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連載

佐藤 究「テスカトリポカ」 vol.8

【連載小説】メキシコ最凶の化け物登場! 三冠作家・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#8

佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は連載小説です。

鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、発売までの毎週、特別公開する。  
第8章より、舞台は再びメキシコへ。最凶たちの最悪な戦争がはじまる。

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8 chicuëyi

 処刑、暗殺、死者──
 橋にるされた首のない男女、しめやかに葬儀のとりおこなわれる墓地でサブマシンガンに撃たれる神父と参列者、現実
 殺人、報復、犠牲──
 燃え上がるスクールバス、泣き叫ぶ親、旋回するヘリコプター、現実、通学路で加速する警察の装甲車。
 悪夢、惨劇、死体──
 爆破されたビル、床に転がった手足、こぼれだした腸、現実、黒煙を背にコカインを積んで走りだすピックアップトラック。
 タマウリパス州ヌエボ・ラレド、メキシコ北東部のは、この国を呪っている現実麻薬戦争ゲーラ・コントラ・ラス・ドローガスのなかでも最悪の一帯となった。絶望が人々を覆い、あらゆる路地で残酷な死の風が吹き荒れた。二つのカルテルが激突し、市街地を地獄に変えていった。

 国境を隔てるアメリカ合衆国、テキサス州西部の都市サン・アントニオに本社を置く『サン・アントニオ・ジャーナル』は、二〇一五年九月十一日の朝刊に、つぎの記事を載せた。

 二年におよんだ最新の麻薬戦争が、最終局面を迎えようとしている。メキシコ北西部シナロア州クリアカンと同様に、北東部タマウリパス州ヌエボ・ラレドも今や無法地帯となった。市民が暮らし、犬が歩き、車が走り、交差点の信号機も明滅しているが、町に潜む危険さは計り知れない。
 わが州と国境を挟んで隣接するヌエボ・ラレドは、黄金の「サーティー・ファイブ」とつながっている。州間高速道路35号線。ミネソタ州までをつなぐこの長大なルートは、メキシコからアメリカに密輸される麻薬の四十パーセントを運んでいる。これが天文学的な金額の利益をドラッグディーラーにもたらす。たとえ北東部の麻薬戦争が終結してもコカインの密輸量は減少しない。変わるのは勢力図であり、独占企業体カルテルの顔である。
 北東部で起きた麻薬戦争を、北西部を支配する勢力は静観している。シナロア州を拠点とする彼らは、メキシコから密輸される麻薬の半分を管理している。ライバル同士のつぶし合いは大歓迎だ。どちらも傷ついてくれれば、自分たちの〈〉を拡大する好機になる。
 かつての北東部の支配者〈ロス・カサソラス〉は劣勢だ。彼らはティラノサウルスのように滅びるだろう。そして〈ドゴ・カルテル〉の時代が到来する。
 コカインの密輸量は変わらない。もう一つ変わらないのは、アメリカ合衆国がその最大のマーケットであるという現実だ。

San Antonio Journal

 ベラクルス出身のカサソラ兄弟がメキシコ北東部に進出し、二十年かけて巨大化させた〈ロス・カサソラス〉、彼らのを急激に台頭してきた新興勢力の〈ドゴ・カルテル〉が侵略し、二〇一三年に戦争は開始された。
 北東部でロス・カサソラスに刃向かう者はひさしく途絶えていた。新たな麻薬戦争はメキシコ当局だけではなく、アメリカの麻薬取締局DEA中央情報局CIAの強い関心をもきつけた。
 ドゴ・カルテルのリーダーは、生粋のメキシコ人ではなかった。その男はアルゼンチン生まれの移民で、率いるカルテルの名はピューマすらみ殺すアルゼンチン産の闘犬、〈ドゴ・アルヘンティーノ〉にちなんでいた。
 象徴シンボロに選ばれた世界最強とうたわれる闘犬と同じように、ドゴ・カルテルの戦闘力はきわめて高く、ロス・カサソラスにひとたび食らいつけば、どんな反撃を受けようが突き立てたきばを離さなかった。
 二つのカルテルは連日のようにヌエボ・ラレドの町で撃ち合い、血を流し合い、アスファルトにやつきようをばらまき、死をまき散らした。

