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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.14

劇団の帳簿を調べた受身系女子は、意を決して問題点を指摘するが――。竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-5

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、期間限定公開です。

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「こんばんはー、南野さーん。すいませーん」
 開きっぱなしのドアをノックするが、返事はなかった。仕方なく裏口から勝手に上がり込み、脱いだサンダルを軽く揃えて廊下を進む。
 広いリビングの照明はキッチン側の半分しかついておらず、室内は薄暗い。テレビがついていて、夕方のニュースをやっている。
 南野はこちらに背を向けて、ソファに座っていた。
「南野さん、勝手に上がっちゃってすいません。お返事がなかったので……」
 この距離で聞こえていないはずはないのだが、南野は振り返らない。
「あの……南野さん?」
 いぶかしむ富士に、南野はすこし俯いた後ろ姿のまま、人差指だけスッと一本立てて見せた。ちょっと待て、のサインだろうか。その背からは常にはない、どこか張り詰めたようなただならぬ気配を感じる。富士は思わず息を吞み、歩みを止めた。フリーズしたみたいに半端なポーズで固まる。
「どうかしたんですか」
「──富士、か」
 地を這うような呟き。その声にはいつもの張りがない。嫌な予感が胸を圧する。悪いことが起きたのだ。まさか劇団になにか、と言いかけて、しかし富士はその声を飲みこむ。もしも私生活に関することなら、自分は立ち入るべきではない。自分にとって南野は劇団主宰でしかないが、南野にとってバリスキの主宰としての顔は、彼という人間のただ一面にすぎないのだ。南野正午としての、一人の男としての人生だって彼にはあるのだ。
「……すいません、出直します」
 くるりと方向転換、リビングから出て行こうとするが、
「構わん」
「いえ、私はまた後で」
「──いいからそこにいろ!」
 叩きつけるような強い声に背筋が震える。全身に電流が走る。なにも言えず、足も竦んで、富士は動けなくなってしまう。この声に従わずにいることは不可能だ。
「俺は、ただ──」
 巨体が、ゆらりと立ち上がった。そして身じろぎもできない富士の方を振り返り、
「めちゃめちゃ口の中を嚙んでしまっただけだ」
 唇の端からだらーっと太く一筋、真っ赤な血を顎の下まで垂らす。
 富士は無言のまま、手にしていた帳簿とファイルをすべてバサバサと床に取り落とした。スマホだけはポケットに入れていたから無事だったが、動揺するには余りある量の出血だ。
 南野の手には、カップラーメンとはし。本人の申告がなければ、あの『名店監修シリーズ! 昭和のなつかし東京しょうゆ』に即死級の猛毒でも盛られていたかと思うところだ。
「……だ、」
 やっとのことで、声を絞り出す。
「大丈夫ですか……!? なんか、えらいことになってますが……!」
「案ずるな。銀河系の至宝こと俺様の命に別状はない。ほっぺの内側を自ら一口食ってしまったがな」
「一口って……おえ」
「ふっ、セルフ聖体拝領よ。すなわち究極にして至高のハレルヤ──俺ルヤ!」
 口を開くたびにまた新たな血がどくどくと口許から溢れ出している。
「と、とにかく病院行きましょう。タクシー呼びます」
「よせ、いらん」
 南野はキッチンに向かい、ほぼ食べ終わってはいたらしいカップラーメンの容器をシンクに置く。着ているTシャツの裾をめくって引っ張り上げ、それで口許を拭おうとする。慌てて富士は「ダメですよ、そんなので拭いたらシミが……」すぐそこにあったティッシュの箱を差し出すが、めくれ上がった裾の下、
「あ!?」
