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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.11

劇団の惨状を知った受け身系女子は、 再建のための突破口を見出せるのか? 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-2

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、期間限定公開です。

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 飲み物片手にパンを食べつつ、ミーティングは一時間以上に及んだ。


 バーバリアン・スキルが創設されたのは今から五年前、五月一日のことだという。
 駿するだいにあるM大を卒業したばかりの南野、蘭、今はここにいない樋尾、そして富士とどうの母校であるA大の当時四年生だった蟹江。この四人をメンバーとして、劇団の歩みは始まった。
「M大と言えば、演劇の学科がありますよね。南野さんたちはそちらを専攻していらしたんですか?」
「いや。俺は法学部で、東郷と樋尾は政経だ。俺たちは演劇サークルの同期で、A大演劇部のカニとは学生演劇イベントの合同公演で知り合った。カニはおもしろい脚本を書いていたが、A大演劇部のテイストとは合わなくて、ずっと不遇をかこってやがったのよ」
 そうそう、と蟹江が頷く。
「在学中は結局一本も採用されなかったな。書いても書いても没にされて、脚本をプリントアウトした紙だけが溜まっていくばっかりで。あまりにももったいないから、裏面をメモ用紙にして使ってたら、それをたまたま南野が見つけて、読んで、褒めてくれてさ。書けたらもっと読ませろ、って声かけてくれたんだよ。部内にはそんなこと言ってくれる先輩はいなかったし、普通に嬉しくなっちゃって、そこから、なにか思いついたらまず南野に話すっていう流れが出来たんだ。そして四年生になった時にバリスキに誘われて、今に至る、と」
 ふと疑問に思った。A大演劇部といえばクリーマー、というイメージが富士にはある。
「蟹江さんはクリーマーには入らなかったんですか? クリーマーのメンバーは大半がA大演劇部の出身者、って須藤くんに聞きましたけど」
「ああクリーマーはね、ふが」
 説明しようとする蟹江の口を、対面から蘭が長いパンで突いて邪魔する。
「無理すんな、カニ。素人ってヤツは残酷だよな」
「なに無理って……ちょっと、そのパンでつんつんするのやめてくれない?」
「カニの代わりにあたしが教えてあげる。クリーマーは、顔が良くなきゃ採らないの。いわゆる顔セレ、それも超厳しいやつ。こいつ程度じゃもう無理も無理、オーディション受けよっかな~なんて口にした瞬間に真正面から高射砲ぶっ放されても文句すら言えないわけ」
「文句を言えないのは死んだからでは……」
 一応控えめに蟹江を擁護しつつ、須藤があっさりクリーマーに正式採用されたことに納得もする。あの容姿なら、『顔セレ』がどんなに狭き門だろうと楽々突破できるに違いない。ただ、蟹江だって決して見た目が良くないわけではないと思うが。
「別に僕はクリーマーにお断りされたわけじゃないからね。そりゃ、誘われてもないけどさ。ていうか僕が目指す芝居とは方向性がそもそも違うし」
 不服そうに蟹江は言い返す。蘭は鼻で笑って聞き流し、蟹江を突いたパンを食べ始める。
「ただまあ実際、クリーマーはうちと仲がいいんだ。主宰は僕が入部した時の部長だし、A大演劇部の頃からの知り合いもたくさんいるから、旗揚げ当初からずっと協力関係にあるんだよ。お互い客演もするし、裏方仕事でも人手なり道具なり色々と融通し合ってる」
「だからあの時、蟹江さんはクリーマーの作業場にいたんですね」
「そういうこと。……ンフ、思えばあれが僕と富士さんの出会いだったんだよね。ンフフ……クリーマーが結んでくれた縁かぁ。なんだか記憶もまだフレッシュっていうか、まるでつい昨日のことのように思えてこない……?」
 蟹江の物腰はいきなりねっとり粘りを帯びる。かまぼこ型に細められた彼の目から、富士はさりげなく視線を逸らす。「いえ、別に……」