 どこにいようと相手が見つかれば発砲し、市民を巻きこむ。
 五十人以上の麻薬密売人ナルコが市街戦をはじめたときは、半径五十メートルにある建物が穴だらけになり、走行中に窓ガラスと車体の側面を撃ち抜かれたミニバスペセロのなかで、乗客十八人が命を落とした。将来を有望視されていた野球選手が乗るワゴンにも銃弾は当たり、二人が死亡した。所属チームは追悼試合をおこなったが、選手は誰もカルテルを責めなかった。その名を口にできなかった。
 麻薬戦争が激化する一方で、地元の新聞社の言論も封じられた。紙面では犠牲者がいたまれたが、元凶であるカルテルを非難する記事はいっさい掲載されなかった。

Los Casasolas y Cartel del Dogロス・カサソラスとドゴ・カルテル──

 一面トップを連日飾るはずの見だしは、報復の恐怖に屈してまったく印字されることがない。
 アジョセ・ルビアレス、五十五歳、新聞記者。
 トマス・テジェチェア、四十一歳、新聞記者。
 ペルペトゥア・ルシエンテス、三十三歳、ジャーナリスト。
 ビビアノ・フリアス、二十七歳、ライター、ブロガー。
 アンヘル・ガルサ、三十八歳、テレビ局プロデューサー。
 勇気を持って麻薬戦争を非難し、カルテルに脅迫されたのち、無残に処刑された人間をかぞえ上げればきりがなかった。そうした人々の声は地の底に葬られ、町中におびただしい血が流される毎日のうちに、法の秩序とジャーナリズムは死に絶える。

 独自の情報網とゆたかな見識を持ち、ロス・カサソラスと地元警察の癒着を一貫して糾弾してきたベストセラー作家、カシミーロ・サン・マルティンの死は、メディアに重くのしかかり、カルテルの報道を自粛させられる契機となった。
 二十四時間体制で同行していたのボディガードをあっさりと殺され、ロス・カサソラスに拉致されたカシミーロ・サン・マルティンは、五日後に唐辛子チレの加工工場で発見された。死体のあまりのむごたらしさに、麻薬密売人ナルコの残虐さを知る捜査員ですら目を背けたほどだった。
 右腕、左腕、右足、左足、いずれも原形を留めていなかった。検視の結果、七十三歳の作家は生きたまま腕と足をされ、それから硬いハンマーのようなもので砕かれていたことが判明した。死因は失血性ショック死だったが、おそらくその前に恐怖と苦痛で、老作家の心臓は止まったはずだった。。調べようにも心臓がなかった。えぐりだされて、胸に穴が空いていた。

