この俺に知りたがられるとは──命知らずな挑戦者め」
「はいはい……回りくどいことを言わずに普通に指示して下さい。ていうかこれ、そもそもやり方が間違ってますよ。よかったら私があー!」
「なんだその唐突な自己主張は」
 蟹江も「ンフフ、いきなりのアピール」後ろ姿で笑っている。違うのだ。今のは悲鳴だ。結び目を押さえてやった人差指の先端ごと、南野が馬鹿力で縛ってきやがった。「……ゆ! ……ゆ!」引き抜こうとしても気づかず、「おかしな奴だな」さらにぎゅぅっと引絞られる。富士はもはや声も出ず、第一関節から先が暗い紫に変色していくのを悪夢みたいにただ見つめる。もちろんこんな間抜けな経緯でみすみす利き手の人差し指を失うわけにはいかない。「……っ! ……っ!」決死の覚悟、しゃがんだポーズのままで富士は同じくしゃがんだ南野に体当たりをしてみる。しかし南野の巨体は岩石のように重く、鋼鉄のように硬く、富士如きの体当たりでは微動だにしない。真正面からドシドシぶつかってくる約50キロの物体に、そもそも巨人(いわ/はがね)は気づいてもいない。どこか遠くを見る目をして、
「しっかし新聞だの雑誌だのチラシだの、気づけばこんなにまっていたとはな。俺としたことがかつなこった。日々ちゃんと意識して整理しないといかんな」
 自分に言い聞かせるようにつぶやきつつ、うんうん一人でうなずいている。知り合ったばかりの女の指を紐でちぎり落とそうとしながら、珍しくまともなことを言っている。
 一方富士の脳裏には兄の姿が浮かんでいた。昔、五本指を広げては、きょうだいみんなで言い合ったものだ。生まれた順に、親指がお姉ちゃん、人差指がお兄ちゃん、中指が富士で以下略。今日ちぎれるのは、お兄ちゃんの指。脳内の兄は紫色に変色しながら『あっはっは!』、こんなときでも前歯キラッ。なに笑ってんだ……とか思いつつ、痛みのあまり意識が遠くなっていく。
 その時だった。
 白く溶けゆく視界の隅。荷物で遮られたサッシの方角に、真っ赤な塊が現れる。
 それはズカズカと近づいてきて、
「指!」
 鋭く叫ぶなり、南野の頭上になにかを振り上げる。ちゆうちよなく脳天に打ち下ろす。ガツッ、とすごい音がして、さすがの南野も驚いたように顔を上げた。その拍子に紐が緩んで指が抜け、勢い余って富士は後ろ向きに一回転。今度は自分がΩになって、「……っ!」まだ声は出ない。左手で右人差指を握り締め、(セーフ! セーフ!)脳内で叫ぶ。指、まだついてる。(お兄ちゃーん……!)現実の兄にはもちろん関係ない。
「なに!? どうしたの!?」
 驚いたように蟹江が富士に駆け寄ってくる。背を向けていたから事情がわからないのだろう。富士はなんとも答えられないまま顔を上げ、潤んだ瞳を前方に向ける。
 その人は、深紅のサテンのド派手なスカジャンを着ていた。背中で笑う黄金のスカルと、まっすぐ視線が合ってしまう。
「馬鹿か!」
 吐き捨てるように言ったのは、蘭だった。
 蘭は片手に小さなスコップを握っている。あれで南野を殴りつけたのだ。丸い柄の方か尖端の方か、その選択でる気の度合も測れそうだが、
「いきなり凶器とは、とうごうよ……いくら俺でも若干戸惑うぞ。なにか理由があるんだろうな」
 振り向く南野がたいしてダメージを受けていないあたり、恐らくは柄の方だったのだろう。
「さっきからてめえがあいつの指を、」
 尖端の方で不意に富士を指し示し、その先端はすぐに再び南野に向く。
「無心な目ェしてぎゅうぎゅう縛り上げてたんだろうが」
「一体なんのことだ。俺セルフに誓って言うが、そんなことはしちゃいねえ」
「ほんっと……とことん、てめえのことしか見てねえ奴だな」
 蘭は不穏な半眼になり、スコップの先端を南野の顎の下、頸動脈あたりに突き付ける。南野は「おお……」嫌そうに上体をくねらせてそれを避ける。
「よせ、こうもりを葬ったスコップでこれ以上俺に触れるな。小動物の死体にはバイキンとかがいっぱいついてて危険なほどに不潔なんだぞ……」
「なんだろうがてめえにはかなわねえよ」