 五年前の春、そんな四人のメンバーで旗揚げされたバーバリアン・スキルは、その年の内に二度の公演を打ち、異例ともいえる成功をおさめたという。
「南野と蘭さんは学生時代から目が早い人には注目されてたからね。劇団を旗揚げするってなった時点で、小劇場かいわいではそれなりにニュースになったんだ。そのおかげで最初からいい感じにお客さんが入ってくれて」
「うむ。初年度の勢いに気を良くした俺様は、次の年から劇団員を追加することにした。そこから二年ぐらいのうちに、五、六人は採用したな。身内サイズで始まったバリスキが──美しき俺様の美しき夢が、徐々に大きく膨らみ始めたってわけだ」
 規模を拡大しつつあったその頃から、バリスキは夏と冬の年に二度、定期公演を行い始めた。
 メインは夏の公演で、劇団創設時からのメンバーがこれまでどおりに中心となって制作にあたった。そして冬の公演では、追加された新メンバーが中心となった。
 定期公演を夏と冬の交代制とした理由は、南野いわく、二つあった。まず一番には、公演の本数を保ちつつ、かつ準備に充分な時間をかけられるようにしたかったから。そしてもう一つの理由が、新しいメンバーにもなるべく多くの経験を積ませ、劇団員としての自覚と責任感を持つように促したかったから。
 そのために、基本的に冬公演については、創設メンバーは一歩引いて見守るスタンスでいたという。もちろん劇団員としての役目は果たしつつ、脚本・演出、キャストについても主要な部分はできる限り、追加メンバーに任せてきた。
「そのスタイルで、しばらくはうまく回っていた。なんてうまいシステムだ、と、俺は俺に惚れ直した。俺を愛し、慈しみ放題、俺は俺にキスしたかった。鏡にそっと口づけしては、その平面の冷たさと残された唇型の汚れに涙を溢す日々が続いた。それほどに劇団運営は順調だった。劇団内部で重要な役割を交互に担当することで、各々個人が疲弊していくのも避けられたしな。大也が入ったのも確かその頃だったと思うが」
「そうです」
 急に大也が声を発して、富士はびくっとしてしまう。そうだった、彼もここにいるのだ。なぜかどうしても、大也の存在を忘れてしまう。
「そうして気付けば、バリスキは総勢十一人。それなりの所帯になっていた。順調に客も増やしつつ、公演数を重ねていった。だが、事態が急転したのは……忘れもしねえ。去年の十二月のことだ」
 一度言葉を切り、南野はゴキッと首の関節を鳴らす。眉根を寄せ、手にしていたパンを皿に置く。
「冬の公演を担当していた連中、俗に『冬メン』と呼ばれていた奴らのうちの四人が、公演直前に突如反旗を翻しやがった。進行中だった仕込みのすべてを中断して、いわゆるストライキってやつだ」
 ──冬公演メンバーの集団離脱。それが起きたということだけは、富士も知っている。前に読んだ演劇ファンのブログに書いてあった。
「その人たちは、どういう主張をしていたんですか?」
「とにかく不満だ、と。俺様の専制ぶりが気に食わねえ、と。夏公演なんかもうやりたくねえ、と。今後は自分らがやる冬公演一本に劇団のリソースを集中させろ、と。要するに、資金も時間も人間も、これまで劇団として得てきたもののすべてを、冬メン側に寄越せって話だった。俺を降ろして、劇団のトップを自分らに替えろとも言われたな。さもなくばすぐに辞めてやる、とな」
「え、でもそんなの……ただのわがままじゃないですか。バリスキは南野さんたちがゼロから始めた劇団だし、その劇団の枠内でやるからこそ冬公演も順調だったんですよね? 南野さんたちの公演がなくなったら、それはもはやバリスキじゃないのでは」
「俺もそう言ったとも。俺のところでやるなら俺のやり方に従えと。てめえらのやり方でやりてえならバリスキから出て行け、と。そして、連中は辞めた。メインキャストも脚本演出も舞監まで丸ごといなくなって、さすがの俺にもどうにもできねえ。公演はキャンセルだ」
「そんなことになって大丈夫だったんですか?」
「大丈夫なわけがあるか。そのせいで大金が吹っ飛んだわ。積み上げてきた信用ごとな」
「損害賠償とか請求できるのでは……」
