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連載

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」 vol.2

女の生き様をヴィヴィッドに描くいま最注目の著者、新連載! 住み家を失った/失いかけて、切実な状況下の女たちの行く末は!? 王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」#1-2

王谷 晶「食う寝る処にファンダンゴ」

>>前話を読む

 しらかわヨーコは呆然としていた。
「タイチ?」
 六畳一間のアパートの、隣に寝ていたはずの男がいない。
「ダーリーン?」
 もう少し大きい声で呼んでみても、答えはない。トイレに入っている音もしない。充電コードに繫がっているスマホを手繰り寄せてLINEを打つ。しばらくじっと画面を見つめるが、既読はつかない。そのうち尿意を感じてきたので、よっこらしょと立ち上がってゆっくりゆっくりトイレに向かう。玄関に投げ出されている靴のうち、VANSの青いスニーカーが無いのに気付いた。ふーっと息を吐く。なんだか嫌な予感がする。
 パジャマのズボンをよいしょと引きずり下ろし、便座に腰掛ける。せり出したお腹は、もうはっきりと以前とは形を変えている。ヨーコの自慢の腹筋は今や跡形もなく消え去り、皮膚はまるまると伸びている。最近便秘ぎみだ。昔母がやっていたようにお腹を時計回りにでてみたが、もう自分の腸はその位置に無いのに気づき、やめた。
 時間をかけて用を足してまたのろのろと部屋に戻りスマホを見ても、まだ、既読はついていなかった。通話をかけてみる。出ない。一回キャンセルして、もう一度。出ない。もう一度。出ない。嫌な予感がする。
 敷きっぱなしの布団の上であぐらをかきながら、カーテンが半開きになっている窓を見つめた。今日は天気がいい。洗濯しなきゃなあ、と思う。もう時間はお昼に近かった。胸焼けみたいな、何かが喉の奥までせりあがってきているような嫌な感じがここのところずっとしているけれど、お腹はすいていた。何か食べたい。
 またよっこいしょと立ち上がり冷凍庫を開ける。お鍋で煮るだけの冷凍けんちんうどんがあったはず。
「あっ」
 目を見開いた。冷凍庫の真ん中にいつもどーんと置いてあった「しろくま」が無い。タイチが「特別なときのために取って置いてる、絶対に触るな」と言っていたアイスだ。スーパーやコンビニで売っている安いやつではなく、わざわざ物産展で買ってきた「本物のしろくま」らしい。
 慌ててゴミ箱を開けると、空のカップが捨ててあった。
 なんか、特別なこと、あった?
 料理する気がうせて食パンの袋と牛乳だけ取って部屋に戻る。よくよく見回すと、間違い探しのように部屋のあちこちから物が消えている。スカジャン、ノートパソコン、トロフィーと賞状の額、一番大きいボストンバッグ。
 食パンをかじり、牛乳で飲み下しながら、眉間にしわを寄せて考える。どこかに出かけるって言ってたかも? 聞き漏らしてただけかも。でも、トロフィーや賞状がいるお出かけなんてそんなおもしろそうなこと、言われたら絶対覚えてる。あれは宝物で、何度も自慢されたけど、指紋が付くからって触らせてももらえなかった。あんなもの持って、どこに行くつもりなんだろう。
 答えはもう、すぐ目の前に現れているけれど、ヨーコはそれを頑張って無視して食パンを齧りながら自問自答を続けた。もしかして、何かのサプライズの準備かな。そういうのは嫌いだって前にテレビ見ながら言ってたけど、気が変わったのかも。そうじゃなかったら、やっと不動産屋さんに新しい部屋を探しに行ってくれたのかな。六畳に三人はさすがに狭いもんね。あとは仕事の面接かな。もっと給料いい仕事に転職したいって言ってたし。アピールのためにトロフィーと賞状を持ってったのかもしれない。中学生のときの、卓球と書道大会の記録。タイチの一番の自慢。
 部屋の隅に二人で買った名付け辞典が放り出されている。
 ヨーコの頭の中にぽんぽんとポップコーンみたいに「やばい」という気持ちがたくさん湧いて出てくる。やばいんじゃないのかな、これ。考えたくないけど、まさかそんなことが起こるなんて思いたくないけど、絶対にイヤだけど……。
 ぼーっと窓を見つめたまま、ひたすら食パンと牛乳を食べる。胸焼けがひどくなってきたけれど、空腹がおさまらない。早くスマホが鳴ってほしい。LINEでも通話でも、タイチ本人にこの考えが間違ってること証明してほしい。ドアから帰ってきて、また明日から同じように暮らしてほしい。だって今までずっと、二人でベビィが出てくるのを楽しみにしてたんじゃないの。名前考えたり、大きくなったら三人でどこに行こうとか、ずっとそんな話をしてたじゃない。顔はタイチ似だったらいいな、身体はあたしに似て丈夫だといいな、どんなスポーツやらせようかな、タイチみたいに字のきれいな子になるといいな、でも、元気に生まれてくればそれでいいや。正直産むの怖いけど、あたし原付で事故ったときも泣かなかったし、打たれ強いし、きっと大丈夫。元気な家族になろう。お金はないけど元気はあるから、東京でいちばん元気な家族になろう。そうしよう。そうしようって、言ってたじゃん。
 六枚切りの食パンを四枚と牛乳を一本飲み干したら、急にめまいがするほどの眠気が襲ってきて布団の上にゆっくり横になる。最近は、あおけに寝ても横向きに寝ても常に腰が痛い。色んなことを我慢しなくちゃいけないのは分かっていたけど、お酒よりももうタンメンなかもとよりも、うつ伏せ寝をしちゃダメなのが何より辛い。こんなことまで出来なくなるのか、と横になるたび思う。腹筋もできない。ジョギングもできない。今までなーんにも考えずにやれてたことが、何もできない。それでも。それでも、それでも……。
 はっと目を開けると、目の前でスマホが光って震えていた。タイチからだ。
「タイチ!」
 急いで応答をタップすると、なんだかざわざわした音が聞こえてきた。
「タイチ?」
 テレビの音と、食器の音と、よく聞こえないけど知らないおじさんが何か喋ってる声がする。そしてぷつっと通話は切れた。
「おい!」
 叫んで、こっちから掛け直しても応答なし。繰り返してもダメ。そうしていると、ポヨッとLINEが入ってきた。

