【特別公開】最凶の化け物の逃避行! 鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#11
佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。
鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。
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儀式のスケールは栄華を誇ったアステカ王国の時代に遠くおよばなかったが、
リベルタは夫に隠れて、アステカの
一年のなかでもっとも暑い五月は、人々が独立記念日のある九月や、クリスマスのある十二月を重んじているように、リベルタにとって何よりも大事な月だった。雨の降らない乾季がようやく終わりに近づくと、
カテマコに暮らしていたリベルタは、六歳になったある日、老いた村長に呼びつけられた。
二人は湖の岸を並んで歩き、少しずつ遅れだした村長はやがて立ち止まり、こう語りだした。「おまえのご先祖様はな、アステカ王国でテスカトリポカ様に仕えた
「テスカトリポカ──」とリベルタはつぶやいた。呪術師にいろんな神々を教わっていたが、それははじめて聞く名前だった。そして自分の本名に似ている、と思った。
「おまえも知っているとおり、黒曜石を磨いて、アステカ人は鏡を作る」と村長は言った。「鏡のことは〈テスカトル〉といった。黒のことを〈トリルティク〉といった。
「〈ポポカ〉でしょ」
「かしこい子だ。テスカトリポカ様の名は、この三つの言葉でできておる。わしは昔、この村に来た
家に帰ったリベルタは、汗まみれで家畜の世話をしている父親のところへ行き、村長に聞かされた話を伝えた。六歳の娘が「テスカトリポカ」と言った瞬間に父親は顔色を変えて、飼料のかごを放りだし、周囲に誰もいないのをたしかめた。父親は娘を納屋の奥へ連れていき、幼い目をじっと見つめて告げた。
「その神様の名を口にするんじゃない」
ささやき声だったが、父親は怒っていた。なぜ怒られるのか、リベルタにはわけがわからなかった。立派なご先祖様を誇りに思うべきだ。神様のことを隠す理由は何もない。
父親は娘の顔を見つめつづけた。やるなと言ったことをやるのが子供だった。父親は言った。「どうしても名を口にするときには、小声で『
ずっとあとになって、成長したリベルタは、父親の気持ちがわかるようになった。父親は怒るというよりも怖れていたのだった。テスカトリポカの名を娘が口にすることで、
そして老いた村長は、何も気まぐれで昔話をしたのではなく、「テスカトリポカ様を敬えば、力が与えられ、おまえの家は貧しさから抜けだせる」と娘をとおして父親に暗に助言を授けたのだった。
だが、リベルタの父親はそんな力を望んではいなかった。あの残酷なアステカの神を古代から目覚めさせるよりは、貧しい暮らしを送ったほうがましだ、と思っていた。
五月になって、リベルタはベラクルスの
飛べない羽で激しく羽ばたき、やかましく鳴きつづける
土器の鉢に載せたコパリに火をつけ、香煙が漂ってくると、いけにえの心臓をその上に重ねた。ブリキのバケツにためた血を心臓と煙に振りかけ、神の名を口にした。神は
コパリが溶け切ってしまう前に、リベルタは黒曜石のナイフを鉢の前に置いて、神の本当の名をささやき、祈りを捧げた。
テスカトリポカ様。
すべてのものが乾く季節が終わり、雨の神トラロック様がふたたび
空をお歩きになられるよう、どうかお取り計らいください。
アステカの末裔に生きる糧をお与えください。
誇り高い死を迎える日をお許しください。
あなたは偉大な
テスカトリポカ様。
麻袋から取りだした
供え物を土に埋めることは、少しも無駄ではなかった。地の底にはミクトランテクートリが暮らしていた。テスカトリポカの力にはおよばないが、さまよう魂が落ちてくる冥界を支配する神だった。
町の教会に通い、
長男のイシドロは父親に溺愛され、雇い主の顔色をうかがう家政婦たちにも甘やかされ、とにかく何でも他人に頼る性格に育っていった。村育ちのリベルタには考えられない境遇だった。貿易会社を継げるような男になれるとは到底思えず、この子はきっと苦労する、と息子の将来を案じてため息ばかりついた。
たしかに怠け者だったが、イシドロは観察眼が鋭く、ときおり皮肉屋になるところがカルロスに似ていた。彼は母親がアステカの神々を慕っていることに気づき、わざと聞こえるように独りごとを言った。「嫌だなあ、僕は地獄行きだ。だって
夫の怒りと世間での風評を警戒するリベルタは、アステカの神話を子供たちにいっさい聞かせなかった。
ある日、二人の娘を連れて
