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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.12

受け身系女子は見えない壁を越えようと劇団員に過去を打ち明けはじめる! 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-3

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、期間限定公開です。

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 南野家でのミーティングは半ば強引に締められて、メンバーはそれぞれの糊口をしのぐ勤務先へと向かって行った。
 南野は両親のパン屋へ。蘭と大也は黒い箱を背負って、ウーバーイーツで稼ぐべく路上へ。そして蟹江は大慌て、荷物を摑んで玄関から駆け出し、せんにあるという編集プロダクションへ。日曜日でも打ち合わせがあるなんて、一体どんな仕事なのだろうか。すこし興味を引かれたが、訊ねる隙はまったくなかった。
 仕事がないのは富士だけで、一人南野荘の自室へ戻る。昼時をすこし過ぎていたが、すでに十分腹いっぱい。腹ごなしもかねて荷物を解き、掃除を始めることにする。初めて見る電熱コンロに首を捻りつつ、シンクを磨き、玄関を拭き、押入れも拭いてサイズを測り、窓ガラスもサッシもカーテンレールも出窓に足をかけて拭いて、気付いた時には午後三時。
 コートを羽織って自室を出て、富士はの街へと向かった。たくさんのおもしろげな店に気をとられながら、商店街やスーパーで必要なものを買い回る。リサイクルショップでは手頃なサイズの冷蔵庫も見つけた。相当迷ったが、購入には至らず。美品でもない中古のわりに、思ったほどには安くなかった。
 買った物を両手に提げて帰る道々、コインランドリーの場所をチェックする。もしものときのために銭湯もチェック。そして最寄りのコンビニで、コピー機を十五分間に亘って占拠する。
 数十ページに及ぶコピーを取り終えた時にはすっかり疲れ果てていて、その店内で飲み物を買い、がらんとしたイートインの席に座った。そのまましばらく「無」になって、富士は、だいだい色の夕焼け空に紫の雲がしま模様を描くのを眺めた。
 帰室したのは午後五時半。
 買ってきた収納ボックスを組み立てて荷物の整理をしているうちに、さらに時間は過ぎていく。薄いドアがノックされた音に顔を上げると、もう七時になっていた。
「富士さん、いる? 蟹江だけど」
 窓の外はもう真っ暗だ。引っ越し初日のこの町に、すっかり夜が訪れていた。
 打ち合わせから戻った蟹江は、ポストイットの裏面に『俺のオーラ』のパスワードをメモして、富士のためにわざわざ持ってきてくれたのだという。蟹江は指先にそれを貼りつけて、下半身だけ楽そうなジャージのパンツに穿き替えて立っていた。
「もしいなかったらドアに貼っておこうかと思って」
「お疲れのところわざわざすいません、ありがとうございます。助かります」
「もしうまくつながらなかったら言ってね。南野にルーターの位置ずらしてもらうから」
「わかりました。あの、よかったらすこし上がっていきませんか? さっき座布団買ったんです」
「いいの? じゃあ、お言葉に甘えて……」
 かかとを踏んだコンバースを脱ぎ、蟹江は嬉しげにソックスで富士の部屋に上がってくる。富士はさっそく値札を切ったばかりの座布団をその前に置く。
 そこに座りかけた体勢で一旦停止、蟹江は微妙なポーズのまま、しげしげと座布団を眺める。
「……これはなんの柄なんだろう」
「大麻です」
「……なんでこの座布団買ったの」
「これが一番安かったので。一枚四百八十円で、二枚買ったらこれもおまけにくれました」
 富士はちょっと得意な気分、タダでもらったペラペラの手拭いを広げてみせる。「なんだかお寿司屋さんっぽくないですか?」白地に紺色で、魚偏の漢字がびっしりと隙間なく書かれている。
「ああ、へえ……いいね。『なんだか』どころか、『ぽい』っていうか、まさにまんま寿司屋って感じ。そっか、魚に休むと書いてメバル、ふーん……」
「あとでシャワーの時に使おうと思ってます」
「ってことはあのシャワー、使う覚悟できたんだ」
「とにかくトライはしてみようと。八時頃、私が使っても大丈夫ですか?」
「いいよ、僕が使うとしたらいつも深夜だから。もしなにか困ったことがあったらすぐ呼んでね。ずっと部屋にいるし」
「はい、ありがとうございます。そうだ、忘れないうちに……」
 富士はバッグから分厚い紙束を取り出し、大麻柄の座布団にちんまりと正座した蟹江に手渡す。というか返す。昨日カフェで手渡された、演出用のメモがびっしりと書き込まれた『見上げてごらん』の台本だ。今月中に、本当に再び上演するならこれは必要だろう。
「すいません、勝手にコピーを取らせていただいてしまいました。大丈夫でしたか?」
「全然構わないよ。けど、これって書き込みだらけで読みにくくなかった? 富士さん用に新しくプリントアウトしようと思ってたんだけど」
「いえ、これがいいんです。これで勉強させて下さい。メモを読むことで、蟹江さんの思考の道筋が辿たどれる気がしますから。私はあまりにも演劇について無知ですし、出来る限り努力して、ちょっとでも皆さんに追いつきたいんです。足手まといにはなりたくありません。劇団員として、早く一人前になりたいんです」
