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連載

東田直樹の絆創膏日記 vol.49

【連載第49回】東田直樹の絆創膏日記「記憶の点を跳び回る」

東田直樹の絆創膏日記

自閉症の僕が 跳びはねる理由』の作家・東田直樹さん。人とは違うこだわりや困難を持ちながら過ごす26歳の日常生活で、気づいたことや感じたことを、初の公開日記で綴ります。思いがけない発想に目からウロコ…!?
>>【連載第48回】東田直樹の絆創膏日記「長袖の不自由」

 毎日は、慌ただしく過ぎていく。予定がない時間というのは、ある意味、贅沢な時間といえよう。
 そんな時間が出来たら何をしたいか、旅行や映画、ライブやゲーム、人によってさまざまだ。一日中ごろごろ寝ていたい人もいるだろう。何をしても許される時間だからだ。
 僕が小学生の頃、時間の過ごし方で、いちばん困っていたのが、休み時間である。
「好きなことをすればいいんだよ、自由にしていい時間なんだから」
 そう言われたが、今やれる僕の好きなことは何だろう……と考えている内に、休み時間は終了した。
 僕がひとりで運動場を走り回ったり、砂に字を書いたりしていると、「友達は、あっちにいるよ」と誘われた。手を引いて連れて行かれることもあったが、みんなの所に行っても、僕は自分が何をすればいいのか、わからなかった。
 僕の目に映るみんなは、楽しそうだった。きらきらと輝いて見えた。
「何がやりたいの?」と聞かれれば、僕の答えは「ブランコ」。頭には、この単語しか思い浮かばなかったのだ。
 休み時間に何をするか、当時の僕には、かなり難しい課題だった。
「自由に」と言われたとたん、不自由さを感じる。
 それは、自由が何かを知らなかったせいではない。自由になっている自分の姿を、うまく想像できなかったからだと思う。
 現在の僕も、他の人がうらやむような自由時間を過ごしているとは言い難い。でも、僕なりに自由を満喫することは出来るようになった。

 現実を直視するのが難しいと、人は思い出に逃げることがある。思い出の中に自分の居場所を探そうとするからだろう。
 美しい思い出に浸るのは、気持ちがいい。
 頭の中の記憶は、年月が経てば経つほど、自分の都合で修正している可能性がある。自分の逃げ場を、よりよい居場所にしたいと思うのは、自然な望みだろう。思い出は大事だ、生きて来た証だから。思い出は、どれだけ美化しても構わない、なぜなら自分のものだから。
 僕の記憶は、点のようだと表現しているが、記憶を振り返っている時、僕はその点の上をぴょんぴょんと跳び回っている。
 誰だって記憶の中の自分は、正義の人でありたい。たとえ悪いことをしたとしても、それなりの理由があったし、失敗さえも、今につながる有益な出来事だったと思いたいのである。
 僕の場合、しみじみと思い出に浸ることは、あまりないような気がする。
「こんなこともあったな……」と考えている内、思い出は、すぐに別の思い出と重なる。すると今度は、別の思い出に跳び移る。
 あちらこちら、いくつかの思い出の場面を見れば、もう十分。僕が思い出に逃げたくても、過去がそれほど居心地のいい場所ではなかったことに気づいたからである。
 自閉症の僕が跳びはねた、空を見上げてジャンプした。
 今いる場所で羽ばたくことが、僕に出来ることなのだ。

「おやっ、おやっ、おやっ」と僕が言ったら、相手には「違うよ、違うよ、違うよ」と言ってほしい。
 これが今、僕が凝っている言葉遊びだ。
 深い意味はない。
 僕はただ、こんな言葉のやりとりで、おしゃべりしたいだけである。
 決まりきったフレーズなんて、会話じゃないと言う人もいるだろう。でも、「こんにちは」と言えば「こんにちは」、「いいお天気ですね」「そうですね」など、ある程度パターンが決まっているとされる会話もある。
 うまく話せないのに、言葉遊びのフレーズは、すぐに僕の口から出て来る。
 言葉遊びは、その場にふさわしい会話ではないだろう。でも、僕がその時誰かとおしゃべりしたいという気持ちは本物だ。
「おやっ、おやっ、おやっ」と言っても、「違うよ、違うよ、違うよ」と言ってもらえなかったり、他の言葉で返事をされると、少し寂しい。僕の思い通りに会話が出来ると大満足だ。心の中の不満が、ひとつ解決した気分になる。
 誰かと言葉を交わす。それは、心が外に向いている証拠である。
 会話とは、言葉のキャッチボールだという。言葉を受け取ってくれる人がいなければ、いつか言葉を投げかけることすらやめてしまうかもしれない。
 自分が望む会話と相手が望む会話、成立させるのは、どちらも難しい。

 食べることが好きだ。僕は、一日三食しっかり食べる。
 温かい食事は、温かくして食べたい。だから、冷めた物は鍋で沸騰させたり、電子レンジで再加熱したりする。僕も同じである。
 どれくらい温まっているかは、食べてみるまでわからない。僕はそれを、よそったお茶碗やお皿から出る湯気で判断している。
 触れてみてもいいが、湯気の方が確実である。目で見てわかるからだ。
 ほかほかの湯気が出ていると嬉しい、幸せな気分になれる。
 どんな料理も出来たてが一番美味しいはずである。湯気は「さあ、どうぞ、食べてね」が伝わるサインなのだ。
 湯気の向こうに家族の笑顔が見られれば最高。
 今日の出来事やニュースについて語り合った後、何でもない話題で盛り上がる。ひとりが大笑いすると、つられて誰かが笑う。どうして笑っているのか、よくわからないくせに、もうひとりも笑う。
 ポーカーフェイスの僕は、その場では笑わないけれど、あとで思い出し、くすくす笑う。
 湯気は「湯気が立つ」とも表現される。
「立つ」この動詞を使うのは、擬人化しているからなのか。
 ゆらゆらと立ち昇る湯気、その姿は優しく美しい。
 家族で食卓を囲む様子は暖かい。


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最新号 2019年9月号

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