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連載

佐藤 究「テスカトリポカ」 vol.7

【特別公開】化け物たちがカワサキに集結!鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#7

佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。

鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。

>>前話を読む

7 chicöme

 事件発生後に広まったのは「民家に侵入した外国人が日本人を殺して捕まった」という不正確なうわさだった。
 殺人現場から戻ってきた刑事課の車両がたかみなみ署に現れると、報道陣がカメラのレンズをスモークガラスに向けてフラッシュをいた。黒い窓のほかには何も写らず、かりに写ったとしても未成年の顔は公表できなかったが、殺人犯の乗る車両そのものに報道価値ニユースバリユーがあった。
 コシモは手錠とこしなわで拘束されて署内を歩き、浅く切られた首の傷の処置が済むと水を飲まされ、薬物検査用に尿を採取された。それから取調べ室へと連れられていった。制服警官がコシモの腰縄を机の脚に結びつけて、ようやく手錠が外された。
 男女二名の刑事が取調べ室に入ってきて、コシモの向かいに座った。男は刑事課のてらしまのぶひこ警部補で、女は生活安全課の西さいのり巡査だった。葛西巡査は少年犯罪を担当していた。
「本人でまちがいないな」寺嶋警部補が書類をコシモの前に差しだして訊いた。
「ちがうとおもう」書類を見たコシモは首をかしげた。見たことのない漢字があった。
「あなたの名前でしょう」葛西巡査が穏やかに告げた。「戸籍上の本名。コ、セ、キ、わかる?」
 コシモはもう一度書類に目を落とした。

  土方シモ

 葛西巡査が言った。「あなたにいくつかサインをもらうけれど、できればこの名前で書いてね。カタカナじゃなくて」
 コシモは〈土方〉の字であれば読めたし、書くこともできた。だがその下にある漢字は知らなかった。彼はじっと漢字を見つめた。
 これでコシモとよむのか。
 自分の名前に漢字があったことを、彼は取調べ室ではじめて知った。

 小学生のときにランドセルを多摩川に捨てた、それから学校には行っていない──質問する葛西巡査は少しずつ情報を得ながら、やがて彼が自分の年齢について誤認していると気づいた。
「土方君」と葛西巡査は言った。「あなたが生まれたのは二〇〇〇年ではなくて二〇〇二年です。だから年齢も十五歳ではなく十三歳ですよ」
「十三」コシモはうなずいて言った。「十三トレセ
「お父さんの名前を教えてくれますか」
「コウゾウ」
「仕事は知ってる?」
「やくざ。かわさきのぼうりょくだん」
「お母さんは?」
かあさんマドレ」コシモは鼻先を指でかいた。
「ええ」淡々と話す少年の態度に、葛西巡査の顔が険しくなった。
 少年の両親は死亡していた。父親の死因はけいつい骨折およびけいずいだんと推定され、母親は頭部外傷と推定されていた。検視結果を待たなくてはならなかったが、現場の状況から見てどちらも即死だった。
かあさんマドレはルシア」とコシモは言った。「ルシア・セプルベダ、コシモ・イ・ルシア」
「それはどういう意味?」
「コシモとルシアってことだよ」

  Kosimo y Lucía

 コシモは調書を作る葛西巡査にスペイン語のつづりを教えた。
「お母さんの国のことは知ってる?」と葛西巡査が訊いた。
メキシコメヒコ。シナロア、クリアカン。にほんごだと、メキシコ」
「そう、メキシコね」葛西巡査はうなずき、心のなかでため息をついた。「今夜はずっと家にいたの?」
「くらくなって、かえってきた」
「何時ごろだ?」刑事課の寺嶋警部補が会話に加わった。

 二人は、少年が両親を殺害するまでの経過を記録しようとしたが、時刻に関する少年の供述はまるで参考にならなかった。少年は普段からまったく時計を見なかった。アナログ時計の文字盤にいたっては読み取ることさえできなかった。
 刑事たちは話題を少年の両親に戻した。少年は父親についてあまり知らず、母親について訊かれるとこう言った。「かあさんマドレはイエロがすきだった」
 二人の刑事はしばらく考えた。少年は、自分の母親が男好きで、それも黄色い肌に目がなかった、と言っているのだろうか。
「それはアジア人、黄色人種イエローのこと?」と葛西巡査が訊いた。
「ちがうよ。こおりだよ」
「氷?」
「うん。でも、こおりだけど、こおりじゃない」
「アイスか」寺嶋警部補が腕に針を刺すジェスチャーをしてみせた。「お母さんが打ってたやつ」
うん」コシモはスペイン語で言った。
 二人が署内で確認すると、アイスの俗称で知られる覚醒剤メタンフェタミンはラテンアメリカでhielo──イエロと呼ばれていた。
「土方君」と葛西巡査が言った。「きみはイエロをやってない?」
ない」コシモは首を横に振った。

