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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.13

受け身系女子は、劇団のキーマンである舞台監督を呼び戻そうと自宅に突撃する! 竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-4

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、期間限定公開です。

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 たくさんの人が行き交う高円寺駅の改札に、須藤は先についていた。
「龍岡さんおはよう! こっちこっち!」
 大きく手を振るその姿に、通り過ぎる女の子が驚いたように振り返る。そうしたくなる気持ちはよくわかる。須藤は今日も、輝いている。
 整えた黒髪はつやつやと光を放ち、小顔の肌はみずみずしく透けるよう。白のビッグサイズブルゾンに黒のパンツを合わせてサコッシュを下げただけのシンプルなかつこうが、どうしてあんなにおしゃれに見えるのだろう。まるで彼一人だけが、真上からまばゆいライトを浴びているみたいだ。
 富士は妙にまどろっこしい短いエスカレーターで改札フロアへ降りていきながら、須藤に手を振り返す。こっちは結局身支度の時間が足りなくて、まともにメイクもしていない。日焼け止めの上にパウダーをはたき、眉だけはパパッと描いてきたが、人から見れば多分すっぴんと変わらない。
「おはよう須藤くん。今日も決まってるね」
「龍岡さんこそ、なんかすっごいかわいいスカート穿いてる。もしかしてギャルソン? ていうか前にもそれ着てたよね? 胸のところにタックが入った、パフスリーブのブラウスと合わせて」
 須藤じゆんすけ──思わずフルネームで念じたくなる。これなのだ。こういうところなのだ。須藤はこうやって、いちいち富士を感動させてくる。彼以外に一体この世の他の誰が、富士なんかが何年も前に着ていた服のコーディネートを覚えてくれているという。そして褒めてくれるという。親だってこんなことはしてくれない。
「須藤くんすごい、よく覚えてるね。ありがとう」
「今日も本当によく似合ってるよ。そういう恰好、好きなんだ」
 微笑みながらさらっとこんなことが言えるのもまたすごい。ともお世辞とも一切感じさせず、ただストレートに「好き」なんて言葉を伝えられてしまうところ。異性なのに、なんて変な意識さえも差し挟ませないところ。これが須藤なのだ。やっぱり彼は、出会った頃とすこしも変わっていない。自然体の笑顔につい見入ってしまいそうになりつつ、富士はどうにか我に返る。
「今日はでも、こんな急にごめんね」
「いいのいいの。ちょうど時間あったし、樋尾さんに会えるかもしれない機会なんて絶対逃せないし!」
 須藤は妙に張り切っていて、「北口? 南口? どっち口? あはは!」左右に大きく両腕を伸ばし、その場でくるりとターンして見せる。
「南口のはずだけど……」
「オッケ! レツゴー! イエー!」
「……」
 ──違うな、これ。
 不意にくっきりと理解する。もしかして、と、さっき感じた件。須藤くんは、今日、私に会いたいって思ってくれたのかな。それであんなに強引に……とか、思っていた件。そういうことではないみたいだ。どうやらかなり、間違っていたみたいだ。
 でも、違うならなんなんだろう。このグイグイ来る感じ、一体なにが彼をこうさせているのか。確かめておきたくなるテンションではあった。
「……須藤くんて、樋尾さんとなにか接点あるんだっけ?」
「ないよ? ただ会いたいなーって思って」
 きょとんと音がするほど澄んだ瞳をして、須藤はキラキラ輝く午前の陽射しの中に踏み出していく。まぶし~い、とか言いながらのんきに片目をつぶっている。が、
「……な、なんで?」
 謎はさらに深まる。
「え? かっこいいからだよ?」
 その、雲を踏んで弾むみたいな浮かれた足取り。住所を知っていて、経路のマップを見ている富士の先に立って、彼はどこへ行こうとしているのだろう。
「かっこいいから会いたくて……それで、そんなにウキウキしてるの?」