 ロス・カサソラスの麻薬密売人ナルコが、ドゴ・カルテルのメンバーの乗るジープの防弾ガラスを、グレネードランチャーで吹き飛ばす。
 燃え上がり転倒した仲間のジープをよけきれず、後続車がつぎつぎと追突する。ロス・カサソラスの男たちはすかさず銃撃を浴びせ、引き金を引きつづけ、さらにしゆりゆうだんを投げつける。手榴弾を使い切ると、車に近づいて、わずかに息のある者を見つけては車外に引きずりだす。服を剝ぎ取り、ナイフで頸動脈を切りつける。処刑の様子を撮影してインターネットに流すのは日常茶飯事だった。ドゴ・カルテルも同じことをやっている。だがこれほどの激しい戦闘状態にあっては、悠長に撮影している暇もない。敵の増援が着く前に、すばやく殺すだけだ。牛を殺すように、虫を踏みつぶすように、まだ生きている人間をひたすら殺してまわる。究極の暴力、際限ない恐怖、地獄には底がなく、道路は血に染まっていく。
 警察の特殊部隊が到着すると、ロス・カサソラスはしばらく撃ち合うが、基本的にはすぐに撤退する。ライバルに惜しみなく銃弾を贈る彼らも、警察に同じことをやるのは「経費の無駄」だと考えていた。それはカルテルを特徴づける実用主義プラグマテイズムの表れだった。すべてはビジネスだ。
 ヘルメットや防弾ベストなどの装備が充実した特殊部隊とやり合うには何千、何万発もの弾が必要になる。しかし警官個人の出勤時、帰宅時を襲えばたった数発で仕留められる。そのために殺し屋シカリオを放つ。
 指揮を執る者を一人ずつ暗殺し、家族も殺す。三百六十五日つけ狙うことで、カルテルは警官を怖れさせ、戦意を喪失させる。敵対する検事や裁判官も追いつめる。辞職してアメリカ人グリンゴの国へ逃亡する日まで。でなければ、また一つ死体が増える。

 ロス・カサソラスを仕切っている四人の兄弟。
 〈ピラミッドエル・ピラミデ〉──ベルナルド・カサソラ。
 〈ジャガーエル・ハグワル〉──ジョバニ・カサソラ。
 〈エル・ポルボ〉──バルミロ・カサソラ。
 〈エル・デド〉──ドゥイリオ・カサソラ。
 敵対するドゴ・カルテルは、アメリカの麻薬取締局DEAに匹敵する通信傍受システムを構築して、カサソラ兄弟の潜伏先、郊外にある邸宅の座標を割りだし、四人には思いもよらなかった方法で奇襲を加えた。
 米軍が中東でくり返しているドローンを使った空爆は、二〇一五年九月九日の午前四時に実行された。
 暗闇を飛行してきたドローンは大型で、翼の全幅は八メートルあった。カサソラ兄弟の潜伏先に軍用の五百ポンド二百二十七キロ爆弾を投下し、邸宅を吹き飛ばした。一度目の空爆で長男のベルナルド・カサソラ、次男のジョバニ・カサソラが死亡した。あとには燃えている肉片が転がっただけで、埋葬できるような死体は残らなかった。

 眠れずに寝室を出て、ゲートを警備するしようと話しながら紙巻煙草を吸っていた三男のバルミロ・カサソラは、偶然にも一度目の空爆を逃れられた。吹き飛んだ邸宅を振り返り、空対地ミサイルASMを撃ちこまれたのかと思った。敷地を走ってきた部下が上を向いて叫ぶ姿を見る前に、バルミロは空を仰いだ。
 まだ月と星が光っている空を旋回するドローンの影の大きさに、バルミロは海軍省SEMARの特殊部隊に急襲された可能性を考えたが、逮捕を目的とする軍が警告なしに空爆するとは思えない。
 それならドゴの奴らか、とバルミロは思った。
 妻と子供たちが邸宅の地下に身を隠していた。逃走ルートのトンネルは崩落したコンクリートで塞がれてしまい、兄弟の四男、ドゥイリオ・カサソラの判断で、家族は地上に連れだされた。
 バルミロは、頭から血を流して叫んでいる弟の姿を見た。アメリカ製のアサルトライフルAR‐18を抱えていた。ドゥイリオの趣味は、捕まえた敵の指を生きたまま豚に食わせることだった。そのために彼はエル・デドの通称で怖れられていた。
くそ野郎ピンチエ・カブロン」とののしりながら、ドゥイリオが兄弟全員の家族を防弾仕様の車に乗せた。グランド・チェロキーが一台とレンジローバーが三台。ドゥイリオは叫んだ。「行けバモス! 行けバモス!」
「行くな」とバルミロは声を張り上げたが、二度目の空爆が襲いかかってきて地面が揺れ、木々をなぎ倒す爆風が駆け抜けた。火柱が上がり、ドゥイリオの姿が見えなくなった。
 バルミロの妻や子供の乗った車は、間一髪で走りだしていた。それを二機目の大型ドローンが追いかけていた。無人機の追跡は正確で、チェロキーに乗ったロス・カサソラスの男が身を乗りだし、ロシア製の対戦車てきだんで狙いをつけたが、無人機はすでに計算しつくされた座標に爆弾を投下していた。四台の車は宙を舞い、地面をえぐり取る衝撃がすべての命を消し去った。
 バルミロの持つ無線機に「ドゴ・カルテルの車列が接近中です」と連絡が入ってきた。しかし手遅れだった。列をなす車のヘッドライトの光がもう見えはじめていた。
 銃と手榴弾をかき集め、ピックアップトラックのラム1500に乗りこんだバルミロは、背後に迫る銃声を聞きながら、夜明け前の林道を走り抜けた。アクセルペダルを踏み、大型ドローンに搭載されているはずの高解像度カメラについて考えた。
 おれの顔も識別できるのか。おそらくできるだろう。だったら追ってくる。