 南野の腹に目が釘付けになる。
「む!?」
 その目に気付いたのか、南野は突然「わかるぞ俺は美しい!」広げた手の平でクネクネと自分の顔をなで回すような動きを見せる。まだ血は滴り落ちている。
「だがな富士よ──この俺の炎に翼を焼かれ、一体どこへ墜ちるという!? イカロスの神話を知らんわけでもあるまいに! どれほど狂おしく焦がれ憧れ欲しようとも、この俺は禁じられた楽園の果実にして神々のきようえんの供物! 夜空の天蓋を移ろう星々の座がこの俺を抱き締めて離しはしない!」
「違います!」
「くっ、まだそんな目をして俺を見やがる! わからん奴め、仕方がない! もっとわかりやすく言ってやるから覚悟して聞け! この俺は、遥かなる、天空の、高みに、そびえし、永遠の、未踏峰ぞ!」
「違いますってば! それ、そのおなかに巻いてるの! 私のです!」
「なんだ、こいつのことか。サンクス」
「そんな……最近見かけないコンビニみたいに……」
 昨日から、スヌードが見当たらなくて困っていたのだ。モスグリーンのモヘアニットで、寒い時期の必需品だった。カートの取っ手に引っかけて恵比寿の部屋から持って来たはずだったが、どこかに落としてしまったのかと思っていたところだ。それが今、なぜか南野の腹に巻かれている。
「こいつは昨日、ミーティングの前に南野荘の階段下で見つけた。おまえが俺のために置いていった心尽くしのギフトだということは一秒とかからず理解できたぞ。そんなわけで安心しろ。これこの通り、すっかり愛用しているからな。おまえが俺に贈った手編みの腹巻を、な」
「南野さん……すごいです」
「俺はすごい。大丈夫だ。知ってる」
 冬は寒い。夏は暑い。地球は青い。俺はすごい。南野は当たり前のことを聞いたかのように頷いているが、でもそうじゃない。
「いや、ほんと、すごいです……全部間違ってます」
「なんなんだ回りくどい。言いたいことがあるならはっきり言え」
「じゃあ言いますけど、それ、贈ってもいないし、手編みでもないし、腹巻でもありません。それは私が落としたスヌードです」
「ス、ヌ……うん? スヌー……、うん? わからん、とにかくサンクス! というか、昨日の夜も愛用している姿をわざわざ窓越しに披露してやっただろう」
「ひたすら必死に目のピントを南野さんに合わせないようにしていたので全然気づきませんでした。だからずっと裸でいたんですか? てっきりいつもああなんだ、やだな……と」
「馬鹿を言え、裸ではない。半裸だ。ちなみに春夏秋のリラックスタイムはだいたいいつもああだ」
「……蚊に喰われまくりません?」
「笑止! なにを隠そうこの俺様は、生まれてこの方一度も蚊に喰われたことのない特殊体質でな」
「またまた……それが事実なら、南野さんのDNAって結構がっつり人類に貢献できますよ」
「実は、そんな話をあちこちでしていたら、ある日噂を聞きつけて、とある大学医学部のマラリア研究チームが俺に接触してきやがった。まだ学生の頃だ」
「え、そうなんですか? なんか本格的な……」
「うむ。某所に呼びつけられてな。まずはヒアリングと血液検査を、とか言いつつ、俺の服の長袖をこう、ぐいっとまくり上げてきてな。そして一言、『へっ!? キミ、めっさ喰われてるやん!? ここもやん!? ここもやん!?』と」
「……全然だめじゃないですか。ていうか一言でもないし……」
「それでジ・エンドよ。さすがの俺にもいまだに意味がわからん。ひょっとするとあれは──夢だったのか? え? そうなのか?」
「私に訊かれても」
「まあなんにせよ、この俺様は食物連鎖の頂点のはずだ。なぜなら俺様だからな。虫のごはんになどされてたまるか」
「でもそんなふうに強がる一方、自分で自分を食べたりもして……」
「皮肉なもんだ! あっはっは!」
 南野の笑顔の歯には、真っ赤な血がべっとりついている。スヌードは腹の下部に直に巻かれ、上からでかい手ですりすりとさすられている。柔らかなニットの織り目の隙間に、なにが絡まっているかは想像したくない。返してもらったところでもはや、だ。顔の間近に巻こうとは多分二度と思えない。