「ふっ、むべなるかな。俺様クラスの生物であればそんなの当然──待ちやがれ! もしかして今のは悪口か!? くそ! 一瞬とはいえ喜んじまった! 不覚!」
「うるせえ!」
「馬鹿を言え! 俺様の声は地球が奏でるシンフォニーぞ! 一方おまえはなんなんだ!?上がり込むなり凶器で殴打とは、正気の沙汰とは思えねえ!」
「てめえの方こそ正気だったことなんかあんのかよ? てめえの目の前見えなさに、こっちの我慢もとっくに限界なんだよ!」
「それは一体なんの比喩だ! 遠回しすぎて意味がわからねえ!」
「比喩じゃねえ! 直球そのまんまだよそびえ立つくその柱野郎! てめえなんか糞に謝れ、糞に糞土下座して糞頭から糞マントルに沈んで糞地球の糞エネルギーにでもなってろカニ!」
 突然の語尾は、好物だからつけてみた♡というわけではないだろう。この空間でカニと言えばもちろんこの人、「あっ、えっ?」ろうばいしつつ、富士の傍らに膝をついていた蟹江がおどおどと立ち上がる。
「やだな、もしかしてその謎の争いに僕を巻き込もうとしてる……?」
「黙んな。答えろ。はどこ」
 律儀に二秒ほど黙ってから、蟹江は再び口を開く。
「樋尾さんなら来てないよ。ていうか来たら、ンフ、かなりびっくりだけど」
「あぁん……?」
 毒でも吐き捨てるような、きわどくしやがれた低い声。波打って膨らむ豊かな髪を片手でワイルドにかき上げて、蘭の怒りは蟹江に向く。鋭い視線は目で目を脳まで突き刺すよう、刃物で切り裂いたみたいにきつく吊り上がるまなじりには可視化できそうな殺気が宿る。
「おいこらてめえこの甲殻類……あんまりあたしを舐めんなよ?」
 目では狂おしくにらみつつ、唇は優しげに綻んでいるのが怖い。笑いを含んでひらひら裏返る声の抑揚も怖い。
「てめえは昨日、言ったよなあ?」
 スコップを持っていない方の手が蟹江の襟首を引っ摑み、ぐいっとその顔を間近まで乱暴に引き据える。蟹江は哀れ、抵抗もできずにされるがまま。
「樋尾も来るって、言ったよなあ? だからあたしはここにいるんだよなあ? でもさあ、あっれえ、おかしいなあ? てめえまさか適当こいて、あたしをだまして呼んだのかなあ? そんなことして無事にすむとか思ってんのかなあ……?」
「待って待って、静まって静まって……」
「突然だけどカニ面って知ってる?」
「えーと、カニの甲羅の中に本人の、ていうか本カニの身をぎっしり詰めたやつかな……? ンフフ、あ、合ってる……?」
「ああ合ってるねえ。あたし、てめえをそれにしてえ」
「……ン、ンフッ……落ち着いて聞いて、蘭さん。南野と違って、僕は中身を出されたらリアルに死んじゃうよ。本気でこれ、こんなの、おでんの具にしたい?」
 蟹江は決死の表情で、自分の顔を指でクルクルと差して見せる。「俺だってそんなの死ぬぞ……」不満げに南野が呟くが、今は誰も構ってやれない。
「犯行に及ぶ前によーく思い出してみて? 樋尾さんが来るなんて、僕は一言も言ってないから。声をかけてみるって言っただけ。で、声はかけたよ本当に。みんなで今日ここに集まります、って留守電に残したし、メールもした。今後のことを一度きちんと話し合いましょう、って。でも相変わらず無視されてる、っていうのが今の状況」
あざながまさも死因はカニ面なんだよね」
「いやいや、どさくさに紛れてなに言ってるの。その人は死んでから頭蓋骨で酒飲まれただけだから。ていうかそもそもこうやって僕だけを責めるのはおかしいと思わない? 蘭さんも南野も樋尾さんに連絡はしてるわけで、そして同じく無視されてるんでしょ? ってことは、ンフ、樋尾さんがここに来ないのは別に僕のせいじゃないでしょ……?」
 蘭は舌打ちし、案外あっさりと手を離す。蟹江の胸を、荒っぽく突き飛ばす。
「ったく……うっぜえツラ。まじでもう、どうでもいいわ。のこのこやって来たあたしがバカだった。てめえらだけで勝手にやってろ」
 そのまま振り返りもせずに、すたすた大股でサッシの方へ歩き出す。帰ってしまうつもりらしい。「ま、待って蘭さん……せっかく集まったんだからみんなで話を、」蟹江が膝立ちで慌てて追いすがり、後ろからその肘をどうにか摑むが、
「あたしにさわんじゃねえ!」
