舞台監督の捜索に向かう途中、受け身系女子は劇団の主演女優・蘭とばったり出くわす。竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-6
竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

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「身分を明かさずに書いたらどうでしょう。『たまたま知人から聞いたんですけど~』という
南野と蟹江は揃った動きで、同時に首を大きく横に振ってみせる。やっぱりそれは邪道か、と富士は自分の発想を恥じたが、
「正直、できたらしてたかもね」
そういうことではないらしい。「でも無理だから。あのページはすでにロックされてて」
「ロック? とは?」
「見ればわかるよ。今スマホ持ってる? 『見上げてごらん』のページ開いてみて」
富士は自分のスマホでチケッピオのサイトを開く。何度も見ているから、履歴からすぐに飛べる。
「下の方にクチコミの入力ボックスがあるよね。空白のままでいいから、書き込みボタン押してみて」
「でも私、アカウントがないんですが」
「なくて大丈夫、全部空欄のままでいいから」
蟹江に言われるがまま、少々ためらいつつも書き込みボタンを押してみる。すると新規ページが立ち上がり、「現在このページはご利用できません」とそっけないメッセージだけが出た。
「あれ? これってつまり……」
「それが『ロックされてる』という状態。公演を続行できないってわかって、チケットの販売を停止する申請をしたら、その後ロックがかかったんだよ」
「え。そんなの気づかずに私、ずっとページを更新しては書き込みないな、とか思ってたんですけど」
「チケッピオの仕様で、チケットの取り扱いが『終了』した公演にはその後も書き込みができるけど、『停止』だとロックされちゃうんだ」
「でもありますよ、書き込み。ていうかリアルタイムで増えるところ見てましたし」
「チケッピオの中の人の処理速度によって、数日のラグがあるみたい」
「えー……。そんなの知らないまま、かなりの時間を無駄にしてたんですが……」
富士はクチコミページをスクロールする。誰かが貼った、あの廃墟ことフリーシアター・レトロの写真と、廃業のお知らせの画像が出てくる。ちょっと眺めて、ため息をつく。
「今さらですけど……せめてこの時、来た方に向けて公演が中止になった事情を説明するペーパーでも貼れてればよかったんですよね」
「そうだな。俺たちは中にいたしな」
南野の言葉に、えっ、と思わずまた声を上げてしまった。「そうなんですか?」
「ああ。とにかく指定された時間内に撤収するように劇場側に急かされて、セットや機材をばらしてたところだ。なにもかもいきなりのことで、こっちはひたすらパニックよ。公演中止の連絡も前売り買ってる全員にできたわけじゃねえし、とりあえず表に若手を二人立たせて、劇場に来た客全員に片っ端から説明して謝り倒せと言っておいたが」
「ここには写ってないですね」
「客が来るのを待ってるうちに、辞める気分になったらしい。俺らが誰も知らないうちに、二人とも荷物持って消えてやがった。夜になってから『樋尾さんが辞めるなら辞めます』×2、LINEだけ送られてきて、さすがの俺もポカーンよ」
「そんな……」
「だからまさか、誰も事態を説明してないとは思わなくてな。このクチコミに気が付いた時にはすでに遅し」
「……夜の公演の時はどうしたんですか」
「夜からは俺が劇場前に立って、知らずに来た客には説明した。翌日以降もずっとな。何人かには直に話せてわかってももらえたが」
「誰もそのこと、クチコミには書いてないですね……」
「チケッピオの利用者なら、公演が中止だということはわかっているからそもそも劇場には来ねえ。来たのは、チケッピオの利用者じゃない客だ」
「あ、そっか……」