「やだ、ウキウキなんてしてないよ?」
「……してるでしょ?」
「うそ、完全に平常心だし別に全然ウキウキなんてしてな……あっ!?」
 須藤は銀行のガラス窓に映るウキウキ弾む自分の姿を見て、やっと己の浮かれぶりを自覚したらしい。首をちょっとすくめて振り返り、
「ごめん。してた」
 ぺろ、と小さく舌を出してはにかむ。そんな須藤の表情に、富士はうっすら恐怖を抱く。様子が変な須藤が怖いのではない。須藤をここまで変にした樋尾という男が怖いのだ。数回会っただけ、特に親しくもないという須藤がこのザマ──一体どれだけかっこいいのだろうか。数年前にネットでバズった「イケメン過ぎてサウジアラビアから国外退去させられた男」のご面相が脳裏をよぎる。画像を開いた瞬間、あまりのかっこよさに当時の富士は噴き出した。あのレベルなのだろうか。
 もしもそうなら、自分も須藤のようにおかしくなってしまうかもしれない。そして都合よく丸め込まれてしまうかもしれない。しっかりと用心してかからなければ。
「……樋尾さんって、そこまでかっこいいの?」
「そう。そこまでかっこいいの」
 大きく頷き、須藤は胸の前で祈るように両手を組んでみせる。乙女のポーズで言い募る。
「しかもそこまでかっこいいのに、今後役者はやらないで裏方一本でいくって公言してるから、もう舞台では見られないんだよ。『会いに行けない樋尾さん』なんだよ」
「私たち、今まさに会いに行こうとしてるけど……」
「えっ……ほんとだ。会いに行こうとしてる……。あれ、待って。いいのかなこんなことして。いきなり自宅に押し掛けるとか迷惑じゃないかな。嫌われちゃわない?」
 さっきまでの浮かれ方から一転、突然の及び腰。
「今さらなに言ってるの。須藤くんから一緒に来るって言ってくれたのに」
「……そうだけど。そうだよね。わかってるんだけど……現実味出てきたら急に動揺しちゃって」
「いやなら別にいいよ、一人で行くから」
「いやじゃないよ! 行く行く! 行くんだけど、なんていうか、ただ……どうしよう。はあ……」
 ──こういうグダり方には、既視感があった。高一の頃、サッカー部の先輩に片想いをしていた友達が「試合を応援しに行く」と言い出して、日曜日に一緒に出かけた時のことだ。その子は自分で行くと決めたくせに、競技場の入口手前で急に「でもさあ、私が行ったらおかしくない?」「声かけても、誰? って感じじゃない?」「どうしよう。はあ……」などとグダグダし出した。その感じに、今の須藤はよく似ている。ちなみに試合は結局観に行き、その子は先輩と交際し、しょうもない理由で即別れた。
 須藤は富士の傍らで、落ち着きなく歩幅を小さくする。
「なんか、めちゃめちゃ緊張しない? 樋尾さんって、今はもう全然連絡とれない感じなんでしょ? 南野さんとかも」
 その通り、これは緊張するシチュエーションだ。決してウキウキ浮かれてイケメンを拝みに行くような状況ではないのだ。
「うん。だから、こうやって自宅に会いに行くしかないかと思って」
「バリスキに戻ってきてくれるように、うまく説得できたらいいよね……」
「いや、そういう説得はする予定ないけど」
 え、と富士の言葉に驚いたように、須藤は傍らから顔を覗き込んでくる。
「私が南野さんに言われたのは、とりあえず、お金関係のものを返してもらうってことだけだから。それ以上のことを私から話したり頼んだりするのは越権行為のような気がするし」
「でも、樋尾さんには戻ってきて欲しいんでしょ? それは普通に、劇団としての総意なんでしょ?」
「蟹江さんと蘭さんはそう言ってたけど、私は樋尾さんがどんな人かも知らないから。南野さんは……まだこう、プンプンしてる感じ。あんな奴は知らん、みたいな」
「えーなにそれ、かわいい」
「かわいくないよ全然」
 人の指を紐でちぎり落とそうとするような巨人の、どこにかわいさを見つけろという。豚の群れの中から豚になった両親を捜せ、まあそこにはいないんだけど! とか言われたぐらいの難問だと富士は思うが、
「かわいいっていうか、かっこいいよね」
「えっ!?」
 続けられた須藤の言葉は不意打ちだった。
「南野さんの話だよ!?」
「南野さんの話だよ」
 富士は思わず立ち止まり、須藤を見つめて首を捻る。南野が、かっこいいだと?
