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連載

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」 vol.16

舞台監督の捜索に向かう途中、受け身系女子は劇団の主演女優・蘭とばったり出くわす。竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」#2-7

竹宮ゆゆこ「いいからしばらく黙ってろ!」

※この記事は、期間限定公開です。

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「うちの母親もお花畑だからさ、『あなた、大也くんの面倒を見てあげなさいよ』とか、『お勉強も見てあげなさいよ』とか言うわけ。あたしも高校行ってないから、似た者同士で気持ちがわかるとか思ったんだろうね」
「そうなんですか? あれ、でも確か南野さんとは大学で知り合ったんでは?」
「高卒認定試験。あたしは高校に上がる齢でチューリッヒ行ったから」
「え、それって留学で?」
「バレエ。記念のつもりで出たコンクールで、なぜかスカラシップ獲れたんだよ。あたしもびっくり、周りもびっくり」
「すごい! 向こうってフランス語ですよね」
「全然すごくねえよ。ただの怖いもの知らず、言葉なんか付け焼刃もいいとこ。準備不足のまま、とりあえずラッキー、行きゃなんとかなんだろ、ってノリで行ったものの、結局三か月で詰んだ。コミュニケーションもまともに取れない外国で、ぼっきりメンタルへし折られて、身体も壊れてドクターストップ。退学&強制送還だよ。飛行機降りる時は車椅子で成田から病院直行、母国の土も踏めないまま即入院。なんか全然帰れねえんだよ、家に」
 早口で冗談めかして語る蘭の髪に、春風に乗って飛ばされてきた桜の花びらがはりつく。無意識に息を詰め、富士はそれがまた飛んでいくのを見送る。こんな通りがかりの道端で、サドルに跨ったままで、蘭は己の人生が一変した時のことを話している。将来へ続く道がぼっきりと折れて、断ち落された、その後のことを話そうとしている。
「大変でしたね……」
 月並みな言葉しか出てこないが、蘭は「まーね」といつもの調子だった。
「そこでバレエももういいや、と思って、大学行くことにして、通ってた予備校がモツと一緒だったんだよ。あいつでかいから目立つじゃん。で、受かって入学式に出て見りゃいるじゃん。地元民発見、と思って、つい話しかけたりして、気が付きゃこうだよ」
 ハンドルを離して両手を広げ、蘭は操り人形みたいな噓くさい笑顔を作ってみせる。南野と出会って、大学四年間を演劇に捧げ、劇団を旗揚げし、蘭は今、クロスバイクに跨ったままで富士を轢いたり話したりしている。
「まあでもよそんちのガキの勉強なんか見てらんねえじゃん。大也のことはしばらく放っておいたんだけど、ふと思いついて公演のときに呼んでやったんだよ。そしたら、ね」
「はい。さっき言ったみたいに俺、一発ではまっちゃって。公演の直後に、俺もこの劇団に入れて下さい! って頭下げたんです」
「その隣でこいつのママがこいつの倍速で頭下げてんの。『うちの子をどうか! やっとお日様を怖がらなくなったんです!』だって」
「大也くん、お母さん同伴だったんだ」
「十代だったんで。ていうか、なんかすいません龍岡さん、道端でだらだら語っちゃいましたけど、どこか行くところだったんじゃないすか」
 富士は慌てて首を横に振る。
「いやいや、話題振ったのは私の方だから」
「重いですよね、急に。不登校とかそんな話。あんま気にしないで下さい。俺はただの落ちこぼれで、蘭さんにひっついてるだけなんで、って言いたかっただけです」
「そんなこと思わないよ。私の弟と妹、双子なんだけど、やっぱり中学で行けなくなっちゃったから」