 潜伏していた邸宅からおよそ二十キロ離れた空き地に逃げ、以前の住人にてられた納屋のなかにピックアップトラックを隠した。車のルーフをさらせばかつこうの標的にされる。家族の死を嘆く暇もなく納屋を出たバルミロは、油断なく草むらにはらいになって、周囲に目をくばりながら、部下のアンドレス・メヒアに無線で連絡を取った。
 やがて現れたアンドレスは、双眼鏡を携帯し、プラスチック爆弾のシーフオーを詰めたバックパックを背負っていた。アンドレスは双眼鏡を上に向けて、白みはじめてきた空を悠々と飛んでいる大型ドローンを観察した。
「軍用無人機ですが──」とアンドレスは言った。「空軍のものではありません。見るかぎり〈ボーイングX‐45〉に似ています」
 メキシコ陸軍除隊後に麻薬密売人ナルコとなったアンドレスは、兵器について豊富な知識を持っていた。アンドレスは双眼鏡をバルミロに手渡し、バルミロはレンズをのぞいた。全幅八メートル、窓のない不気味な灰色の無人機が、ヌエボ・ラレドの上空を旋回している。ドゴ・カルテルの捜索している獲物は明らかだった。
 おれが逃げた映像を奴らははっきりと見ている。
 エル・ポルボ。バルミロは麻薬密売人ナルコや法執行機関の世界だけではなく、世間でもそう呼ばれていた。ロス・カサソラスを指揮する四人兄弟のなかでもっとも凶暴な一人。ドゴ・カルテルは兄弟を三人殺したが、最後の一人をまだ仕留めていなかった。

 大型ドローンの捜索をやりすごしたバルミロとアンドレスは、町の中心へと移動した。そこまでは追ってこないはずだった。ラム1500に乗りこんで走りだし、五分もしないうちに、ドゴ・カルテルの車両部隊に見つかり、激しい銃撃を浴びせられた。ピックアップトラックの防弾ガラスは霜が降りたように真っ白になって弾を防いだが、まもなく砕け散り、撃たれたタイヤが破裂して車は大きくスリップした。
 バルミロとアンドレスは車を飛び降りて反撃した。アンドレスは銃を撃ちながら手榴弾を投げ、だがすぐに右肩を撃たれた。噴きだした血がバルミロの頰にかかった。転倒したアンドレスは這って逃げ、敵の弾がアスファルトを跳ね返って道路標識に当たり、連続して甲高い音を立てた。
 バルミロにアンドレスを救うことはできなかった。落ちていたC‐4の入ったバックパックをつかみ、アンドレスとは逆方向に逃げた。国道に向かって自分の足で走る途中、路肩に停まっているトヨタのトラックを見つけた。唐辛子チレの山を積んだ荷台に、若い農夫がシートをかけ終えたところだった。バルミロは農夫の頭を撃ち抜き、死体を路肩の隅に転がして、彼の帽子ソンブレロを奪ってかぶり、できるだけ顔を隠した。
 運転席に乗りこむと、助手席に農夫の妻が座っていた。バルミロは彼女の額を撃ち、ドアを開けて死体を蹴り落とした。すばやくトラックを降りてシートをめくり、荷台をたしかめた。農夫の息子でも乗っているのではないか。しかし誰もいなかった。荷台には唐辛子チレの山だけがあった。バルミロはふたたび運転席に乗りこんだ。