 蟹江は手にした自分の台本をめくりつつ、視線をそっと上げる。覗き込むように富士の目を見て、
「……実際のところ、どう? 生活していけそう?」
 その視線をぐるり、巡らせる。古びた狭い室内を、見回すみたいにゆっくりと。恐らくは本気の心配が、声にも目にも滲んでいる。そんな様子に思わず富士も、
「実際のところは、まあ……不安です」
 本音をぽろりと溢してしまう。
「一応貯金が三十万円ぐらいはあるんですが、これからは親からの仕送りもありませんし、バイトも決まってないですし。いつまでここで南野さんに甘えて、お世話になっていていいかもわからないですし。……ちなみに蟹江さんは、どれぐらい前からここに住んでいらっしゃるんですか?」
「僕は今年の二月から」
「結構最近引っ越してこられたんですね」
「そう。それまでは普通に部屋を借りてたんだけどね。狭いけど一応まともな賃貸のワンルームを。でもほら、冬公演がああなって、劇団が金銭的にパンクして、『見上げてごらん』をやるためには貯金を全部吐き出さなくちゃいけなかった。で、家賃が払えなくなっちゃったんだよね。それで部屋を引き払って、ここに来たってわけ」
「ずっと一人暮らしはされてたんですか?」
「うん、学生の頃から。僕は実家がさつぽろだから。ちなみに蘭さんと大也くんは結構ここから近いところに住んでるんだよ。二人ともずっと実家住まいで」
「やっぱり、実家に住めたら経済的には楽ですよね。いいな、都内は。南野さんもそうだし……そのおかげで私たちもこうしてなんとか暮らせているんですけど」
「実家に住めてるメンバーが多いからこそ、うちの劇団もこうやって続いてるのかもね。やっぱ金はね、演劇なんかやってたら常にまとわりつく問題だから。公演や稽古のこと考えると普通の会社勤めって難しくて……いないわけじゃないんだけどさ、会社員兼劇団員。でも劇団に大きくエネルギーの比重を傾けて役者メインで生活していきたい、となると、ね。バイトするにも職種が限られてくるし。南野はその辺り、すごく恵まれてるんだよな。自営の実家で理解あるご両親のもと、比較的自由に働けるんだから」
「蘭さんと大也くんはウーバーイーツですよね。私もやろうかな……自転車ないけど」
「徒歩かあ、どうだろうね。あの二人も、思ったほど楽なもんじゃなかったって言ってたよ。まあ蘭さんに関しては、ダンスの先生っていうメインの仕事もあるんだ」
「あ、やっぱり。あれだけ才能ある方ですもんね。ちなみに蟹江さんはどういうお仕事されてるんですか? 編集プロダクションで打ち合わせ、ってさっき仰ってましたよね」
「僕はいわゆるノベルスのライター」
「ノベルス、というと……西にしむらきようろうとか、そういうのですか?」
「ジャンルはだいぶ違うかな。ドラマや特撮、アニメ・ゲーム系のシナリオを手掛けてる大御所脚本家のとある先生がいて、」
「大御所……ジェームス三木?」
「違う違う、ていうかよくパッとそこ出てきたな、二十二歳。とにかくその某先生の、公式ノベライズを手伝ってるんだ。編プロに演劇部時代の先輩がいるから、そので」
「え、じゃあ蟹江さんの著作が本屋さんに並んでるんですか? すごい!」
「いや、著者はあくまで大御所先生。僕は先生の名前の後ろに極小フォントで『with PROJECT-Ck』ってついてるその──」
「PROJECT-Ckの部分なんですね! キャンサー蟹江のCk!」
「クラブ蟹江の可能性もあるよね。でもそうじゃなくて、僕は最後のk、小文字の部分。PROJECT-Cまでは編プロの部分。その大御所先生はとにかくハイパーな方で、あらゆる媒体で活躍してるから、ノベライズだけでも年に十何冊とか出るんだよ。でもやっぱり物理的に手が追いつかないから、方向性だけは先生に決めてもらって、編プロの方でざっくりストーリーをまとめて、僕が読める形態に仕立て上げる。で、先生の印税から何割かもらう。そういう仕事を学生の頃から続けてるんだ。ちなみに先生からは『ダケンドくん』って呼ばれてる」
「……打鍵奴隷のダケンドくん、ですか」
「当たり。よくわかったね」
「ありがとうございます。でもなんだか、そのお仕事ってすごく大変なのでは……奴隷呼ばわりもアレですけど、『年に十何冊』ってあたりが引っかかります。それって普通のことなんですか?」
「異常だよね」
 答えるその声の、歯切れの良さよ。
「でもそれだけ冊数があるからこそ、僕の生活も薄利多売で成り立つっていうね」
 蟹江はなんでもないことのようにそう言って、へらへらといつもの猫背で笑う。しかし富士の中では、これまでに抱いていた蟹江という人物に対する印象が変わる。
 今の話が本当ならば、蟹江は年に十何冊というノベライズ仕事をしつつ、つまり一か月に一冊以上のペースで小説を執筆しつつ、生活の主軸は劇団において、脚本を書いて、演出もして、稽古もして、役者として舞台に立っている。そういうことになる。
 どう考えても、それは並大抵のことではないだろう。富士は卒論ぐらいしかまとまった量の文章を書いたことがないが、それでも蟹江の働きぶりのすさまじさは想像できる。この大人しげな、どこか弱々しくさえある猫背男の身体の中には、尋常ではない量のエネルギーが埋蔵されているのだ。それは尽きることなくこんこんと湧き出し、力を産み出し、彼を、劇団を、突き動かしているのだ。