 南野の姿を思い浮かべてみる。シルエットはとりあえず、記憶のサムネイルのサイズからはみ出すぐらいに馬鹿でかい。そして、なんらかのこだわりがありそうなヒゲ。眉は濃くてしっかりしていて、その下の目鼻立ちも彫り深くくっきり。腹筋は小太刀で筋目を刻んでつけた岩盤のよう。まあ、言われてみれば確かにかっ──いや、でも、かっ──まあまあ、とはいえ、かっ──いや、まあ。
 ……なぜなのだろう。あの巨人を「かっこいい」という単純な括りに納めることに、富士は強烈な心理的抵抗を感じる。決して、かっこ悪いと思っているわけではないのだ。そうではなく、びようの虎を投げ縄で捕まえようとしている感というか、巨大な珍種のカブトムシをラップで包もうとしている感というか。とにかく言葉のありがちさに比べて、あまりにも本人が変わり者すぎる気がする。その次元の隔絶を、飛び越す勇気が富士にはない。
「でも……南野さんって、言動にパンチがありすぎない?」
「まあ確かにパンチはあるよね。劇団主宰するほどの人だし」
「……かっこいいっていうよりは、なんだろう、もっとこう……おかしい? おかしくない?」
 口に出せばしっくりきた。あの人は「かっこいい」のではなく、「おかしい」のだ。
「ちょっとそれひどーい!」
 須藤は手を叩いて笑い出す。
「かっこいいしおもしろい人なのに」
「おもしろさは三日しか持たない説が濃厚だから……そういえば、南野さんのお兄さんはかっこよかったよ、普通に」
「うそ! 南野さんのお兄さん!? そんなレアキャラにいつ会ったの!?」
「昨日。南野さんっぽい見た目で、でもなんかちゃんとしてるの。結婚もしてて」
「既婚……! やだ、たちまち危険な香り……」
「香りはバターと小麦だから。すっごい、めちゃくちゃ、いい香り。肺の中、全部の肺胞の隅から隅まで、目一杯に乳牛飼ってる小麦畑が広がる感じ」
「なにそれ、やばい肺炎に感染しそうだけど最高に幸せじゃん……!」
「今度、南野荘に遊びに来るといいよ。隣の母屋でお兄さんはパン屋さんやってるから」
「行く! 絶対行く!」
「蟹江さんもいるしね」
「あー、蟹江さんもかっこいいよねー」
 しみじみとそう言う須藤の横顔に、思わず突っ込まずにはいられない。
「……須藤くんはバリスキの男なら誰でもいいの?」
「えっ! 違う、そうじゃないよ!」
 富士の言葉に、須藤はパタパタと顔の前で手を振ってみせる。パチパチと大きな瞳を瞬いて、やたら熱心に言い返してくる。
「一番かっこいいのは、樋尾さん。そこは不動! でもやっぱりバリスキは大好きな劇団だし、舞台で観ちゃうとみなさんどうしてもかっこよく見えるから」
「ああ、それならわかるかも。確かに南野さんも、舞台の上では完全にかっこよかった」
「でしょ? 東郷さんとかもさ、もうやばいでしょ? やばくない? なんなのあの人」
「……ところで、他にもメンバーがいるのって覚えてたりする?」
「えーと、冬公演の時に辞めちゃった人たちのこと?」
 大也の存在感はやはりこんなものか。少々哀れに感じたその時、ちょうど目的地についた。
「ねえ、多分ここだ。樋尾さんの自宅」
 ちょっと目を見かわし、富士は須藤と二人して建物を見上げる。
 高円寺駅の南口を出て、ほんの数分というところだろうか。店舗が入った雑居ビルやマンションが立ち並ぶ街中に、その三階建ての古びたコーポは建っていた。

 エントランスはオートロックではなくて、富士は須藤とともにエレベーターに乗り込む。芳香剤の強烈なにおいがして、お互いなにも言わずに息を止める。三階で降りて、深呼吸。並ぶ部屋のドアを見ながら、306のプレートを探す。
 その部屋に表札は出ていなかった。すこし不安ではあるが、須藤と再び目を見かわし、頷き合う。富士はチャイムのボタンを押してみる。
 緊張しつつしばらく待つが、誰も出てこない。ドアの向こうにも人の気配はなかったように思う。須藤もドアをノックし、
「樋尾さん。クリーマーの須藤ですが」
 声をかけてみるが、状況は変わらなかった。
「……留守かな」
「そうなのかな。樋尾さーん? おーい」
 須藤は築年数を感じさせるドアの新聞受けを指で押し開け、身を屈めて中を覗き込む。さすがにどうかと思い、「ちょっと須藤くん、それは……」慌てて止めようとするが、