「え……そうなんすか。もしや、いじめとか?」
「きっかけは、担任の先生と決定的に合わなかったことみたい。いつも騒ぎを起こす問題児、みたいにされちゃって、周りからも浮いちゃって。最初は妹が行けなくなって、そのうちに弟も自然と。あの時は心配だったけど、でも今は海外でのびのびやってるよ」
 よかったじゃん、と呟いたのは蘭。
「合わないところにいるってのは、とにかく絶望しかないもんね。ガキなら特にね。あんたんちの双子、脱出できて救われたね」
「はい。ほんと、そう思います」
 そのとき、蘭がほんの一瞬だけ笑いかけてくれた気がした。富士に向けられた、初めての表情だった。でもすぐにふいっと逸らされ、大也に向かって顎をしゃくる。「そろそろ行くよ」大也はそれを聞き、素直にペダルに足をかける。なんだかんだで、蘭はちゃんと大也の面倒を見ているのだ。やっぱり優しい。蘭は、本当に優しい。
「お二人とも、気をつけて下さいね。私は今から樋尾さんちに突撃します」
 富士がそう言って手を振ると、しかし蘭はいきなり動きを止めた。
「やっぱ先行ってろ」
 大也だけを行かせて、方向転換。富士の前に立ち塞がるようにクロスバイクを斜めに停め、
「樋尾んち行って、なにすんの」
 さっきまでとは打って変わった硬い表情で、蘭は富士の行く手を阻む。
「なにって……通帳や現金を回収してくるんです。一昨日のミーティングでそういう話になったじゃないですか」
「忘れろ。余計なことすんな」
「でも、」
「口答えすんじゃねえ。とにかくやめな。あんたにできることなんかどうせなんにもない」
「……でも、劇団のものは返してもらわないと。樋尾さんだって、実はお困りなんじゃ」
「お困り? なんでよ。あいつはあたしらを見捨てたんだよ」
「このままにはしておけませんよ。支払いや返金はきっちりしないと、これは信用と責任の問題です。踏み倒しなんかしたら劇団の今後にも関わってきますし、次の公演の話も進められません」
「だから、言ってるじゃん。今後とか次とかあたしらにはもうないんだってば」
「諦めてるんですか? ……樋尾さんがいないから?」
「そうだよ」
 目を細め、蘭が繰り出す言葉には淀みがない。
「はっきり言っちゃえば、あたしらはいまやただの燃えカスなの。かつては劇団だった、そのざんがい。この先はどこまでいっても破滅しかない」
「そんなことないですよ!」
「あるんだよ、おばかさん」
 呆れたみたいに富士を見る、冷たい視線。
「二回連続公演飛ばして、金は尽きた。次の公演なんかもう打てるわけがない。しかも今月中になんて、どう考えても絶対に無理。不可能。今さらこんなタイミングで、樋尾に代わる新しい舞台監督なんか見つかるわけもない」
 その迷いのない声に、富士は不穏なものを感じた。まるでなにかの時のために、用意してある言い訳のようにも思える。
「蘭さん、もしかして……バリスキを辞めるつもりなんですか」
「辞めはしない」
 その言葉に一瞬ほっとしかけるが、
「消えるんだよ。劇団ごと」
 すぐにまた心をえぐられる。消える、って。
「あたしらは、自然と消えていく。公演を打てなくなって、そのうち話題にも出なくなって、誰も思い出さなくなって、それっきり。そんなもんだ。これまでに一体いくつの劇団がそうやって消えていったと思う? 数え切れないし、こっちだっていちいち覚えてもいない。ていうか、みんなそうなんだよ。ほとんどみんな、気が付けば消えてて、あたしらだってそこになにかがあったってことすら忘れてる。で、今度はこっちがそうなるだけ。忘れられる方になるってだけ」
 蘭はそう言うが、富士は受け入れられない。うまく言い返す言葉を見つけられないまま、何度も必死に首を振る。こんな路上の立ち話で、「そうなんですね、消えるんですね」なんて、あっさり受け入れられるわけがない。こんなにも生きていたいのに。こんなにも生きようとしているのに。
