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連載

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」 vol.10

【連載コラム】『日本のヤバい女の子』著者による、思考実験エッセイ はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」#10

はらだ有彩「ダメじゃないんじゃないんじゃない」

第十回〈フェミニスト(というか人類)が脱毛するのは、あるいは脱毛しないのはダメじゃないんじゃない〉



 夏である。
 この記事を読んでいただく頃にはもう九月に入っていることと思うが、たった今、私の耳には近所の子供が庭先にプールを出してもらって遊ぶ歓声が聞こえている。すごくうらやましい。
 大手を振ってウォーターレジャー(というかレジャー全般)にアクセスしづらいこのご時世、子供用プールは体格的に少々小さく、そもそも設置する庭も持っていない私は夏らしいことを全くしていない。それでも電車に乗ると、例年通り春先から掲げられ始めた脱毛サロンの広告が、海やプールへはつらつと誘う。水着を着た若い女性の写真に「つるつる肌で夏を楽しもう」という旨のコピーが躍るポスターには平和なバカンスが満ちている。

 サロン脱毛やクリニック脱毛と呼ばれる「脱毛」は、皮膚の下に埋まっている毛根に向けてメラニンに反応する光やレーザーを照射することで、毛の発育を妨げる仕組みだ。
 基本的に複数回にわたって処置を受ける必要があり、さらに光やレーザーは1回照射すると1か月以上期間をあけなければいけないと決まっているケースが多いため、「つるつる肌で夏を楽しもう」ポスターが出回る4月頃から夏本番の7月、8月のいつ脱毛を始めても、その年の夏を「つるつる肌で楽しむ」ことはできない。むしろ施術前後24時間は強い紫外線を浴びないよう注意されがちなので、直近のレジャーとは確実に共生できない。
 乾燥こそすれ肌への物理的刺激が少ない冬の方が脱毛に適していそうなものだが、ポスターは「この夏を姿がゆさを未来の夏に対するモチベーションに昇華させよう」と提案してくる。

 なぜ私が「24時間は紫外線を避ける」などの細かい注意事項を知っているかというと、脱毛の経験があるからだ。数年前に長年患っていたアレルギー性の皮膚炎がやや治まったのでカウンセリングを受けた。痛くも熱くもなく、幸運にも皮膚疾患が悪化することもなく、技術の進歩を感じているうちに2年弱のサロンとの契約期間は無事終わった。
 これは脱毛あるあるだと思うが、施術を終えたからといって体毛が全てなくなるとは限らない。私の場合、膝下は全く無毛、膝上はスタッフのお姉さんが多分一回光を当て忘れた(二人でおしやべりしていたらめちゃくちゃ盛り上がってしまったためだと思われる)せいか右のみ薄く残っていて左はほぼ無毛、腕は肉眼では見えないが近寄って観察すればうっすらと確認できる状態、わきは多少薄くなった程度である。膝上については「どうせ当て忘れるなら左右対称に忘れてほしかった」という気もするが、業務を忘れるほど会話にノッてくれたのかと思うと、いっそ有難い。
 アシンメトリーに施術されてしまったことよりも気になったのは、待合室や施術室に所狭しと飾られたポップだ。街中の広告だけでなく、サロン内にまで「目指せ、愛され肌」とか「男的にはチクチクの肌はNG」などの文字があふれているではないか。その多くが「愛され」や「男的には」といった、他者からの視線を内包している。

 先日、ここ数年通っているフランス語教室でオンラインレッスンを受けていると、フランス出身の先生がニヤニヤしながら自分の書いたコラムを教材として送ってきた。先生は日本の文化にまつわる記事を地元ボルドーの大学が運営する文化人類学のwebサイトにときどき載せている。
 見出しにはものすごく太いフォントで「電車に掲げられた脱毛広告の不思議! 『白金に輝く美術館』はつるつる肌の女性を展示するのか!?」と書かれている。どうやら大手脱毛サロン「ミュゼプラチナム」について書かれているらしい。Muséeはフランス語で美術館。美術館は展示物を見せるための場所。というわけで、白金の美術館という名を冠する脱毛サロンは、どこから「見られ」てもOKな「展示物」としての女性を「見せる」ための施設か!?というわけである。
 突然名指しされた株式会社ミュゼプラチナムさんを思うと心苦しいが、要するに「脱毛、『他者からの視線』を内包しすぎじゃね?」という話であることは私の語学力でもすぐ理解できた。身に覚えがありすぎるからだ。

 以前、登壇したトークイベントでこんな質問を投げかけられたことがある。
 ──フェミニストでいたいのに、脱毛もしたい。この相反する気持ちにどう折り合いをつけるのがよいでしょうか?