「でも、居留守かもよ? 中で息を潜めてるのかも」
 小声でヒソヒソと言い返されてしまう。そして富士も、その若干ストーカー臭い須藤のペースに乗せられる。思わずドアにぺたっと耳をつけ、中のかすかな物音を聞き取ろうとしてしまう。そんな富士と、こんな須藤。二人揃えば完全にストーカーの共同作業だ。コンビ名は盗聴&覗き。もはや犯罪の香りしかしない。
 こんなところを誰かに見られたらまずいかも、とさすがに富士も思う。まさにその時、隣の部屋のドアが数センチ開いているのに気が付いてしまう。女の人が、その数センチの隙間から怪しいコンビを驚愕したような目をして見つめている。
「……知り合いなんです。ただ、留守かどうか確かめたくて……」
 富士が作り笑顔で言い訳すると、隣の部屋のドアはパタンと音を立てて閉まった。ガチャッ! ジャラジャラガチャン! 厳重に戸締りした音も聞こえる。
「怪しい人認定されたかも?」
「確実にされたでしょ。だって龍岡さん怪しかったもん、めちゃくちゃ」
「なに他人事みたいに。須藤くんこそ怪しかったよ。完全に手慣れた覗きの仕草だったよ」
「手慣れた、とか言わないで」
「とにかく留守なのは確かっぽいけど……」
「んー、まあ、今日のところは諦めた方がいいかもね。目撃されちゃったし」
 須藤は諦めてエレベーターの方へ戻ろうとするが、こんなこともあろうかと、大きめのポストイットとボールペンを持ってきてあった。
「ちょっと待って、メモ書いて残していくから。えーと……龍岡です、と。劇団のお預けしている物の件でお伺いしましたが、お留守のようでしたので、また今度伺います、よろしければ在宅されているお時間など教えて下さい、メルアド……と」
「そんなメモなんている?」
「威圧しておきたいし。メールくれなければ私来るよ? 龍岡は来る子だよ? って、知らしめておきたいっていうか。できた」
「さらっと『威圧』とかのワード出てくるもんね、使える子だよこの子は……」
 ポストイットをドアに貼り付け、風に飛ばされたりしないことを祈りつつ、また芳香剤のにおいに包まれながら一階へ降りる。
 それからしばらくエントランスの人の出入りが見えるところで待ってみたりもしたが、樋尾が現れることはなかった。

 十一時前に須藤はタイムアップ、バイト先に向かわなければならず、「また樋尾さんを捜索するときは声かけて!」残念そうに手を振りながら、高円寺駅の改札へ入っていった。困惑することも多々あったが、須藤と一緒に過ごすのはやっぱり楽しい。再会した時以来、お互いになにか振り切れた感もあって、前よりももっと仲良くなれそうな気がする。どういう理由があったにせよ、付き合ってくれたことには感謝しかなかった。
 取り残されて富士は一人、徒歩で新高円寺駅の方面へ向かうことにする。目指すは樋尾のバイト先だ。自宅にいなかったということは、もう出勤しているのかもしれない。
 マップを見ながら歩くことしばし、その店はすぐに見つかった。ランチにはまだ早く、ドアにはクローズの札がかかり、ガラス張りの洒落しやれた店内も暗い。しかしちゆうぼうの仕事はもう始まっているようで、轟音を上げて回りっぱなしの換気扇からはガーリックの香りが激しく撒き散らされている。
 店内をさりげなく覗こうとしながら通りを何度か行き来しているうちに、店の前に一人、また一人と、足を止めはじめる。自然と行列ができていく。随分人気の店なのか、スーツ姿の会社員や数人連れの女性グループ、一人客が続々と行列を伸ばしていって、(へえ……)最後尾辺りで足を止めると、「並んでらっしゃいます?」すぐ後ろから声をかけられた。思わず、「あ、はい」頷いてしまい、富士もなりゆきでランチの列に並ぶことになってしまった。
 そのまま待つこと二十分。順番が来て店に入るとカウンター席に案内され、パスタのランチを頼む。厨房の音が響く活気ある店内は満員だった。スタッフは皆、忙しそうにテーブルの間を縫って歩いている。何気なく首を巡らせて全員の姿を確かめるが、皆小柄だ。公演の夜に南野と喧嘩していた姿を見ただけだが、樋尾はもっとすらっとした長身だったと思う。ついでにトイレにも立って厨房も覗く。後ろ姿だけを見ても太目に思える人が多い。