樋尾ブロックに阻まれつつも、南野たちはまずい状況をどうにかしようと努力はしていたらしい。ただ残念ながら、そんな努力も、すべての人に伝わるわけではない。富士だって知らなかった。いまだにバリスキに対して無責任な劇団という印象を抱いたままの人は多いだろう。ずっと応援してきたけれどもうやめよう、と思った人もいるかもしれない。
(まずいな。早くなんとかしなきゃ。次の公演を成功させなきゃ。信頼を、取り戻さなきゃ……)
詳細を知れば知るほど、気ばかりがさらに焦る。でも、樋尾はいない。次の公演のことはなにも決まっていない。
「ってわけで、おかず、もういいか」
「……あ、はい」
「ちゃんと食ったか」
「お腹いっぱいです……」
「よし」
南野はほぼ空になった大皿を摑み、大盛りのごはん(三膳目)の上に残ったタレをかける。それをほぼ一口、およそ二秒で完食し、
「ご馳走様でした!」
箸を置き、目を閉じ、食べ始める時と同じように手を合わせた。思わず富士と蟹江も同じようにして、「ご馳走様でした」と声を合わせる。
蟹江が後片付けの係に立候補して席を立った。「明日もおまえが作るか?」と南野に訊ねられ、富士は頷いてみせる。
「ならまた俺が買い物をしておこう。三人で一食分、千円ぐらいの範囲に収まればいいよな」
「……そうですね」
「なんだ、その不安そうな顔は。俺も立派な大人だぞ。買い物ぐらい普段からしてるわ」
「……そうですよ、ね」
不安なのは、買い物のことではない。次の公演についてなにも決まっていないのが不安なのだ。しかし南野は、富士の曇った表情を、ひたすら買い物についての不安だと受け止めたらしい。
「大丈夫だから俺を信じろ。俺とて金があるわけじゃねえ。でも米は親戚から無限にもらえるし、なんなら仕事終わりに親のところに寄って食い物をかっぱらってくることもできる。奴らは無意味にフルーツをテーブルに飾りがちだし、ふるさと納税で冷凍庫もやたら豊かだ。だから食い物に関しては心配いらん。これですこしは安心できたか?」
そう言いながら、意外なマメさを発揮してテーブルを拭く巨人を見やる。その横顔に、暮らしていくためのインフラはあっても現金には乏しい懐事情が透けて見えたような気がする。
そうか──考えてみれば、南野自身の現金収入は、恐らくパパの店での賃金しかない。息子割増はあるだろうが、余裕と言えるほどの額でもないのだろう。南野が劇団のために拠出した金の出処は、帳簿によれば借金だ。利息を考えれば、貯金を温存しているとも思えない。
ふと、気が付いてしまった。南野の生活について、自分は少々誤解していたのかもしれない。
南野は親のものとはいえ立派な一戸建てに住み、あんなだが一応賃貸物件も好き放題にして、
劇団は赤字を出さずに運営できていたが、売上は次の予算に回るだけで、個々の借金の返済には充てられていない。他のメンバーも借金を負ったのは同じだが、金額で南野は突出している。
新たなる不安が、雲の影のように富士の胸を過った。
「あの、差し出がましいことですが……」
過ってしまえば、口に出して確かめずにはいられない。
「なんだ」
「借金の方は、順調に返済できてますか……?」
「いきなりどうした、俺はもう完済したぞ。うちの親が心配して、ある日まとめて返してくれてな」
それを聞いて、ほっ、と肩から力が抜ける。
「なんだ……そうだったんですね。額が大きいし、ちょっと心配になったんです。ていうか、金額的に総量規制に引っかかりそうでしたけど」
「ショッピング枠やらおまとめやら借り換えやら、金利にさえ目をつぶればいくらでも手はあるからな。そしてその結果、地獄の火車に追われる羽目になったわけだ。さすがの俺も、かなり堪えたぞ」
「大変だったんですね。じゃあ今後は、ご両親に返済を?」
「いや、あの金はもらった扱いだ」
「えっ……」
しれっと言い放つ南野の表情に、思考の痕跡はさして見えない。たじろいだのは、富士だけだった。
「でも、それって……あれですよね、税金とか、そういうややこしい話になりません?」
「当然なるとも。だからちゃんと弁護士に依頼して処理してもらった。俺は生前贈与を受けて、他の財産についてはすべて放棄した形だ。遺留分も請求できん」