「そんなことしてみろ。向こうは俺にクビにされたと主張してきて、言った言わないで延々続く醜い泥仕合になるだけだ。金銭トラブルで元団員と泥沼紛争中の劇団に、おまえはいい印象を抱けるか? 第一そんな金も時間もねえ。あるなら俺は芝居に使うぞ」
「でも、そんなことがまかり通るなんて納得いきません」
「当然だ。納得なんかできるわけねえ。俺だってむかつくがどうにか我慢してるんだ」
 話を黙って聞いている三人の表情は暗い。思えば、たった四か月前の出来事なのだ。
 その時に辞めた四人はすでに人気も出ていて、充分に劇団の中核を担えるメンバーたちだったという。そこがすっぽりと抜けたのは相当な痛手だった。
 しかしさらに悪いことは続く。
 抜けたメンバーには、宣伝やHP周りの管理を担当していた者が含まれていた。残されたメンバーは誰も管理パスワードを知らず、HPの更新ができなくなってしまった。
 キャンセルになってしまった冬公演の後始末に南野たちが走り回っていた頃、触れなくなって放置されていたHPは、ある日を境に新しい劇団の旗揚げを知らせるページに飛ぶことになる。
「その名も──コヨーテ・ロードキル」
 苦々しげな南野の声で告げられたその劇団名に、富士はもちろん覚えがある。トイレでバーバリアン・スキルをググった時、飛ばされたページにその名があった。
「うちを辞めた冬メンが速攻で旗揚げしたのがその劇団だ。別にあいつらがなにをしようと、もはや俺には関係ねえ。口を出す権利なんかありゃしねえ。だがな──」
「軽く、乗っ取り入ってますよね……」
 富士の言葉に、南野は深く頷いた。蟹江も大也も、そして蘭も、それを否定はしない。
 バーバリアン・スキルと、コヨーテ・ロードキル。意味こそ違えど、字面も語感も中黒の入り方も、なんとなく、のレベルを超えて似ている。そしてバリスキをググって出てくる公式HPは、アクセスするなり問答無用、新劇団のHPへ飛ばされる。つまり、あえて二つの劇団の情報を混乱させ、混同させようとしているのではないか。そう思うのも、穿うがちすぎではないのではないか。
 現に富士は混乱した。同じ劇団なのかと思ったし、劇団の中身はそのままに名前だけを変えたのかとも思った。なにしろ公式HPから飛ぶ仕様になっているのだから、その仕様にはそうする意味と根拠、正当性があるはずだと思った。そう思うのが自然だ。
「事情を知らない人がHPを見たら、バーバリアン・スキルはコヨーテ・ロードキルに名前を変えたんだって誤解されちゃいますよ」
 富士の言葉に、「そうなんだよね……」蟹江が静かに呟いて視線を落とす。
 嫌な感じに、毛穴が開く。これは大問題だ。
 誤解を放置していたら、『バーバリアン・スキル』はただの捨てられたふるい名前になってしまう。そして辞めていったメンバーこそが『かつてバーバリアン・スキルと称されていた中身』とされて、今残っているメンバーは何者でもなくなってしまう。それはつまり、死ぬ、ということだ。意味のないものになって、そのまま忘れ去られていくだけ。二度と海には出られない、死んだ舟になるということ。こうやって殺されてしまうのだ。今も、殺され続けているのだ。
 それがいやなら──声を上げるしかない。状況を変えなければいけない。倒れ、沈もうとする舟を守らなければ。支えなければ。方法はしかしわからない。わかるのはただ一つ、
「……このままじゃだめです!」
 それだけ。焦って富士は南野に詰め寄る。ほとんど恐怖して、声が跳ね上がる。
「早く、なにか手を打たないと! このままじゃ公演が一つ飛んだってだけのダメージじゃすまないですよ!」
「富士よ静まれ。大丈夫だ」
「どこが大丈夫なんですか!?」
「公演が一つ飛んだってだけでも、ちゃーんとめちゃくちゃ、ダメージはでかい」
「全然大丈夫じゃないじゃないですか……!」
「すでに俺様のどてっぱらには、腸が流出するほどの大穴が空いている」
「それもう死んじゃうやつですよ! 人はそれを、致命傷って言うんです!」
「ああ、人は言うぞ──バリスキはもう終わりだ、とな。小劇場の公演なんか当然ながら自転車操業。一つすっ飛ばしゃ終わって当然」
 親指で自分の首をき切る仕草をして、「だがな」南野は挑むように富士を見返す。
「俺たちは、大人しく終わるわけにはいかねえ。おまえにももうわかっただろうが、これは恨みつらみの話じゃねえ。アイデンティティを賭けた戦いだ。俺たちが俺たちでいること、今までもこれからも俺たちは俺たちであること、そんな当たり前の事実を奪われるかどうかの瀬戸際なんだ」
