menu
menu

連載

全部読んだか? 東野圭吾 vol.16

不倫の代償は大きい、わかっていてもやめられない。――相手が殺人事件の容疑者だとしても?  これは、ただの不倫小説ではない。東野圭吾試し読み#8『夜明けの街で』

全部読んだか? 東野圭吾

全部読んだか? 東野圭吾――第8回『夜明けの街で』


東野圭吾『夜明けの街で』(角川文庫)

東野圭吾『夜明けの街で』(角川文庫)


超・殺人事件』刊行に合わせ、
「全部読んだか? 東野圭吾」フェアを開催中です。(~2/29まで)
期間限定で角川文庫の全作品11点の冒頭試し読みを実施します。
東野圭吾の試し読みはここだけ!

 ◇ ◇ ◇

       1

 不倫する奴なんて馬鹿だと思っていた。妻と子供を愛しているなら、それで十分じゃないか。ちょっとした出来心でつまみ食いをして、それが元で、せっかく築き上げた家庭を壊してしまうなんて愚の骨頂だ。
 もちろん世の中に素敵な女性はたくさんいる。僕だって、目移りしないわけじゃない。男なんだから、それは当然のことだ。でも目移りするのと、心まで奪われるのとはまるで違う。
 不倫が原因で離婚して、慰謝料代わりにマンションを奥さんに取られ、おまけに子供の養育費まで払わされているという人が、ついこの間まで社内にいた。その人は慣れない独り暮らしのせいで体調を崩し、ついでにノイローゼ気味になって、ついには仕事でとんでもない大失敗をやらかした。その責任を取る形で彼は会社を辞めたわけだけど、離婚の原因となった相手の女性とも、結局は結ばれなかったらしい。つまり彼はすべてを失っただけで、何ひとつ手に入れられなかった。彼は夜毎、安いアパートの天井を見つめて、一体どんなことを考えているんだろう。
 もう一度いう。不倫する奴なんて馬鹿だ。
 ところが僕は、その台詞を自分に対して発しなければならなくなった。ただし、その言葉の後に、こう続ける。
 でも、どうしようもない時もある──。