「……蘭さんは、それでいいんですか……!?」
 なんとか声を絞り出すが、
「いいもクソも、結局は自分らが招いたことなんだよ。納得するしかねえだろ」
「大也くんの居場所でもあるんですよ!?」
「あいつだって劇団員なんだから、こうなった責任はゼロじゃねえ。ただ、あんたはそうじゃない」
 富士を見やる蘭の視線は揺れもしない。
「あんたはなんにも悪くないよ。こんな状況になってから、のこのこやってきたんだもん。なのに金とか時間とかまともな生活とかまともな感覚とか、とにかくいろんなもんを失おうとしてる。なにも得られないままね。こっちこそ何度でも聞きたいよ。本当にそれでいいのかよ? 本当にそれで、大丈夫なのかよ?」
「私は大丈夫です! さっきも言ったとおり、好きで飛び込んだ世界ですから!」
「……ふわっふわした夢を、見てんだろ」
 吊り上がる蘭の目の苛烈さを、ふと過った新しい色がかげらせる。それは恐らく──純粋な同情の色。
「あたしも知ってるよ、そういうの。今のあんたは、ただ毎日を必死にひた走ってるだけなんだよね。前だけを見て、文字通り夢中で」
 そんな目で富士が頷くのを見つめながら、「でも、夢から覚める時は必ず来る」言い切る言葉に否やを唱える隙はない。
「あたしは、あんたが現実に戻った時に、夢の中で失ったものの量をできるだけ減らしといてやりたいの。おせっかいかもしれないけど、そういう打ちのめされ方を知ってるから、みすみす失おうとしてる奴をほっとけない。あたしは『自分の場所』じゃないところで、そこにいることの間違いや敗北を認められなかった。全部ふわふわした夢で包んで、隠して見ないようにしてた。そうやって意地になって、無理してどんどんドツボにはまって、やっとの思いで逃げ帰ってきた時には、もう……どれほどたくさんのものを失ってたことか。自分のダメさを、どれほど責めたか。虚しいなんてもんじゃないよ。後悔とか自己嫌悪とか、そんな言葉じゃ言い表せない」
 言い募りながら、蘭の視線はいつしか富士の姿を突き抜ける。立ち竦む富士の背後に、かつての自分の姿を見ているのかもしれない。遠い異国の地で力尽き、くずおれる、無力な女の子の姿を。
「──そんな目にあったことを、あたしは無意味にはしたくない。だからあんたには、まだなにも失わないうちに、傷を負わないうちに、とっとと帰れって言いたいの。ついてくんな、って」
 その優しさも、痛みも、本気なのもわかる。蘭の気持ちはわかる。でも、受け入れるわけにはいかない。わかりました、なんて言えない。絶対にまだ引けない。ここで引くならまた前と同じだ。置き去りにされて追いかけもせず、ただ忘れる時を待っているだけの自分に逆戻りだ。そんなのいやだ。
「私は……ただ、ここにいたいんです。諦めたくありません」
「あんたには、まともな世界に居場所があんだろ」
 しかし蘭も引いてはくれない。
「それがどれだけ恵まれてることか、あんたにはわからない? このあたしを見なよ。ボロボロになって命からがら逃げ帰って、バレエの世界とも縁を切ったのに、それでもまだ立てる舞台を探してる。モツを見なよ。あいつがスーツ着て会社員とか勤まると思う? 誰かと恋愛して結婚してとかできると思う? カニを見なよ。カニだよ?」
「……蟹江さんには、ちゃんと打鍵奴隷としての人生が……」
「奴隷だろ? まともかよそれ」
「でも、……でも私にも、他に居場所なんかありません。私はバリスキにいたいんです。役に立ちたいし、劇団を蘇らせたい。そして蘭さんが舞台に立っている姿をまた見たいんです」
「──とにかく、あたしは言いたいことは言ったから」
 蘭はふっと目を逸らし、クロスバイクの向きを変えた。そのまま身軽に立ち漕ぎし、ペダルを思い切り踏み込んで、走って行ってしまう。富士は遠ざかるその背に必死に声をかけた。