 ややあってテーブルに来たランチは、驚くぐらいに量が多かった。値段も安く、なにより味がいい。この店が行列になるほど人気のわけがわかった。普通にミニサラダとパスタとスープのセットを楽しんでしまい、食べ終わって水を飲み、「ふう……」口を拭いた辺りでようやく思い出す。自分は人気のランチを堪能しに来たわけじゃなかった。樋尾を探しに来たのだ。
 伝票を摑んで立ち、会計のカウンターに向かい、千円札を出しながらそれとなく訊ねてみる。
「あの、樋尾さんって今日はいらっしゃいますか?」
 店の人はレジを打ちつつ、ちょっとげんそうに富士を見た。「そういうの、一切お答えできないんです。すみません、お店の方針なので」にべもない。「すいません……ごちそうさまでした」頭を下げつつ、富士は店から出る。それもそうか。店員の名札を見て、そこからネット上のアカウントなどを探るやからも最近はいるというし。樋尾が本当にかっこいいなら、ストーカー的な人物が周囲をうろつくかもしれないし──そこまで思ったところで、脳裏に男女二人組のシルエットがくっきりと浮かぶ。一人は新聞受けから部屋の中を覗き、もう一人は物音を聞き漏らすまいとドアに耳をつけている。結構楽しげに、ノリノリで。
(いやいや……違うから。私たちは、そういうんじゃないから。ただ、返してもらいたいものがあるだけだから。むしろ問題があるのは、劇団の財産を絶賛持ち逃げ中の樋尾さんの方だから)
 自己弁護しつつ、また高円寺南へ向かい、樋尾の部屋の前まで行く。チャイムを鳴らし、ノックをする。やはり誰も出てこない。ドアのポストイットは、さっき富士が貼ったままの形で残っている。
 腹ごなしに階段で降りていきながら、(やっぱいるよね。オートロック……)しみじみ思う。もしも姿を隠していたい事情があるとして、オートロックさえあれば、みすみす自分のようなものがこんなふうに自宅へ突撃してくるのを許すことはないのだ。ミノタさんのように、外壁からのアタックを辞さないタイプが相手ならまた話は別だが。

 蟹江が教えてくれた立ち回り先のパチンコ屋や書店、喫茶店も覗いてみたが、樋尾らしき人物を見つけることは結局できなかった。
 なにしろ顔がわからないのだから、難しい。Twitterにもウェブ上にも本人の顔は一切なく、背恰好がそれっぽい男性に片っ端から声をかける、などというのもあまりにも非現実的だ。疲れた足で高円寺の街をうろつきながら、自分でも無駄なことをしているとは思っていた。でも、できることはすべてやらねば気が済まなかった。
 不意にかさんだランチの額が気になって、富士は結局、無駄足の挙句に阿佐ヶ谷の南野荘まで歩いて帰ってきた。朝から随分たくさん歩いた気がして、スマホで歩数を見てみる。23409歩、とある。車社会の地元なら、県ごと異世界転生したとしてもまだあり得ない歩数だ。
 ふらつきながら部屋に帰りつき、靴を脱ぎ、シンクで手洗いとうがいをして、寝間着兼用のパーカーと楽なパンツに着替える。PCを立ち上げ、まだ樋尾からの返信がないのを確かめる。
 テーブル代わりのスーツケースの蓋の上には、分厚いバインダーと数冊のノート。手を伸ばし、パラパラとめくってみる。表にすらなっていない、荒っぽい走り書きの文字と数字が羅列されている。
 この雑なノートが、バーバリアン・スキルの帳簿だった。昨日のミーティングの後に、南野から「懐事情を知っておけ」と託されたものだ。樋尾の方は収穫がなかったし、次の公演についてはまだなにも決まっていない。今はこれをチェックするぐらいしか、富士にできることはない。
 税務で用いられるような、複雑な形式の帳簿ではなかった。現金がいつ、いくら入ったか、なににいくら使う予定か、実際にいくら払ってなにに使ったのか、残高はいくらか、その程度のことを時系列に沿ってメモしてあるだけで、言うなれば家計簿とか、なんならお小遣い帳に近い内容に思える。レシートや領収証はすこしずつずらして台紙に貼りつけ、バインダーに綴じられている。どちらも公演ごとにまとめられている。字の汚さや雑さ、見返すことなど絶対に考えていない適当なまとめ方に目をつぶれば、読み解くことはそれほど難しくなさそうだった。
 貰い物の缶コーヒーをちびちび飲みながら、富士は広げた寝袋に腹這いになって、改めて帳簿を一冊目から開いてみた。