「わあすいません……」
 怒鳴り声に一喝されて即離す。
「つか、話ってなに!? 話なんかしてなんになんの!? 樋尾がいなけりゃどんだけ話そうが意味がねえだろ!?」
「いや、でも、これからのこととか色々、」
「これから!? こ・れ・か・ら!? ばっっっ……かじゃねえの!?」
 待ちわびた吉報を受け取ったみたいに、蘭は振り返りながら満面の笑みを浮かべる。天から降り注ぐ花の雨でも浴びているかの如く、両手を優雅に広げて天井を仰ぐ。
「これからなんて、あるわけねえじゃん!? てめえもモツもわかってんだろ!? 樋尾なしじゃうちらは、なんにもできないの! 樋尾がいなけりゃいくら話し合いなんかしても無駄なの! 樋尾がいなけりゃ、終わりなの!」
 その、大きく見開かれてキラキラと輝く瞳。声を荒らげるたびに紅潮する頰。抑揚に合わせて上下に揺れる顎先。
 ──こんな時だと言うのに、口を挟むこともできないまま、気付けば富士は蘭の表情に見入っている。
 なにをしても、特別に鮮烈な人間というのはいるのだ。目の前にいる蘭こそが、まさにそういう人間だった。
 決して身体は大きくない。平均的サイズの富士よりも、すこし小柄なぐらいかもしれない。でもその全身からゆらゆらと立ち上る殺気のせいで、蘭は実際よりも何倍も何十倍も大きく見える。周囲の景色は色淡く透けてぼやけ、蘭の姿だけがくっきりと浮かび上がるようにも見える。
 一度この姿を見てしまったら、脳裏に焼き付いてもう離れない。この身体が放つ強烈な存在感は、決して忘れることなどできない。
(これが……この人が、東郷蘭……)
 赤みがかった巻き毛は天然なのかパーマなのか、ボリュームたっぷりのロング。派手なサテンのスカジャンの下は黒のスキニーに裸足。異様に実用性のありそうなアーマーリングの指で乱暴に髪をかき上げて、蘭は一瞬で笑顔をかき消す。鋭い三白眼がたちまちかげり、テンション低くずしりと据わり、
「樋尾が戻るまで、二度とあたしを呼ぶんじゃねえ。呼んだら殺す」
 本気の声音で言い捨てる。背を向けながらポケットに両手を突っ込んで、半端に開いたままのサッシの方へ向かう。
 そうして去りゆく姿を富士は黙って見送りかけ、危ういところで我に返った。(って、だめ。だめだめ……!)慌てて目を瞬かせる。このままでは蘭が帰ってしまう。まだ指を助けてもらったお礼もしていないし、自己紹介もしていないし、劇団に加入したことも告げていない。拒絶されるどころか、まだ目を合わせてすらいない。
 行かせてしまうわけにはいかないのだ。ここに置き去りなんていやだ。そうやって黙って忘れるのを待つ、消えてなくなっていくのを待つ、そんな自分には戻らないと決めた。そんなふうに押し殺すことはもうしない。だから、声を上げなくては。
 富士は必死に勇気を振り絞り、
「……蘭さん!」
 蘭の背中に呼びかけた。
 黄金のスカルが、ぴたりと動きを止める。その黒いしゆうの眼球は、まだカーペットにへたり込んでいる富士を鋭く睨むようにも見える。
 そのまま萎えてしまいそうになる気持ちを必死に奮い立たせ、「……待って、下さい……」富士はどうにか言葉を継ぐ。
 数秒間の、濃厚な沈黙。
 このまま無視されてしまうのかも……そう思った次の瞬間、蘭はくるりと振り返る。物騒な半眼が異様な静けさで富士を見る。
 これで少なくとも、目は合った。じゃあ次は挨拶して自己紹介を、そう思うのだが、「……」声が出ない。身体の芯が馬鹿みたいに震えてしまう。これまでの人生で、人からこんな目を向けられたことはなかった。蘭のがんはまった二つの球体には、どんな感情も浮かんでいない。おどおどおびえる自分の顔しか映っていない。
「あの、あ、私……私は、」
 つい口ごもってしまう富士を見ながら、蘭はするどく舌打ちする。
「てめえはてめえでイカれてんだよ」
 姿勢を変えずに顎だけ持ち上げ、高い目線から富士を見下ろす。
「あたしが昨日止めてやったのに、なんで来てんの?」
「……あ、ええと、すいま……」
「もしかして全っ然、伝わってなかった? それともまじで、めっちゃアホなの?」
「……私は、ただ……この、劇団に……」