「蘭さん! 今夜、南野さんちに来てくれますか!?」
「樋尾が来るなら考えとくよ」
 それだけ言って車道に出ると、蘭は風が吹き抜ける大通りを去っていった。

 高円寺駅の南口を出て、富士は一人、樋尾のアパートへ向かう。
 ドアを開け放した喫茶店から漂ってくる煙草のにおいの中を歩きながら、蘭が別れ際に放った言葉が頭から消えない。
 樋尾が来るなら、と蘭は言った。
 つまり、樋尾を見つけられなければ、そして劇団に連れ戻さなければ、蘭の気持ちが翻ることはないのだ。蘭はとっくに諦めていて、劇団の活動にも見切りをつけている。このまま消えていくことを受け入れてしまっている。富士がどれだけ必死に自分の思いを伝えたところで、そんなものにはなんの力もない。富士の存在なんかでは、蘭の気持ちは変えられない。
 そりゃそうだろう、と自分でも思う。劇団がこうなってから急に現れ、これまでのこともただ話に聞くばかり。なにができるわけでもない。なにをしてきたわけでもない。説得力なんかあるわけがない。今、なにかしてみせなければ──樋尾を連れ戻せなくては、信頼なんかしてもらえない。
 昨日と同じ道を歩きながら、昨日よりもずっと重いものを背負っている気がする。南野。蟹江。蘭。大也。みんなの顔を思い浮かべながら、彼らを乗せた舟が沈んでいくところを想像してしまう。舟は波に打ち砕かれ、パーツをばらばらに撒き散らしながら、海の深みに飲み込まれていく。海底に沈んだ欠片かけらは遠くへ流され、どこかの浜に散り散りに辿り着き、砂となって風に飛ばされる。そうやって無になる。なかったことになる。かつてそんな舟があったことすら、忘れ去られて、消えていく。
 その舟のことを知っているのは、自分しかいない。沈みゆくその姿を見ているのは自分だけ。
 一緒に沈むこともできるだろう。それも多分、つまらなくはない。彼らと一緒なら、その過程さえもきっと孤独ではない。
 でも、
(……まだ、終わりじゃない。私はそれを選ばない)
 富士は諦めてはいない。足はまだ前に進んでいる。
 こうして進む先で、樋尾を見つければいいのだ。連れ戻せばいいのだ。それができれば劇団は生き残れる。蘭だってわかってくれる。
 確かに今、自分はふわふわした夢を見ているとも。でも、ただ見ているだけじゃない。ずっとこうしていたいと願っているわけでもない。自分は夢を、この手で摑んで、現実の世界に引き下ろしたいのだ。そのチャンスを窺っているのだ。人は夢からは必ず覚める。そんなことはもうとっくに知ってる。だから、こうやって歩いている。こうやって考えている。現実的で具体的な力をもって、この舟を、劇団を、死の淵から引き揚げる方法を探している。頭と身体、手、足、目、口、自分が持てるすべてを使い尽して、新しい現実を創り出そうとしている。そうしたいのだ。自分にはそれができるということを、証明したいのだ。
 やがて樋尾が住むコーポに着いた。エントランスホールに入っていく。エレベーターのボタンを押し、三階に上がる。樋尾の部屋のチャイムを鳴らし、ドアを何度かノックする。
「樋尾さん。すいません、龍岡です」
 部屋の中から返事はない。耳をそばだてるが、物音もしない。辺りを見回し、誰もいないのを確かめてから、須藤が昨日したように新聞受けから覗いてもみる。しかし玄関の床のタイルしか見えず、室内の様子はわからない。
 昨日残していったポストイットは消えていた。帰宅して読んだのだろうか。それとも風に吹き飛ばされて、街のどこかでゴミになっているのか。とにかく、メールには返事がない。樋尾からはなんの連絡もない。
 そろそろ正午になる頃だった。今日もまた、留守なのだろうか。もしくは居留守か。昼時だし、外出していてもおかしくない。仕事なのかもしれない。