「……とりあえず、スヌードはもういいです。使って下さい」
「任せておけ」
 では……と頭を下げ、取り落とした帳簿とファイルを集めて南野家のリビングを出て行きかけ、慌てて我に返る。さよなら私のスヌード、とかのん気に思っている場合ではなかった。ここに来た用事を忘れてどうする。
「すいません、肝心なことを忘れていました。これのことです」
「なんだ。帳簿か? もう見たのか?」
「見ました。さらっとですが。これって、ずっと樋尾さんがつけていたんですか?」
「そうだ。俺も一応確認はしているがな」
「じゃあ聞きますけど……『見上げてごらん』の計算、おかしくないですか? 領収証とも数字が合わないし、そもそも予算をオーバーしていたとしか思えないんです。だから、実際には誰かが自腹を切ってて、帳簿上の数字の帳尻だけ無理矢理に合わせたのかも、って……」
「よせ、そういう話は苦手だ。俺にはわからん」
「確認してるって数秒前に自分で言ったじゃないですか」
「確認はしたが脳には浸みちゃいない。俺の脳はもっと愉快なことのために領域を空けておかねばならんからな。細かいことは樋尾に聞け」
「私だって樋尾さんにお会いできれば樋尾さんにお聞きしたいですよ。でもメールを送っても返信はないし、今日もおうちまで伺ったんですけど結局留守で」
「おうちって、高円寺まで行ってきたのか」
「はい。須藤くんと一緒に」
「む? なぜ須藤と」
「ノリで……。そういえば須藤くん、南野さんのことをかっこいいって言ってました」
「ははーん。さては野郎、この俺様を狙っているな」
「いやー……樋尾さんを狙ってるっぽかったです。リアルに」
「樋尾? ちっ、どいつもこいつも樋尾、樋尾、か。どうなってんだこの世界は」
 南野はおもむろに冷蔵庫に手を伸ばし、野菜室からキャベツを一玉摑み出す。なにをするのかと見ていると、葉をむしり取ってそのままむしゃむしゃと食べ始める。
「あの、南野さん……?」
「ああ俺だ。夢のようだろう。だが現実だ」
「なぜ、キャベツを……?」
「これは俺の夕食だ」
「さっき嚙んだところ、痛くないんですか……?」
 ふと真顔になり、そういえば、と言わんばかりの表情。南野は蛇口から手の平に水を出し、シンクで口をゆすぎ始める。一回目は真っ赤な水を吐き出し、「うわ!」見てしまって富士はドン引きする。が、二回、三回と濯ぐうちに吐き出す水に血が混ざらなくなり、
「治った」
 と、一言。何事もなかったかのように、キャベツの続きを再開する。ヒゲの繁みを突き抜けて顎から滴り落ちるほどの出血だったが、本人が治ったと言うならそうなのだろう。
「ていうか……さっきカップラーメンを食べてましたよね」
「あれはおやつだ。野菜を取らなければ美しくはなれん。まったく不便だな、人間というものは」
「人間じゃなかったことがありそうな雰囲気出してきますね……。でも、いくらなんでもその食べ方は適当すぎません? 料理とかしないんですか? せめてサラダにするとか、マヨネーズつけるとか」
「料理もしないわけじゃねえが、今日はとにかく面倒だ。治ったとはいえ、思いっきり自分のほっぺを食ってしまった後だからな。さすがの俺様もテンションだだ下がり、ちびちびマヨネーズをハート型に絞り出す気力も残ってねえ」
「別にハート型じゃなくてもいいのでは」
「千切りキャベツにマヨネーズで『LOVE MYSELF』とか書く気力もねえ」
「……結構凝りたいタイプなんですね。てっきりマヨとか直にちゅっちゅしちゃう系かと」
「ふっ、衛生面からありえねえ。もしもやるなら一気飲みしろってな」
「それは同感です」
 南野はさらに何枚かキャベツの葉をむしり、それを富士に向けて差し出してくる。「とっとけ。腹巻の礼だ」と。
「そんな、ウサギにエサをやるみたいに渡されても……」
「なら本体を持っていくか? 別にそれでもいいぞ。見ろ──今日の俺はもう十分に美しい」
「今うち冷蔵庫ないので、食べ切れないまま傷ませちゃいます」
「おまえこそ料理すればいいだろう」
