【特別公開】化け物たちがカワサキに集結!鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#6
佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。
鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。
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6 chicuacë
溝口緑地は
図書館の利用客をときおり眺めながら、十三歳になったコシモは自己流のドリブルをつづけた。図書館に入ったことはなかった。嫌いな学校に似た雰囲気があったし、本を開いたところで漢字が読めない。絵本や図鑑はおもしろそうだったが、幼児に交ざってまで読みたいとは思わなかった。
やがて図書館の扉が閉ざされ、西の空が赤く染まっていった。まったく音のしない爆弾が町に落とされて、炎が噴き上がったかのようだった。空全体を覆った赤に、いつしか暗い黄色とオレンジ色が混ざり合った。かすかな緑色も見えた。たなびく雲は、怪物の
夕日がさらに沈むと、放たれる赤い光はどす黒い血の色に変わり、宙に浮かぶ雲は、ちぎれた臓物の生々しさを帯びた。残酷な絵画を
家路に就くコシモの頭に浮かぶのは、金物店の二階の部屋でうわごとのようにスペイン語をつぶやく母親の姿だった。母親は全裸で玄関に倒れたり、台所で小便を漏らしたりするようになっていた。そしてときおり悲鳴を上げた。
車の多い府中街道に出ると、コシモはドリブルをやめた。車道にバスケットボールを絶対に出さないほどの自信はなかった。ボールは大切な友だちだった。右手、左手、交互に片手でつかんで歩いていった。
一階の金物店の明かりはまだついていた。店主の大家は包丁研ぎの注文も請け負っていて、暗くなってから近所の飲み屋で働く人間が包丁を持ってくることも多かった。
コシモは引っ越してきた直後に一度だけ、金物店に入ったことがあった。父親の友だちだという店主は、紙巻煙草を吸いながらコシモに、おう、と短く言った。コシモは頭を軽く下げ、棚をざっと見渡して、木彫りに使える彫刻刀がないかと探した。あれば盗みたかったが、調理用の刃物しかなかった。あとは並んでいる安っぽい金色の
バスケットボールを胸の前に抱えこんで、コシモは建物の外階段をのぼり、二階の部屋へ向かった。ドアの鍵は開いていた。悲鳴が聞こえた。コシモがドアを開けると、ひと月ぶりに姿を見る父親が、倒れている母親を蹴っていた。母親は何かを抱いて守っていた。畳に顔を向け、両手を腹の下に隠し、長い黒髪を垂らしていた。父親はかがみこんで、母親の腕をつかんだ。
「痛い」と母親が日本語で叫んだ。「やめて」
「面倒くせえな」と父親が吐き捨てた。「腕ごとぶった切るか」
靴も脱がず、玄関に立って二人を眺めていたコシモは、母親が必死で隠している腕の青黒い注射痕を思いだした。
二人をじっと見ているうちに、コシモは父親の意図を察した。注射のことで腹を立てているのではなく、母親の指輪を奪おうとしていた。母親の左手の薬指に宝石入りの指輪が嵌められていた。
ルシアが指輪を売り飛ばす前に、土方興三は自分で換金する気でいた。
ルシアは泣きわめいた。「あなたがくれたリングなのよ」
それは噓だと土方興三は知っていた。結婚指輪はない。とっくにこいつは売り払っている。
ルシアの薬指で光っているのは、
思いがけないルシアの抵抗に遭った土方興三は、疲れた表情で紙巻煙草を吸いはじめた。灰皿を使わずに吸い殻を下に落とし、畳の繊維に灰の染みが広がっていった。
突然鋭い笛が鳴り、コシモは驚いた。土方興三も同じだった。台所のガスレンジでステンレス製のコーヒーポットが火にかかっていた。真っ白な湯気を吐きだして、コーヒーポットは甲高く叫んだ。
バスケットボールを抱えて玄関に立っている息子に気づいた土方興三は、暗く沈んだ目つきで「火、止めろ」と言った。
コシモは靴を脱いで上がり、栓をひねって火を消した。
「こっち来い」と父親は言った。「この女の腕を押さえてろ」
コシモは聞こえなかったふりをして、そのまま洗面所に行こうとした。息子の肩を父親の太い指がつかんだ。うなだれて振り返ったコシモは父親と向かい合った。
「おい」と父親は言い、あきれた顔で息子を見上げた。「またでかくなったのか。おまえいつも何食ってるんだ。犬の餌でも食ってんのか」
ちいさいな。父親を見下ろしてコシモは思った。ケリー・デュカスとならんだら、こどもみたいだろうな。
目も合わせられないほど恐かった父親は、会うたびにその迫力を失っていった。百七十六センチの父親は決して小柄ではなかったし、手も足も首も太く、胸板も厚かった。だが背丈ならコシモはとうに父親を超えていた。変わったのは父親ではなく、コシモのほうだった。コシモは自分でも気づかないうちに笑っていた。
息子の顔に浮かぶ