 またバイト先の店に行ってみてもいいが、そのときふと思ってしまう。そもそも、この部屋に樋尾が今も住んでいるという確証はどこにもない。この住所を教えてくれたのは蟹江だが、劇団の関係者にはなにも告げずに引っ越した可能性もゼロではない。いや、空室ならドアノブに書類一式がぶら下げられていたりするか。でも退去したばかりならまだ清掃も入っていないのかも。間を空けずに次の住人が入居したのかも。
 だとしたら──どうしよう。手詰まり感が富士の焦燥をさらに煽る。再び何度か強めにノックするが、やはり反応はない。ドアの前から電話もかける。鳴りっぱなしで、留守電になってしまう。
(もしかしてこの流れ、ご実家を急襲しなきゃいけないのかな)
 樋尾の実家は、蟹江の情報によるとはままつ。つまり新幹線での小旅行になる。なんなら須藤も召喚しようか。奴なら来る。うきうきで来る。こんなに強く確信できることもなかなか他にはない気がする。
 その時、エレベーターホールの方から足音がした。はっとして振り向くと、中学生ぐらいの男子がこっちへ歩いて来る。制服でスポーツバッグを担ぎ、手には水筒。春休み中の部活帰りなのだろうか。富士が会釈する脇をそっけなく目を逸らして通り過ぎ、隣の部屋のドアの前で鍵を取りだそうとしている。そこは昨日、ドアの隙間から様子を窺っていた女性の部屋だった。息子か。
 思い切って、声をかけてみることにする。
「あの、すいません。ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
 中学生は戸惑った表情を浮かべつつ、富士の方を見た。
「この部屋に、樋尾さんという方はまだ住んでますか?」
「……わかりません」
「二十代後半の、背の高い男の人なんだけど」
「……さあ……」
 ドアのすぐ前で話す声は、もしも居留守で中にいるなら全部聞こえているだろう。そう思ったとき、ふと閃く。ここは公共の場だからとそれまで低く抑えていた声を、
「私! その樋尾さんという方にお金を預けてるんだけど! 返してもらえないの!」
 できるだけ大きく張り上げる。富士の声は廊下中に響き渡り、各居室内までくっきり明確に届いているはず。聞かせているのだ。もしも居留守なら、そこにいるなら、全部聞いていればいい。
「連絡もとれないし、困ってるの! だから、警察を呼ぶことにする!」
 中学生には当然、「はあ……?」富士の意図など伝わりようもない。鍵でドアを開けるなり、そそくさと中へ入っていく。これでいい。
 エレベーターで下に降りていきながら、富士はほんの数か月前の正月のことをありありと思い出していた。婚約者に捨てられ、実家に集結していた家族の顔も見たくなくて、富士は久々に隠れ家に閉じこもった。なんならそのまま凍死したって構わないぐらいの心境だった。富士を心配した家族からはスマホにしつこく連絡が来ていたが無視した。でもやがて、『警察に、捜索を、頼んだからね。』と母からメールが来て、さすがに驚いて隠れ家を飛び出した。すぐにそれが噓だったとわかったが、あの時はとにかく本当に慌てた。傷心の上、国家権力に山狩りなんてされてはたまらない。
 もしも樋尾が居留守を使っていて、さっきの声が聞こえていたなら、きっと同じように焦るはず。そしてなんらかのリアクションがあるはず。本当に出かけているか、引っ越していたならまあ仕方がない。その場合は、バイト先で待ち伏せする。もしくは浜松に行く。ただそれだけのことだ。
 一階に着き、エントランスの手前でしばらく足を止める。もしも動きがあるとしたら、多分それはすぐに──
「ちょっと待って下さい!」
 ──かかった! 富士はひそかに片手を握りしめる。小さくガッツポーズ。隣の部屋の中学生が、富士を追いかけて階段を駆け下りてくる。さっきまでのそっけなさはどこへやら、
