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連載

佐藤 究「テスカトリポカ」 vol.9

【連載小説】メキシコ最凶の化け物登場! 三冠作家・佐藤究がアステカの呪いを解き放つ!「テスカトリポカ」#9

佐藤 究「テスカトリポカ」

※本記事は連載小説です。

鬼才・佐藤究が三年以上かけて執筆した本作は、アステカの旧暦に則り、全五十二章で構成される。
時を刻むように綴られた本作の第一部十三章を、発売までの毎週、特別公開する。

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9 chiucnähui

 拳銃の弾は残り一発しかなく、そんな弾数で出歩くのは少年のころ以来で、冗談のような状況だった。バルミロはバスカミオンを乗り継ぎながら、テキサス州の町に電話をかけた。会話はしない。ただかけるだけだ。いくつかの町にロス・カサソラスの築いた拠点があった。アメリカ人グリンゴがリオ・グランデと呼ぶ大河リオ・ブラーボの対岸に位置するラレド、そしてデル・リオ、オースティン、ダラス。
 潜伏先を壊滅させられ、兄弟をみな殺しにされ、ドローンの空爆を怖れている男は、ヌエボ・ラレドからどこに逃げるのか? 北だ。ドゴの奴らはそう考える、とバルミロは思った。敗走するエル・ポルボは、アメリカ合衆国へ逃げる、と。
 国境はヌエボ・ラレドの目の前にあり、テキサスのほうがカサソラ兄弟の故郷ベラクルスよりも近い。アメリカに逃げれば、少なくとも市街地で野放しにされる大型ドローンに追われる心配はなくなる。通信記録を傍受したドゴ・カルテルがタマウリパス州とテキサス州を隔てる国境を嗅ぎまわるように仕向けたバルミロは、スマートフォンを路地裏に放り捨てた。

 ヌエボ・ラレドの小さな肉屋カルニセリーアに勤める十六歳の〈ロロ〉ことテオドロ・フォルケは、ロス・カサソラスを崇拝する少年の一人で、路上の売人としても働き、カルテルの一員とは見なされなかったが、町の裏社会でほんの少しだけ名を知られていた。ロロは家族の暮らしを支えなくてはならず、拳銃すら買えないほど貧しかった。それでも、いつかロス・カサソラスの麻薬密売人ナルコになって大金を稼ぐ日を夢見ていた。
 競走馬の飼育係だったロロの父親は麻薬トラブルに巻きこまれ、ドゴ・カルテルのサンチョという男に殺されていた。ロロは復讐を考えたが、サンチョはすぐに死んだ。
 エル・ポルボに殺されたらしいぜ、と先輩の売人がロロに教えてくれた。だったらあの拷問を受けたはずだ。おまえの親父も報われたな。エル・ポルボ──バルミロがサンチョを殺したのは事実だったが、それはロロの父親の死とはまったく関係がなかった。しかしロロの心は救われた。メキシコのカルテルのなかでも最強と言われるロス・カサソラス、その四兄弟の幹部の一人が父親のあだを討ってくれたのだ。

 手の届かない高みにいるエル・ポルボが、何の前触れもなく目の前に現れたとき、ロロは眉一つうごかさなかった。彼はバルミロの顔を知らなかった。
「あのバイクは誰のだ」とバルミロは訊いた。店の前にインド製バジャージボクサーCT100が停まっていた。
「おれのです」とロロは言った。
 バルミロは紙幣を取りだした。金額を見たロロはひそかに歓喜した。どういう風の吹きまわしなのか。これで拳銃が買える。借り物ではないおれの銃が。麻薬密売人ナルコへの一歩を踏みだせる。
「新しいバイクを買え」と言ってバルミロは金を手渡した。「ヘルメットはフルフェイスか? そいつも買いたい。あと飲み水をくれ」
 ロロに渡されたコップの水で喉をうるおし バルミロは髪を濡らして、額の傷口が開かないように顔を洗った。それからキーを受け取って買い取ったバイクにまたがり、ガソリンの残量をたしかめた。
 ロロは小声で言った。「セニョール、ほかに必要な物はありませんか? コカはいらない?」
 バルミロは首を横に振り、フルフェイスのヘルメットで顔を覆い隠してエンジンをかけた。「じゃあなアスタ・ルエゴ」と言った。