       2

 出会いというのは、いつだってそれほど劇的じゃない。少なくとも僕の場合はそうだ。それは平凡な日常の中に紛れ込んでいる。その出会いが輝きを持つのは、ずっと後になってからだ。
 秋葉あきはが派遣社員としてうちにやってきたのは、お盆休みが明けて最初の日だった。ものすごく暑い日だったが、彼女はきちんとスーツを着て現れた。長い髪を後ろで縛り、フレームの細い眼鏡をかけていた。
 仲西君だ、と課長が皆に紹介した。よろしくお願いします、と彼女は挨拶した。
 僕は彼女をちらりと見ただけで、すぐに自分のノートに視線を落とした。派遣社員が来るのは珍しいことではなかったし、僕はその後の会議のことで頭がいっぱいだった。先日のトラブルの言い訳をしなきゃなあ、なんてことを考えていたのだ。
 僕が勤める建設会社は日本橋にある。第一事業本部電気一課主任の肩書きをもらっている。現場で電気系統の不具合があった時には一番に駆けつけ、現地の担当者に説明し、顧客に謝り、上司に叱られ、仕上げとして始末書を書く──そういった役回りだ。
 うちの課には課長を除いて二十五人の社員がいる。秋葉が入ったので二十六人になった。うちの場合、机を向かい合わせにくっつけて並べている。秋葉の席は、僕の二列後ろになった。彼女からは斜め左に僕の背中が見えるわけだ。僕も椅子をくるりと回転させれば、彼女を見ることはできる。ただし彼女の前にはばかでかい旧式のパソコンモニターが据えられているので、彼女が画面に顔を近づけていたりしたら、ピアスのついた白い耳しか見えない。もっとも、僕がそんなことを意識するようになるのも、彼女がその席に座るようになって何日も経ってからだ。
 秋葉の歓迎会は、その週末に行われた。といってもじつはそれは口実で、要するに課長が飲み会を開きたかっただけのことだ。どこの職場もそうなのかもしれないが、中間管理職についている人間というのは、やたらと飲み会を開きたがる。
 茅場町かやばちょうにある居酒屋が歓迎会の会場だった。しょっちゅう行ってる店だから、メニューなんて見なくても、どんな料理があるのか大体わかっている。
 秋葉は端から二番目の席に座っていた。主役は彼女なのだが、極力目立たないようにしているように思えた。僕は斜め向かいの席で、歓迎会なんてうざったいと思っているに違いないと想像していた。
 彼女の顔をじっくりと見るのは、その時が最初だった。それまでは、眼鏡をかけている、ということしか認識していなかった。
 僕の目にはもっと若く見えたのだが、彼女は三十一歳だった。小さめの顔は奇麗な卵形で、鼻筋は定規をあてたように真っ直ぐだった。その顔で眼鏡をかけているものだから、僕はウルトラマンを連想してしまった。
 しかし彼女が和風美人タイプの整った顔立ちをしていることはたしかで、女性社員の一人が恋人の有無を尋ねたのも当然といえた。
 秋葉は微笑むと、低い声で答えた。
「もし恋人がいるなら、今頃は結婚しています。そうして、この場にはいなかったと思います」
 ビールを飲もうとしていた僕は、思わず手を止めて彼女を見た。彼女の回答は、彼女の人生における姿勢を単刀直入に示していた。
 結婚したいのか、と誰かが訊いた。もちろん、と彼女は答えた。
「結婚してくれる気のない人とは付き合いません」
 三十一だもんな、と隣の同僚が僕の耳元で囁いた。幸い彼女には聞こえなかったようだ。
 どういう相手が理想か、というお決まりの質問が出た。秋葉は首を傾げる。
「どんな相手が自分に向いているのか、どんな相手とだったら幸せになれるのか、よくわからないんです。だから理想というのはありません」
 では逆に、絶対にだめだというのはどんな男か。秋葉は即座に答えた。
「夫としての役割を全うできる人でないといやです。ほかの女性に気持ちが向くような人は失格です」
 でも、旦那さんが浮気したら? 彼女の答えは明瞭だった。
「殺します」
 ひゅーっと誰かが口笛を鳴らした。
 デビューがそんなふうだったから、職場の男性社員たちは、すっかりびびってしまった。
「あの歳だから結婚を意識するのはまあいいとして、浮気したら殺すってのはなあ。しかも何となく本気っぽいもんなあ。あの人、過去に絶対何かあるよ。男に裏切られて、怨念みたいなものを抱えてる、とかさ」未婚者の一人はそんなふうにいった。
 仕事で直接の繫がりがなかったから、僕が彼女と個人的に言葉を交わすことは殆どなかった。その状況が変わったのは、ある夜からだ。
 やはり金曜の夜だった。僕は大学時代の友人三人と久しぶりに新宿で飲んでいた。全員が結婚していて、僕を入れて三人が子持ちだった。四人はワンダーフォーゲル部で一緒だったのだが、今では誰も山に登っていなかった。
 大学を出て十年以上経つと、だんだんと共通の話題が少なくなっていく。仕事の愚痴、妻の悪口、教育のこと──口が軽くなる話題じゃない。
 もう少し盛り上がる話はないのかよ、と一人がいった。古崎という、ふだんは無口な男だ。いわゆる聞き上手だが、そんな彼でもうんざりしたらしい。
「世の中全体が盛り上がってないんだから、俺たちだけ盛り上がるってのは無理だろ」新谷という男が軽く流す。