「今うちのお母さんに聞いたんですけど、隣の人は旅行に行ったそうです! なんか遠い外国で、しばらく戻らないって! ていうか戻るかどうかも定かじゃないって! これは本当のことです!」
 やたらじようぜつにペラペラ喋ってくれる。ご丁寧なことに、その胸ポケットには、さっきまではなかったはずの折り畳んだ千円札が透けている。
「で、あと、なんだっけ……そうだ、最近このあたりも物騒だから、住人じゃない人を建物内で見かけたら、こっちこそ即通報するって!」
「お母さんがそう言ってた?」
「あ? えっと、そう! お母さんが言ってた!」
 頷きながら中学生はきびすを返し、すぐにまた階段を駆け上がっていく。ボロを出さないうちに切り上げたのは上出来だが、買収されたのはあまりにも丸わかり。
 樋尾は、やっぱり部屋にいたのだ。話を全部聞いていて、富士が去るなり部屋から飛び出し、隣の中学生を呼び出して、札を握らせてああ言うように指示した。それがバレないと思ったのだろうか。富士が信じて納得すると思ったのだろうか。それとも、おまえのことも通報する、という威嚇が効くと思ったのだろうか。
 なんにせよ、これは勝ちに数えていいと思う。得る物があったのはこっちの方だ。樋尾は、確かにこの部屋にまだ住んでいる。居留守を使って、今も室内に身を潜めている。とにかくそのことは確かめられた。これは小さいが、それでも初めての、現実的かつ具体的な一歩だ。

 アルバイト生活の一人暮らしで、そう何日も籠城できるわけはない。だから樋尾が姿を見せるまでエントランス前にしつこく張り込んで粘る、という選択肢もあった。
 しかし富士は、そうはしなかった。通報されるのを本気で恐れたわけではなく、樋尾という人物のことをすこしは信用してみようと思ったのだ。
 彼を知る者は皆、決して悪くは言わない。それが本当ならば、こんなふうに事態がこうちやくしてしまった以上、もはやそくに逃げ回ったりはせずにこちらに連絡をくれるのではないだろうか。もし本当に、樋尾がみんなの言うようにまともな人物であるならば。これまでの五年間、バリスキの活動を実質的に一人で支え、南野たちの手綱をとってきたのが偽りの姿ではないのならば。
 富士はそっちに賭けることにして、南野荘に帰ってきた。
 部屋に入り、パソコンを立ち上げると、メールの返信が一通来ている。さっそく樋尾か! と飛びつくが、そうではなかった。送信者は、元冬メンで、バリスキ公式HPの管理者で、今はコヨーテ・ロードキルのHPを管理している女性だ。
 朝、富士はコヨーテ・ロードキルのサイトにあったアドレス宛にメールを送っていた。できるだけ丁寧に、バリスキのHPをこちらで管理できるように管理パスワードを教えてもらえないか、と頼んだつもりだ。そして、トップページからそちらのサイトに飛ばすのもやめてもらえないか、と。
 返信は数行だった。『バリスキのHPはそもそも私が個人的な好意で運営していたに過ぎません』『その証拠になんの対価ももらったことはありません』『だからそれをどうしようとこちらの勝手だし文句を言われる筋合いなどありません』『なにかを教えたりする筋合いも一切ありません』『以後ご連絡はお断りします』とのことだった。ちなみに件名は、Re:突然のご連絡で申し訳ありません、ではなく、『なんのつもりか知りませんが』だ。もうその字の並びが怖い。文字の隙間から毒の煙が噴き出しているような気さえする。
(やばい。めちゃめちゃ怒らせたかも……)
 富士は返信の文面を見つめながら頭を抱えた。お昼に食べようと思って買ってきたおにぎりも脇に置き、とにかくこのことを南野に報告しなければ、と重い気分でスマホを摑む。
 が、スマホには先に南野からのLINEが届いていた。慌てて開いて見ると、『俺だ!』から始まる怒濤の連投。