思わぬ話に、真顔になる。すーっとすべての感情が冷めていく音が聞こえる。相続放棄? 遺留分放棄? ──できれば一生出会いを避けたい単語たちが、今、目の前に出現している。
「……そ、れ、は……」
「まあそのおかげで、それまでしつこく劇団なんかやめて就職しろと言われ続けていたのも止んだ。要するに、親たちが恐れていたのは、俺が受け継いだ代々の財産を処分して劇団に注ぎ込んでしまうことだったわけだ。俺を平和的に相続からはずせりゃもうOK、あとは好きにしろってこった。しかもこうしてここに住めて、南野荘も使えるし、ランニングコストはなんと親持ち。こっちとしても感謝こそすれ、文句なんかあるわけねえ」
……まあ。出しては。くれるだろう。毎月のランニングコストぐらいは。自分や蟹江を住まわせられるぐらいは。それと引き換えに、巨大な次男は、おそらくは数億にのぼる遺産を永遠に手離したのだから。それぐらいの甘やかしはしたくもなるだろう。
こうなってくると、南野の兄がわざわざこっちの母屋に店を出して弟から目を離さないでいるのも、いきなり意味深く思えてくる。それは俺の物だからおかしなことはするなよ、的な。今だけは使わせてやるけど今だけだからな、的な。ここどうしようかな~、プランは今のうちに立てておかないとな~、楽しみだな~、的な。
「……お兄さんの代になったら、南野さんは、着の身着のままで追い出されるのでは……」
「なーに、大丈夫だ」
「いや、お兄さんは優しそうな方ですけど向こうのご家族だっているし、相続が発生するのってきっとそう遠い話じゃないですよ……って、なんかすいません。なにげに私、全方位に向けてものすごく失礼なことを言っている気もしますが、でも事実なので……」
「案ずるな。俺たちは──バーバリアン・スキル! 舞台に上がれば最強だ」
南野はいつもの調子で不敵な笑みを浮かべて見せる。見つめ返し、しかし富士は、笑い返すことなどできない。気の利いた答えを返すこともできない。
南野の人生の重みが、いきなり天からずしっとのしかかってくるようだった。南野はいいよなー、ほんといいですよねー、などと、蟹江とのん気に言い合ったのはつい昨日のことなのに。おもしろさには三日で飽きる? いやいや、まだだ。まだ飽きない。南野の言動には今日も新鮮に驚ける。全然笑えはしないし、おもしろいとも言えないけれど、とにかく飽きることはいまだない。
二十七歳で、劇団の主宰で、自分の物には永遠にならない親の家に住んで、収入はパパの店で働く分だけで、遺産はオール放棄で、インフラはあるが今だけのことで、スヌードを腹に巻いていて、虫のごはんで、演劇ばか。
南野正午は、そういう人だった。
そういう人に、自分はついていくことを決めてしまった。というか、現在進行形で、ついてきてしまっている。この後は風呂まで借りる予定だ。
*
明けて、翌日。
「風呂!?」
蘭の声は悲鳴に近かった。
「はい。上がるときに排水口を掃除したら、主に南野さんの抜け毛でそれなりのサイズのペットが出来上がりました」
「ペッ……いやいい。それ以上聞きたくない」
「名前はミニみのくんです。黒い部分と金色の部分が絶妙にちりちりと絡まり合って、そこに私の髪がいい感じにミックスされて、こう、マリモ的な」
「聞きたくねえっつってんだろうが!? あと手でサイズと質感を表現すんな!」
「あっ、大丈夫ですよ。その後ちゃんと捨てたので」
「『あっ』じゃねえ! 即捨てろそんなモン! ああもうくそ、マリモ……妙にありありとイメージが……最っ悪……」
──今日も快晴の午前十一時。
暖かで強い南風が、阿佐ヶ谷の大通りを音立てて吹き抜けていく。眩い春の陽射しの中には吹き飛ばされてきた桜の花びらがちらちらと無数に舞い踊る。
富士は朝からメールを何通か送り、昨日買ったカップラーメンを腹に入れて、南野荘から出てきたところだった。樋尾からの返信はいまだ来ず、同じ内容で再送もしたが、結局なんの反応もない。やはり自宅を訪ねるしかなさそうで、今日も今日とて高円寺に向かうつもりだ。
