【特別公開】メキシコ最凶の化け物登場! 鬼才・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#9
佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は「カドブンノベル」2020年12月号に掲載された第一部の特別公開です。
鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、直木賞、山本周五郎賞受賞を記念して特別公開する。
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9 chiucnähui
拳銃の弾は残り一発しかなく、そんな弾数で出歩くのは少年のころ以来で、冗談のような状況だった。バルミロは
潜伏先を壊滅させられ、兄弟をみな殺しにされ、ドローンの空爆を怖れている男は、ヌエボ・ラレドからどこに逃げるのか? 北だ。
国境はヌエボ・ラレドの目の前にあり、テキサスのほうがカサソラ兄弟の故郷ベラクルスよりも近い。アメリカに逃げれば、少なくとも市街地で野放しにされる大型ドローンに追われる心配はなくなる。通信記録を傍受したドゴ・カルテルがタマウリパス州とテキサス州を隔てる国境を嗅ぎまわるように仕向けたバルミロは、スマートフォンを路地裏に放り捨てた。
ヌエボ・ラレドの小さな
競走馬の飼育係だったロロの父親は麻薬トラブルに巻きこまれ、ドゴ・カルテルのサンチョという男に殺されていた。ロロは復讐を考えたが、サンチョはすぐに死んだ。
手の届かない高みにいる
「あのバイクは誰のだ」とバルミロは訊いた。店の前にインド製バジャージボクサーCT100が停まっていた。
「おれのです」とロロは言った。
バルミロは紙幣を取りだした。金額を見たロロはひそかに歓喜した。どういう風の吹きまわしなのか。これで拳銃が買える。借り物ではないおれの銃が。
「新しいバイクを買え」と言ってバルミロは金を手渡した。「ヘルメットはフルフェイスか? そいつも買いたい。あと飲み水をくれ」
ロロに渡されたコップの水で喉をうるおし バルミロは髪を濡らして、額の傷口が開かないように顔を洗った。それからキーを受け取って買い取ったバイクにまたがり、ガソリンの残量をたしかめた。
ロロは小声で言った。「セニョール、ほかに必要な物はありませんか? コカはいらない?」
バルミロは首を横に振り、フルフェイスのヘルメットで顔を覆い隠してエンジンをかけた。「
リオ・ブラーボの雄大な流れに沿ってメキシコ連邦高速道路2号線を南下しつづけた。ヘルメットのシールドに流れる風景を見つめ、逃走用の地図を思い描きながら、この先に待つ果てしない日々のことを考えた。どこまでも逃げ、ふたたび力を手に入れ、
絶望という言葉はバルミロにとって意味をなさなかった。世界の残酷さを受け入れ、神に血を捧げ、地獄のような毎日を戦士として歩む。痛みには慣れている。アステカの神に祈り、苦痛と連れ立って歩くことには。
二百六十七キロの距離を走ってレイノサに着くと、バルミロは
遠くへ運んでいけ、とバルミロは思った。
サボテンの実を売る男に「携帯をなくしましてね」と告げて
落ち合う場所を刑事に伝えると、通話記録履歴を消去してバルミロはブラックベリーを男に返した。
にぎわう
着替えのシャツとスラックスを買い、別の店で包丁を買い、別の店で中国製の安いフラッシュライトを買った。
西に進むにつれ、人通りは少なくなり、すっかり静まり返ったところで教会が現れた。バルミロは礼拝堂の
レイノサの地下を東へ延びるトンネルは、ロス・カサソラスの幹部のあいだで〈クエツパリン〉と呼ばれていた。
ロス・カサソラスは、タマウリパス州とテキサス州をつなぐトンネルを所有していたが、その大がかりな
バルミロは暗闇をフラッシュライトで照らし、頭を下げて進んだ。高さ一・五メートルのトンネルのなかは冷え切っていた。服を買ったのは、このトンネルを通るためだった。地上に出るころには、全身泥まみれになっている。
突き当たりにぶら下がった
倉庫で待っていた刑事のミゲル・トルエバを見つけたバルミロは両手を軽く叩き、それから服についた泥を払った。
トルエバは逃走用に準備した足のつかないナンバーのSUVに寄りかかっていた。フォード・エクスプローラー。トルエバはずいぶん前にやめたはずの紙巻煙草を吹かしていた。
「娘は元気か」とバルミロは言った。
「ああ」トルエバはうなずき、笑ってみせた。救いがたい作り笑いだと、自分でもよくわかっていた。
ロス・カサソラスにもう先はない。新しい時代がやってくる。トルエバは悩んでいた。目の前にいる
巡査部長のトルエバは、ロス・カサソラスに協力した見返りの金で新車を買い、五人の娘を育て、老いた母親の入院費を工面してきた。メキシコシティの私立学校に入った長女の学費を払えるのもカルテルのおかげだった。
倉庫のなかでトルエバはいつでもバルミロを撃つことができたが、拳銃を取りだすことすらしなかった。逃走用の車のキーと偽造IDをバルミロに差しだし、南のベラクルス州で手配した冷凍船の名前と出港時刻を教えた。
「疲れたな」もらったキーをポケットに入れて、バルミロはため息をついた。「汗を拭きたいが、タオルはないか」
「ハンカチなら」
バルミロは受け取ったハンカチで顔を拭いた。そして「
借りたハンカチをバルミロは左手でマジシャンのようにふわりと広げ、トルエバの頭にかぶせた。これで返り血を浴びずに済む。右手で抜いた拳銃をトルエバのこめかみに押し当て、引き金を引いた。流れるような一連の動作だった。銃声が倉庫にこだまし、血と
ここで撃たれなくても、いずれドゴ・カルテルに殺されるはずだった。嗅ぎつけられ、監禁され、拷問され、
弾の尽きたグロック19を捨て、バルミロは汚職警官のホルスターから新たな拳銃を奪い、死体の着ているシャツを剝ぎ取った。屋台でもらった調理用のビニール手袋をはめ、あらわになった死体の胸に同じ
迷える愚者の顔と心臓は一つに結ばれ、ミゲル・トルエバはいけにえとなって神に捧げられた。
バルミロが信じているのは
▶#10へつづく
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