 フェミニストである自分と、脱毛をする自分の折り合いがつかない。この葛藤が成立するためには、「フェミニスト=脱毛しない存在」という共通認識が必要となる。
 フェミニストと脱・脱毛は、近年ますます深く結びついている。「社会の規定する美しさは脇へ置いておいて、のびのびと振る舞った結果としての自分の身体からだを大切にしよう」というボディポジティブの考え方は日々広まりつつある。その中でも体毛を処理せず、腋毛などを自然に伸びた長さでキープし、時にはカラーリングしてファッションの一部にするというアクションはSNSでも一際注目を浴びている。

 体毛処理なんて好きにすればよろしい、誰も強制していない、という人もいるだろう。だが、残念ながら個人が「自身も強制に加担しているかも……」と責任を感じずに済む程度には、強制のムードは日常に浸透している。
 体毛について考えるとき、私はいつもガストンのテーマソングを思い出す。ガストンとはディズニーのアニメーション映画『美女と野獣』(1991年)に登場する悪役だ。主人公ベルに思いを寄せつつも、マッチョイズムを具現化したようなキャラクターのせいで彼女に振られ続けている。劇中でガストンが歌う彼のテーマソングには、胸毛を自慢する一節がある。ガストンによると胸毛は「男らしい」セックスアピールだ。体毛は男らしさの象徴。体毛は男性だけのもの。転じて、自分にはない「無毛」の肌に男性は性的魅力を感じる。「女性らしさ」と無毛は切り離せない……という見えない図式がガストンの曲からはうかがえる。
 人類全員がガストンなわけはないが、いまだ日常生活レベルでは、女性は毛を処理するもの、生えていたことさえ気づかせないよう心がけるべきだという風潮があるのは事実だ。
 2017年にスウェーデン出身のモデル、アルヴィダ・バイストロム氏が、足の毛を生やした状態でアディダス社のスニーカーの広告に登場した。この広告には激しい拒否反応が示され、ぼう中傷が多く寄せられた。
 この出来事ひとつとっても「(女性が)体毛を生やして人前に出ることは全く問題ではない」と言い続けることは未だに必要であり、そのメッセージを打ち出すためには「体毛を生やした状態でのびのびと暮らす様子を発信する」アクションは有効だと分かる。

 ……ということは、やはりフェミニストは脱毛しない方がいいのだろうか。フェミニストは全員毛を生やして生きるべきなのだろうか。この葛藤が成立するためには、「フェミニストとは何か」という仮説を共有しなければならない。

 もしも今「フェミニストなんですけど、脱毛しない方がいいかな?」と聞かれたら、私は「いいえ」と答えるだろう。なぜならフェミニストとは

 全人類の中からランダムに人間を一人チョイスしたとき、その人がどんな性別であろうと(もちろん「女性」だった場合も)、その前後にチョイスした人間に比べて選択肢が何も欠けていない状態を実現させようとする人

 だからである。このフェミニスト像を毛の例文に当てはめると

 全人類の中からランダムに人間を一人チョイスしたとき、その人の身体のどこにどれくらいの体毛が生えていようといまいと、その前後にチョイスした人間と同じように否定も肯定もされない状態を実現させようとする人

 となる。つまり、女性(だろうが男性だろうが、女性でも男性でもなかろう)が、身体のどこに毛が生えていようが生えていまいが、誰にも何も言われない状態を実現させようとする人がフェミニストだ。だから自身の毛をどう扱っていようと矛盾することはないのだ。



 というか以前から気になっていたのだが、そもそも、毛の話ってものすごくセンシティブではないだろうか。
 毛がフワフワと揺れる存在だからか、それとも毛に神経や痛覚がないからなのか、毛のこととなると我々は、身体本体に対してはどうにかこうにか持てるようになってきた「気軽に言及すると流石さすがにヤバい」という感覚を簡単に忘れてしまう。
 しかしいくら毛が風になびこうが、日差しに透けようが、血が通ってなかろうが、根本ではガッツリ皮膚と、身体と、つながっている。そんな込み入ったものに対して他人が口出しするなんて正気の沙汰ではない。「毛を処理しろ」「口ひげをれ」などというのは完全に出すぎたなのである。
 どうしてもマナーとして何か打ち出したいなら、せいぜいが「毛には汗が付着しやすいので、できればこまめに拭き取りましょう」「口ひげにはスープが付着しやすいので、できればこまめにぬぐいましょう」などの衛生的観点からのアドバイスくらいだろう(それにしたって拭きすぎると皮膚の調子が悪くなるという人がいれば要相談案件だ)。毛は身体なのだから。

