【連載小説】ミステリ界の旗手・青崎有吾が贈る頭脳バトル小説第2弾!「坊主衰弱」#4
青崎有吾「坊主衰弱」

※本記事は連載小説です。
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「よーし、取った!」
五分後、陽気な射守矢の声が店に響いた。だが喜んでいるのは本人ばかりで、周囲には
このターン、射守矢は二連続で〈男〉ペアをそろえ、手札を四枚から八枚に増やした。伏せられた札は残り六枚。捨て場の札は四枚。
旗野の手元には残りの八十二枚があった。
「そろそろ大詰めだね」
旗野は伏せ札同士の間を詰め、六枚を横一列に並べる。
「……ま、もう勝敗は決まったようなものだと思うけど」
「そうですね。たぶんもう詰んでます」
あっけらかんと返す射守矢。自信満々だったのに、勝負を投げてしまったのだろうか。どちらにしろ百人一首に投了はない。
「じゃあ僕の番だね」
旗野は眼鏡をかけ直し、六枚の札にさっと目を走らせた。
左から数えて一枚目に印が二つ。二、三、五枚目には印が一つ打たれていた。つまり、左から順に〈坊主〉〈姫〉〈姫〉〈男〉〈姫〉〈男〉の並び方。内訳は〈姫〉三枚、〈男〉二枚、〈坊主〉一枚。
作れるペアは〈姫〉と〈男〉が一組ずつ。通常の手番とボーナスで最大四枚引けるので、どちらもこのターン内に取りきれる。このうち右端の〈男〉だけは先ほど一度めくられていて、確か
旗野は方針を決めた。
まず〈男〉ペアをそろえる。続くボーナスタイムで〈姫〉ペアをそろえ、捨て場の札もろとも自分のものにする。一枚目以降は幸運を装う必要があるが、この残り枚数なら確率的にも充分ありうるし、違和感は持たれまい。
そして射守矢の最終ターン、残りは〈坊主〉一枚と半端に余った〈姫〉一枚。どう
圧倒的勝利だ。
「あの、すみません」
満を持して札を引こうとしたとき。射守矢の二つ隣のカウンター席に座っていた、ショートヘアの女子が手を上げた。
「瓶コーラ、いただけますか。なんか喉渇いちゃって……」
「……ああ」
かるた部や椚からの注文なら断っていたが、この女子は一応「客」として入ってきた子だ。店主としては断るわけにいかなかった。コーラなら用意も簡単だ。
旗野はカウンターの下に屈み、ドリンククーラーの扉を開け、コーラを一本取り出した。立ち上がり、栓抜きで瓶を開け、グラスと一緒に女子の前に置いた。五秒とかからなかった。「どうも」と言い、女子はコーラを注ぎ始める。伝票を書くのは決着後でいいだろう。どうせあと一分で終わる。
カウンター上に視線を戻す。六枚の萌葱色の伏せ札。旗野は改めて指を伸ばしかけ──異変に気づいた。
札の並びがさっきと違う。
左から一~三枚目に印が一つ、四枚目に二つ。五、六枚目にはなし。〈姫〉〈姫〉〈姫〉〈坊主〉〈男〉〈男〉の順になっている。
旗野ははっとして射守矢を見た。彼女は卒業式みたいに行儀よく座り、旗野からは目をそらしていた。疑念が確信に変わった。
こいつ……札を並べ替えやがったな。
僕がカウンターから目を切った隙に、数枚の場所を入れ替えたのだ。あるいは札をめくり、表の絵柄を確かめすらしたかもしれない。僕をミスらせ、次ターンで逆転できるように。追い詰められた末のイカサマか。なんて
だが、怒りよりも
並べ替えたところで意味なんてないのだ。旗野にはすべての札の位置が見えているのだから。札を覗いたところで無駄なのだ。次のターン、射守矢がめくれる札は二枚しか残らないのだから。
口を手で覆い、笑いをこらえる。不正は指摘せず進めることにした。そもそも気づけた理由をひねり出すのが面倒だ。〝方針〟も最初のままでいい。たまたま同種の札と並び替えてしまったのだろうが、右端の一枚は先ほどと同じく〈男〉だった。ならば結果は変わらない。
「じゃ、引かせてもらうね。確かこれが〈男〉だったはず……」
まず右端、印のついてない一枚を引いた。
予想どおり別の札に変わっている。おや? これは源重之だと思ったけど、おかしいな──わざと驚く素振りをしてから、その一枚隣、印なしの札に手を伸ばす。