空振りの二万歩を反省して、樋尾の顔は確認してある。昨夜、南野と蟹江のスマホに残っていた写真を見せてもらった。樋尾はマスクをしていたり、横を向いていたりしたが、顔立ちはちゃんと確かめられた。見れば彼だとすぐに認識できるはず。ただ、失礼ながら内心こっそり思ってしまったのは、それほどかっこいいか? と。確かに涼しげに整った目鼻立ちをしてはいたが、写真を確認した限りでは、須藤があそこまで強く推すほどの美形とは思えなかった。たまたま須藤の趣味にドはまりしたのか、あるいは樋尾の写真写りが悪いのか。
なんにせよ、今日こそ樋尾を見つけ出したい。バリスキに戻ってほしい、とは、富士からはやっぱり言えないが、とにかくお金関係のものはとっとと返してほしい。一度自腹を切ると決めたなら、その腹はきっちり切ってもらって、まだ残っている支払いと返金をしてしまいたい。それも次の公演の実現へ向けた大事な一歩なのだ。南野は今朝、パパの店に出勤する前に、Twitterの新アカウントに状況説明の文章を上げるところまではしてくれた。富士が「まだですか!?」と朝から母屋へ押しかけてしつこくせっついたせいだろう。でも、まだまだ。もっと急がなくては。NGS賞の審査条件に合わせるには、今月のうちに公演の幕を上げる必要がある。時間がない。
南野の人生のシビアな面を知ってしまったこともあり、富士の焦燥感はいや増していた。(できることからやっていかなきゃ。今の私がやるべきことは、
本当にまったくの偶然で、思わず勢いで「蘭さん!」と大声を上げてしまった。振り返った顔はやはり蘭で、「てめえかよ。なんの用だよ」機嫌は果てしなく悪そうだった。勢いで声をかけただけで用事は別にないです、とも言えず、富士は場を取り繕うように、昨夜のひとときのことをべらべら一方的に喋ってしまった。
──昨日、南野さんのところで回鍋肉作って一緒に食べたんです。ついでにその後お風呂も借りました。ばっちり南野さんの残り湯でした。
それが蘭にとっては、悲鳴にも似た声を上げたくなる内容だったらしい。
低く掠れたハスキーな声で、「今の話の記憶消してえ……」うんざりしたように目元を覆っている。
「でも、お風呂自体は清潔でしたよ。浴槽も広いし、シャワーの勢いもしっかりと強くて」
「そういう問題じゃねえんだよ! ったく……なにやってんだか」
歩道の隅にクロスバイクを止め、サドルに
「同じ釜の飯どころか同じ風呂釜の湯とか、やっぱ頭どうかしてんだろ? つか、ろくに知りもしない男の家でよく素っ裸になろうと思えたね、あんた」
「洗面所に鍵はかけましたから」
「それがなんだよ。家の門に括りつけられてた放置チャリのケーブルロックを指二本で軽く引きちぎるような奴と一つ屋根の下にいて、そんな鍵如きがなんの役に立つと思ってんの」
「南野さんは、ご自分の家の建具を破壊してまで私の裸など見たがらないと思いますが」
「そりゃそうだろうよ! あいつはな! 一般論として、どうよ、っつってんの! 若い女が知り合ったばっかの野郎の家で飯食って風呂入って入り浸って、それがまともな行動だと思うわけ? つか、そもそもまともな奴なら南野荘なんかに住まねえんだよ!」
「蟹江さんも住んでますけど」
「カニは住むだろ! は、それともなに? あんたの目には、あれがまともに見えてんの?」
「はい、蟹江さんはちゃんとしてるし、才能もあるし、すごい人です。南野さんだって、いろいろとおかしいけれど、基本的には優しくていい方だと思ってます。信頼してます」
「ば──────────か!」
蘭は片手でむしり取るようにニットキャップを外す。うざったそうに首を振ると、まとめ髪の後れ毛がふわっと揺れて背中に落ちる。片足はペダルにかけたままで、上体を捻って富士を睨む。ただそうしているだけの姿がやたら絵になるのは、さすが看板女優というべきか。
「あんたもう完全にモツのペースに取り込まれてんじゃん。大丈夫なのかよまじで」
「ええと、大丈夫……とは」
「ここではっきり言っとくけどさ」
一度長めに息をつき、蘭は富士から目を逸らす。自分の手元あたりを数秒だけ見つめ、
「あたしは別に、あんたが嫌いとかむかつくとか、そういう感情で追い出そうとしてるわけじゃねえよ。うざったいのは事実だけど」