「あのキッチンじゃ無理ですよ、お湯ぐらいしか沸かせません。調味料とかもないですし」
「ああ言えばこう言う……ならここでやれ。食材もあるものは自由に使っていい。もし今なにか作ってくれたら俺も食う」
 えっ、と富士は飛び上がりそうになる。突然の話だったが、願ってもないことだった。
「いいんですか!?」
「ああ。今宵、この俺様の肉体を構成する栄養素を供する役目を授けよう。まったく、幸運もここに極まれりだな。だが──どこかすこし、恐ろしくもないか? この俺の肉体という精緻なる芸術品をその手に委ねられるのだぞ? 今こそ自らに問え、覚悟はできてるのか……?」
「ごはん、炊いてもいいですか!?」
「できているんだな。いいぞ、好きにしろ。こめびつはシンクの下、炊飯器はそこだ」
「やった! 炊き立てが食べられる!」
 今日の夕飯は、富士もカップラーメンの予定だった。高円寺のスーパーで激安価格で売られていたのを見つけて買ってきたのだ。でもジャンクフードは元々あまり好きではなく、料理ができるならそれに越したことはない。さっそく張り切って冷蔵庫を覗き、野菜や肉を見て、スマホでレシピを検索する。メンツ的には回鍋肉ホイコーローができそうな気がする。まな板と包丁を出し、手を洗う。
「じゃあ俺は風呂に入ってくる。なにかあったら呼べ」
 風呂──単語を聞くなりほとんど反射、
「南野さん! あの、後でお風呂、私もお借りしていいですか……!?」
 包丁片手に富士は振り返って頼んでいた。
「掃除をするなら構わんぞ」
 はい! と力強く返事する。今日はとにかく歩き過ぎ、足は限界までくたくたで、南野荘のあのシャワーを頑張れる気がしなかった。温かな湯船に浸かれるなら、なんだってする。残り湯でもなんでも構わない。南野の体毛から生まれいずるペットでさえ、今ならきっとでられる。

 南野があれも使い切れこれも使い切れとどんどん食材を出してきたせいで、回鍋肉はやたら大量にできてしまった。
 湯上りのこざっぱりした南野にどうにか言い含めてTシャツを着せ、蟹江を呼ぶように頼む。
 リビングの窓を開け、南野が「カニ!」鋭く一声発すると、すぐに「はーい?」のんきな声が返ってきた。
「来い! 飯があるぞ! 回鍋肉だ!」
「え、本当に!? 今すぐ行く!」
 言葉にたがわず、わずか三十秒ほどで蟹江はリビングに飛び込んできた。挨拶もそこそこに、「うわ、うまそう!」テーブルに大皿で出した回鍋肉に目を輝かせる。大皿のおかずの他は味噌汁とごはんしかないが、とにかく量だけはたっぷりある。蟹江は心底嬉しげに顔を綻ばせ、椅子に座った。
「これって富士さんが作ったの!?」
「はい。ここの台所お借りして」
 グラスと水のペットボトルを出し、三人でテーブルにつく。「いただきます!」声を揃えて、食べ始める。
 蟹江は一口頰張るなり、「うーん……!」幸せそうに目を閉じた。うんうんうん……頷くみたいに首も振る。
「これ、最高。最高にうまい。こっちに越してきてからずっとコンビニとかばっかりで、こういうちゃんとしたの、本当に久しぶり。栄養が染み渡っていくよ。富士さんありがとう、料理上手なんだね。ファインプレー」
「いえいえ、そんな。褒めすぎですよ」
 嬉しすぎるリアクションではあったが、さすがに照れてしまう。ただネットで拾ったレシピを見ながら作っただけで、多分本当にファインプレーだったのは、とうばんじやんを備えていた南野だ。
 一方その南野は、一口がでかい。そして箸を繰り出す速度が早い。蟹江と富士が「いやあ」「またまた」などとニコニコやり合っているうちに、がば! がば! とおかずの残量を確実に削っていく。
「ちょっと南野、ペース考えて食べてる?」
「もちろんだ。ちゃんとだいたい四等分の目安で食ってるぞ」
「なんで四等分……」
「俺様! 俺様! 富士! おまえ!」
「声でか……とか言ってるうちに富士さんもどんどん食べなね。ほんとになくなっちゃうから」
「はい、大丈夫です。食べてます。南野さん、お味はどうですか?」
「おまえにキッチンを預けた俺のけいがんにはさすがの俺も感服だ。やっぱり俺はすごい」
