現代日本に武士(本物)が!? 英国紳士が居候先で見たのは…… 榎田ユウリ「武士とジェントルマン」#1-5
榎田ユウリ「武士とジェントルマン」
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「普通の風呂とはいささか違うので、説明をいたしまする」
「……確かに、私の知っているバスとは違いますね」
中にはお湯が入っている。それが、下半分は埋まっている。そんな説明で伝わるだろうか。つまり、風呂は円筒形で深さがあり、西洋のバスタブとはまったく違う。半分埋まっているというのは、コンクリかプラスターのようなもので巨大マグを固定してあるわけだ。周囲はタイルで飾られ、マグカップ的風呂
「この中に……入るわけですか?」
「いかにも」
隼人が頷いた。風呂の形状からして、脚を伸ばすことは不可能で、しゃがんで湯に浸かる形だろう。リラックスは難しそうだ。
「これは五右衛門風呂といい、古い日本の風呂にござります。ガスや電気を使わず、外の焚き口に薪をくべて沸かすのです。釜そのものが熱くなり、湯が冷めにくく、身体もよく温まりまする。釜の底はとても熱いので、この板を」
隼人が円形に組まれた木の板を持ちあげた。板と板の間には隙間がある。
「こうしてお湯に浮かべ、板を踏んで入ります」
「……そうしないと足の裏に火傷を?」
「左様」
もう、リラックスどころの話ではない。そこまでして湯に浸かる必要があるのだろうか。日本人の風呂好きは有名だが、度が過ぎていないだろうか。シャワーで充分……いや、だがこの浴室にはシャワーが見当たらなかった。
「さ、湯加減を」
促され、私は恐る恐る湯の中に手を入れた。
「少し熱いのでは」
「ああ、でしたらこちらから水を加えて下さい」
水道の蛇口はちゃんとあった。ここからお湯が出ればいいだけの話なのに……なにかすごく不条理を感じてしまう。すぐそこのキッチンはちゃんとお湯が出るのに、なぜ。
……いや、違う。
私は思い直した。これを不条理と捉えるのは間違いなのだ。
私が今いるのは、現代に
「それでは、入らせてもらいます」
私は宣言した。少しばかりの決心が必要だったが、風呂は風呂だ。溺れるわけでもないし、慣れてしまえばきっと快適なはずだ。
──と、長い説明になったが、かくして私はゴエモンブロの前に、生まれたままの姿で立ち尽くしているわけである。
湯には適量の水を足し、いい湯加減になったと思うのだが、まだ入っていない。さっき、片足だけを例の板……底板、というらしいが、それに乗せてみたのだが、なんだかうまく沈まなかったのだ。
「アンソニー」
小窓の向こうから声がした。
「ぬるくなったら、言ってくだされ。薪を追加いたします」
「はい。……板に、乗りにくいのですが」
「バランスが肝要です。どこかに手をついて、身体を支えたほうがよろしいかと」
なるほど、それはもっともである。と、手をついたわけだが、
「
思わず声が出た。隼人が「あ、釜のフチは熱いゆえ、ご留意なされよ」と教えてくれる。もう少し早く言ってくれると嬉しかった。
手の位置をずらす。
右足で板を踏むこむ。
じわじわと体重を掛けていき、脚が湯の中に沈んでいく。結構深い。まだ右足だけなので、このままでは股が裂けそうだ。私は斜めになった身体を必死に保ち、実に不恰好な姿勢のまま、ようやくもう一方の足も底板の上に乗せることに成功した。あとはそのまま座る姿勢で、身体を湯に浸ければいい。体重で板は自然に沈む。
ざぶ、と少し湯が溢れ、その音に気づいたらしい隼人が「いかがか」と尋ねる。
「はい、入れました。……ふぅ」
ため息が
「熱っ!」
まただ。うっかり気を抜いて寄りかかると、釜の内側が熱いのである。
「なるべく、真ん中にいたほうがよろしゅうござる」
小窓越しに、隼人が言う。
私はじりじりと位置を微調整した。なんと緊張感
「タオルか手ぬぐいをあてれば、寄りかかれまするぞ」
「でもタオルは隣の小部屋なのです」
「それがしが渡しましょうか」
「いえ、大丈夫」
風呂に入りながら会話するというのは、なんとも奇異な感覚である。
私にとって風呂とは非常にプライベートな空間だ。いくら相手に見えていないからといって、真っ裸で会話を楽しめる余裕はない。ならば相手も裸ならいいのかというと、それはもっと苦手である。誰かと話す時には理性が必要だと思うし、服とはつまり理性の表れと捉えているからだ。日本には銭湯というパブリック・バスがあるのは知っているし、その慣習を否定はしないが、私がそこに行くことはないだろう。