 南野の目が、
「俺たちは──バーバリアン・スキル!」
 一瞬、炎をはらんだように光る。
「最初からそうだった。俺たちはこの名の下に産まれてきた。誰にもなにも奪わせはしねえ。俺たちはなにも失わねえ。俺たちはここにいるんだ。見ろよ。見てくれよ。見やがれよ! まだここにいる! 俺たちは生きてる! そう叫びながら舞台に立って、バリスキは終わったなんてほざく奴らの目の前に俺たちの存在を叩きつけてやらなきゃならねえ。そうすることでしか、俺たちは己を証明することができねえ。いなかったことになんかされてたまるか。だから必死に金をかき集めて、借りれるところからは全部借りて、賭けたのよ──『見上げてごらん』にな」
「……僕らは、絶対に失敗できなかったんだ」
 蟹江が静かに言葉を継ぐ。
「絶対に絶対に、失敗するわけにはいかなかった。気持ち的には南野が今言った通りで、プラスあともう一つ、重大な理由があった。富士さんは、チケッピオっていうサイト知ってる?」
「はい、チケット販売の大手サイトですよね。クチコミとかが読める」
「そう。そのチケッピオが主催するNGS賞──ネクスト・ジェネレーションズ・ステージ賞、っていうのがあるのは知ってる?」
「いえ、知りません」
「じゃあ、この辺の劇団は知ってる?」
 蟹江はいくつかの劇団の名前を挙げた。そのほとんどは富士でも、というかおそらくは日本でテレビのある生活をしているなら誰でも知っているような、メディアにもたびたび取り上げられる名のある劇団だった。
「今挙げたのは、これまでその賞をとってきた劇団。どれも元々はそんなに名前も知られていない、小劇場の劇団だったんだよ」
 蟹江によれば、NGS賞は若い演劇人の育成を支援するために創設された賞だという。十数年の歴史があり、後援には大手の出版社や文化財団、広告代理店が名を連ね、小劇場を活動の場とする劇団がメジャーになるための登竜門とされているらしい。
「簡単に言っちゃうと、一年に一度の演劇コンテストなんだよね。最初の審査はチケッピオ利用者のクチコミによる推薦で、アカウント一つごとに一票、前の年の一年間に上演された芝居の中からよかったと思う作品に投票する。一か月間の投票期間を経て、毎年およそ三十の劇団がノミネートされて、ノミネートを辞退しなかった二十前後の劇団が本審査に進む。その本審査が、最終審査でもある」
 最終審査の対象となるのは、『二月一日から四月三十日までの間に初日を迎え、六ステージ以上行われる公演』で、それを審査員が実際に観に行き、その中から一作品だけが選ばれる。賞は現金百万円と、次にくるのはこの劇団、というお墨付き。
「その最終審査に、僕らは残ってた」
「で、上演したのが……『見上げてごらん』」
 それがどういうてんまつを迎えたかは、富士ももちろんよく知っている。
 異臭騒ぎで初日から上演中断、以降の全公演中止。富士は蟹江の目を見られなくなってしまう。あんなことになってしまったからには、当然賞からも脱落したのだろう。
 冬公演のキャンセルがあり、NGS賞のノミネートがあり、あらゆる意味で絶対に失敗できなかった公演で、バリスキは失敗してしまったのだ。
 こんこんと湧き出る涙の泉となっていた蟹江の姿を思い出し、つい押し黙る富士の傍らで、
「富士よ。案ずるな」
 南野の声はしかし意外なほどに強い。富士は目を上げ、その表情をうかがう。
「あれは事情が事情だったからな。主催者に連絡して誠心誠意説明したら、なんとか理解はしてもらえた。今のところ俺たちはまだ、審査対象から外されていない。ただし、規定に関しては特別扱いの変更もなし。つまりとっとと次の目途をつけねえことには、」
「──あっ!?」
 思わず叫んでしまう。南野、蟹江、蘭の目が一斉に富士に向く。大也も富士を見ている。
「あ、すいません……ちょっと私、なにやってんだって……」
「それを聞きたいのはこっちの方だ! おお、なんてこった、これを見ろ! おまえの声にびっくりした拍子にカップから溢れたカフェオレが、テーブルに奇跡の絵画を描いてやがる! まったくこの俺ときたらやることなすこと芸術か! 声はオペラで身体は彫像、歩く姿はサグラダ・ファミリア! なにがなんだか我ながらわからねえ!」