『さて、まず、確認事項その1。俺がずっと苦しんでたのにヨーコは気付いてたのかなって疑問があります。俺も泣き言とか言わないようにしてたけど、すぐそばにいたんだから俺の変化には気付くはずだよね? 俺はヨーコの俺に対するいたわりとか、優しさとか、そういう言葉を待っていたけど、そういう気遣いは見られませんでした。そこにまずがっかりしてます。ちょっと甘やかしすぎたのかな。俺の部屋に住まわせてる以上、もっとしっかりヨーコを教育すればよかったと後悔しています。このままだと気遣いのできない女としてヨーコは凄く苦労すると思うので。とにかく、勝手に妊娠して勝手にそのまま物事をすすめていくヨーコのワガママな態度に失望しました。このままだとお互いに駄目になると思う。少し距離を置きましょう(涙を流している絵文字)』

「はあ……??」
 すぐには何が書いてあるのか理解できなくて、二度三度繰り返し読んでいるうちに、またポヨッと新しいメッセージが送られてきた。

『確認事項その2。アパートは今月いっぱいで解約しました。今はヨーコにも自立が必要な時だと思う。たとえ女子でも、将来のことをちゃんと考えてほしい。今週中に俺の後輩が荷物を片付けに行くので、ヨーコもちゃんと自分の物は自分で整理しておくように。では。(手を振っている絵文字)』

