【特別公開】化け物たちがカワサキに集結!鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#7
佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。
鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。
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7 chicöme
事件発生後に広まったのは「民家に侵入した外国人が日本人を殺して捕まった」という不正確な
殺人現場から戻ってきた刑事課の車両が
コシモは手錠と
男女二名の刑事が取調べ室に入ってきて、コシモの向かいに座った。男は刑事課の
「本人でまちがいないな」寺嶋警部補が書類をコシモの前に差しだして訊いた。
「ちがうとおもう」書類を見たコシモは首を
「あなたの名前でしょう」葛西巡査が穏やかに告げた。「戸籍上の本名。コ、セ、キ、わかる?」
コシモはもう一度書類に目を落とした。
土方
葛西巡査が言った。「あなたにいくつかサインをもらうけれど、できればこの名前で書いてね。カタカナじゃなくて」
コシモは〈土方〉の字であれば読めたし、書くこともできた。だがその下にある漢字は知らなかった。彼はじっと漢字を見つめた。
これでコシモとよむのか。
自分の名前に漢字があったことを、彼は取調べ室ではじめて知った。
小学生のときにランドセルを多摩川に捨てた、それから学校には行っていない──質問する葛西巡査は少しずつ情報を得ながら、やがて彼が自分の年齢について誤認していると気づいた。
「土方君」と葛西巡査は言った。「あなたが生まれたのは二〇〇〇年ではなくて二〇〇二年です。だから年齢も十五歳ではなく十三歳ですよ」
「十三」コシモはうなずいて言った。「
「お父さんの名前を教えてくれますか」
「コウゾウ」
「仕事は知ってる?」
「やくざ。かわさきのぼうりょくだん」
「お母さんは?」
「
「ええ」淡々と話す少年の態度に、葛西巡査の顔が険しくなった。
少年の両親は死亡していた。父親の死因は
「
「それはどういう意味?」
「コシモとルシアってことだよ」
Kosimo y Lucía
コシモは調書を作る葛西巡査にスペイン語の
「お母さんの国のことは知ってる?」と葛西巡査が訊いた。
「
「そう、メキシコね」葛西巡査はうなずき、心のなかでため息をついた。「今夜はずっと家にいたの?」
「くらくなって、かえってきた」
「何時ごろだ?」刑事課の寺嶋警部補が会話に加わった。
二人は、少年が両親を殺害するまでの経過を記録しようとしたが、時刻に関する少年の供述はまるで参考にならなかった。少年は普段からまったく時計を見なかった。アナログ時計の文字盤にいたっては読み取ることさえできなかった。
刑事たちは話題を少年の両親に戻した。少年は父親についてあまり知らず、母親について訊かれるとこう言った。「
二人の刑事はしばらく考えた。少年は、自分の母親が男好きで、それも黄色い肌に目がなかった、と言っているのだろうか。
「それはアジア人、
「ちがうよ。こおりだよ」
「氷?」
「うん。でも、こおりだけど、こおりじゃない」
「アイスか」寺嶋警部補が腕に針を刺すジェスチャーをしてみせた。「お母さんが打ってたやつ」
「
二人が署内で確認すると、
「土方君」と葛西巡査が言った。「きみはイエロをやってない?」
「
ノックの音がして取調べ室のドアが開いた。神奈川県警の組織犯罪対策本部に勤務する
指定暴力団〈
コシモはパイプ椅子の背もたれに寄りかかり、ぼんやりとした目つきで天井を見上げた。残った葛西巡査は少年を見つめ、彼の未来について考えた。ヤクザの父親、覚醒剤を打つ母親、混血、育児放棄、不登校、そして親殺し。川崎でそんな環境に生まれ育ったこの少年は罪を償うべきだったが、一方的に責められるべきでもない。彼女はこう思うしかなかった。この子には運がなかったのだ。
吉村警部と寺嶋警部補が取調べ室に戻ってきた。吉村警部はコシモを見下ろして低い声で言った。「腕、見せてみろ」
「どっちの」とコシモは訊いた。
「おまえの親父の首根っこをつかんだ腕だよ」
ちゅうしゃのあとをさがしてるのか。コシモは考えた。やってないのに。なんでしんじてくれないんだ。
署で着替えたTシャツの袖から伸びる左腕を、コシモはだらしなく机に載せた。
吉村警部は注射痕を探しているわけではなかった。
コシモは無表情で刑事を見た。何を求められているのかさっぱりわからなかった。しかたなく指を折り曲げ、拳を固めた。少年の細長い腕が、みるみるうちに変わっていった。上腕だけでなく、前腕もふくれ上がり、太い血管が浮きだした。
三人の刑事は目を瞠った。ただの腕だ。入れ墨も注射痕も自傷痕もない、少年の腕。それにもかかわらず、川崎で押収される拳銃や刃物と同様の迫力があった。少年の腕は取調べ室の机に突然現れた大蛇を思わせた。
吉村警部は喧嘩自慢の暴力団員を数多く逮捕してきた。そのうち本当に強いのは四、五人ほどで、いくつかのタイプに分類できた。しかし目の前にいる少年の印象は、その誰とも異なっていた。実の父親にさえ似ていない。
殺された土方興三は、横浜市