 リオ・ブラーボの雄大な流れに沿ってメキシコ連邦高速道路2号線を南下しつづけた。ヘルメットのシールドに流れる風景を見つめ、逃走用の地図を思い描きながら、この先に待つ果てしない日々のことを考えた。どこまでも逃げ、ふたたび力を手に入れ、家族フアミリアを殺したドゴ・カルテルに復讐する。命乞いをする者もすべて殺す。を奪い返し、カルテルを立て直すには長い年月がかかるだろう。それでもおれはすべてを成し遂げる。
 絶望という言葉はバルミロにとって意味をなさなかった。世界の残酷さを受け入れ、神に血を捧げ、地獄のような毎日を戦士として歩む。痛みには慣れている。アステカの神に祈り、苦痛と連れ立って歩くことには。

 二百六十七キロの距離を走ってレイノサに着くと、バルミロは市場メルカードに向かった。混雑している入口にバイクを停め、フルフェイスのヘルメットを脱ぎ、これ見よがしにハンドルにかけた。キーも差したままにしておいた。市場メルカードを少し歩いて振り返ると、くたびれたTシャツを着た若者が、急いでバイクを盗み去る姿が見えた。
 遠くへ運んでいけ、とバルミロは思った。
 サボテンの実を売る男に「携帯をなくしましてね」と告げてチッププロピーナを渡し、旧型のブラックベリーのスマートフォンを借りた。バルミロは刑事のミゲル・トルエバに連絡した。ミゲルはレイノサ警察に勤務するカルテルの内通者だった。
 落ち合う場所を刑事に伝えると、通話記録履歴を消去してバルミロはブラックベリーを男に返した。
 にぎわう市場メルカードを歩き、屋台で作り置きのコッペサンドトルタを買った。釣り銭をもらう代わりに調理用のビニール手袋をひと組もらい、牛肉とアボカドを味わいながら人混みを進んでいく。
 着替えのシャツとスラックスを買い、別の店で包丁を買い、別の店で中国製の安いフラッシュライトを買った。
 西に進むにつれ、人通りは少なくなり、すっかり静まり返ったところで教会が現れた。バルミロは礼拝堂のこつかい室に入り、床板を外し、地下につづく階段を下りていった。
 レイノサの地下を東へ延びるトンネルは、ロス・カサソラスの幹部のあいだで〈クエツパリン〉と呼ばれていた。蜥蜴とかげを意味するナワトル語、滅亡したアステカ王国で話されていた言葉。メキシコには今でも使われている地域がある。バルミロの祖母アブエラもそんな島の出身だった。
 ロス・カサソラスは、タマウリパス州とテキサス州をつなぐトンネルを所有していたが、その大がかりなくつさく工事に取りかかる前にレイノサで試験的に掘ったのが、全長七十メートルのクエツパリンだった。
 バルミロは暗闇をフラッシュライトで照らし、頭を下げて進んだ。高さ一・五メートルのトンネルのなかは冷え切っていた。服を買ったのは、このトンネルを通るためだった。地上に出るころには、全身泥まみれになっている。
 突き当たりにぶら下がったなわばしをよじ登って、バルミロは地上に出た。そこは帽子ソンブレロの倉庫のなかだった。市場メルカードで売るさまざまな色の帽子ソンブレロを収めた段ボール箱が大量に積まれていた。
 倉庫で待っていた刑事のミゲル・トルエバを見つけたバルミロは両手を軽く叩き、それから服についた泥を払った。
 トルエバは逃走用に準備した足のつかないナンバーのSUVに寄りかかっていた。フォード・エクスプローラー。トルエバはずいぶん前にやめたはずの紙巻煙草を吹かしていた。
「娘は元気か」とバルミロは言った。
「ああ」トルエバはうなずき、笑ってみせた。救いがたい作り笑いだと、自分でもよくわかっていた。