「なんとなく……ですけど」
 富士はすこし息をむ思いで、目の前の蟹江を見る。そのたたずまいも表情も、これまでよりも四割増しぐらいはキリッと引き締まって見える気がする。
「旗揚げの時に、南野さんが蟹江さんを誘った理由が、私にもわかった気がします。蟹江さんは、すごいです」
「え、なにいきなり。やめて、ンフ、全然すごくないから」
 くねくねと照れて首を振っても、頰を染めてニヤついていても、前ほど情けなくは見えない。
「いいえ。すごいんです」
「いやいやなんで急にそんな……ンフフ。ていうか、南野が誘ったって点で言えば富士さんも立場は同じだし。富士さんのしっかりしてるところこそ、僕はすごいって思うよ」
「とんでもないです。私なんか全然しっかりしてません。というか、私のことに関しては、蟹江さんも南野さんも買い被ってるんです」
「いや、しっかりしてるでしょ。いかにも就職活動で即内定もらえそうな感じ。そうだったでしょ?」
「就職活動はしてないので……」
「あっ、そっか。そうだった。ご実家はあんな大きな会社やってるんだから、就活なんかしないか。やっぱり本当だったらそのままお勤めする予定だったんだよね? でも東京にいたかったからそれもやめて、って感じ?」
 蟹江のいかにも人の良さそうな笑顔を見つめながら、富士はすこし言葉に迷ってしまった。
 就職活動をしなかったことや、親の会社に入らなかったこと。その辺りの事情を正直に説明するとしたら、相当個人的なことを話さなければいけなくなる。
 蟹江とは知り合ったばかりの仲だ。出会い自体は結構前だが、人柄を認識したのはつい昨日のこと。常識的に考えたら、プライベートなことを打ち明けるには早すぎる気がする。蟹江だってきっと、反応に困る。そこはやっぱり他人同士、知り合ったばかりの者同士、お互いにまだ守らなければいけない一線のような気がする。時間をかけて付き合って、自然に馴染んでいくのを待つべきだ。
 でもそう思う一方で、そんな一線などとっとと踏み越えてしまいたい気もする。それができるぐらいの勢いが、今の自分と蟹江にはあるような気もする。いや、でもやっぱり……躊躇する。
 もしも役者同士なら話は簡単だったかもしれない。舞台の上では合図一つで抱き合って、殴り合って、キスして、殺し合う。他人として引くべき一線など、いちいち感じていてはやってられない。劇団という名の被膜の中で、細胞レベルまで溶けあって、役として立ち上がるまではごった煮状態でスタンバイ。それが役者で、劇団員という生き物のあり方なのだろう。
 一方、自分はそうじゃない。舞台に立つことはありえない。いつまでも大事に己の周りを線で囲って、人との間に適切な距離を保って、決して溶け合わずに覚めたまま。劇団という被膜の内側に自分もんだつもりでも、結局、壁に隔てられたまま。誰ともまったく混ざり合わないまま。正しく、無難に、行儀よく。踏み出さなければなにも得られない代わり、間違えて傷つくこともない。これまでそうやって生きてきたように。でも、
(……これからも、また、そうやって生きていくの?)
 自らに問いかけた時には、すでに言葉が口から出ていた。
「実は私、大学を卒業したら、」
 もう、そうはしない。変わるんだ。いや、変わったんだ──踏み越えてしまえ!
「すぐに結婚する予定だったんです」
「えっ!?」
 富士の告白に、蟹江はって目を見開いた。相当びっくりしたのだろう、硬直したまま顎だけは樹海の方位磁針みたいにフラフラ頼りなく揺れている。蟹江がここまで驚くとは思わなかったが、始めてしまった話はもう止められない。
「地元に帰って花嫁修業して、秋には式を挙げる予定で」
「そそそ、それって、それってつまり……彼氏!? うそ!? うそだ! まあでも、まあまあ、あっでも、まあね、いや、でも、そうなんだ……うわあ、そっかあ……彼氏……いた、んだぁ……」
 予想以上の狼狽ぶりに、少々傷つかないではない。自分に彼氏がいたらそんなに意外だろうか。彼氏なんかいるわけがない、そういう女に見えるのだろうか。まあ、事実いたことはないのだが。
「彼氏ではないんです。お見合いで、親が薦めてくれた人で」
「ああ……! そうなんだ……! わあ驚いた……! でも納得! やっぱりそっか、お嬢様だとお見合いとかそういうのあるんだね、今の時代でも」
「実際にお見合いをするまでは、結婚というものを現実的に考えられてはいなかったんです。でも会って、話してみたら、なんだか自分でも驚くぐらいに一緒にいることがしっくりときて。なので、もう決めよう、と。自然に知り合って、好きになって告白とかして付き合って、ではないけれど……」
 もしも自然に知り合っていたとしても、たとえば同じ学校の先輩だったり、バイト先の仲間だったとしても、自分はきっとあの人を好きになって、告白したりしていたはず。結果はわからないけれど。富士は今でもそう思う。前と変わらず、そう思う。
「……始まりはどんな形でも、うまくいけばそれがすべてだから。私はそう思ったんです」
 これ、私が作ったんですよ──案内した裏山の雑木林で、富士が指さした隠れ家を、あの人は興味深そうに眺めていた。なにを思ったか、スーツのままでおもむろにかがみ、中に入っていってしまった。そして面食らう富士に言ったのだ。なるほど、と。これは落ち着きますね、と。やがてうようにして出てきて、立ち上がりながら革靴の足を滑らせた。とっさに富士は手を出し、転ばないように身体を支えた。あの一瞬。手と手が触れた、たった一度のあの一瞬のことを、富士はおそらく永遠に忘れられない。