喧嘩の強さでも彼の名は知れ渡っていた。アメフット選手らしくマウスピースをくわえて自分の歯を守り、それでいて相手の歯をへし折るのが趣味だった。喧嘩の相手が見つからないときには、路上で酔ったふりをして自分からぶつかり、平謝りして、因縁をつけられると喜んで態度を一変させた。
当時の吉村は横浜市の高校に通っていたが、一学年下の男の名はときおり耳にしていた。吉村はインターハイ重量級に出場するレベルの柔道部員だった。選手の暴力行為は固く禁じられ、吉村も規律を守っていたが、不良どものばかげた行動を聞いて、仲間と笑い飛ばすのを楽しんでいた。神奈川県内で流れているそうした話は、柔道部の部室にいればいくらでも聞くことができた。なかでも喧嘩で負け知らずとの土方興三の噂は、〈荒くれ者〉という点ではずば抜けており、聞いただけでは十六歳の高校生とは思えないものがあった。
──ある日、土方は会員でもないスポーツジムに泥酔して押しかけ、スタッフの制止も聞かずに、補助なしのベンチプレスで百五十キロを挙げた。血管が切れて鼻血が噴きでたが、そのままいびきをかいて眠りこんだ。通報を受けてやってきた警官に叩き起こされ、血まみれでジムから放りだされた──
この話を聞いた吉村は、「酒の入った状態で補助なしのベンチプレスで百五十キロを挙げる」ことが可能なのか、部室で仲間と意見を交わし合った。釣り逃した魚と同じで、水増しされて伝わっている、という結論に落ち着いたが、たとえ九十キロであっても、酔って挙げるには相当の力が必要だった。
土方にはつぎのような噂もあった。
──七月の夜、アメフットの厳しい練習後、その足で堀之内に出かけてナイジェリア人の客引きと口論になり、喧嘩になった。相手は二メートル近い元ボクサーだった。土方はその男の歯を折っただけではなく、殴ってきた拳をつかんで指の骨を折り、さらに引きちぎろうとした。警官と救急隊員が駆けつけたときには、中指と薬指の関節が外されたナイジェリア人が、ゴムのように伸びてぶらつく指を見つめて悲鳴を上げていた──
アメフット推薦で大学進学が決まっていた土方は、高校三年の夏に大麻所持で現行犯逮捕され、推薦を取り消された。高校を自主退学した土方はこれまで以上に暴れるようになった。
吉村が大学を卒業して神奈川県警に就職したころ、土方は指定暴力団の一員となり、川崎市の組事務所に出入りするようになっていた。
高校時代に顔を合わす機会のなかった二人は、大人になって警官とヤクザという立場で
土方の噂は本当だった。吉村は土方と組事務所で押し合いになり、向こうが折れて、吉村が手錠をかけた。だが短い押し合いだけでも、土方の底知れない肉体の強さが理解できた。柔道家にもこれほどの奴はそういなかった。しかも向こうは本気ではなかった。じゃれ合い程度の余裕を見せて、笑みを浮かべていた。彫り物の下にぶ厚く強靱な筋肉が眠っていた。応援の警官がいない場所であれば、会いたくない相手だった。そのときは拳銃で撃つしかない。
土方の凶暴さと腕力は組員のあいだでも有名で、警官相手のじゃれ合いをのぞけば、喧嘩で誰かに負けたことがなかった。
その男があっけなく死んだ。
検視に回された死体のサイズは身長百七十六センチ、体重百二キロ。百キロを超える男が片腕で持ち上げられ、天井に頭を叩きつけられ、首の骨を折られていた。県警本部の柔道場で今も汗を流している吉村警部には信じられなかった。あり得ない力だ、と思った。どれほどの握力、腕力、背筋力が必要なのか? 瞬発力もいるだろう。そして相手は土方興三だ。
たった十三歳の少年がこんな殺しをやったとすれば、怪物と呼ぶほかはなかった。土方に息子がいることは把握していたが、前歴もなく、マークしていなかった。
まさかこんな
コシモは腕の力を抜いた。
「立て」と吉村警部は言った。
「念のため
「いや結構」吉村警部は寺嶋警部補の助言を断って、コシモの顔を見すえた。「いいか? 暴れるんじゃねえぞ。立て」
コシモは不服そうな表情で、パイプ椅子を後ろにずらして耳障りな摩擦音を立てた。腰縄で机の脚につながれたまま、ゆっくりと立ち上がった。百八十八センチの背丈。頭が天井に向かって伸びていき、取調べ室のドアに向けた目線が、正面に立つ吉村警部の頭を超えた。吉村警部は少年を見上げた。
「おれはしけいになる?」とコシモは言った。
吉村警部は答えなかった。コシモの目を凝視していた。それから言った。「病院で検査があって裁判がある。結果しだいで少年院だな」
十三歳だから第一種行きか、と吉村警部は思った。矯正教育を受けて数年後に出てくる。だが、できるならこいつは外に出さないほうがいい。
「そうだ」とコシモが訊いた。「バスケットボールできるかな」
吉村警部はコシモをにらみつけた。「自分のやったことを考えて物を言え」
「わるいのは
取調べ室が沈黙に包まれた。三人の刑事は少年を見つめ、十三歳の先に待つ長い日々のことを考えた。
あいつ、最近見ないよな。
うん、どこ行ったんだろ。
お気に入りの都市伝説のキャラクターが急に消えてしまったのを、小学生たちは残念がった。おそらく〈ゴーレム〉は下水道に暮らしていて、マンホールから地上に出てきていたはずだった。バスケットボールを木にぶつけているのは、虫や鳥を衝撃で落として食べるためだった。
姿が消えたのちも〈ゴーレム〉は、しばらく小学生たちの話題に上った。彼を真似てサッカーボールを木の幹に当てる子供もいた。
しだいに名前が出なくなって、〈多摩川に
▶#8へつづく
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