薪の崩れる
「…………」
たぶん、まだ隼人は焚き口にいる。そして私の為に火の微調整をしてくれている。
風呂に入りながらの会話は奇妙だが、かといって壁を
「ハヤト。いますか」
ということで、私は会話の続行を試みる。
「はい」
「この風呂の名前ですが。ゴ……ゴエ……」
「五右衛門風呂です」
「なぜそんな名前なのですか」
「五右衛門とは人の名です」
人名が由来、というわけか。つまり、この形式の風呂を発明したのがゴエモンなる日本人なのだろう。狭苦しい気はするが、水の量が少なくてすみ、ならば燃料も少なくていいのだ。そう考えれば、当時のエコロジー意識が……。
「江戸時代の泥棒で、処刑で釜
……発明者ではなかった。
「処刑、ですか」
「大きな釜で茹で殺された、と。そういう処刑法が当時の日本にはあったらしく」
聞かなければよかった。私は釜の中でますます身を縮こまらせる。もはや私のメンタルはリラックスとは一八〇度反対側にある。
「されど、資料によっては、『釜
「あの、ハヤト。もうそこにいなくても大丈夫です」
処刑方法の詳細情報は求めていないので、私は言った。
「左様でござるか」
「はい。そろそろ出ようかなと」
「承知いたした。ではそれがしも、着替えをいたそう」
人の立ち上がる気配がして、やがてその気配も遠ざかる。
私は底板を踏んで慎重に立ち上がり、小窓をそっと開けて外を覗いた。隼人はおらず、その代わりに煤色をした猫と目が合い「にゃあ」と迷惑そうに鳴かれた。
釜茹で風呂、もとい五右衛門風呂は、私を十二分に温めた。
むしろ温めすぎた。はっきり言えば、のぼせた。脱衣所に小さな椅子がなかったら、その場にへたりこむところだ。栄子が「バスローブを置いておくから」と言ってくれていたが、一緒に冷たいレモン水が用意されていて、その瞬間、彼女の存在がほとんど天使のように思えた。
五分……いや、もう少し長く休んでいただろうか。
のぼせがいくらか落ち着くと、私はようやく廊下に出た。着替えは自室なので、バスローブに裸足のままだ。右手のキッチンから水音が聞こえ、栄子が炊事をしているのがわかる。着替えたらもっとレモン水をもらいに行こうと思いながら、そのまま進む。
少しふらついた。
しっかりしろと自分に言い聞かせ、
郷に入れば郷に従え、である。
確かに私は、積極的に希望して日本に来たわけではないのだが、それでも当面この国で暮らす以上、この国の文化に敬意を払い、生活習慣を理解し、受け入れるべきだろう。日本人は繊細だという話も聞くが、
客間をすぎ、廊下を曲がればすぐに私の部屋だ。
曲がったところでまたふらついてしまい、私は壁に手をついた。本当に、あの風呂は温まりすぎる。すると「いかがなされた」と声がした。
私は顔を上げた。廊下の先に隼人が立っている。
彼を見た。
こざっぱりとして、だが心配げな顔の彼を。
身体からほんのりと
「…………え」
「湯あたりされましたか」
「え。あ。少し……いや、でも大丈夫……それよりハヤト、きみも、その……」
彼をまじまじと見つめていると「は、それがしもだいぶ汗をかいたゆえ」と隼人は
「シャワーを浴び申した」
と、答えた。
私の聴覚は確かにそう認識した。
「シャワー……」
「はい」
「シャワー、あるのですか」
「え。ああ、はい」
隼人は頷いた。
「あります」
あるのか。
あるんですか。そうですか。あったんですか。
「なんの趣もない一般的な風呂場のほうに、ついておりまする。それがし、恥ずかしながら簡便さに負け、日常的にはそちらを使っておりますゆえ。しかし、アンソニー殿におかれましては、どうぞ今後も五右衛門風呂で日本の伝統を……」
「いえ」
私は返した。
「同じで。ハヤトと同じで。普通のバスでまったく問題ありません。伝統も大事ですが、現代日本の生活を体験することもまた大切なので」
やたらと早口になった。隼人は黒い目をパシパシと
さらにフッと頰を緩ませると、
「実はそれがしも、毎日薪割りはちときついなと思うておりました」
照れたような顔でほんの少しだけ笑ったのだ。
私が初めて見た、武士の笑顔だった。
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