 あの人は顔を上げ、言ったのだ。
『あなたの舟を、いつか一緒に探しに行きましょう。二人でなら、生き返らせることもできるかもしれない』
 そう言ったのだ。
 そう言ったのだ。
 そう、言ったのだ──
「でも、なんというか……なんですかね。なんなんだろう。なんか、こう……向こうは、私が向こうを思うようには、私のことを思っていなかったらしくて」
 声の記憶が、言葉の記憶が、胸の底から一気に噴き上がる。圧倒されかけ、しかし持ちこたえる。今ここで、蟹江の前で、記憶の大波にさらわれてしまうわけにはいかない。思いっきり泣き叫びたくなる感情の突沸を、素知らぬ顔で飲み込むぐらいの技術は、富士も一応持っている。
「今年のお正月にその人、結婚の話は白紙にして下さい、って急に言い出したんですよね」
「……それは、いわゆる……婚約破棄、的な……?」
「そうです。婚約破棄です。私はぽいっと捨てられたんです」
 蟹江は眉を寄せ、「でもお見合いでそんなのアリ?」気づかわしげに富士を見る。
「ねえ。普通はないですよ。ひどい話ですよね。こっちはもう結婚の予定で進んでたのに」
「……ちなみに理由はなんて?」
「結婚は愛する人とするべきだから、と」
 えっ、とうめき、蟹江は固まった。自分だってそうだった。そんな言葉を聞かされたときには。
「なに、それ……。だったらなんでそもそも見合いなんか、っていうか……なんで話を進めたんだよ、って……」
「ほんっとそれです。なにそれ、です。そんなこと言われても全然納得できないし、もう、はあ? ですよ。えーっと夢かな? みたいな。これ全部夢でしょ? 現実じゃないでしょ? わーやだー早く覚めて、って。もうそうやって逃避することしかできないんですよね。そういう状況では」
 富士は、何度も夢を見た。
 あの人が訪ねて来て、破談の話を撤回するのだ。理由はその時その時で、「母を人質にとられて破談にするよう脅されていた」とか「人格を乗っ取られていた」とか「あれは生き別れの双子の弟」とか「あれは生き別れの双子の兄」とか「言葉の行き違いがあった」とか。そして、「やり直したいんです」と続ける。「やっぱり結婚して下さい」と続ける。「あなたのことが好きなんです」と──そうだったんですね!
 そう言いながら、目を覚まして見る、部屋の天井のそっけなさ。連絡なんかないスマホ。汗ばんだ寝間着のにおい。目元が濡れて、ぼやける視界。もちろん、それこそが現実だった。
 現実は夢ではなく、夢は現実ではなかった。
「……しかもその人、うちの会社の出世頭だったんですよ。なので、捨てられた私が同じ会社に勤めるというのもまずいだろう、と親が言い出して。だから私はタツオカフーズに就職できなくなって」
「でもそういう流れなら、普通なら向こうが辞めるべきじゃない?」
「うちの両親は出世頭と娘を比べて、出世頭をとったんですよ。そんな実家、帰りたいって思います?」
「ないない、ありえない。そんなのさらに傷つくし、ひどすぎる」
「ですよね。ほんと……なんだったんだ、って言いたいですよ」
 望んだわけではないのに、欲しがってもいないのに、ある日なにかを与えられて。
 与えられたものを与えられたままに受け入れたら、その瞬間に奪われて、置き去りにされて。
 一体どうすればよかったんだ。
 なんだったんだ私は、と。
(って、これ……)
 不意に思い出したのは、卒業式の夜のことだ。あの最低だった飲み会の席で言われた言葉。あんたにはなんでも天から降ってくる。自動的に恵まれる。なにかを欲しがることもない。あんたはそういう人間だ。たまたま生まれがラッキーだっただけで、あんた自身にはなんの価値も力もない、と。
 もしも今の自分を見たら、彼女は指差し、大笑いするだろうか。この迷い犬眉毛! とか。
『うっそ、あんたって本当は無傷じゃないんだ!? ねえねえみんなこれ見てよ、まみれだよ!』
 幻の声は、実際にかけられたわけではない。でも、そう言われたように思う。言われているように思う。
(……見せたいよ、いっそ、本当に。私を見ればいい。今の私を、見せてやりたい)
 傷口はぱっくりと開いたままで、ドクドクと血が流れ出ている。胸に大穴開けられて、今ではほとんど死体同然。痛くて痛くてたまらない。倒れてこの目を閉じてしまいたい。
 でも、まだ生きてる。
 富士は涙を拭いて顔を上げ、立ち上がり、この手で目の前のドアを開けた。光る方へ、声のする方へ、夢中になって走り出した。どこかにいるはずの『あの子』を探して、ここまで一人でやって来た。
 こんなにも血を流したままで、こんなにも無知で、こんなにも無力で、こんなにも小さくて。それでも舟を──海を漂い、今にも波に砕かれそうな、死んだ舟を見つけた。そこにはまだ命の光があった。呼ぶ声も聞いた。叫び声を聞いた。
 こんな自分だからこそ、南野の叫びが聞こえるのだ。蟹江の叫びが、蘭の叫びが、大也の叫びが、ちゃんと大きく聞こえるのだ。ここまでどうにか走ってきたから、はっきりと今、この耳に聞こえるのだ。
 まだ生きてる! そう叫ぶ彼らの声に魂を震わされ、まだ生きてる! 同じ声を返した。こうやって呼び交わし、今も響き合い、共振している。