「それにしても、たしかにしけた話ばっかりしてるよな、俺たち」黒沢という男が腕組みした。「前は俺たち、どんな話をしてたんだっけ」
「ワンゲルのことだろ」僕はいった。
「それは大学生の頃だ。そんな前じゃなくて、今から少し前だ。俺たちはずっと前から、しけた話ばっかりしてたわけじゃねえだろ」
 口を尖らせる黒沢を見ながら、たしかにそうだ、と思った。僕たちは昔から、上司が無能で困るとか、妻の親戚との付き合いが面倒だとか、健康診断の結果が芳しくなかったとか、そんなことばかりを話していたわけではない。そんな話を交わしながら酒を飲んだって、大してうまくない。
 自分たちは昔、どんな話をしていたんだろう。それをテーマに四人はしばらく考え込んだ。
 やがて黒沢がぽつりといった。「女だよ」
 えっ、と全員が彼を見た。
「女の話だ。俺たちは昔、女のことで盛り上がってたんだ」
 少しの間、全員が沈黙した。しかしその後に訪れたのは、白けた空気だった。
「それ以外でだ」新谷がしかめっ面でいった。「女の話以外では、どんなことで盛り上がってたか、それを考えてるんだよ」
「女の話だけだ」黒沢はむっとしていった。「ほかに盛り上がる話題なんかない。いつだってそうだったじゃねえか。おまえだって女の話が一番好きだった。人の顔を見りゃあ、合コンの計画はないかって訊いてきた」
 ははは、と僕は笑った。そうだった、たしかに。
「そうかもしれないけど、今ここでそんなことをいったって何の意味もないだろ。昔は女の話で盛り上がった、だから今もそうしようってのか。この中に、女の話ができるやつがいるか? 娘とか女房の話はなしだぜ。あれはどっちも女じゃないからな。おっと、母親も抜かなきゃな」新谷が早口でまくしたてた。
 母親よりも先に妻を女性という範疇はんちゅうから除外したことについて、彼は全世界の女性から猛抗議を受けそうだ。だけど僕も彼を責められない。彼の台詞に何の違和感も持たなかったからだ。
「女の話、聞きたいな」古崎がぽつりといった。「新谷のナンパ自慢は面白かった」
「だから俺にナンパしろっていうのか。おまえたちを楽しませるために?」
「以前新谷はこの店で賭けをやったじゃないか」僕はいった。「カウンターに座っている女の子をこっちの席に呼べるかどうかっていう賭けだ」
 やったやった、と黒沢や古崎が頷く。
「あのな、渡部」新谷が僕のほうを向いて座り直した。「あれは十年も前だ。しかも結婚してなかった。今の俺に同じことができると思うか? あそこに女の子がいるよな」カウンターに座っているミニスカートの女の子を指して続けた。「なかなかかわいい。俺のタイプだ。だけど俺は、じろじろ見ることさえ遠慮している。そんなことをしたら変態おやじだと思われるからだ。世間から見れば、俺たちはおやじ。男ですらない。そのことを自覚しろ」
「男じゃない? 俺が?」
「おまえも俺も、こいつもこいつも」新谷は全員を順番に指差した。「みーんな、もう男じゃない。女房が女じゃないように、俺たちも男じゃなくなった。亭主とか父親とかオッサンとか、そういうものに変わったんだ。だから女の話なんて、したくてもできないんだ」
 新谷はさほど酔っているようには見えなかったが、胸の内にある何かを吐き出しているようだった。彼は中ジョッキに半分ほど残っていたビールを一気に飲み干した。
「そうか、男じゃないのか」古崎が呟いた。
「男に戻りたければ風俗に行け」新谷がいう。「ただし、女房や会社にばれるなよ」
「俺たちは男に戻るにも、コソコソしなきゃいけねえのか」黒沢が諦めたように吐息をついた。
 店を出た後、誰がいいだしたのかは忘れたけれど、バッティングセンターへ行こうということになった。
 僕たちは二つの打席を確保し、交代で打席に立った。全員、さほど運動神経が悪いわけでもないのに、まともな当たりは殆どなかった。スポーツをする身体じゃなくなっているのだ、と途中で気づいた。
 秋葉の姿を見つけたのは、僕が左側の打席で打っている時だった。二つ隣のバッティングケージの中で、一心不乱にボールをひっぱたいている彼女の姿があった。
 最初は人違いかと思った。しかしちょっと怖い表情でピッチングマシンを睨みつけている顔は、彼女のものに違いなかった。ただし、打つ瞬間のものすごい形相は僕が初めて見るものだった。打ち損じた後、「ええいクソッ」と吐き捨てる声も、それまでに聞いたことのないものだった。
 僕が呆然として眺めていると、彼女のほうも気づいてこちらに顔を向けた。まずは驚きで目を丸くした。それからどぎまぎしたように俯いた後、もう一度僕のほうを見た。そして、今度はにっこりと笑った。僕も笑い返した。
 古崎が僕の様子に気づいて、どうしたんだと尋ねてきた。会社の子がいるんだ、と僕は説明した。
「会社の子って……」古崎は僕の視線を辿り、あっと声を漏らした。「女だ」
 僕は彼女のところへ行った。彼女はタオルで汗を拭きながらケージから出てきた。
「何してんの、こんなところで」
「バッティングですけど」
「それはわかってるけど……」
「知り合いだって?」後ろから声がした。振り返ると、にこにこ顔の新谷が立っていた。古崎や黒沢も一緒だ。