 その表情。視線。姿勢。声音。蘭のすべてにされて、頭の中が真っ白になってしまう。言いたいことが言葉にならない。そんな富士の目の前で、
「あのね。ここがイカれたお嬢ちゃん」
 蘭は片目をすがめつつ、自分の頭を指でトン、とつついてみせる。薄く微笑ほほえむ唇から、投げやりな声がどうでもよさそうに放たれる。
「こう見えて、あたしも別に暇じゃねえんだ。悪いけど相手なんかしてらんない」
 そして再び背中が向けられる。スカルの両目は蘭のとそっくり、富士になどもはやまったく興味がなさそうに、もはや視線が合うこともない。どうしよう、とさらに慌てる富士の目の前、
「待て東郷!」
 南野が声をかける。「今日はミーティングだ! 全員参加と言っただろう!」
 しかしそれも完全に無視して、蘭はサッシから縁側へ出て行こうとしている。その後ろ姿を、蟹江は困り果てたような顔でただ見つめている。
 嫌な動悸がした。このまま行かせてしまったら、次の機会なんてないのかもしれない。もう戻らないのかも。蘭の言葉の端々には、そんな気配があった気がする。
(そんなのだめ! どうにかして蘭さんを引き止めなくちゃ、でもどうすれば……)
 焦る富士の脳裏に、なぜか唐突に過去の記憶がよみがえってくる。薄暗い冬の光景。龍岡家の家族七人が乗れる、大型三列シートの車内。
 両親は車を離れ、駐車場に停めた車内で待つように言われていた。姉と兄は最後部でヘッドホンをして音楽を聴いていて、富士はうたた寝していた。その隙をついて、下の双子が車から外に出てしまった。そしてダッシュ、すぐ先には交通量の多い車道。富士は事態を悟るなり跳ね起き、傍らの大きな袋を引っ摑んだ。そしてそれを振って見せながら、窓から身を乗り出し、叫んだ。
『戻れ───!』
 振った袋は、こんなこともあろうかと用意していたチョコレートの詰め合わせ。双子は富士の声に振り返り、『あっ! チョーコ! チョーコ!』『おかし! おかし! わーい!』同じ笑顔を二つ並べてすぐに車へ戻ってきた。心底ほっとした。近所の犬が「戻れ」のコマンドをしつけられているのを見かけて、その方法を下の双子のしつけにも取り入れたのだ。おいしいお菓子の味を覚えさせておいて、いざというときにはそれで釣る。条件反射で戻って来させる。
 それをやるなら、今はここにチョコこそないが──パンはある。ハイエナはこの味を知っているはず。南野の兄は、そう言っていた。
「蘭さん!」
 背中に向けて声を放つ。
「私、パンを持ってるんです! 南野さんのお兄さんに頂いた、すっごくおいしいパンです!」
「……はあ?」
 蘭が振り返る。食い付いた。
 富士は蘭の顔から視線を外さずに立ち上がり、「本当です! ほらここに、あいた!」テーブルに向かおうとして足の小指を思いっきりぶつける。しかしめげずにパンのカゴを摑み、傾けて見せながら店でかけてくれた紙のカバーを一気に引き剝がす。その途端、部屋中にあのたえなる香りがふんわりと濃厚に立ち込める。蘭の視線がパンに向く。驚いたように片眉を上げる。
 南野と蟹江も覗き込んできて、「兄貴のパン? あのドケチが?」「すごーい、こんなにたくさん」驚いたように目を見交わす。
せんな。なぜおまえが兄貴のパンをこんなに持ってる? 兄貴は自家消費のパンを一つ売上に計上するたびコップ一杯の血の涙を流す男だぞ。これでは失血死していかねん」
「さっきここに来る前に、お店にご挨拶に伺ったんです。すいません勝手に。その時に、ご厚意で持たせて頂きました」
 蘭も匂いにつられたのか近寄って来る。しめた……と声には出さずに富士は思う。蘭は不思議そうに首をかしげ、富士の姿を上から下までじっくり眺めて言う。
「失血死してまでパンを食わせたいってツラかよこれ。まあ、どうだっていいけどさ」
 多少傷つかないでもなかったが、今はそんな場合ではない。パンを取ろうとする蘭の手が届かないよう、富士は爪先だってカゴを頭上に高く差し上げる。
「だめです」
「は? なにそれ」
 殺意たっぷりに睨み付けてくる視線に耐えつつ、どうにか言い返す。