『俺のTwitterを見た奴から何件か連絡があったんだが』『みんな、すでに返金は済んでいる、と言っている』『驚いて、支払いが済んでいないはずの方面にも何件か連絡をとってみたが、そっちも清算済みらしい』『いつも通りに期日までに振込があったと』そして、コックコートにエプロンをつけた南野のセルフィーが四枚。山と積んだ豆パンをバックに、いちいち考え込むような表情をしているのがうざったいと思いつつ、『樋尾さんが支払いをして下さったんでしょうか?』と返す。しばらく待つが、なかなか既読にはならない。仕事中で手が離せないのだろう。
 一体どういうことなのかわからないが、とにかく帳簿を確かめて、すべての未払い先に連絡してみなければ。が、帳簿が見当たらない。そういえば昨夜、南野に「改めてちゃんと確認して下さい」と言って、母屋のリビングに置いてきたのだ。しょうがない、合鍵を使って取りに行って、そうだ、なんならその足で未払い先に直接確かめに行こう。さっき置いたばかりのバッグをまた摑み、富士は玄関から再び駆け出す。
 階段を下りながら、そのとき人影が一つ、前の道を急ぎ足で去っていくのが目に入った。長身の男で、黒いキャップに黒い服。(あれ?)すこし気になるが、そう思っている間にも後ろ姿は遠ざかっていく。(今のって……え? 追いかけるべき? でも……あれ?)妙な胸騒ぎがしつつも、どうするべきなのかわからないまま南野家の裏口に着いてしまう。そして、すぐに違和感に気付く。鉢植えの位置が変わっている。朝、南野に頼まれて水やりをしたからわかる。近づいてみると、見覚えのない物がそこにあった。玄関ドアと鉢植えの隙間に、紙袋が一つ置かれているのだ。さっきまでこんなものはなかったはず。帰宅した時に、南野も帰ってはいないかと覗いたから覚えている。あれから今までのほんの数分間に、誰かが鉢植えをずらして、この紙袋を置いていったのだ。
 中を確かめるなり、「……っ!」富士は駆け出す。
 やっぱりあれは──さっきの人影は、樋尾だったのだ。樋尾が歩き去った方角へ追いかけていきながら、大声で呼びもする。
「樋尾さん!」
 引っ摑んだ紙袋の中には、劇団名義の通帳と印鑑、ファイルされた領収書、『見上げてごらん』の台本が入っていた。片手でめくった通帳の残高はゼロ。「樋尾さん! 待って下さい!」スカートの裾を翻し、富士は必死に全力で走る。こんなに本気で走るのは高校の体育以来、いや、体育でもここまで頑張りはしなかった。前方に黒い服の背中が見える。声に振り返った顔にはマスク。樋尾も追われていることに気付いて走り出す。ストライドが全然違ってとにかく速い。鈍足の富士ではとてもではないが追いつけない。距離はみるみる開いていく。息が上がって苦しいし、喉はぜえぜえ、心臓は爆発しそう。腕も足もバラバラになりそう。というか、呼びかけたりせずに忍び寄ればよかったのだ。ばかだ、しくじった、でも今さら遅い。樋尾はぐんぐん走っていってしまう。自宅が割れている以上、のこのこ戻りはしないだろう。このままどこかに姿をくらますはずだ。それで縁切りのつもりなのだ。だから見つかる危険を冒してまで劇団の荷物を置いていったのだ。ていうかそんなの、
(宅配で送れよ!?)
 追い詰められてとっさにしくじるのは自分だけじゃなかったか。それでもこのまま逃げ切れるなら樋尾にはノーカウント。ほとんど泣きそうになりながら、富士は必死に樋尾の背中を追う。
「私、絶対諦めませんよ!」
 このまま逃げられてしまったら終わりだ。支払いが済んだだけじゃだめなのだ。樋尾がいなければだめなのだ。自分がいたって、どれほど強い想いがあったって、樋尾の穴は樋尾にしか埋められない。樋尾がいなければ動き出せない。それはもう思い知っている。
 大通りに出ればタクシーはすぐに摑まるだろう。自分ならそれに乗って逃げ切る。路地から大通りに出る曲がり角はもうすぐそこ、樋尾の背は今にもその先に消えていこうとしている。
(こうなったらもう最後の手段! 『あれ』しかない!)