もう一度、富士を見る。陽射しが眩しいのか目を瞬かせつつ、でもまっすぐに。
「ただ、縁あって知り合っちゃったあんたのことを、これでも普通に心配してんの。いいとこの子で、演劇やってたわけでもないのに、モツなんかに
「できません。実は合鍵ももらってしまいました」
「へらへらしてんじゃねえよ。今の姿をあんたの親が見たらどう思う? 友達とかにも、こんな生活してるって言えんの?」
「親は案外スルーですし、友達は須藤くんしかいません。その須藤くんは、合鍵をもらったことについて、『うそー! 最高じゃん! いいないいな!』って言ってます」
「まじかよ……」
「ついでに言ってしまうと、南野さんとは洗濯も一緒です。今朝、南野さんが洗濯機を回すというので、私の洗濯物はネットに入れて、脱水まで便乗させてもらってます。今まさに二人分の下着が、一つの洗濯機の中で同じ泡に包まれてグルングルンのもみくちゃにされています」
「……うっわ……」
そのままがっくりと
「蘭さん。……ありがとうございます」
「なにが」
うざったそうに顔を上げ、蘭は私闘に明け暮れて荒み切った野良猫みたいな目で富士を睨む。富士はすこし怯みかけつつ、どうにか踏ん張って最大出力で笑顔を返す。
「そうやって気にかけて下さって、嬉しいです。あと、指のことも。本当にありがとうございます。私なら大丈夫です。南野さんに強要されたわけじゃなく、あくまでも自分の意志でバリスキに入ったんです。劇団の力になりたいんです。こんな私にもできることを、見つけたいんです」
「つか、そもそも疑問なんだけど」
うさん臭そうに富士を見て、蘭は大きく首を傾げる。尖らせた唇を、指先でトントンと何度か叩く。仕草はかわいいが、目つきは剝き出しの刃物みたいに鋭い。
「なんでよりによって今、うちの劇団なんかに入りたがんの。うちらが今やばい状況なのはあんただってわかってんでしょ?」
「はい。私、やばい状況であればあるほどその渦中に飛び込んでみたくなる性質なので」
「厄介なヤツ……消防士とか警察官とかになれよ」
「運動は苦手です。それに、蘭さんを見つけてしまったので」
本音だから、口にするのにためらいなんか一切ない。
「は? あたし?」
「そうです。あの夜、『見上げてごらん』でバリスキを見て、そして蘭さんを見て、心のすべてを持っていかれてしまいました。あんなに夢中になったのは生まれて初めてです。蘭さんが舞台で輝くのをまた見られるなら、そのために私はなんでもします。なんだって差し出します」
「……うっわ……」
蘭の反応は、南野と一緒に下着を洗っていることを告げた時とそっくりそのまま同じだった。が、別に気にはしない。本気でそう思ったし、今もそう思い続けている。
「でもなんか俺もその気持ちわかりますよ。バリスキの舞台を初めてみた時はぶっ飛びましたもん。蘭さんも南野さんもすごすぎて、それに蟹江さんがとにかくおもしろくて。めちゃめちゃはまって、その夜なんかもう思い出しては笑えてきちゃってまじで全然眠れなかったし」
「そうそう同じ、そうだよね、やっぱりインパクトが……わあ!?」
富士は跳び
「い、いつからいたの!?」
「え? 最初からいましたけど。俺と蘭さんがそこ渡ろうとしたら、龍岡さんが『蘭さん!』って声かけてきて、どうも、って俺言ったじゃないすか」
「そうなの!? 全然わからなかった……!」
「龍岡さんも俺の方を見て『はいどうもー』みたいな感じ出してきてたじゃないすか」
「本当に!? 私、そんなステージに小走りで現れた芸人みたいな感じだった……!?」
「そうすね」
頷く大也の存在感のなさは、ほとんど職人技の域。一度視線を外したら二度と見つけられなくなりそうだ。背景の街並みが背後に透けて見える気さえする。言うなれば天然の光学迷彩。
「でもいいな、俺も南野さんちで一緒に夕飯食べたりしたいです」
「あ……うん、おいでよ」
うっかり見失わないように、大也の方をしっかり見ながら富士は頷いてみせる。
「フレキシブル対応可能だからいつでも大丈夫。そうだ、よかったらさっそく今夜でも。蘭さんもお時間あったら来て下さい。話し合わなきゃいけないことも盛り沢山ありますから」