 私たちはきっとまた脈打ち始めるだろう。そして力強く息を吹き返す。何度でも蘇る。何度でも生き返る。
 そしてまた、海に出る。
 打ち寄せる波を割って漕ぎ進み、この海を自由に駆け巡る。どこまでも遠くへ疾走していく。そう信じている。
「……なんだったんだ、っていうか……」
 なぜなら私は。私たちは。
「──バーバリアン・スキル! なんですよね」
 張り詰めていた蟹江の表情が、富士の声にふっと緩んだ。
「そうだよ」
 富士を見返し、その目が笑う。結構ずるくて、でも澄んだ目だ。
「それ以外になにかあるの?」
「ないです。なんにも。だから私は私であることを、バーバリアン・スキルである自分を、全力で生きていこうと思います。私、劇団のために頑張りますよ。バリスキには生き返ってもらわなきゃ困るんです。だからなんとか樋尾さんと連絡とって、通帳と印鑑と現金を取り返してみせます」
「いいよ、その調子! と言いたいところだけど」
 気合いを入れ直す富士の前で、蟹江はすこし頼りなくその目を揺らし、考え込んだ。
「……うーん、樋尾さんかあ……。難攻不落、なんだよな……」

 富士が寝袋に入ったのは、ちょうど日付が変わる頃だった。
 あまりにも長時間起きて活動していたせいで、疲労のあまりに身体の芯が小刻みに振動し続けているような気がする。
 本当に、今日は色々なことがあった。荷造りして部屋を引き払って南野荘に来てパンを食べてミーティングして──とりあえず、直近の記憶で鮮烈なのはシャワーだ。あのシャワーはひどかった。
 とにかく寒いし、すのはぬるぬる。いつまでもお湯はぬるいままで水勢もしょぼい。そんな三分間×三回のシャワーでは、シャンプーを流すだけでも一苦労だ。ノーメイクじゃなかったら洗顔だってできたかどうか。コンディショナーは諦め、なんとか顔と身体だけはざっと洗い、富士はその時点で虫の息。でも裸のまま、排水口の髪を拾わなければいけない。ティッシュに抜けた髪を包んで外廊下に出ると、夜の冷たい風が吹きつけてきた。骨の髄まで凍え切って、肌の水分が一気に蒸発した。
 南野からLINEが来たのは、震える両手でスキンケアを終え、髪を乾かしていた時のことだ。
『テレビ見るか?』
 まさかテレビを貸してくれるのだろうか。そう思って、見たいです、と返事をした。すると、『窓を開けろ』と返信があった。
 疑問に思いながらも窓を開けると、すぐ向かいに建つ南野家母屋のリビングの窓も開くのが見えた。上半身裸の南野が立っていて、親指で自分の背後を指している。そこには、大画面のテレビがある。スポーツニュースをやっている。南野は二本指をチャッとこめかみあたりに立てて見せ、
「これは俺様からの施しだ。──楽しめ!」
 肉声でそう言って引っ込んだ。
「……」
 ぼうっと佇む富士の耳に、「南野ー、テレ東にして」蟹江の声が聞こえてくる。窓から首を出して並びの窓の方を見ると、蟹江も窓から顔を出した体勢で「やっぱニュースに戻して」結構なわがままを言っている。富士に気付くと、「あ、こんばんは」嬉しげににこっと笑う。
「テレビっていいよね。音が聞こえなくてもなんとなく内容がわかるし。南野はネトフリもアマプラも入ってるから、なにか見たいのあったらリモコン使えばいいよ」
 リモコン、とは……テレビの方を見ると、ソファに股を広げて座っている半裸の南野がばっちり視界に入る。その手にはリモコン。つまり、あの露出度高めの巨人が、自分と蟹江のリモコン……。
 どっと疲れて、なにを言う気力も出ずに窓を閉めた。
 夕飯はさっきのコンビニで買ってきたおにぎり二つとサラダ。レンジがないので温かいものは食べられない。ケトルはあるのだから、せめてスープでも買えばよかったと後悔した。
 Wi-Fiは無事に繫がったので、ネットはできる。須藤にスマホでメッセージを送り、返信にまた返信し、しばらくパソコンに向かったあたりで富士の体力は尽きた。こうして、この部屋での最初の一日が終わろうとしていた。
 昨日の徹夜のせいだろう、明かりを落とすとすぐに眠気に襲われる。スマホを片手に寝袋の中で体勢を変え、充電ケーブルを挿したところで、ちょうどメールが一通届いた。須藤かもと思いつつ、今にも閉じそうな目をどうにか開く。
 メールは、母親からだった。そう言えば親からの返信がないことを今まで忘れ果てていた。
 母親は、意外にも富士の意志を尊重してくれるつもりらしい。
『富士も、まだ、色々と、つらい気持ちが、あるんだよね。ママも、それは、わかっています。』
 母からのメールはいつもなぜか句読点がやたらと多い。
『パパは、心配しているよ。でも、ママは、富士が、決めたことなら、案外、大丈夫かなって思ゥ』
 まだまだ五十代半ば、パソコンもメールも公私を問わずいつも使っているはずなのに、いつまでたっても変換が怪しい。
『でも、住所だけは、教えて欲しいな。富士が、困ったら、いつでも、助けたいから!』
 半分寝落ちしかけながらも、富士は母からのメールに思わぬ嬉しさを感じた。絶対に反対されるし、帰ってこいと叱られると思っていたが、両親は自分の行動を支持してくれている。
 なんだ、と長い息が漏れた。
(そっか……。ちゃんと話せばよかったんだ。ただ素直に気持ちを伝えれば……)
 母に返信するために、富士は南野荘の住所を打ち込み始める。東京都、杉、
(……並、区……あれ?)