 ありがとうございます、と小さく頭を下げておく。褒め言葉だろう、今のはきっと。
「味噌汁もなにげにうまいよね。このあったかさ……本当に最高。豆腐とかネギとか、こういうのにずっと飢えてたんだよな。明日以降もやらない? 定番化しようよ、なんなら担当制でもいいし。買い物と料理と後片付けと」
「ふん、悪くないかもしれんな。俺はまったく構わんぞ。どうだ富士」
「私もありがたいです。外食できる余裕もないので」
「材料費は相談だよね。きっちり割り勘だと食べる量的に富士さんが損しそうだし。あと、誰かが留守の時はどうするかとか」
「その辺はまあ身内同士だ。状況に応じて柔軟にやってきゃいいだろう」
 あれよあれよと話が決まる。テレビもついたまま和気藹々と、三人で大量の回鍋肉を口に運ぶ。おかわりのごはんを持ってきながら、蟹江が「そうそう」と富士の顔を見る。
「富士さん、樋尾さんと連絡はとれた?」
 おかずを飲み込み、富士は「いえ」首を横に振ってみせる。
「まだなんです。メールはしたんですけど返信がなくて」
「富士は樋尾の家まで行ってきたらしいぞ。それもなぜか須藤と」
「えっ……な、なんで?」
「流れでそういうことになりまして。でも空振りです」
「そっか。まあ、そうだよね。これまでもずっと避けられてるもんな……」
「蟹江さんは今日はお仕事されてたんですか?」
「うん。うちで原稿書いて、外でもちょっと書いて、また別件で打ち合わせがあったからさっきまで出かけてた。南野はパパの店だろ?」
「ああ、パパの店だ」
 パパ、て──軽くせそうになる富士を見やり、蟹江が解説してくれる。
「南野のお父さんの店、その名も『パパの店』っていうんだよ」
「な、なるほど……ちょっと動揺してしまいました」
「ふっ、今日はなぜか豆パンが死ぬほど売れてな。黒豆のも緑豆のも、ここぞとばかりに売りまくってやったわ。まったく、お召し上がりは本日中だと他ならぬこの俺が言うのに、お一人で五つも六つもお買い上げになりやがる」
「別にいいじゃないですか、きっとご家族分ですよ。ちなみに、次の公演のことについてはなにか進展あったりします?」
「……」
「……」
 突然、沈黙が訪れる。
 さっきまでペラペラしゃべりまくっていた男二人が、魔法をかけられたみたいに揃って黙り込み、広いリビングには白々しくテレビから流れる音声が響く。そして、カチャカチャと箸が食器に触れる音。ずーっ、と味噌汁を飲む音。
「あ、あれ……? あの、お二人に伺ったんですけど。蟹江さん?」
「えっ? なに?」
 声をひっくり返し、蟹江は驚いたように目を見開く。
「次の公演の件です。なにか進展は……」
「進展? ああ、次の公演の? もちろん考えてるよ? すごい考えてる。高めてるところ。だいぶ高まってきてる。南野は?」
 茶碗から顔を上げ、「む?」南野もきょとんと瞬きしている。
「次の公演のことだって。ちゃんと考えてるよな」
「つ、ぎのこうえ……ああ、無論だ。たくさん考えているぞ。考えていないわけがなかろう、なにしろ次こそは最高の舞台で最高の俺たちを見せつけなければいけないんだから。そうだろう、カニよ」
「ああ、そうだ。僕らには今度こそ正念場!」
「だな! 魂を込め、情熱という名の炎を舞台上に噴き上げてみせねばな! この命を捧げてな!」
「ああ! 次こそ本気で勝負に出る! とにかく全力で、僕らの舞台を作り上げる! そして問答無用のおもしろさで、力いっぱい張り倒す! それがバリスキ流の戦い方だよな!」
 だな! ああ! だな! ああ! 何度も熱く頷き合う男二人を見ながら、富士はなんとなく、
(だめだなこれ……)
 などと思ってしまう。
 南野も蟹江も、本当に心底、演劇が好きでたまらないのだろう。演劇に己のすべてを捧げて、ここまで生きてきたのだろう。最高の演技、最高の演出、最高の舞台を常に全力で目指していて、そこに到達しさえすれば、すべてがうまくいくと信じているのだろう。
 演劇ばか……を、否定はしない。