「はあ~~~~~???????」


 きしユキは呆然としていた。いつものように庭に面した和室でお茶を飲もうとしたら、畳がひどく濡れていたからだ。天井からはぽとりぽとりとしずくが垂れ、劇場の照明のように太陽の光が一本の道を作り濡れた部屋を照らしている。屋根に穴が開いたんだわ、と溜息をつき、手提げのバスケットを持って廊下を移動する。
 朝方がたがたとかったのは、強い雨が降ったせいらしい。近頃は天気までが乱暴で、静かな生活をおびやかしにかかってくる。
 とにかく、この部屋も使えなくなってしまったということ。
 廊下は薄暗く、ところどころ床板が湿気でたわんで波打っている。それをスリッパを履いた足で避けながら歩き、ユキ江はしんちゆうのノブの付いたドアを開けた。この部屋は大丈夫そう。誰に向けるでもなく何度かうなずいて、中に入る。先の和室より小さいが、ステンドグラスのはまった窓が美しい洋室。外の景色が見えないのは少々不満だが、こんな陽気のいい日は窓から入った光が床に美しい模様を描く。ユキ江のために父が特別に注文して作らせたステンドグラスは、大輪のの花が描かれている。戦争中にこれは英国の花ではないかときつもんされたが、これはたんだと言い張って押し通した話は父のお気に入りのじまん話だった。薔薇はいっとう上等な女にしか似合わないんだ。ユキ江は薔薇の似合う女におなり。父の優しい声が頭の中にこだまする。
 部屋の真中には美しい猫脚のソファと八角形のテーブルがある。その上にバスケットを置くと、ふわっと埃が舞い上がった。気にせず中からティーカップとソーサーとティーポットを取り出す。全て黄色い薔薇の絵が描かれた陶磁器で、一番のお気に入り。
 ソーサーの上にカップを置き、ポットの中身を注ぐ。それは透明なだった。紅茶をもう何日も切らしているのだ。通いのお手伝いがここ何日か姿を見せないので、買い物もままならない。食事は台所の水屋にビスケットなどがあるので間に合っているが、紅茶のない生活はひどく味気ない。
 たまには買い物に出掛けてみようかしら。白湯をひとくち飲む。こんなにお天気がいいんですもの。たまには日に当たらないと。
 ふと顔を上げると、壁の一角、ぞう色の壁紙が貼られた部分が黒ずんでいた。かびだ。ユキ江の顔が曇る。この部屋まで使えなくなってしまったら、どこでお茶を飲めばいいの。昔は出入りの大工さんが半年にいっぺん家中を点検して直していってくれたのに、いつからか誰も屋根や廊下を手入れしてくれなくなってしまった。嵐の日に枝がぶつかってヒビが入った窓も、立て付けの悪いお風呂場の戸も、誰も直してくれない。通いのお手伝いは若いのに無愛想で不親切で、いろいろと用を言いつけても「それは私の仕事じゃありません」とかなんとか言ってちっとも取り合ってくれない。昔はこんなことは無かった。この家で働くお手伝いさんは皆きちんとした紹介状を持った器量のいい娘たちばかりで、雇い主にぶっきらぼうに口答えするなんてとんでもないことだった。
 時代が変わったんだわ。でも、変えちゃいけないこともあるんじゃないかしら。
 一杯の白湯を飲み終わると、真っ白いはずのカップの底に砂粒のような濡れた埃が張り付いていた。ユキ江はまぶたをぱちぱちとさせて、それを見なかったことにし、カップを仕舞ってまた元の廊下をゆっくり引き返していく。
 まずは紅茶を買いましょ。それから、お昼は久しぶりにおうどんなんか食べてみようかしら。さんの鍋焼きおうどん。
 寝室に入り、鏡台に掛けてあるレースを上げ、化粧を始める。引き出しを開けると埃と、かすかに黴くささの混じった白粉おしろいの匂いが立ち上る。まゆずみで細く長く眉を描き、白粉をはたき、赤い口紅を塗る。
 たんの中からゴブラン織りの、黄土色に緑の薔薇を織り込んだコートを出して羽織る。薄紫のフェルトの帽子を被り、革の手提げかばんを持って、ユキ江は出かける準備を終えた。
 玄関から外に出ると、うつそうと生い茂った庭木がこけだらけの石畳の上を覆っている。あちこちに折れた枝や落ち葉が散らかり、花木の何本かは枯れていた。
 まあ、いつの間にここもこんなに汚らしくなってしまっていたのかしら。庭師を呼ばないと。でもどこにどうやってことづてればいいのかしら。お手伝いは言うことを聞いてくれないし、本当に困るわ。世の中便利になったというけれど、私の周りは不便なことばかり。ただ静かに美しく暮らしたいだけのことが、どうしてこう難しいのかしら……。
 溜息をきながら、ユキ江は門戸までの道を歩く。雨に濡れた石畳は滑りそうで恐ろしかった。ここは一日でも早く掃除をしてもらわなきゃ。
 そうしてやっとの思いで門を開けると、突然、目の前に思いもよらないものが現れた。
「……あなた、どなた?」
 ユキ江がそう言うと、見ず知らずの薄汚れた若い女が、地面にうずくまったまま、呆然とした顔をこちらに向けた。

▶#2-1へつづく
◎第 1 回全文は「カドブンノベル」2020年1月号でお楽しみいただけます!


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