「私、こないだ文化祭でカレー屋をやりましてね」唐突に射守矢が話しだした。「生徒から父兄から、おかわりしまくる友達とか文句が多い先輩とか老若男女いろんな人がお店に来まして、大変だったけどでも
「……なに? いまさら泣きついたって無駄だよ」
「そんなつもりじゃないですよ。ただ、旗野さんの人生観に興味があるんです」
「僕は理想の店を作りたいだけさ」
「理想の店」
「そう。上質な空間とそれに見合ったお客が、豊かな時間を過ごせる店」
喫茶店のマスターにふさわしい穏やかな笑みを浮かべたまま、旗野は射守矢に顔を寄せる。彼女だけに聞こえる程度の小声で、
「僕の理想に」
札に指をかけ、
「ガキはいらないんだよ」
くるりとめくった。
〈夜もすがら 物思ふころは 明けやらで
黄緑色の袈裟をつけて、数珠を持った、禿げ頭の人物だった。
「……は?」
旗野は笑顔のまま、しばらくその札を見つめ、
「はああ!?」
〈坊主〉? 〈坊主〉だ。なぜ? 意味がわからなかった。ちゃんと右から二番目をめくったのに。印のついていない札を選んだのに。
「あーあ、やっぱり詰んでましたね」
呆然自失の旗野の代わりに動いたのは射守矢だった。彼の陣から八十二枚の手札をまとめ、めくった〈坊主〉と一緒に捨て場へ送る。天智天皇を裏返し、勝手に自分のターンを始める。
「残り五枚か。どれにしようかなあ、じゃあこれとこれ、と」
先ほど旗野がめくったばかりの天智天皇と、その左隣の印が二つある札がめくられた。源重之。〈男〉だった。
「おっ、ラッキー。〈男〉ペアですね。じゃあボーナスでもう二枚、と」
「〈姫〉のペアです。残りの伏せ札一枚は最後に引いた人がもらっていいルールでしたね? じゃ、これも全部いただいてと」
めくられた〈男〉と〈姫〉計四枚が、残り一枚の余分な〈姫〉が、そして捨て場の八十七枚が。すべての絵札が厳正なルールにのっとって、射守矢の手に移る。もともと彼女が持っていた八枚と合わさり、完全な山札が形成される。
「はい、これでゲーム終了。百対ゼロで──」
射守矢は先ほどのお返しのように身を乗り出し、
「私の勝ち」
ねっとりと、旗野に笑いかけた。
旗野は何も言えなかった。起きたことが理解できず、頰をつねる気力すらなく、エプロンの
その紐を直してやりながら、射守矢はとどめのようにつけ足した。
「最初の取り決めどおり、十人分出禁を解いてもらいますね。一度決めたことは曲げない主義、でしたよね?」
5
あんみつの残りを食べ損ねたことに、お店を出てから気づいた。
かるた部のみなさんとは駅で別れた。学校に戻って少し練習していくという。かるたカフェ今後も行くんですか、と尋ねたら、どうだろねえと笑われた。でも出禁になったから行かないのと自分たちの意志で行かないのとでは、大きな違いがあると思う。
ホームへ続く階段を下りる。私は精神的に、椚先輩は肉体的に疲れてしまっていて、足取りは重かった。真兎の足だけがいつもどおり、浮わついたステップを踏んでいる。
「チーズケーキとコーラだけで千円って高くない? やっぱ私らの人生はサーティワンで充分だね」
「あとマックね。マックのシェイク」
「あ、そうそう椚先輩おつかいありがとうございました。走ってくれたなんてちょっとキュンときちゃいましたよ」
「かるた部のためだ。おまえのためじゃない」
真兎がやったことは、実際にはすごく単純だった。
一言でいえば旗野さんと同じ〝札のすり替え〟だ。
店に戻った椚先輩が真兎に近づき、戦況を尋ねたとき。彼は和菓子の紙袋から〈狸光堂〉の百人一首と深緑のサインペンを取り出し、カウンターの下で真兎に渡した。どちらも新品で、駅前のデパートのシールが貼られていた。
真兎が椚先輩に送った〝おねがい〟は「大至急ゲームに使われているのと同種の百人一首を用意してください。札と似た色のマーカーも」というようなものだったのだろう。旗野さんは〈狸光堂〉の百人一首は「駅前のデパートにも売っている」と言っていた。椚先輩はデパートまで全力疾走し、もうワンセットを買ってきたのだ。