 そんな彼らだからこそできること、そうでなければできなかったことは、確実にあるはず。彼らがこうだからこそ、自分だって今ここにいるのだと思う。
 でも、やっぱりそれ「だけ」じゃだめなのではないか。舞台での表現にすべてを捧げる、ひたすら最高の境地を追い求める、その覚悟は大事だろうが、それ「だけ」では劇団は生き延びることができない。世に生まれ落ちることはできたとしても、その命はきっと一瞬で燃え尽きてしまう。
 それでいいなら、それでもいい。でも、バリスキはそうじゃないはず。まだ生きていると叫ぶ声こそが、この劇団のエネルギーだったはず。だったら生きて、生きて生きて生き続けなければ。そのために必死で波間を漂う破片を拾い、穴を塞いで、たとえ無様でも漕ぎ続けなければ。
 漕ぐ、つまり、公演を打つのだ。
 打たなければ、なにも伝わらない。生きているか死んでいるかさえ誰にもわからない。どれだけの想いがあろうと、どれだけ真剣であろうと、人が見て聞いて感じられる実体が──公演がなければ、伝えようがない。いつ、どこで、誰に向け、どうやるのか。そういう実体を組み立てていかなければ、本気だろうが正念場だろうがどうしようもない。意味がない。
 富士は、そう思うのだが。
「あのー……」
 おずおずと発した声に、南野と蟹江が振り向く。言葉の続きを待ってくれている。しかし、知識も経験もまったくないズブの素人の立場から、思ったことをどうすればうまく伝えられるだろうか。
「なんというか……もうちょっとこう……そうですね。その、ええと……」
「どうした、まどろっこしい。ごはんをおかわりしたいならしろ。俺の許可などいらんぞ」
「そうだよ富士さん。遠慮なんかしないでモリモリ食べなよ」
「いえ、おかわりを迷っているわけではなく……そうではなくて……次の公演、について、です。もっと、なんだろう、現実的な……具体的なことも、考えていきませんか? やるべきことに優先順位をつけて……とか」
「そんなことかよ」
 南野は軽く頷いてみせる。意外なほどあっさりとしたその態度に、富士はちょっと拍子抜けした。
「安心しろ。現実的で具体的なことなら、すでにこの俺様が手を打ってある」
「そうなんですか。なんだ、よかった。てっきり無策なままなのかと」
「そんなわけがないだろう。俺は現実的かつ具体的に──おまえを劇団に連れてきた」
「……」
「どうした。なぜ黙る。まさかおまえも口の中を嚙んだのか?」
「……私、が、いるからって……」
「おお、喋った。大丈夫そうだな。落ち着いて食えよ、GO!」
「……次の公演の、なにをどうできるって、いうんですか……?」
「それはもちろん、なにか現実的で具体的なことだ」
「なにもできませんよ!? なにもわからないんですから!」
「飯時に騒ぐな! おかずが冷めても知らんぞ!」
 まあまあ、と南野をなだめる蟹江の声も次第に遠くなっていく。予感は当たった。やっぱりだめなんだ、この人たち。富士は茶碗と箸を手に持ったまま、呆然と南野家の天井を仰ぐ。こういう緩慢な気絶の仕方を、バリスキと関わったおかげで学んでしまった。
 というか、逆に、むしろ、だ。今までの方が不思議だ。どうして今までこんな彼らが、五年間も劇団としてちゃんと活動してこられたのだろうか。問うてみれば、答えはすぐ出る。樋尾がいたのだ。バリスキのまとも担当で、良心で保護者で守護神で一番かっこいい樋尾が、現実的で具体的な公演のプランを立てていたのだ。樋尾がいなけりゃ終わり……そう言ったのは蘭だったはず。本当にそうなんだ。本当にそうなんだ。思わず二回、胸の中で繰り返す。本当にそうなんだ。これで三回目。
 なにかしようと立ち上がるたびに、樋尾の不在という現実に撃ち落とされる。そんな繰り返しを、ずっとしている気がする。
(そしてその樋尾さんを捜すのは、いまや私のミッション……)
 今日の空振りについてはわざわざ思い返すまでもない。今のところ成果はゼロ。
(ってことは……もしかして、あれ? 私の責任になるの? 樋尾さんが今ここにいないのは、私が見つけられなかったせい。ってことは……え? 私のせいで、バリスキは終わるの?)