 秋葉は戸惑ったように僕を見た。僕は仕方なく、友人たちを彼女に紹介した。
「女性一人でってのは珍しいですね。ここへはよく来るんですか」新谷が秋葉に訊いた。
「たまに」そう答えてから彼女は僕を見た。「会社ではいわないでくださいね」
「あ……わかった」
 週末の夜に女一人でバッティング──いいふらされて嬉しい内容じゃないかもしれない。
「いいですね、昔のお友達と今でも付き合いがあるなんて」
「まあ、そうかな」
「俺たち、この後カラオケに行くんですけど」新谷が秋葉にいった。「よかったら、一緒にどうですか」
 僕はびっくりして新谷を見た。「だめに決まってるだろ」
「どうして?」
「だって、おやじ四人だぜ」
「だからいいんだよ」新谷は秋葉のほうを向いた。「こいつも含めて、全員妻帯者です。だからあなたをくどいたりする心配はありません」
「彼にいわせると、俺たちはもう男じゃないそうだ」僕は秋葉にいった。
「男じゃない?」
「そう。人畜無害」新谷がいった。「遅くなったら、渡部に送らせます。こいつは特に無害だ。しかも無味無臭。いなくなっても誰も気づかない。たぶん生殖能力もない。安パイです」
 秋葉は笑いながら僕たちを眺めた。
「じゃあ、少しだけ」
「いいのかい?」
「お邪魔でなければ」彼女は僕を見ていった。邪魔なわけないけど、と僕は頭を搔く。
 バッティングセンターを出て、僕たちはカラオケボックスに入った。他の三人は浮き浮きした顔をしていた。男だけで歌うのがいかに味気ないかを知った上でカラオケボックスに入り、その虚しさが覚悟していた以上だったと嘆きながら出る、ということを何年も繰り返していたから、秋葉はまさに救いの女神だった。
 ただし女神だからといって、歌が上手いとはかぎらない。そして歌が上手くないからといって、歌うのが嫌いともかぎらない。
 秋葉は次々に曲を選んでいった。僕たちの中の誰かが歌うと次に彼女が歌う。二曲に一曲は彼女の出番だ。彼女はじつに気持ちよさそうに歌う。歌の合間にジンライムを飲む。誰かが歌うと、酒のおかわりを注文する。
 これは断言できることだが、僕たちの誰も彼女に酒を勧めなかったし、彼女の帰宅時間については全員が気を遣っていた。酒は彼女が自分の意思で飲んだわけだし、そろそろお開きにしようかと僕が提案した時、もう三十分もう三十分と延長をいいだしたのも彼女だ。
 カラオケボックスを出る頃には、秋葉はべろんべろんに酔っていた。冗談でなく、本当に送っていかざるをえなくなった。僕は彼女をタクシーに乗せ、高円寺こうえんじに向かった。高円寺に彼女のマンションがあるということを聞き出すのも、じつはかなり大変だった。
 駅のそばでタクシーを降りた。ほうっておくと真っ直ぐに歩けない彼女の身体を支え、彼女が寝言のように呟く道順に従って、時速一キロぐらいのスピードで進んだ。
 不意に彼女がしゃがみこんだ。僕はびっくりして顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
 彼女は俯いたまま、何やらぶつぶついっている。何をいっているんだろうとよく聞いてみて、さらに驚いた。おぶって、といっているのだ。
 冗談じゃねえよと思ったが、彼女は動きそうにない。
 仕方ないと諦め、僕は彼女に背中を向けた。
 彼女は無言で乗っかってきた。推定身長一六五センチぐらいで、わりと細身だが、結構重く感じた。僕はワンゲル部の練習を思い出していた。
 ようやくマンションの前に着いた。むにゃむにゃと何かいっている秋葉を、僕は下ろそうとした。すると今度は唸り始めた。
 どうしたんだ、と訊く暇もなかった。彼女は何の予告もなくゲロを吐いた。僕の左の肩が温かくなった。
「わあ」僕はあわてて上着を脱いだ。紺色のスーツの左肩に、白いものがべっとりとついていた。
 道端に転がっていた秋葉が、のろのろと起きてきた。とろんとした目で僕を見つめ、僕の上着を眺め、自分の口元を触り、もう一度上着を見た。
 あー、というように彼女の口が大きく開いた。声は出なかった。彼女はよたよたと近づいてくると、ひったくるように僕の上着を奪った。それからあちこちに身体をぶつけながらマンションに入っていった。
 僕はしばらくそこに立っていた。上着がなく、ワイシャツの左肩を少し臭わせて、彼女が消えたマンションの入口を見つめていた。
 夜が明けようとしていた。

〈このつづきは製品版でお楽しみください〉

▼『夜明けの街で』詳細はこちら(KADOKAWAオフィシャルページ)
https://www.kadokawa.co.jp/product/201003000150/

「全部読んだか? 東野圭吾」フェアを開催中!

KADOKAWAアプリやTwitter、Instagramで貴重な著者サイン本が当たる!
>>キャンペーン詳細はこちら


紹介した書籍

MAGAZINES

カドブンノベル

最新号
2020年3月号

2月10日 配信

怪と幽

最新号
2020年1月号

12月19日 発売

小説 野性時代

第196号
2020年3月号

2月13日 発売

ランキング

アクセスランキング

新着コンテンツ

TOP