 セルフサービスのガソリンスタンドに入った。
 敷地の隅にトラックを停めると、自販機でガムを買った。それからバックパックを開け、C‐4の起爆装置の電話番号をたしかめた。起爆装置と一台のスマートフォンが配線でつながっていた。そのスマートフォンにかければ装置は作動する。銃で撃ったり、火を放ったりする程度ではC‐4は爆発しない。起爆装置が不可欠だった。スマートフォンの番号を覚えると、個別包装された粘土状のプラスチック爆弾の一つに起爆装置を挿入し、荷台の唐辛子チレの山のなかに埋めて、ガソリンスタンドを出た。
 トラックを走らせて東へ向かった。目当ての民芸品店が見える路肩で停車し、農夫の帽子ソンブレロをわずかに押し上げて周囲をたしかめながら、アンドレスの無線機に連絡した。
「民芸品店に来い」と言った。「の看板のところだ」
 アンドレスはおそらく撃たれて死んでいるか、拷問を受けて殺されているはずだった。バルミロのメッセージは、無線機を回収したドゴ・カルテルに聞かせるためのものだった。

 午後一時すぎ、雨季の曇り空の下で、バルミロ・カサソラはを描いた看板を掲げる民芸品店を視野に入れながら、トヨタのトラックの運転席のバックミラーに自分の額を映した。自販機で買ったガムを嚙み、すぐに口から取りだして、血が目に入ってこないように傷口に貼りつけた。
 息を深く吸い、吐きだした。四十六歳になっていた。だが体力も精神力もいまだに衰えてはいない。そうでなければ麻薬密売人ナルコとしてメキシコで生きられない。兄弟を、部下を、妻を、息子を、娘を殺されても、天を仰いで「神よ」と叫んだり、教会ですすり泣いたりはしない。そんなことをするのは、麻薬密売人ナルコ以外の普通の人間だ。
 家族が殺された瞬間から復讐の月日がはじまる。おれの神は罪を許す神ではない。バルミロは思った。地獄をも超越する戦いの神、夜と風ヨワリ・エエカトルわれらは彼の奴隷テイトラカワン煙を吐く鏡テスカトリポカ
 二丁の銃を膝に載せて、残弾数をたしかめた。オーストリア製の拳銃グロック19には四発残り、スイス製のマシンピストルTP9には三発が残っていた。どちらも同じ規格の弾、九ミリ×十九ミリパラベラム弾を使っている。
 マシンピストルの残弾を取りだしたバルミロは、それをグロック19の弾倉に移した。マシンピストルのほうが弾丸の初速もあり、射程距離も長いが、これからやることを考えれば、あつかいやすい拳銃に七発の弾丸を集めておくべきだった。
 拳銃をにぎってシートに寄りかかり息を整えた。左耳が聞こえなかった。空爆の衝撃波で鼓膜がやられていた。めまいがした。ないや三半規管に傷を負い、平衡感覚をなくしているかもしれなかった。こんなひどい気分になったのはコロンビアの夜以来だった。
 七年前にバルミロは、コロンビア人のカルテルが用意した小型潜水艦に同乗した。小型潜水艦はジャングルで建造され、人間六名とコカインを乗せて海中を潜航する。その内部は刑務所の懲罰房並みに狭く、酸素が薄くなり、メキシコ湾の海底を進む途中で、コロンビア人の一人が吐いて意識を失った。艦内にたちまち嘔吐物の悪臭が充満したが、海軍省SEMARが監視しているので浮上できず、換気もできない。嘔吐した男はやがて息を吹き返したが、仲間のコロンビア人に激怒され、上陸後に射殺された。
 あの鋼鉄の棺桶は最悪だったが、水のなかを進んでいただけまだましだった。バルミロはそう思った。今はもっとひどい。
 船は沈んだエル・バルコ・セ・ウンデイオ
 は自分のカルテルだった。そこにすべてがふくまれていた。すべてが。