生徒会役員をパシリに使うとは神をも恐れぬ一年生だが、おかげで百枚勝負を申し出た理由や、毎ターン悩んで勝負を長引かせていた理由がわかった。椚先輩が戻る時間を稼ぐためだったのだ。
そうやってもうワンセットの百人一首を手に入れたあと。真兎は膝の上──カウンターを挟んだ旗野さんからは絶対に見えない場所で、着々と作業を進めていった。音を立てないよう包装をはがし、ふたを開け、何やら絵札をより分ける。必要なくなったものは次々隣の椚先輩に渡され、先輩はそれを紙袋の中に隠した。かるた部のみなさんも私も、指示どおり顔には出さなかったが、内心
伏せ札が残り六枚になったとき、真兎の膝にも六枚の絵札が残っていた。
〈姫〉が三枚、〈男〉が二枚、〈坊主〉が一枚。
旗野さんがカウンター上の札を整える間、真兎はサインペンのキャップを抜き、膝上の四枚の側面に点を打った。三枚の〈姫〉札に点を一つ、一枚の〈男〉札に点を二つ。そして鼻の頭をかいた。
合図を受けた私は瓶コーラを注文した。
「鉱田ちゃんもほんとにありがとね。勝てたのはあのコーラのおかげだよ」
「ああ、うん……でもあれ、なんでコーラだったの」
「最初私もコーラ頼んだじゃん? それ用意するとき旗野さん、カウンターの下に一回屈んだじゃん? てことはカウンターの内側に冷蔵庫的なのがあって、コーラはそこに入ってる。コーラを頼めば旗野さんは絶対屈むはずで、屈んだら当然カウンターの上は見えなくなる」
確かに、最初の口論の最中も旗野さんは一度屈んでいた。真兎、カウンターは無視してると思ってたけどちゃんと見てたのか。
「ほかのメニューなら時間かかるから『ゲーム終わったあとで』って言われちゃいそうだけど、コーラなら出して栓抜くだけだから一瞬で用意できるし。鉱田ちゃんに座ってもらったのも冷蔵庫の目の前だったしね」
「なるほど……」
そんなこんなで注文を聞いてしまった旗野さんは、コーラを取り出すために屈み、五秒ほどカウンターの上から視線を離した。
その五秒がすべてをひっくり返した。
旗野さんが屈んだ直後、真兎は六枚の伏せ札を払いのけ、膝上に用意していた六枚を素早くカウンターに広げた。マジシャンみたいに華麗な手際だった。払いのけられた札は椚先輩の膝に落ち、その後やはり紙袋へ隠された。
視線を戻した旗野さんには、それまでと同じ六枚の札が──〈狸光堂〉の萌葱色の伏せ札が見えていたはず。〈姫〉三枚、〈男〉二枚、〈坊主〉一枚という内訳も同じ。並び順の違いには気づいたと思うが、旗野さんは指摘しなかった。彼にはちゃんと印が見えていたからだ。左の一~三枚目には印がひとつ、四枚目には二つ。左から順に〈姫〉〈姫〉〈姫〉〈坊主〉〈男〉〈男〉──だと、彼は思い込んだ。
でも真兎は〈坊主〉じゃなく〈男〉の一枚に点を二つ打っていた。だから札の並びは、実際には〈姫〉〈姫〉〈姫〉〈男〉〈坊主〉〈男〉だった。
イカサマ頼りのマスターは、敵がつけた偽の目印にしたがい、札をめくり──自滅した。
「意趣返しというやつだな」と、椚先輩。「旗野のイカサマは客側と店側の心理的な壁を利用していた。射守矢はそれを逆手に取り、店と客の立場を利用して隙を作った」
「さすが椚先輩、私のことを誰よりもよくわかってますね」
嬉しがる真兎と、表情を失う椚先輩。ホームは電車が行ったばかりで、私たちはのろのろと奥まで進んだ。真兎だけがベンチに座った。
「旗野さんが先に〈男〉をそろえようとしたから勝てたけどさ、〈姫〉ペアから取っちゃうって可能性もあったんじゃない?」
「ないよ。六枚の中で公開済みの札は源重之だけだったし、私がすり替えるときも右端はそのまま〈男〉にしたから。旗野さんは一枚目に必ず右端をめくる。なら先にそろえるのは〈男〉ペアだ」
すべての札が見えているからこそ、相手に怪しまれないよう、一番自然な取り方を選んでしまう。
