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(評者:平尾剛 / 神戸親和女子大学教授)
スポーツにおいて、できる人とそうでない人との違いはどこにあるのだろう。
多くの人は、先天的な体格の差や才能の有無であると解釈しがちだ。背の高さや筋力の多寡といった見た目でそれを判断し、またありありと感じられる他者との動きの違いをセンスと称して、半ば羨みながら自分とは次元が違うところで生きる人間として仰ぎ見る。もしこれが真理なら、スポーツができるかどうかはこの世に生まれ落ちた瞬間に決まっていることになる。
競技歴の長短を挙げる人も多い。そのスポーツに費やした時間の長さで卓越したパフォーマンスを評価するこうした人たちは、スポーツを始める年齢が早いほどよいと思い込み、早期教育を歓迎する。もしこれが真理なら、タイムマシンで過去に戻らない限り、その差は永遠に埋まらない。
また、運動神経の良し悪しで結論づける人もいる。スポーツができる人を形容する際によく用いられる、この「運動神経」という言葉は、実はからだのどこを探してもみつけることはできない。生理学的にみれば、からだには運動だけに特化した神経は存在しない。現実にないものを根拠にしてスポーツパフォーマンスの優劣を形容するのは、そうしなければならないほど不思議だからである。架空のそれがあると想定しないと、どうにも辻褄が合わない。だからあるときにこうした言葉が生まれ、そのあと長らく私たちが口にしてきたのだと思う。
先天的な資質や競技歴、あるいは運動神経をその理由に挙げれば、努力の余地が塗りつぶされる。論理的に考えれば、はかなくもこの乾いた結論にたどり着く。
実はからだの動きは謎だらけだ。だからついもっともらしい理由を持ち出してわかった気になる。でも実態はそうじゃない。この謎に切り込んだのが本書である。
とりわけ私が注目するのは、スポーツ科学と実践のすれ違いを主題にした第1章だ。スポーツ科学はからだの動きを研究してきたものの、それがそのまま実践に結びついていないのが現状である。それを踏まえて為された「科学者が明らかにする客観的動作と、動作をする当事者が感じている主観的動作の間にはずれがある」という指摘は、運動指導の現場で生じている誤解を言い当てている。
力が加わっていないと速い球は投げることはできない。これはスポーツ科学が力説する厳然とした原理です。しかし、力んで投げると球は走らず、速くても打者は速いと感じない。原理・学理では力が必要なのに、実践の場では力を抜かないといけない。
スポーツバイオメカニクスや運動生理学は、からだの動きを観察者の立場から分析する。速く遠くにボールを投げるための最適なフォームを割り出し、そのときに働いている筋肉を突き止める(力の加わり)。そうして導き出された理想のフォームで当事者が投げようとしても、必ずしもうまくゆかない。なぜならそこには、投げるという動作に必要な実践感覚(力の抜き方)が置き去りになっているからだ。
だから科学的知見を生かすためには「主観イメージを成長させること」が必要だという。「科学を生かすのは自分の感覚」であり、それは「物理現象を心理現象に置き換える」ことや動きに「量的変化ではなく質的変化」を起こすことだと、著者は切々と語る。
のちの章では「筋力に対する誤解」、つまり筋力だけがパフォーマンスを向上させるのではないと、筋力至上主義が蔓延する現状を鋭く批判している。また「手足や体幹の使い方」や「走り方」など、感覚を深めるための具体的な方法論も示されている。
今まさにスポーツに励む少年少女は、一読すれば参考になる箇所がたくさん見つかることだろう。「このからだ」には秘められた能力が眠っている。工夫の余地がある。そう思えるはずだ。
上手くなるには「動作原理の話なのか実践感覚の話なのかを、いつでも仕分けて考えていく癖をつける」のがコツであるという著者の指摘に、なるほど、スポーツができる人はこの癖が身についているのだなと、膝を打った次第である。
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