 いやいや。待て待て。さすがにそんなわけはない。まだ樋尾の捜索を始めてからたった一日だ。絶望するにはあまりにも早すぎる。それに、そうだ。これからやるべきことのうち、富士からも提案できることはある。二万歩以上の距離を歩きながら、思いついたことだ。
 呼吸を整え、箸を置く。そして右手を挙手。「どうぞ」蟹江に促され、改めて発言する。
せんえつながら、私から、現実的で具体的なことを提案したいと思います」
 な? と南野が蟹江を見る。蟹江が目で南野を黙らせる。「富士さん続けて」
「はい。──とにかくまず、『見上げてごらん』が公演中止になった理由を、見に来て下さった方や、見ようと思って下さっていた方に向けて説明しませんか。ファンの信頼を取り戻さなくては、次の公演が実現したとしても観に来てもらえません」
 む、と南野は宙を見た。蟹江もちょっと考え込むように首を傾げる。二人とも、直ちに賛成、というわけでもなさそうな微妙な表情に見える。
「まあ確かに、それはそうなんだけど……っていうか、そうしなきゃって思ってはいたんだけど」
「なにかできない理由があるんですか?」
「僕らには説明する手段がないんだよ。前は公式HPで色々とお知らせしたりできてたんだけど、今はほら……ああだし」
「あ……そっか」
 バリスキのHPは現在、コヨーテ・ロードキルにトップページを絶賛乗っ取られ中だった。更新はもうできなくなっている。それもどうにかしなければいけないが、今はとりあえずこっちの件だ。
「南野さんのTwitterアカウントはありますよね。あれはどうですか?」
 いや、と南野は首を振る。
「あれも辞めちまった奴が管理してて、もうログインできねえ」
「うーん、じゃあ……とりあえずアカウント、作り直しましょう。窓口が今は他にないですし、それでとにかくTwitterに説明文を上げましょう。文面は下書きを私が考えて、後で南野さんにお送りします。南野さんらしい表現でお伝えできれば、納得していただきやすいかと」
「それで俺は構わんが……読んでもらえるか?」
「そればっかりは。でも、上げることがとにかく重要だと思うんです。説明しよう、という劇団の姿勢を見せないと。それと、返金希望の連絡を下さってる方には個別にメールをお送りして、こういう事情なのでちょっと待っていただけますか、と丁寧にお願いもしましょう」
「あ、それね。それは……」
 言いにくそうに、蟹江が南野の方をちらっと見る。南野の口もやや重い。
「返金の受付をするってことになってる劇団のメールアドレスは、樋尾がずっと管理している」
 また出た──ここでも樋尾ブロック。樋尾がいないことには、メールを見ることすらできないのか。
「個人的に連絡できるレベルの知り合いには、もちろんとっくに説明もお願いもしているがな」
「……そうなんですか。その知り合いの方、誰かTwitterとかチケッピオのクチコミとかに書いてくれたらいいのに」
「期待してなかったと言ったら噓になる。が、まあ、そこまでは頼めん」
「ていうか、そうだ、クチコミに私たちが自分で書けばよくないですか?」
「自分らの公演については書き込み禁止の不文律がある。それを許可したらただの宣伝ページに成り果てるからな」
「あ。……今、悪いことを閃いてしまいました」
「なんだ。言ってみろ」

#2-6へつづく
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