 一瞬だけ、自然と目を閉じてしまった。ふと目を開くと、スマホの画面が暗くなっている。充電ケーブルも挿さっていない。なにか違和感を覚えながら画面をタッチすると、時刻はいきなり午前二時まで飛んでいる。
 二時間ほど気絶したみたいに深く寝入って、そして目が覚めてしまったらしい。窓の外からは、ガタガタと大きな音が聞こえている。外はそんなに強風なのだろうか。
 とりあえず眠気はまだ強く、富士はスマホを傍らに投げ出し、そのまま目を閉じてしまおうとする。が、窓の音はどんどん大きくなっていく。ガタガタ、ガタガタと、このままでは窓枠が壊れてしまいそうだ。南野荘のことだからなにが起きてもおかしくない。
(なんなのもう……これじゃ眠れないよ……)
 うまく眠り直すことができず、富士は仕方なく身体を起こした。とにかくこの音をどうにかしたい。
 暖かな寝袋から這い出し、カーテンを開き、そして、
「──ぎゃああああああああああ!」
 窓の外に貼りついている人間を見てしまった。その手、足、胴体、顔、なんとなくX字のはりつけを思い起こさせるフォルム、どう見ても人間だ。叫びながら富士は裸足で廊下に駆け出し、
「ぎゃああああああああああ!」
 蟹江の部屋のドアを叩いた。勢いよく叩き過ぎて、鍵がかかっていなかったドアはそのまま開く。構わず中に飛び込み、ヘッドホンをしながらカチャカチャとパソコンに向かって集中している蟹江の肩を摑むと、「ぎゃああああああああああ!?」蟹江は叫びながら後ろ向きに倒れた。ヘッドホンの端子がすっぽ抜け、卓上の缶コーヒーがひっくり返る。
 説明なんかできるわけがない。その蟹江の腕を摑み、引きずるようにして無我夢中、203へ。中へ突き飛ばし、震える指で「ぎゃああああああああああ!」窓の外を指さす。見て、「ぎゃああああああああああ!」蟹江はまた後ろ向きに倒れる。が、
「……あ!? あれ!? ミノタさんじゃない!?」
 ただいま、ただいま、とかその口が言ってる。それを見ただけで富士はまた「ぎゃああああああああああ!」叫んでしまうが、蟹江は「なんだもう、脅かさないでよ……!」すっかり一安心モードに入ったらしい。起き上がって窓を開け、「ミノタさんなにしてるの?もう引っ越したでしょ?」その人物に語り掛ける。
「へっ!? そうだっけ!?」
 度を越して明るい、どこか底の抜けた陽気な声。
「なーんかこの、鍵かかってるからよ、オレ、なーんかまたまずったなと思ってよ、窓から入るしかねーべさっつって外から今これ這い上がってきてよ」
「また飲んで、すべてのことを忘れちゃったんだ?」
 ──ミノタさん、は、かつての、この部屋の、住人。
 母の打つメールみたいになりながら、富士は事態を理解した。ミノタさんは何年もの間、この203で暮らしながら、いつか長女夫婦と同居したいという夢を持っていた。そしてその夢が先月ついに叶って、ここを退去した。でも、酒を飲んで、わけがわからなくなって、懐かしの南野荘203へ帰ってきてしまった。ドアに鍵がかかっていたから、仕方なく雨どい伝いに窓から侵入しようとした。日本でなかったら撃ち殺されているだろう。というか、撃ち殺していただろう。富士が。
 騒ぎに気付いたのか南野も起きてきた。
「引っ越し先はすぐ近所だから送ってくる。なに、これも元大家としての務めよ」
「親切なんですね……」
「これが俺様だ。食らえ、俺様を」
 ミノタさんの肩を抱き、南野は寝間着姿にサンダル履きで夜の住宅街へ消えていった。こういうところを見るに善人ではあるのだ。ただ、すごく、
「……夢を叶えた若手って、今の人のことなんですか……」
 噓つきでもあると富士は思う。「そうだよ」と蟹江は軽く答える。
 ここは、夢を追う若者たちが共同で暮らすシェアハウス。Wi-Fiがあって、テレビはケーブルもネトフリもアマプラも加入済み。前の住人も夢を叶えて出て行ったから空いた部屋──そう聞いたのだ。つい昨日。でも現実はこれ。うまく言葉が出てこないが、蟹江には表情で伝わったらしい。
「噓ってわけじゃないからさ。ああ見えて、ミノタさんもまだ六十代だし。ここにかつて住んでた人の中ではずば抜けて若手だったんだよ。夢も叶えたしね」
 改めておやすみ、と手を振る蟹江と、薄いドアで隔てられる。富士は一人自室に残り、寝袋に再び入っていく。
 目を閉じても神経のたかぶりは収まらない。
 とにかく、長かった。あまりにもたくさんのことが起き過ぎた。まさか、これから先はずっとこうなのか。毎日こんな密度で生きていくことを、自分は選んでしまったのか。
 長生きはできない──しみじみ富士はそう思ううち、いつしか意識を手離していた。

      4

 樋尾さんってかっこいい人なんだよ! というのは、須藤の個人的意見だ。
 富士は、南野荘に無事引っ越してきたことや、これからバーバリアン・スキルの一員として活動を始めること、まずは樋尾から取り返さないといけないものがあることを、須藤にメッセージを送って知らせた。須藤の返信は怒濤だった。友人関係に開いてしまった二年以上のブランクも、一気に塗り潰されそうな勢いだった。
『樋尾さんて元々は役者やってて、人気もかなりあったみたい』『クリーマーでも以前はよく客演してくれてたんだって』『何回かしか会ったことないけど、クールで大人って感じだった』『劇団ではかなり大きい存在だったと思うよ。だって舞監としてあの南野さんと渡り合ってたんだし』『よく言われてるのが、〝バリスキの良心〟とか〝保護者〟とか。〝守護神〟とか言う人もいる』『交渉事とか事務関係、支払関係、ほとんど樋尾さんがやってたんだって』『樋尾さんはまとも担当、っていうか』『ただとにかく本当にかっこよくて……』
 富士はつい、「現金と通帳と印鑑持って連絡絶っちゃうような人ってまともなの?」と返してしまった。若干嫌味っぽくなってしまった気がしたが、須藤はまったく躊躇なく、
『でもほんとにかっこいいんだって!』
 そう返してきた。

 朝が来て、目を開けて、スマホを見た。八時前だ。
 ミノタさんの置き土産であるカーテンの隙間から、朝日がさんさんと射しこんでいる。
(……夢?)