 ノックの音がして取調べ室のドアが開いた。神奈川県警の組織犯罪対策本部に勤務するよしむらたけとき警部が立っていた。
 指定暴力団〈いしざきしんどうかい〉の幹部、土方興三が殺害されたと聞いて、県警本部から高津南署に駆けつけた吉村警部は、警察学校の同期だった寺嶋警部補に声をかけ、二人は廊下に出ていった。
 コシモはパイプ椅子の背もたれに寄りかかり、ぼんやりとした目つきで天井を見上げた。残った葛西巡査は少年を見つめ、彼の未来について考えた。ヤクザの父親、覚醒剤を打つ母親、混血、育児放棄、不登校、そして親殺し。川崎でそんな環境に生まれ育ったこの少年は罪を償うべきだったが、一方的に責められるべきでもない。彼女はこう思うしかなかった。この子には運がなかったのだ。
 吉村警部と寺嶋警部補が取調べ室に戻ってきた。吉村警部はコシモを見下ろして低い声で言った。「腕、見せてみろ」
「どっちの」とコシモは訊いた。
「おまえの親父の首根っこをつかんだ腕だよ」
 ちゅうしゃのあとをさがしてるのか。コシモは考えた。やってないのに。なんでしんじてくれないんだ。
 署で着替えたTシャツの袖から伸びる左腕を、コシモはだらしなく机に載せた。てのひらを上に向け、肘の内側が刑事に見えるようにした。
 吉村警部は注射痕を探しているわけではなかった。たいでキャリアを積んだ刑事の関心は、少年の腕そのものにあった。吉村警部は言った。「ちょっと力入れてみな」
 コシモは無表情で刑事を見た。何を求められているのかさっぱりわからなかった。しかたなく指を折り曲げ、拳を固めた。少年の細長い腕が、みるみるうちに変わっていった。上腕だけでなく、前腕もふくれ上がり、太い血管が浮きだした。
 三人の刑事は目を瞠った。だ。入れ墨も注射痕も自傷痕もない、少年の腕。それにもかかわらず、川崎で押収される拳銃や刃物と同様の迫力があった。少年の腕は取調べ室の机に突然現れた大蛇を思わせた。どうもうさ、暴力の可能性。三人の刑事は思った。言葉を交わすだけでは、この少年の本質は見えてこないのだ。

 吉村警部は喧嘩自慢の暴力団員を数多く逮捕してきた。そのうち本当に強いのは四、五人ほどで、いくつかのタイプに分類できた。しかし目の前にいる少年の印象は、その誰とも異なっていた。実の父親にさえ似ていない。
 殺された土方興三は、横浜市つる区ですごした中学生時代にもうを経験し、川崎市の高校に進学するとアメリカンフットボール部に入部した。ポジションはランニングバック、関東地区で名を知られるレベルの高い選手だった。
 喧嘩の強さでも彼の名は知れ渡っていた。アメフット選手らしくマウスピースをくわえて自分の歯を守り、それでいて相手の歯をへし折るのが趣味だった。喧嘩の相手が見つからないときには、路上で酔ったふりをして自分からぶつかり、平謝りして、因縁をつけられると態度を一変させた。
 当時の吉村は横浜市の高校に通っていたが、一学年下の男の名はときおり耳にしていた。吉村はインターハイ重量級に出場するレベルの柔道部員だった。選手の暴力行為は固く禁じられ、吉村も規律を守っていたが、不良どものばかげた行動を聞いて、仲間と笑い飛ばすのを楽しんでいた。神奈川県内で流れているそうした話は、柔道部の部室にいればいくらでも聞くことができた。なかでも喧嘩で負け知らずとの土方興三の噂は、〈荒くれ者〉という点ではずば抜けており、聞いただけでは十六歳の高校生とは思えないものがあった。
 ──ある日、土方は会員でもないスポーツジムに泥酔して押しかけ、スタッフの制止も聞かずに、補助なしのベンチプレスで百五十キロを挙げた。血管が切れて鼻血が噴きでたが、そのままいびきをかいて眠りこんだ。通報を受けてやってきた警官に叩き起こされ、血まみれでジムから放りだされた──
 この話を聞いた吉村は、「酒の入った状態で補助なしのベンチプレスで百五十キロを挙げる」ことが可能なのか、部室で仲間と意見を交わし合った。釣り逃した魚と同じで、水増しされて伝わっている、という結論に落ち着いたが、たとえ九十キロであっても、酔って挙げるには相当の力が必要だった。
 土方にはつぎのような噂もあった。
 ──七月の夜、アメフットの厳しい練習後、その足で堀之内に出かけてナイジェリア人の客引きと口論になり、喧嘩になった。相手は二メートル近い元ボクサーだった。土方はその男の歯を折っただけではなく、殴ってきた拳をつかんで指の骨を折り、さらに引きちぎろうとした。警官と救急隊員が駆けつけたときには、中指と薬指の関節が外されたナイジェリア人が、ゴムのように伸びてぶらつく指を見つめて悲鳴を上げていた──