 うつとうしいのでさっさとウェットティッシュでテーブルを拭きつつ、富士は自分の間抜けさに心底呆れた。本当に、なにをやっているんだ、自分は。
「私、すっかり聞くのを忘れてました。あの先週の『見上げてごらん』の公演で、一体なにが起きたんですか? あのにおいはなんだったんですか?」
 本来なら真っ先に確かめておくべきことだった。ずっと気になっていたはずなのに、昨日から今までのあまりにも展開がとうだったせいで、すっかり頭から飛んでしまっていた。
「そっか、富士さんにはまだ話してなかったか。あのにおいは、殺虫剤だったんだよ」
「殺虫剤? それって……あの、プシュー、ってやつですか?」
 あんな強烈なにおいがする殺虫剤なんてこの世にあるのだろうか。あんなの売ってもいいのだろうか。ていうか、殺したいのは本当に虫か? そんな疑問が顔に出ていたのかもしれない。
「スプレーじゃなくて、部屋の中に置いてくやつね。煙が出る、わかるかな? いわゆるくんえんタイプ。それもプロが使う、業務用の強力なやつだって」
 蟹江が説明してくれたところによると、殺虫剤が使われたのは二階のフロアだったらしい。
 あの廃墟じみたビルのオーナーと劇場の管理者は高齢の老兄弟で、ビルの所有権を持つ兄は、弟が地下でなにをしているのか理解してはいなかったという。劇場スペースを借りる者もそれまで数年にわたってほぼおらず、人の出入りも絶えていたせいで、物置にでもなっていると思い込んでいた。
 三階には小さな会社が入っていたが、最近になって、長く空室になっていた二階も倉庫として借りたいと申し出てきた。だから老オーナーはあの夜、二階の消毒と殺虫を業者に依頼した。地下が劇場であることも、そこでその夜演劇の公演があることも知らず、作業に入った業者にもなにも伝わっていなかった。劇団員や客の出入りはあったはずだが、それでも気付かれはしなかった。
 ただ、本来ならば、それでも特に問題はないはずだった。プロの手によって開口部はすべてしっかりと目張りされ、別のフロアへ殺虫剤が回ることはありえないはずだった。
 だが、あのビルはあまりにもボロすぎたのだ。老朽化が進んだ建物内部はあちこち無数の隙間だらけ、二階で燻煙された薬剤はあっさり別フロアへ流れ込み、驚いたのはたまたま在室していた一階部分のテナントの借主だった。驚いて換気扇を回したが、強烈な異臭は薄まらない。それどころか換気口からどんどん異臭と煙が入ってくることに気付き、今度は換気扇を止めた。しかしそれでも異臭の流入は止まらない。常時強制換気システムのせいかもと考え至り、その人は思い切ってブレーカーを落としてしまった。極端な行動ではあったが、それほどパニックだったのだろう。ところがそのブレーカーはビル全体で共用されていて、すべての電気が一斉に落ちてしまった。焦ってすぐにブレーカーを上げたが、電気系統を制御する設備が故障してしまい、ビルは停電から回復することができなくなった。
 そしてその頃、地下の劇場では、異臭に満ちた暗闇から数十人が必死に脱出しようとしていた──。
「人体に悪影響はないんですかね……」
 恐る恐る、富士は蟹江に訊ねる。一応ハンカチで鼻と口を押さえはしたが、それでも結構吸ってしまった気がする。
「哺乳類はああいうの、案外大丈夫らしいよ。大丈夫じゃなかったら使用制限されてるでしょ。ほら、みんなアパートとか共同住宅でも普通にやってるし」
「でもそれって、目張りすれば空気の流れを遮断できる建物の話ですよね。あそこは普通とは言えないっていうか、そもそもあのビルにテナントが入っていたのが驚きっていうか……」
「ねえ。よく借りるよね、あんな見るからやばそうなところ。ほんと謎」
「その謎については、私も蟹江さんにお聞きしたいです。どうしてよりによってあんなところで公演しようと思ったんですか? 何年も誰も借りなかったような劇場なのに」
「あー、それは、まあ……」
 ごにょごにょと言い淀む蟹江に代わって、「決まってるだろう。安かったからだ」南野が答える。
「NGS賞の審査期間中に公演を打つために、なんとか金はかき集めた。が、それまでの公演にかけられていた金額には遠く及ばねえ。でも舞台の内容をしょぼくするわけにもいかねえ。削れるところはできるだけ削ろうとケチった結果があの小屋よ」