〈姫〉ペアが最後の六枚の中に残ったこともあるいは真兎の計算どおりだったかもしれない。「十枚ごとに一人」のルールもあり、旗野さんは真兎に大差で勝とうとした。その駄目押しとして残しておいた〈姫〉を、逆に真兎に利用された。
「とっておけ。バイト代だ」
椚先輩が、真兎に和菓子屋の紙袋を渡した。旗野さんにあげそびれた例のやつだ。
「中身なんですかこれ」
「いちご大福」
「めっちゃ好きです」真兎は中を覗き、「百人一首はめっちゃいらないんですけど」
「いい機会だからかるたの練習でもしろ」
先輩は電光掲示板へ視線を流す。次の電車は十分後だった。
「そういえばおまえ、最初競技かるたの勝負を持ちかけていたが。旗野に勝つ自信があったのか」
「あるわけないでしょ。でも旗野さんが勝負に乗るわけなかったので」
「……?」
「あれ先輩気づいてなかったんですか? 旗野さん、かるたエアプですよ」
聞き慣れない言葉だったのか、椚先輩の片眉が上がった。
「エアプレイ勢。実際にはやってなくて知識だけってやつです。かるた部の人たちは全員爪を短く切ってました。競技かるたって相手と頻繁に手がぶつかるから、
……練習不足とはいえ、ど素人の真兎と戦えば勝つことはできるだろう。
でもあのとき、店にはかるた部の部員たちもいた。勝負を
「え、じゃあ真兎が勝負しましょうって言いだしたのは」
「脅しだよ。ああ言えば譲歩してくれるかなって思って。でも別の勝負を持ちかけられるとはさすがにびっくりしたよ。しかもイカサマなんだからさあ、笑っちゃったよね」
あっはは、と実際に笑う真兎。
私は半袖から覗く自分の腕を意味もなくこすった。箱がすり替えられたときから、なんてものじゃない。旗野さんは最初から全部、真兎の手のひらの上だったのだ。百人一首には恋の歌が多いけど、なんとなくそれを想像した。わがままでしたたかな
ふと、おかしなことに気づいた。
真兎本人に尋ねようと思ったが、すでにあれこれ聞いたあとなのでちょっと気が引けた。かわりに先輩に近づく。
「あの、椚先輩……百人一首の絵札って一枚ずつ違いますよね? 書いてある和歌とか名前とかも」
「いまさら何を言ってるんだ」
「いや、その、真兎がすり替えた六枚って、もとの六枚と完全に同じだったっていうか……全部一度も取られてなかった札だと思うんですよ」
「だろうな。旗野からも指摘は入らなかった」
同じワンセットの中から〈姫〉三枚、〈男〉二枚、〈坊主〉一枚を選んですり替えるわけだから、一度出た和歌がかぶる可能性も充分あった。けれど真兎の選んだ六首は、もともと伏せられていた六首とぴたり一致していた。
つまり真兎は、伏せられた六枚の絵柄の種類だけでなく、和歌や歌人名まで正確に知っていたことになる。
「これ、おかしくないですか? 旗野さんの印が見えてたとしても、和歌まで書いてあるわけじゃないし」
「そうだな」
「そうだなって……とにかく変ですよ。だってこんなの、ゲーム中に取られた九十四枚を最初から全部覚えてでもない限り……」
「射守矢は」先輩はゆっくりと言った。「覚えていたんだろう」
それきり彼は、石像みたいに線路をにらみ続けた。私はベンチを振り返り、日陰の中に座る友人を見つめた。腰で結んだカーディガンが隣の椅子にはみ出ている。組まれた脚のつま先だけが傾いた
真兎。
真兎にとっての人生は、ゲームみたいなものだと思っていた。勝負に臨むときの真兎は、私の中では縁日を回る子どもみたいなイメージだった。射的屋さんでおもちゃの銃を構えて、はしゃぎながらお菓子を狙い、コルクの弾を飛ばす子ども。
でも、違うのかもしれない。私の頭に新たな情景が浮かんだ。場所は縁日じゃなく、大昔の外国のどこかだった。頭に
人生はゲームだなんてふざけたこと抜かす奴を信じちゃだめだよ。
真兎にとって人生って何?
昇降口から出たときのあのやりとり。質問のしかたが間違っていたことに、私は気づいた。
「ねえ真兎」
たぶん、こう尋ねるべきだったのだ。
「真兎にとって、ゲームって何?」
真兎はきょとんとした顔を私に向け、ごく自然に答えた。
「ゲームあんまりやんないから、わかんない」
了