「南野さんのお兄さんは、これを、劇団のミーティングの差し入れとして私に下さったんです」
 まあ、うそだが。
「ですから、ミーティングに参加されない方にはお渡しできません」
 獲物がわなにかかったら、罠の扉を閉めなければいけない。エサだけ取られて逃げられるわけにはいかない。パンで蘭を引き戻し、とにかくそのまま話し合いのテーブルにつかせるのだ。そうすればなにか前向きなことも決められる。自分が加入すれば役に立てると印象づけることもできる。蘭が劇団から離れていかないよう結束を強めることもできる。これは、そういう工作の第一歩。
 富士は内心は必死で、しかしその必死さを顔には出さないよう慎重に言葉を継ぐ。
「というわけで……ミーティング、始めません? お話をしながら、一緒にパンをいただきましょう」
「お話なんかしたくねえ」
「じゃあ、なにも話さなくてもいいです。ここにいて下さるだけでいいです。そうだ、その前にとりあえずちゃんと自己紹介をさせて下さい」
 富士は改めて、蘭の前で背を伸ばす。蘭は心底どうでもよさそうに両手をポケットに突っこんで、めくれた唇の皮を前歯でみながら富士の顔を見やる。
「龍岡富士と申します」
 深々と、富士は頭を下げた。
「バーバリアン・スキルのマネージャーとして、どんなことでもお手伝いさせて頂ければと思っております。どうぞよろしくお願いいたします」
「……マネージャー? あたしが聞いたのは、ATMって話だったけど」
「あ、それは、」
 実際のところ、まったく現実的ではない。確かにタツオカフーズは大きな会社だが、富士が自由にできるような金などない。そう本当のことを言いかけて、しかしやめる。そのご期待には添えません、などと言ったところで、拒絶の度合が強まるだけだ。今は噓でも誤解でもいいから、とにかく自分が劇団に仲間入りすることを、蘭に受け入れてもらわなければいけない。
「どうとでも、好きなように呼んで下さい。マネージャーでも、ATMでも、雑用係でも下っ端でも。どんな形でも、劇団のお役に立てれば本望です」
「あっそ。ま、あたしはパンさえ食えればどうでもいいよ」
 独り言みたいに吐き捨てて、蘭はどさっと椅子に腰を下ろす。よし、かかった。ひそかな達成感に富士は胸の内だけでガッツポーズ、しかしなぜかその蘭の背後で、
「俺様は南野正午! すまんな──日本の夏が暑いのは、太陽が俺に嫉妬しているせいだ!」
 南野の巨体がゆらり、山のようにそびえ立つ。
「……知ってますが……」
「そしてこいつが蟹江りよう!」
 蟹江を指さす。
「……知ってますが……」
 立ったままでパンを覗き込んでいた蟹江はびくっと猫背を震わせ、「な、なに……?」富士と南野を交互に見やる。
「でもってこいつは東郷だ! 東郷蘭! たまにこの俺もびびるほど口が悪いが人柄も悪い」
「……なんてことを……」
 蘭は完全に南野を無視し、行儀悪く足を組んでテーブルに肘をついている。
「そして、最後にかねまるだい!」
「……知ってま……えっ!?」
「よろしくお願いしまーす」
「さあ、これにてバーバリアン・スキル、生き残りメンバーの勢ぞろいだ! ってわけで、俺を見ろ! この俺様を見ろ! 俺様を見て感じた言葉はすべてが詩! そして音楽! この俺の上に空が落ちるまで命の振動をとどろかせよ俺以外の一般人──!」
 南野はどうでもよかった。
 そっちじゃない。蘭の隣にしれっと腰かけている、細身の若い男だ。
 こいつのことを、富士は知らない。というか、いつからいたのかわからない。これまで気配はまったくなかった。存在していることに気付かなかった。無からこつぜんと湧いてきたような気さえする。一体なんなんだ。コバエかなにかか。
 呆然と見やる富士の視線に気づき、「パン。いいすね」男はひょこっと顎を突き出すように頭を下げて見せる。気は良さそうだが……もしかして、昨日、蘭と一緒にいた男だろうか。そうかもしれない。『見上げてごらん』の舞台ですこし後れをとっていた、あの男でもあるのかも。そう、なのかも。でもはっきりとはわからない。