 富士は社会性のすべてをかなぐり捨てて、「わあ!」全力で大きく叫んだ。この声に気付け。立ち止まれ。振り返れ。そして持っていた荷物のすべて、自分のバッグも樋尾が置いていった紙袋もすべて、力いっぱい放り投げる。財布や鍵、ポーチ、あらゆるものが宙を舞う中を、ダッシュの勢いで前方に身を投げる。偶然靴も脱げてしまうがちょうどいい。道路にうつぶせに倒れ伏したこの姿は、つまずいて転んだかのように見えるはず。見えるというか、普通に手の平や膝やあちこちが痛いが。普通に転んだのと全然変わらないが。泣きたいが。でも、
(……動かない。顔を上げない。向こうを見ない……)
 倒れたままで息を詰める。顔を伏せたままで樋尾という人物を信じる。自分の後を追って走ってきた女が悲鳴を上げながら転倒し、動かなくなった。樋尾は、それを見捨てていけるような人ではないはず。蘭は、自分たちは見捨てられた、と言った。でも、簡単にそんなことができる人ではないはず。大破して沈みゆく舟を、自分だって乗っていた舟を、そのまま背後に残していけるような人ではないはず。そんな人なら、一人でなにもかも抱え込み、黙って支払いを済ませたりもしない。捜されているのがわかっていながら、荷物を返すためにのこのこ姿を現したりしない。五年間もバリスキの守護神なんかやっていない。だから信じる。
「……おい」
「……」
「おい。大丈夫か?」
 肩にそっと触れてきた手を、富士は素早く摑んだ。反射的に逃げようとしたその袖口を、思いっきり握り締める。やっぱりそうだ。樋尾は立ち止まり、振り返る人だった。戻ってくる人だった。この手は離さない。なにがあろうと、絶対に。
 たじろぐ気配はすぐ傍にある。富士は顔を上げつつ、
「すいません。私はよくわからないんですけど──」
 こんな時だというのに、つい笑ってしまいそうになる。さっきの陽動作戦といい、今といい、こんなにうまくいくなんて。
「──マリーシアって言うらしいです。こういうの」
 驚いたように身を引こうとする樋尾の袖口をしっかりと摑んだまま、富士は兄と弟の声を思い出していた。出たよ、マリーシア! そう言って男二人はよく笑っていた。一番下の妹が、親の気を引くために腹痛のふりをしてうずくまったり、泣き真似をしたり、足をくじいたふりをしたり、今まさに富士がしたように転んだふりをするたびに。
「樋尾さん、ですよね。やっとお会いできました。龍岡です」
 膝をついた姿勢で、樋尾は呆れたみたいにマスクを顎まで下ろす。「策士だな……」低い声で短く呟き、富士を見るその面差しは──うわ、と思わず本気の声が出た。
「どうしたんですか!? それ、ひどい……!」
 かっこいいとかどうとかの前に、あちこち腫れて顎のあたりにはあおあざ、唇の端にはまだ痛そうな傷。片目の下は内出血で黒くなり、黄色く変色した痣もあり、明らかにひどい怪我を負っている。
「そっちだってひどいだろ。見てみろよ、自分の手」
 言われて手の平を見ると、ひどい擦り傷になって血が滲んでいる。見てしまったらたちまち痛いが、でもこの手は離せない。樋尾を逃がすわけにはいかない。そんな富士の葛藤の声が聞こえたみたいに、
「もういい、降参だ。逃げても無駄っぽいからな。……諦めないんだろ?」
「はい。絶対に」
 ため息をつきながら、樋尾は言う。「そこにコンビニあるから、まず手を洗え。話はそれからだ」

(この続きは「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみください)
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