「不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。」冒頭の名文から、最後の一行まで油断がならない不倫小説。東野圭吾の11作品、怒濤のレビュー企画⑧『夜明けの街で』
全部読んだか? 東野圭吾
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全部読んだか? 東野圭吾――第8回『夜明けの街で』
数ある東野圭吾作品。たくさん読んだという方にも、きっとまだ新しい出会いがあります。
『超・殺人事件』刊行に合わせ、角川文庫の11作すべてのレビューを掲載!
(評者:西上心太 / 書評家)
◎試し読みはこちら(~2/29まで 期間限定公開)
本書は「小説 野性時代」2004年9月号から2007年4月号に連載された後、2007年に角川書店より刊行され、2010年に同社で文庫化された。
本書の顛末は冒頭の一行目から明らかである。
不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。妻と子供を愛しているなら、それで十分じゃないか。ちょっとした出来心でつまみ食いをして、それが元で、せっかく築き上げた家庭を壊してしまうなんて愚の骨頂だ。
こう吐露するのが本書の語り手である渡部という男だ。彼は日本橋にある一部上場企業である建設会社に勤務するサラリーマンである。30代後半で、第一事業本部電気一課主任という肩書きなので、電気関係の専門知識もある技術系の営業のようで、施工した商業ビルなどで電気関係のトラブルがあった時には現地に赴いたりと、なかなか忙しそうだ。
とはいえ年齢と地位に加え、一部上場企業の本社勤めなのでエリートサラリーマンといっても問題ないだろう。家族は妻の有美子と幼稚園に通う一人娘の園美の三人暮らし。特に家庭に不満があるわけではないし、たまに大学時代の男の友人たちと、愚痴をこぼしあいながら居酒屋で酒を飲むくらいが憂さ晴らしという、どこにでもいるような男である。そんな男が課内にやってきた派遣社員の仲西秋葉と深い関係になってしまうのだ。
これまで東野作品を読んできた読者はおやっと思うに違いない。え、「不倫小説なの?」と。まったくその通り、なのである。ただしよくある不倫小説との違いはただ一つ。仲西秋葉がおよそ十五年前から置かれている立場にある。それは秋葉が殺人事件の容疑者であることだ。
15年前の3月31日。当時高校生で春休み中の秋葉は、自宅二階でクラリネットの練習をしていた。しばらくして階下に降りてみると、父親の秘書の本条麗子が居間のテーブルの上で死んでいた。麗子の胸にはナイフが突き刺さっていた。少し後に帰宅した叔母の浜崎妙子が気を失っている秋葉を発見し、連絡を受け急遽帰宅した父親が警察に連絡したのだった。以上のような事情を渡部は秋葉の口から聞いたのである。
事件は強盗による犯行とされたが、目撃者や手がかりはなく事件は迷宮入りし、時効までおよそ半年。そのような時期に渡部は秋葉と深い仲になったのだ。
一つの謎と一つのスリル。その二つに牽引されて、本書は進んでいく。前者はもちろん15年前の殺人事件をめぐる謎だ。秋葉の両親は事件の前に離婚しており、しかも母親は自殺していた。さらに本条麗子と父は恋人同士でもあったのだ。事件の継続捜査を担当している神奈川県警捜査一課の刑事・芦原や、個人的に事件を追っている麗子の妹・釘宮真紀子は、家庭を壊した不倫相手である麗子に対して動機がある秋葉を疑っているのだ。
もう一つが渡部、および彼の家庭がどうなっていくのかというスリルである。何も知らずに家事と子育てを行っている妻。そして可愛い娘。これを渡部は壊そうとしているのだ。ここで生きるのが、本書で使われている渡部の一人称による叙述である。満ち足りた家庭がありながら、不倫相手にのめり込んでいく。一人称であるから、渡部の客観性を欠いた心情が、ダイレクトに伝わってくるのだ。同時にその滑稽さも。友人の協力でクリスマスイブを秋葉と過ごすことに成功するなど、ちょっとした気まぐれで始まった浮気が、徐々に本気になっていく。渡部の決意を知った秋葉の方も、不倫相手に甘んじる立場を振り捨てる決意をする……。
このあたりの怖さはサスペンス小説といっても差し支えない。愚かな男と強かな女。一見そのように見える物語に、ミステリー作家東野圭吾はどのような決着をつけるのか。最後の1ページ、最後の1行まで油断がならない。そして……、本書の結末におののかない読者──特に男性──はいないだろう。
▼『夜明けの街で』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/201003000150/