 その初っ端、一行目から、某有名消費者金融の名がでかでかと記されていてちょっと息を吞む。
 劇団の旗揚げに際して、南野は五十万円、樋尾と蘭は二十万円ずつ、蟹江は十万円、合わせて百万円を借りて資金を作ったらしい。それを丸々投入して最初の公演を打ち、二百人を超える観客を集めた。誰が何枚のチケットを売ったのかも記録されていて、南野と蘭がやはり多い。ノルマ制ではないようだが、メンバーごとの差は随分ある。売上は八十万円に届かず、次回に赤字を繰り越している。
 次の公演にはまた別の消費者金融から借りて、南野を筆頭にそれぞれ数十万円のまとまった額を劇団に入れている。それをまた予算として組み込み、二回目の公演。観客は三百人をゆうに超え、売上を見れば前回の赤字分を補ってなお微妙に黒字だ。確かに蟹江が前に言っていた通り、これは初年度としては成功なのかもしれない。ただし、個人が拠出した分が補塡されるわけではなく、それぞれの借金はそれぞれの借金として抱えたままになっている。
 二年目。ここからはもう快進撃といっていいだろう。月を追うごとにメンバーが増え、毎月の活動費の徴収も始まり、動員数は見事な右肩上がり。この年に打った公演は三度。南野はやはり個人として年間で数十万円を拠出したが、三度目の公演の時点で動員は四百人を超えた。チケット代が上がり、Tシャツなどのグッズが好調に売れたこともあって、売り上げは随分伸びた。
 そして三年目に入り、夏と冬に分かれた年二回の公演が始まる。夏公演、つまり南野たち創設メンバーは五百人を動員し、劇団員には一律五万円のギャラが支払われたらしい。借金で始まったバリスキが、ついにギャラを払えるようになったのだ。
 そして驚くべきことに、同じ年の冬公演で集めた観客は六百人。「あれ?」何度か見直したが、間違いではなかった。この時点で、冬メンの公演の方が多くの客を呼ぶようになっている。
 富士はこれまで、冬公演は、南野たちの人気にあやかる形でどうにか成り立っている、というイメージを抱いていた。だからこそ、冬メンが離脱した際の言い草には納得がいかなかった。しかし現実はイメージとは違い、この時点で冬公演は夏公演を動員で上回っている。そして、この冬公演でもまた一律五万円のギャラが支払われている。劇団員ごとのチケットの売り上げを見ると、冬メンの頑張りは凄まじい。南野たちも夏公演と同レベルの枚数を売ってはいたが、冬メンはこれまでにないほどの勢いで売上を一気に伸ばしている。
 そして、四年目。
 伸びた売上を予算にすべて注ぎ込んだ、この年の夏公演の動員は五百人。
 そして冬公演の際には、三十万円ほどをプールし、その残りを予算としている。動員は六百五十人。
 五年目。
 夏公演には、前年の冬公演の売上全額に、前回プールした分の金額も足して予算とし、動員は五百人。
(えーと……。なんとなく、いやな予感がするな……)
 ここまでざっと見ただけでも、わかってしまう事実というものがあった。
 夏公演は、膨れ上がった予算の額に対して、動員も売り上げもほとんど伸びていない。赤字なのだ。そしてその赤を埋めるのは、基本的に冬公演の蓄え。ここまでですでに、冬公演で出た黒字分を、夏公演がそっくり食いつぶすような形になってしまっている。冬メンがどれだけチケットを売っても、その頑張りが彼らの利益としては反映されていない。本来なら、冬公演で出た黒字は冬公演の予算に回すべきだったのではないか。
 恐る恐る見た次の冬公演の予算は、夏公演と比べれば随分と物足りない額だった。その夏公演で、ここまでの蓄えを食い潰してしまったせいだ。
 そして、動員は──ページをめくり、息が漏れる。なし。ゼロ人。
 冬メンの離脱によってこの公演はキャンセルされ、売り上げも当然ゼロ円。経費の清算はなんとかできたようだが、劇団にはこの時点で金が全くなくなってしまった。
 で、その次が、今年の『見上げてごらん』。
 南野、樋尾、蟹江、蘭は、二十万円から三十万円という金額をそれぞれ拠出している。キリのいい数字ではないのが全力感を醸し出している。ちなみに彼らが負ったこれまでの借金については、この帳簿にはなにも書かれていない。借金はあくまでも個人の勝手で自己責任、劇団として関知するところではない、ということなのだろう。そして若手である大也や、富士が名前を知らない数名のメンバーも、数万円程度の額を公演のために出したようだ。
