たとえば失恋とか病気とか、あるいは人の死などを扱った小説は、自分がそれらと無関係なときならフィクションとして隅々まで味わうことができる。素直に感動することができる。
けれど、いざ自分が当事者になったら──読めなくなる、ということが往々にしてあるものだ。物語がリアルであればあるほど、身につまされて、感情移入しすぎて、現実を突きつけられて、辛い。しばし現実を忘れて楽しむための読書が、逆に自分を現実に縛り付けてしまう。その作品には何の罪もないのだけれど。
介護小説もしかり、である。辛い現実を再認識するために小説を読むなんて、よっぽどの自虐趣味でもなければ楽しめるわけがない。──と、思っていた。
ところが、阿川佐和子『ことことこーこ』を読み始めて、おや? と座り直した。
介護小説である。認知症を発症した母と、娘の二人暮らし。辛くて暗くてヒステリックな展開になるのがお約束のような設定なのに、なぜか気持ちが軽くなるのだ。何だこれ。
読み終わって確信した。これなら、まだまだ介護なんて縁のない人にも、そろそろやばいかなと思っている人にも、今まさに真っ只中の人にも薦められる。いや、薦めたい。
それだけでも、本書はかなり稀有な作品である。
笑って、力を抜いて、人に頼って
40歳を目前にして離婚した香子。実家に戻ってみると、どうも母の様子がおかしい。物忘れが激しすぎるのだ。父は「母さんは呆けた」と断言。友人に勧められてもの忘れ外来を受診したところ、初期のアルツハイマー型認知症と診断される。
香子はそのまま同居を続けて母の様子を見ながら、同時にフードコーディネーターとして働き始めた。新たな仕事と親の介護、両立できるだろうかと思っていた矢先に父が急死。香子は仕事を抱えながら、ひとりで母の介護をしていくことになる。
──ううう、こうまとめると、実に暗い。ところがどっこい、まったく暗くないから驚く。
もちろん、辛い場面や悲しい場面はある。何度言っても忘れてしまい、同じことを繰り返す母との、果ての見えない言い争い。こっちはこんなに頑張ってるのにという、報われない歯がゆさ。仕事をしたいのに、しなくてはならないのに、母の存在が枷になる。何より、以前とすっかり変わった母を目の前で見ていなくてはならない切なさ。読みながら涙が浮かぶ場面もあった。
けれど、そういうリアルな現状を描きつつも、それ「だけ」にしないのが『ことことこーこ』のいいところだ。妙に面白いのである。「眼鏡がないの」「バッグに入れたでしょ!」から始まる会話はどんどん逸れていって、やっと一段落したと思ったところで「眼鏡がないの」と来る。最早漫才の様式美に近い。あははは。
と笑って気がついた。笑ってしまえばいいのだ。渦中にいたらどうしても余裕がなくなる。いっぱいいっぱいになる。けれどその様子を外から見たら、ギャグかって思うくらい面白い状況になっているんだから。当人にとって笑い事ではないのは重々わかるが、それでも笑ってしまえれば、いろんなことが随分楽になるんじゃないか?
どうしても笑えないことはある。本書でいえば、母が外に出て行方がわからなくなった場面などがそれだ。だからこそ、笑えるときには笑っておいた方がいい。
もうひとつ、本書に描かれているのは「力を抜け」ということ。ひとりで考えてひとりで背負い込もうとしなくていい、ということ。介護の先輩である友人の言葉は、これから介護に向き合う読者にはとてもいいアドバイスになるし、福祉のシステムを利用する場面もある。何より「手伝って」「助けて」と言えば手を差し伸べてくれる人は大勢いるということが、本書にはユーモアたっぷり臨場感たっぷりに描かれている。香子が、イライラするときも優しくなれるときもあるという、ごく普通の女性というのにも親しみが湧くし、著者お得意の料理描写は、生活を介護一色にしないことの大事さを教えてくれる。
笑って、力を抜いて、人に頼って。
そんな介護小説だから、『ことことこーこ』は間違っても「辛い現状の再認識」にはならないのだ。むしろ楽になる。とても楽になる。だからこそ、介護未経験者にも真っ最中の人にも薦められるのである。
作家・阿川佐和子が込めた思い
本書で最も切ない場面。それは香子が母の部屋で、ノートに母が書いた文字を見つける場面だ。苦しいのは介護する側だけじゃない、介護される側だって苦しいし辛いんだという、当たり前のことを思い知らされた。
これは著者・阿川佐和子の実体験だという。父を看取り、母の介護を続ける中で考えたことは『看る力 アガワ流介護入門』(文春新書)にまとめられているので、ぜひ併せてお読みいただきたいのだが、そんなエッセイを出しながら、敢えて同テーマの小説を著したのはなぜなのか。
アガワさんの体験談、ではなく、読者が自分の物語として咀嚼できる小説。その強さを、著者が知っているからに他ならない。
インタビュアーや女優などさまざまな顔を持つ阿川佐和子は、多くの小説を世に送り出した作家でもある。今年ドラマ化された『正義のセ』は女性検事を主人公にした元気の出る小説だし、男女三人の同居を描く『スープ・オペラ』は料理描写が秀逸で心温まる作品。その一方で、島清恋愛文学賞を受賞した『婚約のあとで』は女性の心の奥底に踏み込んだ物語──というふうに、これまでも幅広い作品を読者に届けてくれた。
そこに、新たに介護小説が加わったのである。リアルで、悲しくて、楽しくて。読者は、香子と一緒に驚き、イライラし、安心し、反省し、そして喜び、笑うに違いない。泣き笑いてんこもりのドラマの中に込められたアガワ流介護術は、きっとあなたを楽にしてくれる。
これからの人も真っ最中の人も。介護される側になりそうな人も。
全ての人が、もっと楽になれますように──という思いが、この小説には込められているのだから。
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