現代日本に武士(本物)が!? 英国紳士が居候先で見たのは…… 榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#1-3
榎田ユウリ「武士とジェントルマン」
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2.テルマエ・ロマエとも違う風呂
私は今、立ち尽くしている。
全裸で。
風呂の前で。
それはとても特殊な風呂であり、少なくとも私は初めて見たし、おそらく多くの日本人も見たことがないのではないか。どのように入ればいいのかは教わったが、いざトライとなると
なぜ私がこのような危険と向かい合っているのか。
説明のためには、少し時間を戻す必要がある。
現代の武士ハヤトに連れられた私は、無事イノウ家に到着した。地下鉄の駅から徒歩十分程度、近くには公園もあり、気持ちのよい街である。さらに、
「これは……素晴らしい」
感嘆してしまったのは、イノウ家の屋敷だ。
東京はどこか無機質な集合住宅が目立ち、戸建てがあってもちんまりと機能的な洋風家屋が多いのだが、イノウ家は違っていた。
「
私たちは庭に立ち、ハヤトが説明した。
「以前はすべて和室でしたが、一室だけ洋間に改装いたしました。庭に面したあの部屋がそうです。あるいは、こちらの和室も
「もちろん和室で」
即答した。私は建築物に興味がある……というより、美術史に建築はつきものなのだ。インドでのフィールドワークでは、壮大な石積み寺院や、美麗な
「承知いたしました。では、部屋にご案内いたしまする」
私が使うことになった和室は、
イノウは、漢字で伊能、と書く。
玄関の表札にそうあった。そしてチョウザエモンハヤヒトは長左衛門隼人、だそうだ。『長左衛門』は先祖から受け継いだ名で、『隼人』は両親がつけてくれたそうである。この長い名は武家特有もので、一般的ではないらしい。隼にはFalco peregrinusの意味があることも教えてくれた。
ほかに客間、台所、家族が
与えられた部屋の、
「気に入っていただけたなら、なによりでござりまする。ちょうどこの部屋は、畳替えをしたばかりで」
「タタミガエ?」
「畳は外れるようになっており、交換できるのです。新しい畳は、このように清々しい香りがいたします」
「実に、心が洗われるような香りです。ここで暮らせることを嬉しく思います。今までも、日本の寺院などの資料はいくつか見ましたが、一般家屋についてはほとんど知りませんでした。このような美しい日本家屋が減っているのは残念ですね」
「暮らしやすさや便利さを考えると、致し方ない部分もござりましょう」
「なんでも便利ならいいというわけではないでしょう。時には、不便さの中に
「いかにも。それがしも、同じように思いまする」
隼人は深く頷いた。
清浄な空間に身を置いていると、長旅で
「ハヤト。バスを……オフロを使ってもいいですか?」
シャワーだけでいいのだが、日本のシャワーは必ずバスタブとセットであると聞いていたので、そう聞いてみた。
「風呂……でございますか。承知いたしました。支度をしますので、しばしお待ちいただきたく」
「もちろん。では私は、荷物を整理しています」
バスルームの掃除を忘れていたのかな、などと思いながら返事をした。
伊能家には隼人しか住んでいないそうだから、手が回らない部分もあるだろう。数年前までは祖父母とともに暮らしていたそうだが、続けて亡くなられたとのことだ。両親についてはなにも語らなかったので、私も聞くのは控えた。家族には、それぞれ事情というものがある。
男性の独り身で、日々自炊しているのかと聞くと、週に二日、通いの家政婦が来ているそうだ。食事はその時にまとめて用意されるらしい。今日は本来休みなのだが、私と顔合わせをしておきたいということで、まもなくやってくると言う。通いとはいえ、メイドがいるとは意外だった。私自身、メイドや執事のいる生活から離れてずいぶん久しい。
廊下に置いてあった数個の段ボール箱を、私は新しき我が部屋に運んだ。
畳を踏む感触は本当に気持ちよい。今は靴下をはいているが、
カコッ。
聞こえてきた音に、私は押し入れを
カッコン!
なんの音だろう。庭から聞こえた気がする。
部屋にはそのまま庭に出られる大きな窓があり、木の板を
「なぜをしているのですか?」
と口走ってしまった。「なにをして」と「なぜそんなことを」が交じってしまったのだ。私がそんなミスをしでかすほど、予想外の光景が、庭で繰り広げられていたわけである。
「これは、
「いえ、薪割りは知っています。つまり、その……なぜ今、薪割りをしているのか、という疑問です」
「風呂のためにござります」
隼人はそう答えた。着物の袖が邪魔にならないよう、
「祖父が愛用していた伝統的な日本の風呂は、薪を
隼人は説明のあとで一礼し、カッコーンと薪割りを再開する。
現代的でカジュアルな日本語もいくつか仕入れてきた私だが、ここは『マジで?』が適しているのではないか。
薪を割り、それに火をつけ、水から湯にする……となると、小一時間はかかろう。あるいはもっとなのか? 風呂に入ることがこれほど大変だとは、まったくの予想外である。そうかといって、隼人の額に汗が浮き出ているのを見たら、ここで「もういいです」とはとても言えない。せめて手伝いを、と申し出たのだが、慣れていないと危険なのでと断られてしまった。勿論、美術史講師の私が薪割りに慣れているはずもない。日本に到着早々、爪先を切断するのはごめんだ。
「あっれー。隼人さん、薪割りしてるんだー?」
唐突にそんな声がした。
私が
淡いブルーのパーカーにデニムパンツ、ピンク色のフレームが明るい印象の眼鏡を掛けていて、そう若くはなく、たぶん三十代か四十代……日本人は若く見える場合が多いので、どうしても予想幅が広くなってしまう。両手の
彼女は私を見て、ニコッと笑った。
「ウェルカム、ジェントルマン!」
こちらに歩み寄ってきて、右手を差し出す。私は握手に応じながら「こんにちは」と挨拶をした。
▶#1-4へつづく