 目の前にいるこの男も含め、同一人物疑惑のあるどの男の印象も果てしなく薄いのだ。記憶にほとんど残っていない。特徴のない顔に、特徴のない髪形。無地の黒いTシャツはどこにでもありそうで、傷もピアスもタトゥーもなし。人が一般に「今時の若者」と言われて思い浮かべるイメージそのもの、すべてを足して割った結果のようだ。まさに恐るべき平均的風貌。富士とて目立つタイプではないが、それにしてもこの男には負ける。
「あの……すいません。失礼かもしれませんが……」
「はい?」
「いつからここにいらっしゃいました……?」
「え。すごい前からいましたけど。蘭さんと一緒に来て、蘭さんは南野さんに千円もらって蝙蝠の死体を庭に埋めに行って」
「ああ、それであのスコップ……」
「南野さんはミミズが怖いらしくて」
「ありがとう、豆知識……」
「そうしたら龍岡さんが来て、『私があー!』って叫んだじゃないすか。俺、あの時普通にすぐ傍にいて笑ってましたよ。カニさんとかと一緒に」
「そう……だっけ」
「はい」
 話しているそばから、男の輪郭は室内の背景にじわっとにじむようだった。どんどん薄くなって、溶けていって、やがて消えてゆくような気さえする。一体この彼は、この若い男は、この細身の……
「ごめんなさい、あの、お名前もう一度……」
「金丸大也です。大也でいいです」
「そうだったそうだった……ごめんなさいほんと」
 大也くん。彼は大也くん。唱えていないと、その名すら砂のように記憶からサラサラとこぼれ落ちていきかねない。「大也は影の薄さが持ち味なんだよねー」蟹江が言うのに、「そうです」とか素直に頷いている。影の薄さが持ち味の役者……それは結構、いばらの道なのではないだろうか。
 とにかく、大也はここにいた。そして現実問題、椅子が足りない。富士は部屋を見回し、隅に転がっていたバランスボールを持ってくる。ウェットティッシュでテーブルを拭き、飲み物はどうしようかと家主の南野に訊ねようとして、
「さあカードは揃ったぞ! いざ食らえ、ロイヤルフラーッシュ!」
 まだ南野がしやべっていたことに気が付いた。恐ろしいことに、段々と南野の言動に麻痺し始めている自分がいる。
「……あの、南野さん。そろそろミーティング、始めませんか……?」
「笑止! そんなものとっくに始まっているわ! 見ろこの俺を、俺様を──!」
「てめえが一番てめえのこと見えてねえんだよ」
 蘭がふいっと立ち上がり、廊下に出て行ってしまう。逃げるのか、と富士は慌てた。「どこに行くんですか!?」「うっせえな。手、洗ってくんの」
 蟹江は蟹江で「牛乳ってあったっけ? ていうかお湯沸かしていい?」キッチンにふらふらと向かっていく。若い男、あの細身の、影の薄い──もう名前を忘れてしまったがあの彼は、のんきにカゴを覗き込んでいる。どれを食べようか、パンを選んでいるらしい。南野はまだ「俺様は! 俺様が!」ペラペラと嬉しげに喋りつつ、うっとりと目を閉じて己に酔っている。
(これが……バーバリアン・スキル……)
 あまりにもバラバラな行動に、富士は軽い眩暈めまいを覚えた。力なく落とした尻が、バランスボールの上でぼよんと弾む。こんなにもまとまりがない連中が、今までどうやって劇団としてやってこられたのだろう。揃って話をする、ただそれだけのことすらさらっと始められないで、どうやって舞台の幕を上げることができたのだろう。
 樋尾がいなけりゃ終わり──さっき蘭が言っていたことが、不意に脳裏に蘇ってくる。樋尾がいなけりゃなにもできない。蘭は確か、そうも言っていた。
 樋尾なる人物は、ここにはいない。
(……でも、『これから』を始めなくちゃ……)
 退屈すぎて過眠でむくんだペルシャ猫みたいな顔をして、蘭がテーブルに戻ってくる。濡れた手を荒っぽく振るから、冷たい滴が顔に飛んでくる。今のところ、やっぱりあまりにも自分は無力だ。
 でもとりあえず、罠の扉だけは閉めることができたと思いたい。

#2-2へつづく
◎第 2 回全文は「カドブンノベル」2019年12月号でお楽しみいただけます!



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