 アメフット推薦で大学進学が決まっていた土方は、高校三年の夏に大麻所持で現行犯逮捕され、推薦を取り消された。高校を自主退学した土方はこれまで以上に暴れるようになった。
 吉村が大学を卒業して神奈川県警に就職したころ、土方は指定暴力団の一員となり、川崎市の組事務所に出入りするようになっていた。
 高校時代に顔を合わす機会のなかった二人は、大人になって警官とヤクザという立場でたいした。土方のほうは吉村の名を聞いたこともなかったが、現場で出会った吉村はアドレナリンが湧いてくるのを抑えられなかった。
 土方の噂は本当だった。吉村は土方と組事務所で押し合いになり、向こうが折れて、吉村が手錠をかけた。だが短い押し合いだけでも、土方の底知れない肉体の強さが理解できた。柔道家にもこれほどの奴はそういなかった。しかも向こうは本気ではなかった。じゃれ合い程度の余裕を見せて、笑みを浮かべていた。彫り物の下にぶ厚く強靱な筋肉が眠っていた。応援の警官がいない場所であれば、会いたくない相手だった。そのときは拳銃で撃つしかない。
 土方の凶暴さと腕力は組員のあいだでも有名で、警官相手のをのぞけば、喧嘩で誰かに負けたことがなかった。
 その男があっけなく死んだ。
 検視に回された死体のサイズは身長百七十六センチ、体重百二キロ。百キロを超える男が片腕で持ち上げられ、天井に頭を叩きつけられ、首の骨を折られていた。県警本部の柔道場で今も汗を流している吉村警部には信じられなかった。あり得ない力だ、と思った。どれほどの握力、腕力、背筋力が必要なのか? 瞬発力もいるだろう。そして相手は土方興三だ。
 たった十三歳の少年がこんな殺しをやったとすれば、怪物と呼ぶほかはなかった。土方に息子がいることは把握していたが、前歴もなく、マークしていなかった。

 まさかこんなせがれが育っていたとは、そう思いながら吉村警部は告げた。「もういい。楽にしろ」
 コシモは腕の力を抜いた。
「立て」と吉村警部は言った。
「念のため手錠ワツパかけ直そう」と寺嶋警部補が言った。
「いや結構」吉村警部は寺嶋警部補の助言を断って、コシモの顔を見すえた。「いいか? 暴れるんじゃねえぞ。立て」
 コシモは不服そうな表情で、パイプ椅子を後ろにずらして耳障りな摩擦音を立てた。腰縄で机の脚につながれたまま、ゆっくりと立ち上がった。百八十八センチの背丈。頭が天井に向かって伸びていき、取調べ室のドアに向けた目線が、正面に立つ吉村警部の頭を超えた。吉村警部は少年を見上げた。
「おれはしけいになる?」とコシモは言った。
 吉村警部は答えなかった。コシモの目を凝視していた。それから言った。「病院で検査があって裁判がある。結果しだいで少年院だな」
 十三歳だから第一種行きか、と吉村警部は思った。矯正教育を受けて数年後に出てくる。だが、
「そうだ」とコシモが訊いた。「バスケットボールできるかな」
 吉村警部はコシモをにらみつけた。「自分のやったことを考えて物を言え」
「わるいのはとうさんパドレだよ」とコシモは言った。「バスケットボールをころした。ともだちだったんだ」
 取調べ室が沈黙に包まれた。三人の刑事は少年を見つめ、十三歳の先に待つ長い日々のことを考えた。

 あいつ、最近見ないよな。
 うん、どこ行ったんだろ。

 相模さがみはら少年院にコシモが入所した二〇一五年八月、夕暮れどきの溝口緑地を通る小学生たちは、いつのまにか〈ゴーレム〉がいなくなっているのに気づいた。
 お気に入りの都市伝説のキャラクターが急に消えてしまったのを、小学生たちは残念がった。おそらく〈ゴーレム〉は下水道に暮らしていて、マンホールから地上に出てきていたはずだった。バスケットボールを木にぶつけているのは、虫や鳥を衝撃で落として食べるためだった。
 姿が消えたのちも〈ゴーレム〉は、しばらく小学生たちの話題に上った。彼を真似てサッカーボールを木の幹に当てる子供もいた。
 しだいに名前が出なくなって、〈多摩川にんでいる四つ目のわに〉の噂が新たに広まると、すっかり忘れ去られた。

#8へつづく
◎全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます!


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