「そこ、『削れるところ』じゃなかったんでは……」
「結果からすりゃそういうこった」
「開き直ってんじゃねえよ」
 低い声でそう言って、南野を睨み付けるのは蘭。
「樋尾は散々言ってたじゃねえか。あの小屋はありえねえ、舞台監督として責任もてねえ、もっとマシなところを探せって。でもてめえが『他も当たってみる』とか言いながら実はなんにもしねえでグズグズ時間切れまで引き延ばし、結局だまし討ちみたいに強行したんだろ」
「樋尾の言うことなんかいちいち聞いていられるかよ。小屋代をケチるな、スタッフ代をケチるな、もっと安全にやれ、もっと手堅くやれ、でも金はねえ、あれは我慢しろ、それも我慢しろ、でもあれはケチるな、それはケチるな──どうしろってんだ。しようとくたいをも上回る聞く耳の持ち主である俺でも、さすがに付き合い切れねえよ。そもそも手堅くとか我慢とか、そんなのもはや俺じゃねえし、それはバリスキの舞台でもねえ」
「で、その結果どうなったよ? あ? 舞台は中断、かんは持ち逃げ、樋尾は消えちまった。これをてめえは望んでたのか?」
「神田は捕まえただろうが」
「ああ捕まえたよな! 金も取り返したよな! 樋尾がな!」
 蘭と南野の言い合いを見ていることしかできない富士に、蟹江がそっと耳打ちしてくれる。
「神田さんっていう人に制作を──大事な仕事を、任せてたんだよね。演劇の世界からは数年離れてた人なんだけど、すっごく安くやってくれるって言うから。僕らはとことん人手不足で猫の手も借りたい状況だったし、業界歴も長かった人だし。ただ評判は良くなくて、サボり魔で手癖も悪くて今は金に困ってる、ってうわさで、樋尾さん──うちの舞台監督は、ずっと反対してたんだ。人件費はかさむけど、ちゃんとした人に委託しよう、って。でも南野は了承しなくて、神田さんで行くことになって。そうしたらまんまと騒ぎに乗じて売り上げを持ち逃げされそうになってね」
「そう言えば、みなさんダッシュで追いかけてましたよね……」
 あの夜の幕切れは忘れがたい。ああきてこうきてそうなるか! と、まるで破滅のゴールを目指すピタゴラスイッチでも眺めている気分だった。そして今や、自分もそんなピタゴラスイッチの一部として機構に組み込まれているという現実。笑えない、まったく。
「まあ無事に捕まえられたし、金庫も取り返したんだけど、樋尾さんの怒りは収まらなかった」
「でしょうね……劇場の件に重ねて、ですもんね」
「そのまままた南野とケンカになって、みんなで必死に引き離したけど、それっきり。以来、ずっと連絡も無視されてる」
「樋尾さんは、それで本当に劇団を辞めてしまったんですか?」
「客観的にはそうなるのかな。もちろん戻ってきてほしいけど、話すらさせてもらえないし。ちなみに樋尾さんが辞めるなら、って、ついでに若手二人も辞めちゃった。残った精鋭が、ンフ、ここにいる僕らってわけ」
 弱々しい蟹江の笑顔を前に、富士は自分の立場を理解せざるを得ない。
 劇団という船の脇腹には直径何メートルもの大穴が空いていて、そこから中身がどんどん漏れ出している。そこに自分は飛び込んできた。蚊ほどのサイズで、無力なままで、「私がなんとかしてみせる!」とか、愚かなことを思い込んで。
「樋尾のことなんか知るか!」
 南野が放った大音声に、富士はさらに身が縮むような気がする。蚊よりも小さいこの身はもはや、花粉かなにか程度でしかない。
「おまえらはもう忘れたのか!? 樋尾は、そもそもこんな状況で公演を打つこと自体が無理だって言ったんだぞ! やめろって言いやがったんだぞ! おまえらだってそれはねえって思ったからこそ、あの日舞台に立ったんだろうが!」
「ああもうはいはい、そのとーりだよ!」
 やけになったように蘭も大声で言い返す。
「あたしもバカ! 間違った! これでいいかよ!? ったく……悪い予感はビンビンあったのに、ほんっと、あたしもバカだった……なにも壊れないまま本番なんてさ」
「あの、それってどういう意味ですか?」
 そっと片手を挙げて発言する花粉程度の存在である富士に、蘭の視線が突き刺さる。それを遮るようにして答えたのは南野。
「気にするな。つまらんジンクスだ」