 富士はまだ、本当に自分がここにいることを信じられないでいた。
 これまでのことはすべて長い夢で、ここはまだ寿の部屋なんじゃないかとも思う。でも、
(じゃ、ない……)
 夢ではない。
 濃い霧のようだった眠気が晴れて、目には今、すべてがくっきりと見えている。天井も壁もカーテンも、窓の外の景色も、二つ折りにして枕にした変な柄の座布団も。
 起こったことはすべて現実だった。そして自分は今、ここにいる。寝袋の中で目を覚まし、バーバリアン・スキルの一員として呼吸をしている。
 これからはここで生きていくのだ。この南野荘を住処として。
 寝袋から這い出し、思いっきり伸びをする。「ふぁあおぁ……」声を出しながら欠伸あくびもする。まとまった睡眠がとれたわけではなかったが、それでも久しぶりにちゃんと身体を休められた気がした。
 朝一のトイレに向かうため、真新しいサンダルをつっかけて薄っぺらい玄関ドアを開くと、ガサッと音がした。部屋の外側のドアノブに、コンビニのビニール袋がかかっている。中を見ると、ペットボトルの緑茶と缶コーヒー、クッキーやせんべいがいくつか入っていた。レシートもあって、その裏には走り書きで「ミノタ氏からの詫び」と書いてある。南野に送っていかれた道々、ミノタさんが富士のために買ってくれたものらしい。置いていったのは戻ってきた南野だろう。ちょうど飲み物を切らしていたところで、ありがたく頂くことにする。一旦玄関を上がったところに置いておく。
 学校が休みのせいもあるのか、陽射しに白く照らされた町は静まり返っていた。澄んだ空気が気持ちのいい、穏やかな春の朝だ。
 蟹江はまだ眠っているのかもしれない。昨夜は、というかほぼ今朝に近い数時間前の話だが、緊急事態だったとはいえ悪いことをしてしまった。振り返った瞬間の、あのきようがくの表情……後でちゃんと謝って、お礼も言っておかなければと思う。
 用を済ませて部屋に戻り、小さなシンクで歯を磨く。頂き物のお茶を飲み、クッキーの小袋を摑んでパソコンを開く。昨夜のうちに樋尾に送っておいたメールに返信がないか確かめてみて、
(そりゃそうだ)
 小さく息をついた。返信がないのはすこしも意外なことではない。蟹江や蘭もずっと無視されていると言っていたのに、ぽっと出の自分なんかがあっさりお返事をもらえるわけがない。
 樋尾に送ったメールの内容は、まず、自分がバリスキに加入したこと。そして南野から通帳と印鑑と売上金を回収するように言われたこと。このままでは残金の清算や返金ができなくて困るということ。
 できるだけ淡々と、でも切実さはちゃんと伝わるように、テキストには最大限に気を使ったつもりだ。送信したのはほぼ十二時間前。もちろん、まだ読まれていない可能性もある。
 メールアドレスを教えてくれたのは蟹江だった。昨夜の身の上話の後、樋尾のTwitterアカウントやリアルの住所、バイト先、立ち回り先の情報をまとめて、富士のスマホに送信してくれた。
 蟹江曰く、樋尾は「とにかく律儀」らしい。
 ──責任感の塊みたいな人なんだよね。しかも結構、完璧主義。だから本人的にも今の状況って苦しいんじゃないかな? 色々半端に投げ出したような形になってるし。
 それを聞いて富士が思ったのは、その苦しさをつく方法はないか、ということだ。樋尾は南野に腹を立てている。劇団も辞める、というか辞めたつもりでいる。こんな状況を、彼の責任感や律儀さをつつくことで打破できはしないか。きっと謝るとか、お願いするとか、話し合いを求めるとかは蟹江たちがとっくにやって、そしてスルーされてきている。関係性の深い彼らがやってダメなら、誰がやってもダメなのだ。ならばよりアグレッシブに、一番痛いところを狙って攻撃してみたらどうだろう。こっちの希望が通るまで、しつこく。
(たとえば……『返金ができなくて、みなさん困ってるんですよ! 支払いできなければもっと広範囲にご迷惑がかかってしまいます!』って、樋尾さんが連絡を絶っている今の状況がどれだけ世間に混乱を招いているかをアピールする、とか……?)