 そんな超絶センシティブな「毛」について口を出してもOKだと思っちゃう一番の大義名分に「『汚い』ものを見たくない」という主張があることは、私だって予測済みだ。「わざわざ見せるな」「処理しなくてもからさまの視界に入れるな」というコメントは、ボディポジティブのシーンでは聞き飽きるほど溢れている。
 しかし申し訳ないが、この「(誰かの身体を)見たくない」という主張は受け入れてはいけないものである。
 視界はみんなで相互的に共有しているものだ。多くの場合、誰もが誰かを視界に入れ、誰もが誰かの視界の中で生きている。一人暮らしの部屋の中に見たくないほど「汚い」ものがあるなら好きに片付ければいいが、自分の部屋でもなければ、自分の持ち物でもない、それどころかインテリアでも壁紙でもなく自分と同じ人間としての「生きて街をうろうろしている身体」を一方の主張で排除することは不可能だ。
 反射的にどう感じようともちろん自由だが、誰かの「生きて街をうろうろしている身体」をコントロールすることは絶対にかなわない。
 生きている身体は、生きているからだ。

 ダジャレを言っている場合ではない。フェミニストの話に戻ろう。

 生きている身体を持ち、その身体で今を生きている我々は、生きているだけで少なからず「世の中」の影響を受ける。現在、世の中はどうひい目に見ても未だに「女性に毛が生えていたら割とギャーギャー言われる」状態である。
 私は自分が脱毛した理由を「腋などにまる体臭を軽減するため」だと思っているが、実は気づかないうちに「やっぱり女性は毛を処理しなくちゃ……」と思わされているのかもしれない。腋毛をカラフルに染めて街を歩いてみたいけど、その姿で会社に行けば何と言われるか大体想像がついてどうしてもできないという人もいるだろう。個人の好みと恐怖心が半々の人もいるだろう。「ギャーギャー言われない」ために少なくない金をかけて処理をせざるを得ない人もたくさんいるだろう。毛を処理する自由は、(処理したいと自発的に思っているつもりでも、思わされているのかもしれないな)というぐらつきとともに、それでも処理しない自由と完全に同じだけ存在している。

 ここで慎重にならなければならないのは、【毛を処理する自由が、毛を処理しない自由の足を引っ張っている】というような構図にまんまとハマらないことだ。
 さっきも書いたが、フェミニストが目指しているのは毛を処理していようといまいと「ギャーギャー言われない」状態だ。女性(だろうが男性だろうが、女性でも男性でもなかろうが、身体のどこに毛が生えていようが生えていまい)が誰にも何も言われない状態だ。
 もちろん毛を生やして街を歩く人数が増えれば増えるほど、現状の不均衡を崩す最短コースに近づくだろう。それは皆分かっている。しかし既に「ギャーギャー言われる」世の中に生まれ終え、少なからず世の中の影響を受けた人が(自分はどうしても体毛を処理せずに外に出られない……)と思ったとしても、「ギャーギャー言われない」世界を目指せていないことにはならない。フェミニストなのに毛を処理してもいいのかな、なんて悩まなくていい世の中を目指すのがフェミニズムだからだ。そして毛を生やす以外にも、そんな世の中を目指すためにできる選択は無数にある。

 ここまで書いていて、ひじが痛くなってきた。最近、なんとなく摩擦されているような、押しつぶされているような違和感がある。PCに向かうときにデスクに肘をつく癖があるのだが、家にいる時間が長くなったせいで、肘をつく時間も長くなったからだろう。
 痛いな~、クッションでも設置しようかな~、と思いながらふと見ると、すっかり薄くなったはずの腕毛の一部が復活しているではないか。それも、まさにデスクの縁に当たる箇所だけ。他の部分は全く変わらないのに、人体の底力を感じる。

 夏である。部屋に西日が差し込み、だらだらと汗が流れる。
 さっきも書いたように体臭を軽減することが脱毛の第一目的だったので、私はまだ残っている腋の毛を将来的にもっと薄くしたいと考えている。たぶんもう一度サロンに行けば、私の膝上をアシンメトリーにしたお姉さんが出迎えてくれて、決まった数の範囲で自由に部位を選べるスタンダードな脱毛のコースを勧めてくれるだろう。
 何箇所選んでも料金は同じだが、肘周辺の毛は残しておこうかな……と思っている。腋は無毛、肘はフサフサが私のベストコンデションかもしれない。

つづく

「カドブンノベル」2020年10月号より


「カドブンノベル」2020年10月号

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