 百万円ほどの予算でどうにかやりくりしようとした形跡が残されているが、資金繰りは苦しかったのだろう。何か所も一度書いた数字を横線で消し、雑な字で書き直し、どうにか帳尻を合わせようとしている様子が窺える。
 だが、見づらい数字を目で追い始めると、すぐに不審な点が見つかった。これまでにはなかった不自然さに、ページを繰る手が止まる。複数の項目で、これまでの公演でかかっていた費用と比べて、明らかに金額が安すぎるものがあるのだ。劇場代がまずそうだし、その他にも人件費、製作費など、いくつもおかしな点がある。たとえば「外部スタッフ:10,000/四日間通し」という部分。大人を朝から晩まで四日間拘束して、一万円ですむなんてことがありうるだろうか。
 あの公演は劇場こそひどかったが、富士が見た限りでは、それ以外の部分で安っぽさを感じるようなことはなかった。原始人の衣装はそれぞれ色味の違うファー、踊ると広がるポンチョにブーツに各種装飾品まであった。見るからに手が込んでいて、すごい! と思ったので、富士もよく覚えている。それにセットや照明、音響も完璧だったし、ド派手なレーザービームや惜しみないスモークの演出で観客席は沸きに沸いた。十分間しか上演されなかったため確かなことは言えないが、『見上げてごらん』の公演は、これまでの過去の作品と比べても見劣りしないものだったと思う。
 過去の作品、たとえば富士がDVDで観た『鶴のシシャ』は、一昨年の夏公演で、帳簿によると予算はおよそ百九十万円となっている。『見上げてごらん』の上演された部分と比べて、特に豪華だったとか、違うと思える点はない。劇場はもちろんまともそうだったが、劇場費を抜き出して比べてみるとその差は二十万円程度だ。
 一体どうやって、あとの七十万円近い金額を、作品の完成度に影響を及ぼさずにディスカウントできたのだろう。帳簿に記された金額で、あの公演は本当に可能だったのだろうか。バインダーから『見上げてごらん』の分の領収証を全部引き出し、金額を一枚ずつ確かめてみることにする。
 しかしすぐに、
(……なにこれ。全然金額が違う)
 富士は上体を起こした。座り直し、首を捻る。
 帳簿ではありえないほど安い金額で賄えたことになっているのに、領収証の額は違う数字になっているのだ。もっと高い、まともな額が記されている。そのパターンが何枚もあった。さらに、すでに支払い済みになっているのに領収証がないものもある。帳簿にある金額より安く上げて、その差額を懐に入れたなら横領だろうが、その可能性は限りなく低いと思う。ここまで帳簿を読んできて、だいたい常識的な額、最低限ありえる額、というのが富士にも理解できつつある。帳簿にある金額よりも安く上げるのは、相当難しいはずだ。その逆ならいとも容易たやすいだろうが。
 とにかく怪しい数字の羅列によって、帳簿上は、『見上げてごらん』は予算内に収まっていた。というか、収まらなかった証拠は残されていなかった。これから支払う代金と残金もほぼトントンで釣り合ってはいる。現実はどうなのか、考えるのが怖い。
 ただ事実として、今わかるのは、
(……つまり、帳簿にある金額よりも実際は高くついていて、その分は誰かが帳簿に載せずに自腹を切って、やりくりしたってことだよね……)
 それだけ。
 支払いまわりの実際の出納を担っていたのは、これまで聞いた話からして、樋尾だ。ということは、自腹を切っていたのは樋尾なのだろうか。この帳簿をつけていたのも樋尾なら納得だ。樋尾が今ある現金と通帳と印鑑を劇団に返してくれないのは、それで自腹を切った分を少しでも取り返すつもりでいるのだろうか。
 とはいえ、すべては推測にすぎない。事実を確かめないことには始まらない。それに他にも相談したいことがある。今は夕方六時過ぎ、立ち上がって母屋の窓の方を見る。明かりがついていて、南野は在宅しているらしい。矢も楯もたまらず、寝間着でいることも忘れ、富士は帳簿とバインダーとスマホを胸に抱えて部屋を出た。ソックスのままでサンダルをつっかけ、階段を降りていく。

#2-5へつづく
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