 蘭はなにかさらに言い返そうとして、しかしその口をつぐむ。この件に関してはもうそれ以上のことを聞けない雰囲気だが、
「それと……今さらなんですが」
 質問はもう一つあった。
「せめて、もっと後の日付でやればよかったんじゃ……? 審査期間は確か、四月三十日まであるんですよね? 期限ギリギリまで待って準備期間をもっと長くとれば、資金を増やすこともできたんじゃないですか?」
「そんなことは当然考えたとも。だが、俺が容認できる小屋代の限度に納まる使用料で、さらに場所とキャパの条件を満たしていたのは、そもそもあのボロ劇場しかなかった。そしてあそこは元々三月いっぱいで閉館の予定で──結局数日早まったわけだが──俺たちには三月のうちに公演するという選択肢しかなかった」
 その『小屋代の限度』の設定をそもそも間違えたんだろうな、と富士は思う。が、それを言ったところでもはや、だ。代わりに蘭が、「てめえは他の選択肢をあえて無視してたんだろ」と。
 荒れ地のつるくさみたいな髪を振り乱し、南野はキッと蘭の方を見た。
「じゃあ聞くが、他の選択肢ってのはなんだ? あそこで安く上げる以外、他に一体どうすりゃよかった? どこの劇場でいつやりゃよかった? 公演しないなんていう選択肢もあの時あったのは事実だが、じゃあ、おまえはそれを選べたのか?」
 そして蟹江の方に。
「おまえにも聞くぞカニ。樋尾が言ったとおり、公演を取りやめてノミネートも辞退して、しばらく劇団の活動は休止するなんてことができたか? それを選ぶのが正解だったと思うのか?」
 蘭は南野を睨んだままなにも言わない。
「……まあ、公演しない、っていうのはない。それだけは、どう考えても選べない。蘭さんもそうだと思うけど」
 答えたのは蟹江。
「あの票は……最初の審査で投じられた票は、全部僕らの夏公演に投じられたんだ。冬公演はキャンセルだったし、去年やったのは僕らだけ。冬メンが抜けても僕らを変わらず応援するって、僕らこそがバリスキだって、そういう意思表示をしてもらったんだって思う。それは絶対に裏切れない。まあ、冬の事件の同情票っていうのもあったのかもしれないけど、そういうの僕らは全然気にしないからね。なんでも丸ごと受け取って、使えるものはなんでも使って、舞台の上でエネルギーに換えてやるっていうのが僕らだしね」
「おうよ」
 南野は椅子の背もたれに巨体を預け、王の仕草で頷いて見せる。
「しかもこれは初ノミネートにして最後のチャンス──バリスキは今年の五月一日で五年を超える」
 意味がわからない富士に、蟹江が教えてくれる。「NGS賞の対象になるのは、四月三十日の時点で創設から五年以内の劇団だけなんだよ」
「なるほど……ちょうどギリギリのタイミングですね」
「おあつらえ向きだ!」
 顎を上げて笑う南野の声には、今もまだ出処不明の自信がみなぎっている。
「俺たちは止まらねえ、まだまだ諦めねえ。NGS賞だってってみせる。俺たちはなにも失ってなんかいないし終わってなんかない、そう叫ぶためには公演を打ち続ける以外の選択肢なんかねえんだよ。樋尾がいなくたって関係ねえ、なーに簡単なことよ──芝居自体はもう完成してるんだ。そいつをどうにかして四月三十日までに六回以上やりゃいいだけのこと。そして必ず勝つ! すべてをぎ倒し焼き尽し、百億光年先までバーバリアン・スキルの名を刻んでやる! ──いでよ富士!」
「……さっきからずっとここにいますが……」
「そういうわけだ! 理解できたな!?」
「理解は……はい、まあ、しました……」
 したとも。花粉サイズのメンタルで、富士はこっくりと深く頷く。
 バーバリアン・スキルは、アイデンティティを賭けて戦いに挑む。その戦いとは、具体的には、四月三十日までに六回以上の公演を打ってNGS賞の審査に参加すること。そして賞を獲得すること。今日の時点で日程は未定。劇場も未定。舞台監督の樋尾は辞めた。他のスタッフも辞めた。金もない。これまでずっと自転車操業でやってきて、冬公演が飛んだことで一度破綻し、それでも新たにかき集めた金で『見上げてごらん』の公演を打とうとして、それも飛んだのだ。金などあるわけがない。
 というか──ふと思う。今後の資金がないのは当然不安だ。でもそれよりもまず、そもそもこんな状態で、これまでの清算は果たしてちゃんとできているのだろうか。