男は四十センチ四方の板に細かな模様を彫っていた。観光客だけではなく、外国の水夫たちも男の巧みな技術に見とれて、まだでき上がってもいないのに、値段の交渉をはじめる者まで現れだした。
「すごいね。あれ何だろう?」と娘は母親に言った。
訊かれたリベルタは、困ったような顔で首を傾げた。「さあ、何だろうね」
心のなかで、リベルタはこう答えていた。
──あの男が彫っているのはトラルテクートリといって、怖ろしい大地の怪物だよ。ベラクルスの港を行き来するどんな商船よりも大きいのさ。
男は神の姿をじつに器用に彫った。リベルタはいつか話してみたい欲求に駆られたが、モクテスマ二世の玉座の装飾を再現した
カルロス・カサソラは順調に事業の利益を上げ、前途には何の
死の予兆は突然にやってきた。大量の銀とターコイズを積んで出港するカサソラ商会の船を見送った帰り道、路地を駆けてきた野良犬に右手を咬まれた。
傷は浅く、カルロスは自分で手当てをしたが、漁師の
野良犬は役所に引き渡され、やがてベラクルス市の保健課からカサソラ商会に連絡があった。「犬は狂犬病を発症しており、
カルロスは病院へ行き、傷口をあらためて洗浄し直してもらった。病原は犬の唾液中にあった。医学の進歩にもかかわらず、狂犬病ウイルスはなおも死の鎌を振るっていた。
神に祈った一ヵ月の潜伏期間がすぎて、カルロスは狂犬病を発症した。風邪に似た高熱、
よだれを垂らして、悪魔に憑かれたようにわめく夫が、防護服を着た看護師たちに引きずられていった。その光景を眺めたリベルタは思った。アステカの神に呪われたんだわ、と。
暦を見ればあきらかだった。カルロスが港で狂犬病の犬に咬まれた日は〈
狂犬病に
幻覚、錯乱、絶えまない喉の渇き、苦しみ抜いたカルロスは、家族に別れを告げることもできずに死んだ。暦を見たリベルタは総毛立った。神の呪い、先祖の怒り。夫が死んだ日は〈
怖ろしい符合はまだあった。それは夫の死んだ週、
王すなわち最高位の〈
母親の懸念どおりの遊び人に育った長男イシドロは、父親が金庫に保管していた遺言にしたがって、カサソラ商会を継いだ。カルロスの部下たちに経営手腕を疑われながら、意気揚々と事務所に出かけ、適当に働き、夜は飲み歩いた。
用事もないのに仕事だと言ってほかの州に出かけ、オアハカ州に遊びに行ったとき、地元の裕福な家に生まれたメスティーソの娘、エストレーヤと出会った。半年後にイシドロはエストレーヤと結婚し、それから五人の子供をもうけた。
みんな男の子だった。
若くして孫を持ったリベルタは五人に愛情を注ぎ、彼らもリベルタに
ベルナルド。
ジョバニ。
バルミロ。
ドゥイリオ。
ウーゴ。
夫を亡くしたのち、リベルタが
「
リベルタは微笑みながら首を横に振り、「
アステカの神々のことは、自分の胸にだけ秘めておくほうがいい。
リベルタがその考えをあらためたのは、末っ子のウーゴが夫と同じ狂犬病の犬に襲われて、苦しみ抜いて死んだせいだった。
末っ子のウーゴだけが、母方の祖父母とまだ会ったことがなかった。ウーゴは母親のエストレーヤに連れられて、オアハカ州へ出かけた。ちょうど七月の〈ゲラゲッツァ〉が、州都オアハカ市で催される時期だった。
〈ゲラゲッツァ〉は各地のインディヘナが集まっておこなう大規模な祭りで、多くの観光客がやってくる。リベルタも知っていたが、たいして興味はなかった。それはキリスト教徒の国になったメキシコでの
彩り豊かな民族衣装を着て踊る女たちを眺めていたウーゴの母親は、走ってきた犬にも、息子の泣き声にも、まったく気づかなかった。通りを満たす歌と太鼓の音だけが聞こえていた。ほかにも咬まれた観光客がいて、人々が騒ぎだしてから、ようやく息子の異変に気づいた。
かわいそうなウーゴが犬に咬まれたのは〈
潜伏期間が経過したのち、祖父と同じように発症したウーゴは、脂汗にまみれ、苦痛と恐怖に目を見開き、水さえ飲めず、声を出せなくなると、口だけを大きく開けて無言で叫びながら、咬まれてから四十四日目の晩に息絶えた。
それは〈
容赦ない神の怒り、暦の突きつけてくる現実を前にして、リベルタは眠れなくなった。孫たちにアステカの神話を伝えなかったことを後悔し、泣きながら神に許しを乞うた。
私自身が誰よりもアステカを裏切っていた、とリベルタは思った。神はその報いを孫にお与えになったのだ。夫が死んだとき、これは警告だと気づくべきだった。テスカトリポカ様に命じられたミクトランテクートリが、冥界の犬を使いに寄こしたのだ、と。
ウーゴの両親イシドロとエストレーヤは、騒音で警察に通報されるほど激しくののしり合い、息子の死を嘆き悲しんでいたが、リベルタはもう涙を流さなかった。
リベルタの目には、アステカの首都テノチティトランの
これを伝えるために冥界から
▶#12へつづく
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