 考えながら、クッキーを口に放り込む。そんなの生ぬるいような気がする。というか、メールはしよせんメールだ。どんなに内容に気を使い、何通立て続けに送っても、ゴミ箱マークをタッチすればそれで終わり。他の手段も考えなければいけない。
(メール以外の手段か……)
 悩みつつ、チケッピオの『見上げてごらん』ページにアクセスしてみる。書き込みはやはり、数日前から止まったままになっている。劇団名や公演タイトルで検索しても、新たな情報はなにもない。
 樋尾は、これらの書き込みを見ていないのだろうか。見ていないなら、ぜひ見てほしい。せっかく公演を見に来てくれた人々が、あれからずっとこうして困っているのだ。彼が本当に律儀な人間なら、これを放っておけるとは思えない。
 樋尾のTwitterも見てみる。昨夜見た時となにも変わらず、先週からなにも呟いていない。遡って過去の投稿を見ると、稽古の様子や、ラーメンをすする蘭の写真が残っている。板張りのスタジオのような場所で、大人数で弁当を食べている写真もある。そこには南野と蟹江、蘭もいる。よーく探すと大也もいる。みんな楽しげに笑っていて、日付は去年の十二月の半ば。富士が知らない男女たちの中には、きっと冬メンも含まれているのだろう。
 こんなに和気あいあいとしていたのに、この数日後、バーバリアン・スキルは空中分解してしまった。
 ふと物悲しさに浸りかけ、その寸前で踏み止まる。急いでタブごと閉じ、気持ちを切り替える。今は、とにかく行動だ。劇団のマネージャーとして、問題解決のための行動をとらなければ。
 とりあえず確かなのは、バリスキはもう写真に残された和気藹々の日々には戻れないということ。過去とは決別し、新しい方向へ舵を切り、突き進んでいくしか道はない。そしてそのためには金がいる。信用もいる。樋尾が持っている現金と通帳と印鑑がいる。
(やっぱり、直接会いに行くしかないのかも)
 樋尾の住所の最寄り駅はこうえんだった。ここからたった一駅だ。土地勘は全くないが、スマホのマップさえあれば初めての場所でも迷うことはないと思う。
 在宅の可能性が高いのは、普通に考えれば、午前中だろうか。樋尾のメインのバイト先はイタリアンレストランらしい。会社員のように朝から出勤ということはないような気がするのだが、どうだろう。念のためレストランの方も調べてみる。最寄りは新高円寺という丸ノ内線の駅らしく、平日は正午から十五時までランチをやっている。夜の営業は十八時から二十三時。富士はちょっと悩む。ランチのシフトに入るとしたら、出勤はとにかく午前中ではあるのか。
(まあ、だとしても……十一時より早いってことはないよね? 十時とかならまだ家にいるよね?)
 時計を見ると、まだ九時前だ。ここから駅まで結構かかるが、それでも高円寺は目と鼻の先。これから身支度を始めても、余裕で十時には樋尾宅を訪問できるはず。出勤前なら迷惑だろうが、別にこっちだって面倒なやりとりがしたいわけじゃない。ただ返すべきものを返してくれさえすればいい。なんなら、忙しいところを急襲するぐらいでちょうどいいのかもしれない。ああもう時間ないのになんなんだよ、ほらよ! 返せばいいんだろ! とか、そんな感じでさくっと解決するかも。
(……よし。決めた。行こう)
 勢いつけて立ち上がろうとしたそのとき、摑んだままのスマホが震える。見ると須藤で、
『おはよー! 樋尾さんから返信きた?』
 と。返信はまだないけど、とりあえず自宅に行ってみようかと思っている、と返信。
『そうなの? いつ?』
 今日これから。
『え、でも龍岡さんは樋尾さんとまともに会ったことないんでしょ? 知らない女の子がいきなり自宅に来ても意味不明じゃない? 本当にバリスキのメンバーかどうかも向こうにはわからないんだし』
 確かにそれはそうかもしれないが、
『バイト午後からだし、一緒に行ってあげるよ』
 思わぬ展開だった。さすがにちょっと戸惑う。いや、でも急だし悪いし……的な返信を送ろうとするが、須藤の追い打ちの方が速い。
『どこで待ち合わせる?』『樋尾さんちって高円寺だったよね?』『改札で待ち合わせしようか?』『それでいいよね?』『何時に来られる?』『うちおぎくぼだから超近い』『すぐ行けると思う』『どうする?』『どうしよっか?』『改札に十時とか?』『来られそうな感じ?』『それでOK?』『?』
 ……矢か、と。隙なく連続で打ち込まれる文字列は、画面から目に突き刺さってくるようだった。それほどの勢いが須藤の返信からは感じられる。そのノリを若干疑問に思わなくもなかったが、来てくれるというなら、まあ、それはそれでありがたいかもしれない。確かに自分は樋尾の顔もろくに覚えてはおらず、通りで行きあったとしてもわからないのだ。
 十時ちょうどに高円寺駅の改札で待ち合わせということになり、とりあえず顔を洗うことにする。考えてみれば、須藤とは一昨日も会ったばかりだ。久しぶりの再会に、二人で夢中で喋って泣いて、笑って騒いでまた泣いた。停止していた時間が、あれからせきを切ったように一気に流れ始めた。そして南野と蟹江に出会って、なんだかんだで、自分は今、ここにいる。
 思えば、『なんだかんだ』でまとめられる部分の濃厚さはすごい。何年分もの人生の時間を、『なんだかんだ』に凝縮してたった二日で飲み下したような気がする。
 須藤と再会したあの時から──より正確には須藤からメッセージが来たあの時から、富士の世界の速度は変わってしまった。
 肩に落ちる髪をかしながら、ふと思う。矢のようなレス。謎のテンション。もしかして。
(……須藤くんは、今日、私に会いたいって思ってくれたのかな。それであんなに強引に……)
 考えると、すこし頭がぼうっとしてしまう。

#2-4へつづく
◎第 2 回全文は「カドブンノベル」2019年12月号でお楽しみいただけます!


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