 トラックの運転席に深く身を沈め、の看板を眺めて待った。かつてその民芸品店には、〈死者の日デイア・デ・ムエルトス〉を祝う品を買い求める外国人観光客が押し寄せた時代があった。骸骨カラカの人形、祭壇アルタール髑髏の砂糖菓子カラベラ・デ・アスカル。十一月のパレードにはほど遠い季節にも、色あざやかな髑髏カラベラは人気だった。今では観光客などいない。民芸品店の広いフロアは閑散として、店舗に来るのは地元の住人だけだった。人々は店主の仕入れる掃除用のバケツやホースやほうきをそこで買った。

 民芸品店の駐車場に一台の車が入ってきた。停まった車から降りてくる老人と老婆、その小さな孫。孫は七歳くらいの男の子で、子犬を抱えるように〈バットモービル〉を両腕に抱きしめていた。悪を倒す〈バットマン〉専用のスーパーカー、それはおもちゃにしてはサイズがずいぶん大きく、バルミロの目には太いタイヤの直径が輪切りにされたほどもあるように見えた。ラジコンなのかもしれなかった。
 老人は周囲に目をくばり、妻と孫をうながしての看板の下にあるドアをくぐった。わずか一分後に三人の不運をあざ笑うかのようにして、ドゴ・カルテルの麻薬密売人ナルコが乗った五台の車が現れた。エル・ポルボを狙う武装した男たちはぞろぞろと店内に入り、外には三人の見張りを立てた。
 バルミロはトラックのエンジンをかけ、民芸品店に向かってアクセルペダルを踏んだ。見張り役が正面から撃ってくると、頭を低くし、体を丸め、運転席のドアを開けて飛び降りた。
 走っている車から飛び降りるのは、若いころに何度も経験してきた。メキシコで知られる麻薬密輸のスタイルの一つに、コカインを積んだピックアップトラックを岸壁から海に落とし、波間を漂う商品をモーターボートに乗った相手が回収する方法がある。バルミロたちは海に転落する直前までピックアップトラックのハンドルを握り、どこまで乗っていられるか、おたがいに金を賭けて競い合った。度胸試しチキン・ゲーム。飛び降りた地点にはで印をつけた。
 民芸品店の駐車場を転がったバルミロは膝立ちになり、弾数を逆に数えながらグロック19の引き金を引いた。
 シエテセイスシンコ──
 突っこんでくる無人のトラックをよけようとした見張り役を一人撃ち、MP5を連射するもう一人の頭を撃ち、次弾で三人目の腹を撃った。撃たれた相手はなおも立ち向かってきたが、バルミロは反撃せずにスマートフォンの通話開始ボタンを押した。
 トラックが民芸品店に突っこむのと、唐辛子チレの山に隠されたC‐4が爆発するのは同時だった。窓ガラスが吹き飛び、アスファルトが揺れた。黒煙が立ち昇り、の看板が燃えながら崩れ落ちた。破壊された民芸品店から、ねずみが猛烈ないきおいで駆けだしてきた。鼠は炎に包まれていた。駐車場を走りまわり、バルミロの足もとに来て、おぞましく燃えながらぐるぐる円を描いた。バルミロはそれが鼠ではなく、おもちゃのバットモービルのタイヤだと気づいた。

#9へつづく
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