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連載

真藤順丈「ビヘイビア」 vol.19

彼女を、妊娠していた技能実習生を、死に追いやったのは誰なのか? 直木賞作家・真藤順丈による現代ミステリ!「ビヘイビア」#5-3

真藤順丈「ビヘイビア」

※この記事は、2020年2月10日(月)までの期間限定公開です。

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「ねえ、この世界はひどいところだと思う?」マスカラムが訊くと、
「このセンターは、まあひどすぎるよね」とシトラは答えた。
「東京はいい街だって聞いてきたのに」
「ていうか東京ですらないし、ここ小田原だし」
「噓ばっかりだったよね」
「だけどいい街なんてないよ。どんなに治安が良くて住みやすくても、むかっ腹の立つ連中にさわられたり怒鳴られたりしたらひどいところだし、好きな相手や気の合う友達がいたらどんな荒野でも集落でもユートピアだ」
 彼女と交わした会話の断片、そのひとつひとつがマスカラムのなかで膨張する。それはずっとずっと、になっていた。ガーデンから逃げだすまでの一年数ケ月のあいだには、七十歳のおじいちゃんに求婚されたこともあったし、六十代前半のおどおどしてあぶらぎった男がストーカーになったこともあった。うたた寝をしていた休憩室に入ってきて顔をめられた。失礼します失礼します、とむしゃぶりついてくる男をどうやって追っぱらったのかは憶えていない。あくる日、マスカラムが出勤すると、センターの前でその男が地面にあおむけになり、いびきをかいて寝ていた。かたわらに転がっていた睡眠薬の瓶を見て、自殺を図ったのだとわかった。
 寝覚めが悪くて落ちこんだけれど、そんなときでもシトラは「大したことない、頭のおかしなジジイのご乱心じゃん。勝手に自殺しようが生きながらえようが、あたしたちには一ミリの関係もない」と一顧だにしなかった。
 もちろんシトラにもご執心の利用者やその家族がいた。マスカラムがよく憶えているのは、あか抜けたポロシャツやジャケット、高級ブランドの大きなロゴマークのついたベルトをして、カジュアルな短パンに素足でモカシン靴を履く四十男だ。介添やお迎えで現われてはシトラの働きぶりをいたく気に入って、親しく言葉を交わしていた。
「私の母親は正直、シトラ以外に世話してほしくないなあ」
「あたしより親切な実習生、いっぱいいます」
「それでもきみだね。母はこのところ体調も機嫌もいいし。専属になってもらいたいぐらいだ。困ったことがあったり転職するつもりになったら相談しなさい。うちに専属ヘルパーを雇うお金なんてないんだけどね、ひっひゃははは」
 と、奇妙なノリで話す男だった。親身になるそぶりを見せたかと思えば、あからさまな外国人女性への優越感をのぞかせることもある。だけどシトラはどういうわけか、この男に実際に相談事をもちかけているようだった。
 マスカラムも一度だけ、シトラと一緒に食事をごちそうしてもらった。回転しているほうのお寿司屋だったけど、そのときにシトラはすでにもらっているらしい名刺をマスカラムも受け取った。
 けんもちたか
 黒くてつややかな髪は整髪料ででつけられ、くまなく日焼けした肌にひげをたくわえている。テレビや雑誌でよく見かけるエグザイルをているのはわかったが、ぽっこりとビール腹が突き出ているあたりが詰めがあまいと言うか、かえってとっちゃん坊やめいてうさん臭さをあおっていた。
 マスカラムのストーカーの自殺未遂騒ぎもあったばかりだったし、気をつけな、とみんなが忠告していたし、シトラも「あのおっちゃん、なに考えてるのかわかんないだよ」と警戒しているようでもあったが、それでもうまく誘い水を向けられていたのか、剱持には連絡先を教え、勤務明けにその車で送ってもらったりしていた。
 剱持の母に息子のことを訊くと、瞳の色が薄い目をいっそう曇らせて「あれはそうりようじんろくやぁ」と溜め息をこぼした。大事に育てられすぎた長男、世間知らずのドラ息子といった意味らしい。そんな男とどうして親しくなったのか、とにかく剱持が現われて何事かは確実に変わっていった。

 あるとき、お泊まりサービスでシトラとマスカラムが二人で夜勤に入ることになった。本来なら日本人の介護職員がいなくてはいけない決まりだったが、法令どおりにやっていてはシフトが回っていかない。自分たちしか職場にいないのだから、もはや〈技能実習〉という名目すら顧みられていなかった。
 深夜になってもひっきりなしに呼ばれ、まともに休憩も入れられなかった。トレーニングパンツのポケットに入れたPHSは鳴りっぱなしで、仮眠もとれずに消耗しきったのか、トイレにこもったシトラが出てこなくなった時間帯があった。
 個室で寝てるのかも。ずるいよシトラ、と思うまえに大丈夫だろうかと心配になった。マスカラムは呼ばれるままにトイレへの誘導やリハビリパンツの交換をこなしていき、ついついコールのみに応えて一晩を乗りきればいいと思いこんでしまった。
 そのせいで、コールができない高齢者の変調を見落とした。要介護3のさくらさんという女性利用者が、ベッドで体をよじるようにして横たわり、寝息が聞こえなかった。呼びかけても返事がなかった。
 総白髪の頭がやまんばのように乱れ、瘦せた体をあおむけにすると光沢のない目はまばたきをしていなかった。首筋にふれても脈がなかった。
「あたしのせいだ、ごめん、あたしのせい」
 異常事態が発生したときには、帰宅している介護主任や常勤職員をすぐに呼ぶことになっていた。彼らが来るまでは治療や救命措置は行なわないように通達されていた。
 巡視はシトラに割りふられていて、そのぶん発見が遅れた。トイレから出てきたシトラは、心肺停止状態となった桜井さんに自動体外式除細動器AEDを使おうとした。マスカラムがそれを持ってくるまでにパジャマをはだけさせて心臓マッサージを始めていた。マスカラムはすっかりパニックに陥っていたが、シトラは講習で習ったとおりにひじを伸ばしてしようていに体重をかけ、胸を沈ませるぐらいの強さで連続して胸骨を圧迫した。汗みずくになり、いまにも泣きだしそうな面持ちで、胸骨を圧しつづけた。
 気分が悪くなったのか、かたわらに吐き戻して、それでも無理やりに体勢を持ち直して一分間百二十回のテンポを崩さずに圧しつづけた。それでも、命の火が途絶えた老婆は無反応で、圧迫にただ揺さぶられるにまかせていた。
 彼女の異変にマスカラムが気づいたのは、よりにもよってそんなときだった。
 もしかしてシトラ、妊娠してるの?

#5-4へつづく
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