全力で叩いたはずの息子は、しかしひるみもせず、その場に立っていた。抱えたバスケットボールすら落とさなかった。そしてまだ笑っていた。父親に残っていたわずかな理性が消し飛ばされ、歓楽街の
それでも息子は倒れるどころか、踏みとどまっていた。仕返しに息子は、バスケットボールを持った長い両腕を叩きつけ、父親を突き飛ばした。
腰から畳に倒れこんだ父親は息が詰まり、声を出せなかった。大きく口を開けてあえぎ、ようやく空気を吸いこむと、のろのろと上体を起こした。頰を腫らした息子を見上げて、しばらく呆然としていた。自分の身に起きたことが信じられなかった。
こいつの腕力は桁ちがいだ。父親は思った。おれの血なのか、それともシャブ中の母親の血なのか。それまで咳きこんでいた父親はすばやく立ち上がると、台所の棚を乱暴に開けた。包丁を探したが一本も見つからなかった。この家に包丁はなかった。錯乱した母親が振りまわすので、コシモが全部捨てていた。枝を彫る小刀や彫刻刀は押入れの奥に隠してあった。
数年前まで肌身離さず持っていた短刀が、父親の
台所の棚の扉を力まかせに蹴り飛ばし、父親は怒りに顔をゆがめて外に出ていった。足早に階段を駆け下りる音を聞きながら、コシモはバスケットボールを見つめた。
コシモの直感したとおり、凶暴な顔つきのまま戻ってきた父親は、金物店から持ちだした包丁を手にしていた。近所の飲み屋が刃研ぎに預けた刃渡り二十センチの
血走った目で父親が牛刀を突きだし、コシモは冷静にあとずさってよけた。でたらめに包丁を振りまわす母親よりも、うごきが予想しやすかった。
父親は完全に理性をなくしていた。息子を刺そうと試みた。
自分の腹に向かって突っこんでくる刃先に、コシモは抱えていたバスケットボールを叩きつけた。深く刺さった牛刀が人工皮革を貫いて、バスケットボールは大きな音とともに破裂した。弾力を失い、死んだように床に落ちた。
コシモは激しい怒りを感じた。死んだボールから父親が牛刀を引き抜いて、なおも襲いかかってきた。二人はもみ合いになった。父親はコシモの首を切りつけた。傷は浅かったが、畳に血が滴り落ちて模様を描いた。コシモは右手で父親の喉をつかむと、
どうしておれのともだちをころしたんだ、とコシモは言った。
父親の頭が天井に叩きつけられ、電灯が割れて、ガラス片がきらめき、明かりが消えた。父親の太い首の内側で、骨の折れる音が響いた。
真っ暗になった畳の部屋で、ルシアがぼんやりと目にしたのは、息子が左腕だけで夫を持ち上げている影だった。夫の爪先はだらしなく垂れ下がり、まるでうごかなかった。
受け止めきれない現実が、常用している麻薬の幻覚と混ざり合い、ルシアに襲いかかった。滝のような汗をかきながら、彼女は作られた現実に入りこんだ。その瞳に映るのは夫と息子ではなかった。フリオ。肩幅が広く、背が高く、みんなに
辺りに漂っているのは、
兄は復讐を果たしたのだから、みんなで
汗に濡れた髪をかき上げて、ルシアは暗がりに目を凝らした。そこで死んでいるのは兄だった。ふたたび絶望の底に突き落とされた。やっぱり兄さんは殺された。彼女は自分の手にある指輪を見た。そうだ、と思った。私は追いかけられて、指輪を奪われるところだった。あいつらには渡せない、お金に換えてこの町を出るの。早くしなくちゃ、早く。
逃げようとして顔を上げると、怖ろしげな大男の背中があった。大男は兄の死体を眺めているようだった。その大男が振り向いた。
身の危険を感じたルシアは、乾いた
畳に落ちた牛刀を拾って襲ってくる母親の姿に驚き、コシモは思わず彼女を殴りつけた。父親と争ったばかりで、手加減できなかった。母親は背後の壁に叩きつけられ、尻もちをついて、それから糸が切れたようにうなだれた。
コシモは言った。
研ぎ終えた牛刀を持ちだされた金物店の店主は、通報するべきかどうか迷っていた。何本も煙草を吸い、二階で聞こえる物音に耳を澄ました。足音に混ざって、何かの破裂音が聞こえた。まさか拳銃じゃねえだろうな。静かになると、店主の頭に怖ろしい光景がひとりでに浮かんできた。
階段を下りてくる足音が聞こえ、店のドアが開いた。家族を殺して返り血を浴びた土方興三が現れると思っていたが、そこにいるのは背の高い混血の息子だった。息子は手ぶらで、Tシャツに血の染みが広がっていた。
「刺されたのか」と店主は訊いた。
「
「親父はどこだ」
「
「何だって」
熱に浮かされたコシモは、自分がスペイン語を話していることに気づかなかった。どうしてわかってくれないのかと思いながら、何度もくり返した。
いくつも重なって鳴り響くサイレンが府中街道を駆け抜け、赤色灯が金物店の入口を明るい血の色に染めた。パトカーを降りた警官たちが二階の部屋のドアを開けたとき、十三歳の少年は壁際に座って、しぼんだバスケットボールを宙に放り上げていた。明かりのない部屋に両親の死体が並んでいた。
「日本語わかるか?」フラッシュライトの強く冷たい光で少年を照らしながら、警官が呼びかけた。
▶#7へつづく
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