「あの……南野さん。訊くのが怖いんですが、でも訊きますね……」
 ごくん、と一口、妙に苦い唾を飲む。確かめるべきことを確かめなければ、ここから先には進めない。
「なんだ」
「『見上げてごらん』はあんなことになってしまったわけですが……それでも経費は、かかってるんですよね……」
「当然だ」
「売り上げが入ってから支払うつもりだった分とかって、あったりします……?」
「おお、さすが俺様が見込んだマネージャー。目の付け所がいいぞ」
「あるんですね……。でも、売り上げはなくなった、っていうか……お客さんへの返金とかも、まだですよね……?」
「なぜそんな目で俺を見る。ちゃーんと計算はしてあるわ。未清算分の経費はざっと十五万ほど、もちろんそれプラス返金もする」
「……その十五万円と返金分、清算できるアテはあるんですよね……?」
「なきゃまずいだろうな」
 その言葉にどこかごとのような気配を感じ、富士は絶句しそうになる。
「だろうな、じゃないですよ……! ちゃんとしましょうよ!?」
「するつもりだとも」
「つもり、じゃだめです! ナウです! ヒアです! なんでそんなふわっとしてるんですか!?」
「これまで『ちゃんとする担当』は樋尾だったからな」
 蟹江と蘭も、その言葉に否やは唱えない。その脇でもう一人「ですよね」とコクコク頷いているのは誰だ……大也だ。
「でもその樋尾さんはもう辞めてしまったんですよ!?」
「そう慌てるな。会計の管理なら、あいつなんかいなくともしっかりとできている。創設時からの帳簿も揃っているし、現に俺が持っている。今ここにないのは、通帳と印鑑と売り上げ金だけだ」
「だけっていうか、それってつまり残り少ないどころか払えばマイナスにすらなりかねない劇団の資産のすべて、ですよね!? 一番ここになきゃいけないものですよね!?」
「馬鹿を言え! 劇団の資産といえばこの俺様、なきゃいけないのもこの俺様よ! 見ろ、国破れて俺があり! 月に俺様、花に俺! デウス・エクス・俺な! それに金だってなくなったわけじゃねえ、樋尾が全部持ってるってだけだ」
「……ずっと誰も連絡がとれず、南野さんには激怒していて、もう劇団を辞めると宣言した、あの、樋尾さんが……!? へえ……それはそれは安心、ですよね……!」
「嫌味のつもりなら通じんぞ。まったくもって安心だ。帳簿によれば、口座にある金で未払い分はギリ清算できる。そして金庫さえ取り返せば、チケット代の返金もできる。ただそれだけのことだ」
「それだけって、なんでそんな簡単なことのように!?」
「おまえならできる!」
 ビシッ、と至近距離から指さされ、その先端は勢い余って富士の鼻に触れている。富士はもはや言い返すこともできない。一体自分に、こんな自分に、なにができると南野は思っているのか。(私なんか、花粉なのに……!)噤んだ唇を震わせる富士の目の前、南野は自信たっぷりに言い放つ。
「とっとと樋尾を見つけて、通帳と印鑑と金を取り戻して来い! そして未払金をすべて清算し、返金を完了しろ! それがおまえのミッションだ! すべてを賭けて、この俺様の期待に応えろ!」
 鼻に突き付けられた指を見つめて寄り目になっている富士の隣、蟹江がちらっと時計を見る。まずい、とか小さく呟きつつおもむろに立ち上がる。
「じゃあ、今回のミーティングのまとめとしては『富士さん頑張れ!』ってところだね。僕はもう打ち合わせに行かないと」
「あれ、やべえ。チャリの鍵あたしどこやったっけ」
「さっきポケットに入れてませんでした?」
「なんだ、親父から鬼LINEが来てるぞ。……ちっ、病欠が出て俺様もきゆうきよ出勤だ。店頭の仕事は嫌いじゃないが、あのエプロンは頂けん。あまりにも俺に似合いすぎ、ほとんど犯罪の域だあれは」
 それぞれ忙しそうに立ち上がる連中を前に、富士はまだ、言葉も出ない。

#2-3へつづく
◎第 2 回全文は「カドブンノベル」2019年12月号でお楽しみいただけます!


「カドブンノベル」2019年12月号


カドブンノベル

最新号 2020年2月号

1月10日 配信

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