「やだね。イライラするの目に見えてるもん」
「えー、行きましょうよ蘭さん。俺、南野さんが食うところ見るの好きなんですよ。工事現場で働くでかい車みたいで。ダムとか掘るような」
「ほら、お弟子さんも無邪気にこう言ってることですし」
「お弟子さん?」
富士の言葉に、「んだよそれ」蘭は嫌そうに顔をしかめる。
「違うんですか? すいません、いつも一緒にいらっしゃるようなので、てっきり蘭さんと大也くんはそういう仲なんだと思ってました。弟子っていうか、付き人? アシスタント? みたいな」
「あたしのなにをアシストすんだよ、こんなガキが」
そうでないなら……富士は改めて、蘭と大也の二人を同時に視界に入れてみる。一緒に来て一緒に帰る、一緒にバイトをする二人。果たしてどういう関係なのだろう。二人とも若くて、女と男で……「あっ!?」思いつくなり富士は慌てた。自分の鈍さに顔が赤らむ。
「そ、そっか……やだ、私ったら全然気が付かなかった……! お二人は恋人同士、交際されてるんですね! なるほど、劇団の活動の中でいつしか恋愛感情が芽生えてそのまま自然にだだだだだ!」
「それも違うから」
声だけは意外なそっけなさ、しかし蘭の行為は非道だ。富士の足を前輪で思いっきり
「すいません! あいた! も、もうわかりましたから! 間違えました!」
「次またそういうこと言ったら本気出すからね」
「ってことはこれは本気じゃないんですね!?」
植え込みの繁みに埋もれながら悲鳴を上げる富士と、そんな富士をまだ轢き続ける蘭。止めてくれはしないまま、
「蘭さんは命の恩人なんすよ」
大也は意外なことを言い出した。轢かれつつ、えっ、とその顔を見上げてしまう。
「それって、比喩とかではなく?
「近いすね」
二人の出会いは三年ほど前のことだという。「俺、十七とかだったんですけど、中三で不登校になって引きこもっちゃったんで、高校も行ってなかったんです」
植え込みにまだ尻を半分埋めたまま、富士は大也から目を逸らせなくなる。「そうなの……?」気の毒な他人事、では、すますことができない事情が富士にはある。
「外に出るのは日曜の深夜だけ。うちの近くに、日付が変わるとすぐにジャンプを店頭に出すコンビニがあったんです。だから真夜中、親が寝てる隙に小銭くすねて家を出て、人気がない道を通ってそのコンビニに行って、ジャンプとデカビタ買って帰るっていうのが週に一度の、自分的には……努力? 最後の踏ん張り? とにかくそういう感じで。社会とのたった一筋の繫がり、っていうか。それはまだ手放したくないってギリ思えてるぐらいの境界線上で」
「デカビタ限定なんだ……」
そこかよ、と蘭が呟く。
「ジュース選ぶような精神的な余裕はあの頃はなかったんです」
「そっか……でも水とかお茶では決してないんだ……」
「それが十代っすよ。で、帰り道、街灯の灯りでジャンプ読みながら、デカビタ飲んで歩いて」
「家につくまで我慢できなかったんだ……」
「十代っす。それに我慢するとか待つとか持ち帰るとか、そういう精神的な余裕もあの頃はなかったんで。で、家に着く前にいつも読み終わっちゃって、デカビタも飲み終わっちゃって」
「早っ……でも十代だもんね」
「そうすね。その道々、いつも通る曲がり角があるんですけど、ちょうどいい感じの地点に一軒家の塀があって」
「へえ……あっ、今のは塀にかけたわけじゃないからね」
「その塀が、蘭さんちの塀で」
「へえ……あっ、これも違うから……」
「俺、毎週その塀に読み終わったジャンプとデカビタの空き瓶を置いていってたんすよ」
「えっ!? だめじゃん! なんでそんなこと!」
「だめとか思える精神的な余裕がなかったんです。完全に麻痺してたっていうか、まともな判断とか全然できなくなってて」
「ほんと、まともじゃねえんだよこいつ」
蘭がやっと富士を轢くのをやめ、大也の方を軽く親指で指してみせる。