 ロス・カサソラスにもう先はない。新しい時代がやってくる。トルエバは悩んでいた。目の前にいるエル・ポルボを、バルミロ・カサソラを、おれはここで殺すべきだろうか? やるなら今しかない。ロス・カサソラスの生き残りがこいつだけであれば、それですべてが終わる。だが、たしかめようがない。こいつの部下がどこかにいれば、おれは当然の報いを受ける。メキシコシティで暮らす娘の寮に殺し屋シカリオが放たれ、あの子は地獄を見るだろう。
 巡査部長のトルエバは、ロス・カサソラスに協力した見返りの金で新車を買い、五人の娘を育て、老いた母親の入院費を工面してきた。メキシコシティの私立学校に入った長女の学費を払えるのもカルテルのおかげだった。
 倉庫のなかでトルエバはいつでもバルミロを撃つことができたが、拳銃を取りだすことすらしなかった。逃走用の車のキーと偽造IDをバルミロに差しだし、南のベラクルス州で手配した冷凍船の名前と出港時刻を教えた。
「疲れたな」もらったキーをポケットに入れて、バルミロはため息をついた。「汗を拭きたいが、タオルはないか」
「ハンカチなら」
 バルミロは受け取ったハンカチで顔を拭いた。そして「世話になったなグラシアス・ポル・トード」と言いながらトルエバに歩み寄り、背中に右腕を回した。メキシコ式の片腕の抱擁だった。トルエバもバルミロの背中を右腕で軽く叩いた。
 借りたハンカチをバルミロは左手でマジシャンのようにふわりと広げ、トルエバの頭にかぶせた。これで返り血を浴びずに済む。右手で抜いた拳銃をトルエバのこめかみに押し当て、引き金を引いた。流れるような一連の動作だった。銃声が倉庫にこだまし、血とのう漿しようでハンカチを染めた汚職刑事がコンクリートの上にくずおれた。
 ここで撃たれなくても、いずれドゴ・カルテルに殺されるはずだった。嗅ぎつけられ、監禁され、拷問され、エル・ポルボの行き先を吐かされる。知らなくても待つのは死だ。バルミロは死体を眺めて思った。おまえはいい奴だった。よく働いてくれた。
 弾の尽きたグロック19を捨て、バルミロは汚職警官のホルスターから新たな拳銃を奪い、死体の着ているシャツを剝ぎ取った。屋台でもらった調理用のビニール手袋をはめ、あらわになった死体の胸に同じ市場メルカードで入手した包丁を突き立てた。胸を縦に裂き、さらに力をこめて胸骨を切断した。ごりごりという音が倉庫に響き、死体の頭が左右に揺れた。強靱な胸骨が上下に分かれ、バルミロは邪魔になる肋骨も切り取り、大きく空いた穴に腕を突っこんだ。まだ温もりがあった。心臓コラソンはうごいていた。心臓を左手でつかみ、右手に持った包丁で、太い血管の枝を切り離す。あふれる血のなかで手際よく取りだした心臓を、バルミロは死体の顔の上に載せた。そしてナワトル語で祈った。

顔と心臓イン・イシトリ、イン・ヨリヨトル

 迷える愚者の顔と心臓は一つに結ばれ、ミゲル・トルエバはいけにえとなって神に捧げられた。
 バルミロが信じているのはイエス・キリストヘスクリストではなく、メキシコの麻薬密売人ナルコがこぞって信仰する〈死の聖母サンタ・ムエルテ〉でもなかった。スペイン人がアステカ王国を滅ぼす前、キリスト教がもたらされるずっと以前からこの国に根ざしていた力、それこそが彼の信じるものだった。

#10へつづく
◎全文は「カドブンノベル」2020年12月号でお楽しみいただけます!


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「カドブンノベル」2020年12月号


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