「うちの母親が、『またゴミ置かれちゃった』みたいなことを毎週月曜の朝に言ってたんだよ。最初はまあ、ふーん、って感じだったんだけど、あんまりずっと続くからあたしも段々腹立ってきてさ、とある日曜の夜、もう犯人とっ捕まえてやろうと思って、二階の自分の部屋からずっと見張ってたわけ。そしたらまんまとこいつ、通りすがりに、ひょいってジャンプとデカビタの空き瓶置いたんだよ」
「犯行を目撃したんですね」
へへっ、と大也は照れくさそうに笑ってみせるが、なんのことはない。彼がしたことは普通に不法投棄、罰金も懲役もありうる立派な犯罪だ。
「そこから下に降りてって猛ダッシュ、本気で追いかけたんだけどすぐ見失ってさ。うちの辺りって完全に住宅街で、暗い路地が入り組んでるから」
「俺は別に逃げたわけじゃなくて、追いかけられてることにも気づいてなくて、普通に家まで帰っただけなんですけどね」
大也の光学迷彩があれば、夜中の路上で姿をくらますのも簡単だろう。
「それ以来、毎週同じように見張って、置かれる前になんか言ってやろうと思うんだけど、でもいつも気付かないうちに置かれてんの。ずっと見てんのに。で、飛び出して追いかけては見失うの繰り返し。まじ、全然、捕まんねえの。あたしも次第に、くそ! あのゴミ野郎! とか言いつつ、残されたジャンプの連載をわくわくと楽しみに読むようになってきて」
「じゃあ、なんだかんだでWin-Winの関係に……」
「いや、それとこれとは話が別。普通に殺意だよ。何度も何度も追いかけて、ある日、やっとこいつが住んでるところまで行きついてさ」
「自宅を特定できたんですね」
「いーや、それがまたすげえでかいマンションなの。何戸あるんだっけ?」
「四百五十八戸のビッグコミュニティです」
「うわ、すごい」
「無理だろ? エントランスに入っていったのは確かだけど、こいつが何号室の誰かなんてわかるわけねえ。だからもう、翌週は待ち伏せすることにして、夜中の一時とかにそのでかいマンションのエントランス付近で待ってたんだよ。こいつがおばけみたいにふわ~っと帰ってくるのを」
「それって、お一人でですか? 正体不明のゴミ捨て男と……あ、大也くんごめん、でもまあその時はそうだから……そんな結構やばそうなのと一対一で
「そりゃ怖いよ、あたしだって舞台を下りればただの乙女だしさ。だからバット持ってったよ。グリップにはちゃんと滑り止めのテープ巻いて、ほら、血とか出たらヌルヌルするじゃん? あとレジ袋に三個空き瓶入れてぶら下げてった。それ振り回せば武器になるし、割れて突き出りゃ殺傷力もまあまああんだろって」
夜道で出会うことを想像したら、ジャンプを読みながらデカビタを飲んでいる少年よりは、武装した蘭の方が怖さで優る気がする。おまわりさんが止めるとしたら、蘭だろう。あの公演の夜、摑み合う南野と樋尾の真ん中に上空からミサイルみたいに突っ込んでいった姿も思い出す。でもまあ、
「乙女ですしね……」
「そうそう、乙女だから。でもその夜に限って、こいつ現れねえんだよ。それまでは皆勤だったくせに、いくら待っても姿を見せねえ。これおかしい、絶対変、とか思って、前に姿を見かけたことがある辺りを捜索してみたの。そしたらこいつ、血だらけで側溝にはまって気絶してたの」
「えっ!?」
衝撃の展開だった。富士は絶句するが、そうなんすよ、と大也は軽く頷いている。
「俺、夜道で足を踏み外して、蓋が開いてた側溝に頭から落ちちゃったんです。かなり血も出て、顔がどろっと生あったかくて、そうなると身体がまじで全然動かないんですよ。人通りなんかほぼない裏道だし、真冬だったし、微妙に水深も五センチぐらいあって、あのまま蘭さんに発見されてなかったら朝までに死んでたと思うんです」
「だよな。あたしもさすがにめっちゃびびって、速攻救急車呼んでさ」
搬送された大也は、しかしすぐに回復したらしい。なにしろ十代だ。
そして数日後、これまでの不法投棄の謝罪を兼ねて、大也は母親とともに東郷家にやってきた。事情を聞いた蘭の母は、大也の母と意気投合し、意外なことを言い出したという。
▶#2-7へつづく
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